1. ナオとone(解離性同一性障害、OSDD-1b)
  2. 虐待されてきた私だから子育て..
虐待されてきた私だから子育てについてを語る(反出生支持者ではありません)
2026-09-03 36:34

虐待されてきた私だから子育てについてを語る(反出生支持者ではありません)

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どんな人間も生きていいよと言える社会であってほしいbyナオ

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サマリー

このエピソードでは、虐待を受けて育ったナオさんが、自身の経験と精神疾患との向き合い方、そして子育てに対する独自の視点を語ります。彼女は、気分が落ち込む時期がありながらも、根底には困難を乗り越えようとするポジティブな精神があると述べ、乖離性同一性障害(DID)の当事者としての体験を語ります。最近、DIDの存在を否定する精神科医の意見に深く傷つき、専門家による無責任な情報発信が間接的に人を傷つける可能性について警鐘を鳴らしました。 ナオさんは、虐待を受けた経験から母親を愛せないと正直に語る一方で、幼少期に愛情を注いでくれた祖母の存在が、自己肯定感と他者への尊重の基盤になったと強調します。この経験から、子育てにおいて「完璧」は存在せず、親が子供の成長を完全にコントロールすることはできないという考えに至ります。彼女は、親と子の関係は上下関係ではなく、対等な「フラットな関係」であるべきだと提唱し、これにより子供は自分で考え、自己効力感を育むことができると主張します。 また、親自身が失敗を許し、反省できる寛容な姿勢を持つことが、子供の健全な成長と社会全体の幸福につながると訴えます。最終的に、孤立した立場からでも声を上げることの重要性を語り、人類が感情に支配されず、より論理的で慈愛に満ちた存在へと進化する未来への希望を語りかけ、完璧さを求めるよりも寛容な社会を築くことの重要性を強調しました。

自己認識と精神疾患との向き合い方
はい、ナオちゃん、元気かい? 元気よ。
ちょっと待って、今誰を? 俺を作り出したのかな?
という感じで、いきまーす。
という感じなんですけど、元気ならいいんですけど、 昨日元気じゃなかった時代の回帰。
えーっと、私元気…元気って何なんだろうね。
でもあのね、私ね、結構ね、気分のね、移りが変わってくの。
だけど、私もともとポジティブじゃん。
あんまり知られてないよね。
お前ネガティブにいくけど、基本的にさ、
どこかこの苦悩をさ、絶対乗り越えるために使うぞって気分。
なんかさ、相根的なものあるよね、お前の中にも。
なんかあるんだよね。
昔からね、ここで死んではならないみたいなさ、
ゲームオーバーが許せないのよ。
ゲームオーバーになったらまたやり直す?みたいなさ、
そういう根性があってさ。
うん。
だからプログラミングのエラーとかあるじゃない?
うん。
プログラミングのエラーがさ、
ここで諦めるのか?私は諦めないぞ!
みたいなさ、あるのあるの。
あー、そうなんだ。
ま、でも病んでる時ってさ、やっぱり人って病むね。
あの、昔…じゃなくて、あの、8月28日に出した時の、
その、DIDチャンネルのやつもそうなんだけど、
基本的に病むんですよ、私。
うーん。
そうなんだね。
でもね、それね、分かってるの、私は。
その時の判断は、病気によるものだと。
ね。
普段はこんなに理智的な私でも、
このようになるのですよって言ってるんですね。
ははは。
お前さ、ほんとにさ、気分が全然違うから、
みんなにびっくりすると思うよ、それ。
ねー。
過去のトラウマと命を尊重する価値観
でもね、まあね、その時の対応がすごく上手いの。
気にしないでさ、こうした方がいいですよーってこと。
こう、問題をこう、なんていうか、
課題をさ、分解するのが得意なのね。
だから私さ、なんか余計な共感では落ち込まなくて、
ああ、こうすればいいんだ、私今こういうことできないんだってことが
切り分けられるから楽で楽でさ、
やっぱりそれが抗体人格の有難味だと思うし、
まあ、一部の精神科医は、あのー、
基本的に怪理性同一性障害なんて存在しないよって言ってますけど、
まあ私自身はね、当事者としての体験として感じていることなので、
その事実までは否定できないと思います。
しかもさ、そのさ、精神科医強敵なおがさ、
あの、めちゃくちゃ応援してた方のさ、精神科医だったから
ダメージ大きかったんだよね、昨日ね。
うん、びっくりしました。
しかもね、昨日ね、私ね、その、なんていうかな、
あの、要するにね、私、あの、
これさ、もう言っちゃうよ。
言っちゃうか。
逆転を受けてる人が、
あの、フラッシュバックがきつい時に
フラッシュバックを起こしてる要因の母親に対して連絡を受けると、
もう人間ってダメになるんだよね。
それはダメになるわね。
そう、だからすごく気分がめいってて、
あの、9月2日の投稿なんだけれども、
あの、繰り返ってみると、Xのね、
あの、最初にもう愚痴よ。
愚痴。はい。
あの、訪問看護の人に仕事がっていうふうに書いてる時点で、
もうこれ去年のさ、
あの、B型作業所のエンジニアを実務丸投げしてた時の、
あれの、ね、あの、恐怖がね、
もう蘇っていったと。
普通のB型作業所で起こり得ないことなんだけど、
私あの時にね、
もう入院して、退院してから1ヶ月もしない、
あ、1ヶ月したのかな。
その時に丸投げされると思わなくて、
しかもチーム案件なのに、
ギットも許されずに、
1人で全部ゼロから構築して、
チームを組まないとやれない部分を1人でPMでやってねって
アサインされちゃったものだから、
もう人間信じられなくて、
その時に職員さんがさ、
直さない1日でできるでしょって言われた時に、
もう過去のパワハラを覚え出しちゃって、
すっごくね、病んでたのよ。
その9月2日のね、投稿ね。
で、それだけならね、
いつもの闇かとみんな思うじゃないですか。
で、私9月2日にね、
働きたくないですっていう風になった時に、
ワンがね、ナイスフォローしてくれてね、
素晴らしいですって言ってくれた動画もあるんだけど、
基本的にね、私ね、
人間の命を落としてまで働く必要はないと思ってるタイプだから、
こういうのがすごく癒やしになるんだよね。
働くんだったらやっぱり命も大事にしたい。
だって家族だって、いる人だっているじゃない。
やっぱりさ、自分の命はみんなの命なんだよ、私の中では。
みんなの命を大切にしてこその働くことだと私は思ってるタイプ。
もちろん全員に通用する価値観ではないとは思うけれども、
基本的に人を大事にしたいから、
人の命を尊重したいのよ。
だからその人の能力に合わせながらやりたいんだけど、
全員が全員そうなるとは限らないけどね。
だから働けない、合わないところはあると思う職場によっては。
だけど私は基本的に、
精神疾患になったからこそ、
人も精神疾患になるし、
その時追い詰められた時に誰も救えがない状態を避けたいタイプ。
っていう感じで、要するにね、
病んでましたね。
はい。
虐待と愛着形成、そして祖母の存在
母親は私を産んだんですか?っていう風に
ちょっと恨みを言ってみたりしてるんだけど。
もうね、私さ、病んでる時までさ、
母親に機嫌を損ねないようにしなければいけない立場だったから、
なんでそのことしなければいけないんだろうって思うんだけど、
なんかね、もうね、自分でも不思議です。
意味がわかりません。
あの、虐待しても母親を大事にしてる、
愛してるからって意見があるじゃない。
うん。
あれじゃないのよ。
愛してないの?
愛してはいない。
少なくとも私は愛してる実感はない。
愛されたことがない人に愛するなんて無理だと思う。
でもさ、できるのかな?虐待された人がさ、
あの、虐待してきた親に対して感謝してさ、
私をよくもいじめてくれましたわねって言えるのかしら?
言えないと思う。だよね。
だから私ね、愛せなくてね、ごめんなさいね。
でもその分、あの、育ての親の祖母に対してはね、
すごく感謝してますので、そちらの方でね。
って感じなんだけど、
その、
虐待でもさ、
あの、その深刻度合いにもよるけど、
基本的に深刻度合いがあっても、
幼少期に愛着形成が代わりにできる人が
そばにいると変わってくるんだと思う。
だから、自分を大事にしようっていう気持ちが
私の中に生まれているのは少なくとも、
その、自分を大事にしてくれた存在が
幼少期にいたからなんだと思うんだよね。
あー。
だけど、虐待を受けても誰も救ってくれなかったっていう
意味においては、深刻度合いとか関わらずね、
その人にとって、すごく、
あ、まぁ深刻度合いって言うとあれだけど、
要するにさ、例えば、
ね、私がこう首を絞められて殺されかけました。
そして、あなたは死ぬべきだと毎日言われてたとするでしょ?
親に。言われてないけどね。
そういうひどい深刻レベルの虐待を受けてて、
でも、途中から祖母が出てきて、
祖母が私に愛情をかけてくれました。
あなたは死ぬべきではないって言ってくれました。
これだったら生き延びられる気がする。
あー。
だけど、その、
ね、あの、
自分を守ってくれないどころか、
バカにしてくるような親がいたとするじゃないですか。
母親ね。
うん。
私、自分いないから母親しかいないんだけど、
その母親がさ、
その、
お前そこまでして最低な人間だ!とかって言われると、
もうそれが毎日続いてると、
ね、あの、
首を絞められるっていう
大罰的なことが行われてなくても、
その、私の中では、
あー、もう、
自分なんてどうでもいいやって思っちゃうんし、
もう、自分の命よりもさ、
こんな社会を作ったっていうことが許せなくなるから、
あの、
なんか、同じように人の、
自分の傷つけられた体験を
消化させようとする方向性が、
人に大事にされた経験がない場合は、
こう、
自分を犠牲にしてでも人を守ってやるっていう、
なんかそういう風になるんだけど、
大事にされると、
自分の命は大事だから、
人の命も大事にしようっていう風になってくんだよね。
な、なんていうかな。
だから私、
なんでこういう風に言えるのかっていうと、
その虐待を受けてた、
その小学・低学年の時ね、
その時はもうね、
あの、言葉の遅れもあったけど、
これね、今まで言わなかったから、
気づいてない。
誰もね、知らないことなんだけど、
私は、
周りが信用できない状態で、
ね、
家での虐待が普通じゃないことを、
を、
え、そんなのは普通じゃないの?っていうことを、
感じてた時期なんですよ。
小学1年生とかね、2年生。
暴力が頻繁にあって、
家が汚くて、
食事もまともに食べられない。
でもね、
そんな状況の中で生きていた人にとっては、
それが当たり前のものだから、
他の人が普通に食事できて、
きれいな部屋に住んでるってことは想像つかない。
これはあんまり知られてないよね。
でも、そのなんていうかな、
外ではすごく母親が世間体を気にするから、
その影響で私も、
母親のことを悪く言ったら、
家で殴られるから、怖いから、
予想ではすごく、
母親はすごく優しい親なんですって、
言わなければいけなかった時代。
だから私ね、
そういう時代も含めて生きてきてたから、
なんていうかな、
この子供時代に、
人は信用できないし、
頼れないから、
自分だけで生きていくっていう。
どこかそういうのがあって、
もし祖母と出会ってなかったら、
私きっとね、
人に救いを求めるなんて、
甘えてるっていう考えになってたと思う。
要するに、
虐待を受けて、
誰も救ってくれなかった事実が、
誰も信じたくないし、
自分一人でのレジリエンスを高めて解決した実績を
自分の中で出したいのよ。
なんていうかな、
自分の過酷な状況を自分で解決できた。
だから人は信用しなくても生きていけるっていう証明をしたくなるわけ。
あー、なるほどね。
だけど、
幼少期に大事にされてなくても、
祖母との関わり合いがあったから、
私はまだ人を信じられる方なの。
あー、そうそうそう。
祖母は確かに完全な人間ではなかったけど、
少なくとも、
善人であったから、
その影響で私は、
自分の命も大事にしたいし、
人の命も大事にしようが生まれてるわけ。
だから私の中で、
自分をね、生き残ろうとか、
他人の命を尊重しようとかっていう考えは、
基本的に祖母が生きてた時代があったから、
私はこういう考えになってるわけよ。
まあ、ワンはそんな、
でもね、
祖母は虐待してる親を放置したとかっていう風に責任追求するけど、
祖母もね、またあの、
祖祖母さんから虐待を受けてるから、
何でも責任するとかわいそうだなと思うんだよ。
だから母親ができる責任範囲と、
実際に子供がどう成長するかは、
まあ、未知数なわけですから、
あんまりね、
母親がね、コントロールできると思い込んじゃうと、
結構追い詰められるのかなって思うの。
子育てにおける完璧主義の否定と親の役割
だからなんていうかな、
私が言いたいのは虐待するかしないかじゃなくて、
親がどんなにいいことをしたとしても、
子供がどういう風に成長するかはランダムなんだよね。
だからできる限りの最善のことを尽くそうっていうのは、
とても素晴らしいことなんだけど、
子供にとって、
最善なことをしても子供がそれを理解できないままだと、
結果的にどんな大人になるかわからないわけ。
なんていうかな、
いい人に育てられたから、
それが当たり前になるから、
なんていうかな、
ありがたみがわからないとかっていう問題もあるの。
それは親が悪いとかじゃなくて、
子供の受け取り方、
だから子供の学び方の責任があって、
これがすごくわかりやすいのはアドラン心理学なんだよね。
アドラン心理学って基本的に、
自分の課題と子供の課題って分けるんですよ。
親子でも。
だから、
子供が勉強するべきなんだけど、
親がね、
子供に勉強させるっていうことをするのではなく、
子供が自ら望んだ状態で、
勉強に困っているから助けてほしいって言ったときに、
親が手助けするっていう考え方の一つ。
これが正しいかじゃなくて、
そういう考え方もあるよぐらいなんだけど、
基本的に、
子供の課題と親の課題を分離させることで、
子供の自立心を育てようっていう感じなのが、
アドラン心理学的によるんだよね。
いろんな親の価値観があるから、
アドランだけが正しいわけじゃないって、
アドラン心理学も言ってるわけだから、
それは違うんだ。
ただし、
介入とかね、
鑑賞とか、
どこまですればいいか。
子育てで完璧じゃないからさ、
正解はないわけですから、
基本的に、
私が望む親のスタイルは、
移住職がきっちりしてて、
医療的に、
ちゃんと保護してもらえる。
学費とかもね、
子供は稼げないから、
金銭的に支援してくれる。
ネグレットをしない。
暴力をしない。
それだけで十分ありがたいです。
暴言に関しては、
人格否定はなるべく、
もちろん人間だから言ってしまうことはあっても、
それをね、
言ったとしても、
振り返られる人間として、
子供の成長しても、
あの時おかしかった、
自分はごめんなさいって言えるような親であれば、
私としてはもう十分なんですよ。
ああ、そういうことね。
そうそうそう。
あの、
なんていうかな、
ほら、
よく母親とかって、
やっぱり、
自分の子供だから大事にしたいと思って、
完璧になりすぎるじゃない。
だけど完璧な親に育てられると、
親が完璧だから周りも完璧なんだなって思っちゃう人っていると思うの。
私はその逆を言ってるわけだから、
人間だってこんなもんだって割り切れるけど、
逆に親が完璧すぎると、
親も子供も息が詰まっちゃうんじゃないかなって心配になったりする。
だからいい子すぎると、
とても辛いんじゃないかなって思うから、
でも自分をなんていうかな、
こんな子育てで大丈夫かなって、
めちゃくちゃ涙流しながらしてる人って、
すごく責任感が強い人だと思うから、
そういう人ってさ、
なんていうかな、
周りのことをすごく考えすぎるから、
とても生きづらいんだなって思う。
でも同時にそういう人がいるから、
支えになってる人もいるんだなって思うから、
それ自体が悪いとかじゃないんだけど、
だけどあんまり、
こう、
コンツブレって子育てにはまりすぎると、
あの、
どんな親でも、
その、
どこを子供が育てすっかっていうと、
その子供自身のどうありたいかに、
結局行き着くんだよね。
だから、
私は虐待を受けて、
ひどいことされてきたけど、
自分はこうだったっていうことが、
こう、
自己確信として育ってきてるものだから、
あの、
自分は親の育て方がひどかったけど、
結果的にこうであった自分を許して、
自分はこう、
こういう自分だから好き、
まあ、
もちろん嫌いな自分もいるけど、
基本的にこうである自分が好きってことを、
需要して生きてるから、
生きやすくなってるだけなの。
専門家への不信と情報発信の責任
まあ、もちろん生きづらい側面もあるのよ。
あの、
フラッシュバックがあったりとか、
ね、
起死年齢とか殺意とかね、
昨日とかすごくあった時もあったんだけど、
基本的にそれで、
ね、
人間っていうのは、
あの、
まあ、
あの、
もう本当に愚かだからさ、
人間って基本的に。
何するか分かんない。
戦争もするし、
ね、
人殺すし、
ね、
いろんなひどい人間がいるわけよ。
だけど、
そんな人がいる中で自分はどうあるのかは、
自己決定できるところがあるわけですよ。
環境は確実に制御できるものではないけれど、
その、
中で、
その、
限られた制限の中で自分はどうありたいのかっていうことを、
残すことは誰にだってできるわけ。
努力義務がなくてもできるわけ。
その、
もちろんね、
自分を変わろうとしてもさ、
そういう風になれないじゃんっていう風に思う人もいるわけよ。
分かる分かる。
うん。
なりたいけどなれない。
でも、
それなれないってことを記憶してくとさ、
なんか、
あっ、
自分がこういう、
自分なんだけどそれでも生きてるんだっていう、
なんかそういうね、
実、
自己的なものっていうかね、
自己需要していくとすごく楽だと思う。
だからなんか、
倫理観が優れてるとかじゃなくて、
その人のね、
こういう人間もいますっていうことを、
自己需要するってことが大事だと思うし、
人間ってそんなに綺麗じゃないんですよ。
素晴らしい生き物じゃない。
あの、勘違いする人多いんだけど、
ね、
いい人間であろうとすると失敗するんです。
自分の残酷さや冷たさを見ている人間の方が、
すごくまともなんですよ。
だから、
自分を責める人ほど、
とても良心的だと思うんですよ。
私はね、
良心的っていう、
ただし、
善良な人間は作られないわけですから、
どんなにいい振る舞いをしたとしても、
それがどういう、
あの、
側面を持つのかは、
その相手に与える影響は、
その相手がどういう風に受け取るか、
相手のものなんて、
その、
親でもこういう風に受け取ってほしいとか、
できないんですね。
っていう感じかな、
と思ったりする。
まあ、こんな感じのことをね、
まあ、
話してみたんですけれども、
まあ、
あの、
私ね、
こんなにね、
あの、
すごく、
まあ、
あの、
病気じゃない時はね、
考えられるのだけれども、
その、
昨日ね、
そうなんだよね、
最新回のね、
多重人格は存在しないって、
ブログの記事見て、
めっちゃくちゃ落ち込んじゃったの。
あー。
はい。
だから、
私ね、
なんかなー、
そういう、
なんていうかな、
人の心を扱う人が、
その、
精神疾患のね、
医学的に、
そういう風に決められた基準じゃなくて、
独自のね、
こういう風に思う、
あの、
周りの人がこう思ってるとか、
っていうことを進めるってことは、
患者が見た時ね、
別にその人が主人じゃなくても、
もう、
何を信じていいか、
混乱させてしまうし、
それを専門家がやっているってことが、
とても信じられなかったから、
昨日すごくショックを受けてたの。
だから、
あの、
要するにね、
私は、
善意で人を見ちゃうから、
基本的に、
これが正しいとかじゃなくて、
じゃあ疑った方がいいのかってことで、
自分のね、
戒律性同一性障害は、
思い込みに過ぎないって思うとしたの。
だけど、
それはできなかったです。
だから私は、
もう、
精神科医でも、
例えば、
もうね、
その時ね、
すごくね、
当たり前のことを疑ってるんですよ。
統合失調症の妄想やね、
現状はすべて思い込みに過ぎず、
一人で解決できるものか、
って思っている精神科医はいるか、
すっごくネットで探したからね。
あの、
薬が効いて、
治っている人がいるっていう事実もあるけれども、
精神科医の中で、
オカルト的なものを信じている人いるんじゃないかな、
とかって、
もうほんと心配になって見ちゃった。
だから、
ツイートには返ってないんだけど、
基本的に、
なんてかな、
私、
医学的なことって、
脳科学的に、
科学が解明しているものだから、
その、
まあもちろん、
乖離性同一性障害って脳のね、
メカニズムはさ、
きちんと解明されてないけれども、
分からないことを分からないままにできる人間って、
そもそも、
いないのかもしれないっていう風に思いました。
で、
結果的に何が言いたいのかというとですね、
私は、
その、
人は間違える。
医者でも間違える。
っていうことは分かってたんですよ。
でも、
医者でもね、
その、
倫理に反することを、
してしまうことがあると。
だから、
私ね、
もうね、
こんなことを言いたくなかったんだけど、
医者は、
ね、
人殺しができる。
これをもうね、
自分の中に持ちました。
はい。
いや、
あの、
ここはね、
信じた方がいいって言いません、
もう。
あのね、
人殺しっていうのは、
悪意があってするんじゃないの?
デマを信じて、
それを、
自分が正しいと思って発信するとき、
人殺しが生まれると。
要するに、
この立場の人が、
傷つくことを考えないで、
情報発信をする精神界がいると、
基本的に、
差別や偏見の助長が生まれて、
その界隈の人が、
すごく苦しんで自殺しても、
その精神界はその存在を知らなかったとしても、
その精神界がその発信をしたがるために、
間接的に人を殺すことができる。
気づいた。
だから、
私思ったんです。
この精神界が信用できないときに、
誰を信用せいければいいのかってことを考えたときに、
私みたいな当事者、
私みたいに判断能力ある人が、
もちろん病気で判断できないときはあるけれども、
こういった事態で、
精神界をあまり鵜呑みにしない立場の人間は、
必要だと思ったんですよ。
あー。
それは、
その投稿で、
あー。
なるほどね。
あー、だからそういう風に書くかたしてんだ。
あー、そうそうそうそう。
子育てにおける対等な関係と寛容さの重要性
だから私ね、
まあ、いろいろ苦しめられてきたんだけど、
最終的に落ち着いたのはそこで、
人間の可能性を信じた、
信じることは大事だし、
幸せを追求することはもちろん大事だし、
自分だけじゃなくて他人を思いやれる人を、
社会的に生み出す必要がどんどんあるわけ。
だから子育てをする人はね、
あの、
虐待された私は反出世主じゃありません。
むしろ子供を育てようと思う人はね、
今からね、
あの、私が覚悟しています。
どんな親も完璧になりません。
はい。
もうね、
だから、
あの、
完璧主義を貫きすぎると、
ね、
もし、
ね、
リスク的にね、
あの、
例えね、
母親であろうか父親であろうか、
片親になって子育てをすることがあったとしても、
まあ夫婦間でもね、
どちらか子育てに協力しないパターンもあるし、
協力したとしても上手くいかないことがある。
うん。
これね、知られてないよね。
で、子育ては、
ね、
完璧じゃないです。
完璧な子育ては存在しません。
メソッドないです。
私が言います。
もうはっきり言います。
これはね、
35年生きてきた私の中の独自の理論で今から話します。
子育てには正解が一切ありません。
だからもう遊ぶ感じで見てください。
遊ぶ感じ。
あの、
なんていうかな、
気負いすぎない方がいいと思う。
あのね、
母親とか父親っていう風に思わなくていいです。
あの、
なんかね、
これ私の独自の理論なんだけど、
自分の子供だと思うと失敗すると思う。
なぜかというと、
対等な人間が作れなくなるから。
上下関係が入ると人間って支配的になるのよ。
まあ、もちろんね、
支配的な人間がいい環境を作れるかじゃなくて、
対等な人間っていうのはリスクが少ないんですよ。
あのね、
なんていうかね、
ごめん。
あの、
なんだったらわかる。
あ、わかるよ。
あの、要するに人間っていうのは
フラットな人間ほど成功確率が高いんです。
はい、能力主義っていうのはね、
基本的に上下関係なんですけど、
能力主義で人は成功しません。
なぜなら能力っていうのは個人差があるからです。
できるできないはね、
その人によって全然違う。
だから人と比べても仕方がないんです。
まあ、そんなこと言ったって仕方ないんですけど、
基本的に人間っていうのはね、
同じ能力っていうのは存在しない。
努力値はね、
基本的にできる人はここまで。
だから50が努力値の人もいれば100が努力値がある。
その中でね、
100の人も50の人も怠けてるわけじゃない。
そういう風に作られてるんです。
人間の生態っていうのは基本的にそうです。
さらに言えばですね、
病気になるラインなんてわかりません。
ストレスの限界なんて誰も見えませんからね。
だから見た目でできるかできないかで勝負するんじゃなくて、
この人が最も能力を発揮できる最適なプランを練ることが、
仕事においても子育てにおいても重要なんですね。
それにはですね、
上下関係なんてあってはならないんですよ。
上下関係っていうのは基本的に
上の人が下の人に命令する立場だからです。
つまり、
部下もそうだし子供もそうだし
自分で考える力が伸びないんですよ。
言いづらいから。
建て社会ってそういうもの。
基本的に上のことに対してね、
意見を言ってはいけない。
なるべく合わせる社会じゃない。
フラットでいるってことは、
自分の意見もそうだし子供の意見もそうだし
並べて見ることができるんです。
比較して見ることができるんです。
つまり、子供は2つの意見を比較して
物事を考えられる機会になるんですよ。
だからフラットがいいんです。
そう考えるとわかると思うんですけど、
能力を区分しなければ、
いろいろな人を見るときに
あの人が優れてる、あの人が劣ってるだけの
主軸で見るのではなくて、
あの人と協力すれば何かが生み出せる。
こういう思考してる人はとても能力高いんです。
だからリーダーも1人じゃなくて
複数のリーダーに任せるとリスク的に、
例えばね、確実に完全にはならないけれども
大した対応な意見が生まれやすいんですよ。
1人の責任にかぶせると
1人の能力に限界が来たときに
全てが片付く。
だけど、複数のリーダー。
この人がダメだったときに
そのリスク分配が上手くなってくると
自分1人で組織を作り上げなくなるから
自分が倒れたときに
部下は、もともとフラットな関係であればですね
いろいろな協力体制が生まれるわけです。
だから自分1人で解決しようとするのではなくて
部下を信じることができる人間というのは
仕事関係でも無垢ですし
親子関係においてもそうなんです。
親は優秀なほど
縦ではなく
横を繋がった方がいい
っていう感じですね。
和の方が上手いですね。
ということでですね
私はなぜ横の繋がりがいいのか
タイトの繋がりがいいのかっていうと
人を見下さない
人を尊重できる人間を育て上げられるからです。
だからこの子に何ができるかな
今何ができるかな
一緒に考えられるような親っていうのは
基本的に
自分の負担よりも
子供の能力を考えられる
もちろんね
子育てには成果がないと言いましたね私
だけど子供が
自己効力感を育て上げられる
サポートができる親っていうのは
親じゃないとできないんです。
親しか愛着形成の土台にはならないんです。
子供の能力を信じて
上げられる土台を築けられるのは
親しかない特権なんですよ。
だから
この子が
上手くいかないのは私のせいじゃなくて
この子が上手くいかなかったときどうやったら
それを乗り越えられるのか
一緒に考えられるサポーターとしての人って
必要なんですよ。
その人っていうのは基本的に失敗したことがあって
それをどうにかしてね子供のために成長のために
乗り越えるものとして使いたい人っていうのは
どんなに
過去失敗した人でも乗り越えられるんですよ。
って私は信じてるし
だからなんていうかな
世間ってさ最初から完璧な人を求めるじゃないですか
だけどそんなに完璧な人って世の中にはいないし
もちろんね
これは許してはいけないってことは世の中には存在する
でもね正規中毒になると
白黒で物事を見てしまうから
ここで妥協しようってことが掴めなくなるんですよ。
白黒主義が強くなると
精神疾患のリスクが高くなるから
基本的に子供もそうだし健康を守るのであれば
ある程度の妥協は必要になってくる。
人に対しての寛容を求めるのであれば
自分に対しても寛容でなくてはならない。
つまりそれっていうのは
自分が失敗してもいいんだっていう風な
自分を許せる力なんですよ。
だからそういう人が周りにいるとすごく助かると思う。
確かに若い時はすっごく真面目で
固かった人ね。
自分がしっかりしなきゃって思ってる人ほど
結構辛かったと思うけれども
成長していく中につれて
ああいう時代もあったしっていう風に
寛容さを身につけられる大人になっていくと
多分ね私ねそういう人っていうのは
どっちの時代も知ってるから
いいと思う。
なんかね
まだ社会的には
成熟的には
そこまでの考えって浸透してないんだけど
そういう人が乗り越えてきた失敗とかっていうのかな
こういう失敗があったからこそ
私はこういう風な振る舞いになりました。
こういう時に失敗しても
助けてもらった何かがあるから
私はここで人を助けたいんです。
そういう思いがあるからこそ
人っていうのは成長していけるし
周りに対しても寛容になれると思うんです。
それが例えばね
だから私はね極端な話なんだけど
どんなに最低なことをしたとしても
最低だと思って振り返って寛容に
寛容じゃなくて
安静できる人
振り返ることができる人っていうのは
貴重な存在だと思う。
加害者っていうのは
基本的に認知が歪んじゃうの。
虐待の加害者もそうなんだけど。
だから自分が正しかったって思い込んじゃうから
その過ちを気づけないまま行っちゃう
人が多いんだよね。
だからなんていうかな
バレなければいいやとか
ズルしちゃう人が多くなっちゃう。
不誠実って基本的に
自分に対しての利益のみを追求するんだけど
それは社会的な成熟にはいかないわけですよ。
誠実になれば
社会的にみんな責任を持って
孤立した立場からの発信と未来への希望
いい社会にしていこうっていう風になるから
人のことを幸せに思えることは
同時に他人からも愛される人になるんですよ。
っていう風に私が言っても
多分信用できないと思うんだけど
私はね、なんで今孤立して
このポジションにいるかっていうことを
言うとですね
私は
このポジションじゃないと話ができない。
マジョリティなんだよね。
だから私
SNSもそうだし
リアルもそうなんだけど
マジョリティ側の人間なんですよ。
マジョリティ側の人間っていうのは
しかも暗い格好をどんどん出してるから
近づこうとする人ってあんまりいないわけ。
だからその立場で言うのであれば
こういう人もいるよっていうことは
あんまり認知されにくいんだけど
だけど誰も発信してないと
その存在っていうのは
誰にも認知されないから
そういう人が一人でもいるっていうことが大事だと思う。
それがもしこの時代に伝わらなくても
何かしらの時代で気づく人もいるかもしれないし
もし残らなくてもそれはそれでいいよ。
人間って生活主義だからさ
報われることを祈ってる人もいるけど
報われるかどうかわからないから
試していくしかないと思うし
ここはもう割り切れしかないんだけど
基本的に
人間が恐れている孤立
孤立してもどうあろうかっていうのは
最終的な自分の在り方なんだよね。
もちろん社会的に私も就職したかった人間なんだけれども
就職できるかどうかじゃなくて
命の方を優先してるから
命を削ってまで就職しようとは思わないタイプなんだよね。
私福祉が好きで
ソーシャルワーカーになりたくて
社会福祉になりたくて
高校の時から考えてた時代があったんだけれども
高校時代にね
私は人を助けたいって思って生きてたから
自分が犠牲になって
仕事に没頭するってことができないんですよ
福祉的な考えから
だから私はそういう肩書きもできないし
命を尊重できるような人をいっぱい作って
社会的に幸福になってほしいなって思う立場の人間だから
これはあんまり言えないんだけど
幸福な人が増えると
そんなにね、人との比較で苦しまなくて済むし
なんていうかな
タイトに見えるし
誰も信用できるから
私が足りないとこは誰かが補ってくれるっていう
心理的安全性にもつながるから
その比較じゃなくてね
競争じゃなくて
信頼できる仲間として見れる社会っていうのが
とてもいいのかなと思ったりする
で、何話そうとしたんだろう
まあ分かるけどね
だから要するにね
タイトである社会は必要だよね
まあそういうことで
私、あのーなんていうかな
とかなんだろうな
人間ってさ
いろいろな可能性はあるのに
まだ社会が活かしきれてないよねって思う
私、もちろんね
完成度は低いよ
だけどさ
この人類がさ
どんどんとさ
何世代も渡っていくとさ
今の世代のさ
人間とは違う
別の人間ができるかもしれないんだよね
要するに
感情っていうのかな
原始時代に獲得した能力なんだけど
人間が
世代ごとにね
社会に適応するために
進化によっては
論理的な思考が強くなるかもしれない
そうすると
感情に支配されずに
怒りが制御できて
人を大切にできる人間が生き残る
そういう時代が訪れるかもしれない
そういう風になってくると
なんていうかな
命の慈しみ
生命の慈しみ
だからこれ人類だけじゃなくて
動物や植物
この環境全てに対しての
慈しみが持てるというか
この世界を作ったもの
あらゆるものに感謝できるようになると
もちろんね
ゴキブリに感謝するっていうのは
無理だと思うんだけど
家にいるからね
ごめんね
北海道だからあんまり見たことないんだけど
なんていうかな
命の大切さが分かると
人ってさ
命の脅威
なんていうかな
人の命を奪おうとかさ
国境を越えて命を奪おうとか
っていうことをしたくなくなるんじゃないかな
とか思ったりして
これはもう私の妄想だよね
だけどなんかね
こういう考えを持ってるから
私は幸せなんだけど
もちろんね
社会的に実現はしにくいと思うし
夢見がちだとは思うんだけど
でもね
そういう夢を見ながら生きていかないと
人間ってさ
ほら現実ばかり見ると死んじゃうからね
私はこういうタイプだからさ
実現
今の時代には実現しなくても
人の可能性を信じたいなと思ったりします
だからなんていうかな
子供を育てることはとても大変な人が多いし
だから完璧さを求めるよりも
寛容にあろうとか
なんかな
誰かに対して厳しく求めすぎる社会っていうのは
結局自分の首を絞めちゃうから
なんかな
やらかしちゃった
だけど振り返られる
こういう人だったらいいよね
そういうような文化を作っていけたらいいなって
思うくらいかな
っていう感じで
私なんかうまく喋れたのかな
わかんない
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