広告の権威の変化:CMが王様だった時代は終わった
はい、物と価値のリベラルアーツ、きのです。よろしくお願いいたします。
今回はですね、前回までね、シャネルの歴史だったりとか、そういったところをやってきたわけなんですけども、
今回はね、ちょっと番外編という形で、普通にちょっと喋っていこうかなという風に思っています。
でね、最近ね、僕思うんですけど、広告ですよね。
スマホとか見てたりすると、結構ね、広告が目につくんですけども、
なんかね、昔とちょっと変わってきてるなーみたいなイメージを受けるんですよね。
なんで、昔のCMとかっていうのは、結構CM出てると、なんかちゃんとした会社なんだみたいな感じのイメージがなかったですかっていうところ。
で、有名なタレントだったりとか出てたりして、その信頼を築いている感じだったり、
人気番組にスポンサーとして協賛していることで、社会貢献されているみたいなイメージとかがあったような気がするんですよね。
でもね、今っていうのはね、ちょっと変わってきてるなーっていう風に思うのが、
やっぱりYouTubeとかそういったものが入ってきたことで、広告っていうものが、テレビのCMと結構ね、変わってきてるんじゃないかなーっていう風に思うんですよ。
やっぱ広告多いなーとか思ったりとか、誰に言ってんだろうみたいな。
適正化みたいな感じで、そういうアルゴリズムで作られてたりはするとは思うんですけど、結構ね、煽りが多い感じはするんですよね。
でも本当に良い商品だったら、こんなに煽らなくても良くないっていう感覚が僕の中ですごく増えてきていて、
なので、今回のトークテーマとしては、広告の権威っていうのは、いつから信頼ではなく警戒されるような感じに変わってきてたのかなっていうところで話していきたいと思います。
広告の民主化と権威の希薄化
はい。で、まず最初のタイトルですけども、CMの権威がなくなってきているなという風に思うわけですよね。
やっぱりね、かつてCMっていうのは、商品や企業に社会的なお墨付きっていうものを与えていたと思うんですよね。
で、テレビに出るにはやっぱり大きな予算が必要なので、放送局だったりの審査とかもあったり、出演者のイメージとか、そういう制作会社のイメージとかにも関わってきたりするので、
広告そのもの自体がなんか上場会社みたいな、一種のステータスみたいな感じに思うんですよね。
でも今っていうのは本当に誰でも広告を出せると思うんですよ。
SNSの広告だったり動画広告だったり、インフルエンサーの投稿みたいな、だったりね。
そういう広告の民主化が結構進んだ結果、広告の数はすごく増えたんですけども、
広告そのもの自体の権威っていうのはすごく薄くなったんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
昔の広告っていうのは、やっぱり百貨店とかのショーウィンドウみたいな、ブランドの広告バーンって出てるじゃないですか。
ああいうのに近かった感じがすごくあるんですけど、どうですかねっていう。
地下鉄とか乗ってて、見る広告とかっていうポスターとかみたいな部分に関しては、すごくわーみたいな感じがするんですけど、
電車の中吊り広告とかになってくると、また煽ってるよみたいな感じになってないかなっていうのがあって。
最近の広告っていうのはどちらかっていうとその中吊り広告に近い感じになってるのかなっていう風に思うんですよね。
で、スマホの画面とかでも色々と見てたりすると、やっぱ急に出てきたりするわけじゃないですか。
もちろんね、すごくいい広告とかもあったりするんですけども、すごくなんか怪しいなっていうものだったりとか、
その、なんて言うんですかね、普段で言うと、電車とかに乗るときにパッとふっと声かけてくるような、
こういうのはやってますよみたいな感じで声かけてくるようなちょっと怪しい感じっていうものと、混沌してるような広告がいっぱいあるんじゃないかなっていう。
これなかなかカオスだなって思うんですけども。
広告が増えすぎたことで広告そのものの権威が下がってるんじゃないかなっていう風に思うわけなんですよね。
怪しい広告とメンタル弱者へのアプローチ
で、僕思うんですけども、ああいった広告っていうのはかなりね、ちょっと考えたら怪しいなとか、いやおかしいだろうみたいなことっていうのは気づくことって結構ないですかね。
はい、例えばですけども、20万人実績がありますみたいなことを歌ってるのにもかかわらず、モニターを募集してますみたいな。
いやもうそれ、成功して撮れてないじゃんみたいな。
サンプルを求めてるのか、実績を歌ってるのかがよくわかんない広告だったりみたいなところがあって。
で、そういうのって多分普通の人っていうのは引っかからないと思うんですよね。
はい、じゃあそれで広告を出してるってことはやっぱ効果があるはずなんですよ。
ということはそれに引っかかる人っていうのがどういう人なのかっていうことを考えると、
僕はね、通常のね、あの生活の場面では多分引っかかる人いないと思うんですけど、
多分ね、メンタルがすごく病んでる状態とか、
まあそういったところの人にはやっぱり不安抱えていたりとか、
そういった人だったりとか、まあ焦りだったり、孤独だったりとかっていうのをすごく感じている人とかだったり、
もうそのいっぱいいっぱいで反対力が落ちているっていう人に対してはすごくもしかしたら刺さるんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
ということは、そういう怪しい広告っていうのはそういうメンタル弱者みたいな人向けになってきているんじゃないかなっていう風に思うんですよ。
例えばもうこの今のままでは危ないですよみたいなとか、
まあこれを知らない人は損してますよみたいな、
で、これをしたら簡単に買われるみたいな、あなたでもすぐ成功できるみたいな、
こういう広告は商品説明っていうよりも心の隙間に差し込んでくるような広告なんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
例えばですけども、夜中にお菓子買っちゃったみたいな時に、
まあ今日ぐらいはいいかみたいな感じになる時ってないですかね。
まあそういう時の感覚に近いのかなっていう風に僕は思うんですよね。
で、広告っていうのはね、実際人の願望を応援しているのか不安を利用しているのかっていうので、
結構ね、立場っていうのが変わってくるのかなっていう風に思っている今日この頃なんですよね。
今後の広告に必要な誠実さとストーリー
それを踏まえてですけども、考えたんですよ。
実はね、やっぱり今後の広告っていうのは、やっぱり貧困法制な宣伝しか通じなくなってくるんじゃないかなっていう風に僕は思うんですよね。
現代の広告だったり企業だったりっていうのは、かなり経営体制だったりとか運営体制の姿勢みたいなものっていうのを
意識され始めている時代なんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
そしたら結局、商品そのものもそうもちろんなんですけども、
売り方であったりとか言葉選びだったりとか炎上時の対応であったりとか、
どんな人を使っているかとか、どんな価値観の世界観を作っているかみたいな、
ちょっとね、こういうブランディングっぽい感じにもなってくるんですけども、
そういったところが結構重視され始めている世の中で、
その煽り広告みたいなっていう、すぐ考えたらバレちゃうような広告っていうのは、
ちょっと広告の効果っていうのはどんどん弱まっていくんじゃないかなっていう風に思うんですよね。
だからこれからっていうのは、そういう派手に煽る広告っていうよりも、
やっぱの誠実に説明しているとかだったりとか、
その買わない選択肢もちゃんと尊重するような、
まあ出し方だったりとかですよね。
社会や生活にどう役に立つかみたいな部分っていうのを、
その自社のサービスを使ってどう説明しているかみたいな、
っていう部分が重要になってくるんじゃないかなっていう感じですよね。
僕の考えとしては、やっぱりその、なんて言うんですかね。
こういうのが役に立ちますよとかっていうこととかっていうよりは、
やっぱストーリーが僕は重要だとはもちろん思っているんですけども。
なので選択肢、その入るための入り口として品候補正さっていうのが必要なんじゃないかなっていうことなんですよね。
「寄り添う」から「寄り添う」へ:広告の在り方
で、歌う文句にしても、結構ね、お客様の豊かな暮らしに寄り添いますみたいな感じで歌うのって逆に有産くさいなっていうところ。
寄り添いますの宣言はいらないから寄り添ってくれよっていう感覚が、
今の世の中に近いんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
なので、なんかその、きちっとしてるとか固いのがいいとかではなくて、
やっぱその、誠実な感じはあるんだけども、ちゃんと人格みたいなものがあるような広告っていうところ。
そうですよねっていう。
まあ炎上しないことももちろん大事なんだけども、
その筋を通すみたいなことで、まあその信頼されていくっていうところっていうのを抑えていくのが重要なんじゃないかなっていうふうに感じます。
はい。
予算制約とアテンションエコノミー
ではね、その、なんていうんですかね、そういう安易な広告になっていった経緯として考えてみると、
その予算かけられないみたいなのは絶対あるとは思うんですよね。
そう、なんか大企業とかであればかけられるんですけども、大企業もやっぱり再三取れないとかけれないとは思うんですよ。
なので知名度とかを上げるためだったりとか認知度を高めるためっていう感じで、
割り切れるような大企業だったらお金かけやすいとは思うんですよね。
でも結構ね、ピンポイントな位置だったりとか、ごくごく特定の人向けの広告っていう感じで受け流すような、
あの小さなお店だったりスモールブランドみたいなところだと結構ね、広告しづらいとは思うんですよね。
で、広告のクリエイティブ自体にもお金かけれないっていうことが結局起こってきて、
そうするとやっぱりそのアテンションエコノミーみたいな感じのアプローチになってしまうんじゃないかなっていう。
結果なんかあの、うさん臭いCMになっていってるんじゃないかなっていう風に思いますよね。
で、あと長尺みたいなのも僕は本当に意味がないって思ってて、
あのユーザーが見た時にハンカンを買うような広告って意味あんのかなっていう風に思うんですよね。
例えばね、ゲームの体験とかならまだいいんですよ。
けど、同じような広告を何度も繰り返すみたいなであったりとか、
その今だけっていうのを毎回流してくるみたいなとか、
そういうのは本当にあんまり意味ないんじゃないかなっていう、
その瞬間瞬間としては、まあその煽られるかもしれないんですけど、
多分ね、そういう漫画のサイトだったりとか動画のサイトとかを見てる人っていうのは、
その一瞬しか見てないわけじゃないと思うんですよね。
結構何度も見たりするので、もう一回流れてくる時とかも全然あったりとか、
長期スパンで結構その広告を出荷されてる機関隊っていうのをすごく見ていくとは思うんですよね。
そうなった時に、その仲弱で見られるとか、
その煽りっていうのは絶対通じなくなってくるんじゃないかなっていう、
またかよみたいな感じにはなってくるんじゃないかなっていうふうに思います。
逆にね、認知度を高めるだけであれば何度も見れるっていうものはいいかもしれないですよね。
そのうちちょっと面白いんじゃないかな、ちょっと一回やってみようかなとかっていう感じになる可能性はあるとは思うんですよね。
なので、そういう認知を高める目的で、
そういう10秒ぐらいの尺のCMをすごくいっぱい売ってるみたいなのは、
僕は別に逆にありなんじゃないかなと思うんですけども、
そういう煽り系で何度も売ってる、しかも長尺みたいなやつは全然効果がないんじゃないかなっていうふうに思っているわけなんですよね。
広告の目的と「利己的利他」
これね、なんか結構賛否両論あると思うんであれなんですけども、
そこでじゃあ何が重要なのかっていうふうに思うんですけども、
やっぱりね、広告系発信っていうのは必ず利口性があるはずなんですよね。
これなんかね、この間見たリハークかなんかでも言ってたと思うんですけども、
結局自分が何かしらなってほしいものがあるはずなんですよね。
例えば売上を上げたいだったり知ってほしいだったりとか、
人に来てほしいとか、
フォローしてほしい、買ってほしい、応援してほしいみたいなところがあることがあると思うんですよ。
これって全然悪いことじゃなくて、本当に。
それが目的でその認知を高めるためにお金を払って出してもらってるっていうところなので、
それっていうのは全然悪いことではないんだけども、
それだけだとやっぱり広告にはならないんですよね、結局。
なんで私は付き合わなきゃいけないのとか、なんで買わなきゃいけないのみたいな感じになってくると思うんで、
実際的にはこの両立はできると思ってるんですけども、
自分のためであり相手のためでもある状態っていうのは作ることが絶対必須なんじゃないかなっていうところ。
で、これが出てきてた内容の話ではあるんですけども、
利口的なリタっていう言葉があるんですけども、
まあそういうところ。
例えば僕で言えば、自分のポッドキャストを広めたいっていうのはもう僕のためですよね。
で、思いとしては、
ブランドだったりをせっかく色々とね、過去に学んできてたりとか、
そういうブランド業界に携わっているんで、
その知識とやっぱり世の中の社会みたいなものの、
悩んでいる人だったりとか、考えている人だったりとか、
面白さを届けたいとか、
そういったちょっとね、
前世みたいなものももちろんあるんですよ。
なので、そういったところっていうところと、
自分が広めて、そうやってみんなに知ってもらって、みんな楽しい思いしてもらいたいっていう気持ち。
で、そこには利己性と利多性があると思うんですよね。
なんですけども、
そこの利多的なものだけっていうのも、
なってくるのは、
逆に言うと、
自分が出す意味がなくなってくるところにはなってくるのかなっていうふうに思うんですよね。
なので、その利己的な利多みたいなものをすごく意識していくことが必要なんじゃないかなっていうふうに思う。
なので、自分の欲望を隠す必要はなくて、
相手にとってのちゃんと意味と接続する形っていう部分で、
広告っていうものを出していく必要なんじゃないかなっていうふうに思います。
説得から合意形成へ:広告の役割の変化
で、ここからはちょっとね、広告の役割みたいなものを変えて話したいなと思うんですけども、
昔の広告っていうのは、すごく説得に近いものがあったかなっていうふうに思うんですよね。
これ時はこれを買いなさいみたいな、これいいですよ、これ選ぶべきっていう感じの強さみたいなものがあると思うんですけども、
やっぱり実際、現代の社会とかってなってくると、
もうみんなそういう、なんて言うんですかね、
僕的にはね、哲学的な感覚とかもみんなすごく世の中成長してきているというか、
進歩してきているんじゃないかなって思っているんで、
やっぱ合意形成みたいなものっていうのを意識する人はすごく多くなっているのかなっていうふうに思うわけなんですよね。
なので、私はこういう問題意識でやってます、だったりとか、
こういう未来があったらいいと思います。
あなたも一緒に思うなら一緒に参加しませんか?みたいな感じ。
そういったところをやっぱり重視していくべきなんじゃないかなっていうふうに、
僕は今後の広告にはそういうふうに思うんですよね。
なので、こういうなんかポッドキャストだったり、
サブスタッグっていうのを最近結構やってるんですけども、
そういったところをちょっとね、力入れてやっていきたいなっていうふうには思っているんですよね。
こういうふうに、僕としてはそういう、なんて言うんですかね、
そのものに対してしっかりと意識を持って楽しんで、
で、そういう人と僕が喋ると楽しいので、
そういったところをね、どんどん広げていきたいなって。
新しい、やっぱりものの価値みたいなものを見つけていきたいなって思っているし、
その価値を、なんて言うんですかね、
知ることで、僕としては楽しいので、
三方よし:現代における解釈と課題
人生豊かになってるなっていう感覚があるんですよ。
なので、そういったところをどんどん共感していってもらって、
そういう人たちが増えてもらって、
なので、ふとした瞬間に、
例えば、飲みに行くことになったりとかして、
で、その価値を語る場みたいな、
そういうね、深い価値を語って、
楽しかったな、面白かったな、充実したなみたいな部分が出てくるのが、
僕としては理想なんですよね。
なので、そういう社会を作りたいなっていうところで、
こういう感じでやってはいるんですけども、
そういう感覚みたいなところを接続していくのが、
今後必要なんじゃないかなっていうふうに思っているっていうことなんですよね。
そしてね、この考え方っていうのは、
僕はね、ふとすごく、
販売とかをやってたときにすごく思った、
知った内容があるんですけども、
大海商人の三方よしっていうのが結構好きで、
これは伊藤中とかの教訓なのか釈迦みたいな感じにもなってたりするんですけども、
売り手よし、買い手よし、世間よしみたいなところですよね。
こういうのが、でも実際ね、今の社会ほんと大事なんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
なので、現代風な感じで言うと、
売り手よしは自分の活動がしっかり続いていくような、
続けられるような環境を作るみたいな。
買い手よしは、それの活動を知ることだったりとか、
参加することで価値が感じられるみたいな。
で、世間よしっていうのはもうそれが、
結果、社会が良くなっていくことに繋がっているみたいな。
悪い影響を増やさないとか。
増やさないこともやっぱりいい影響に繋がっていると思うんで、
そういったところですよね。
で、三方よしっていうのはすごくいいと思うんですけども、
ただね、現代では世間よしっていうのはすごく難しくなってきているのかなっていうふうに思ってて、
世間が一つではないっていう、
なんていうんですかね、
ガンダムの連邦軍とジョン軍みたいな感じなんですけども、
対立する思想だったりとかも全然すごくね、
こういう二項対立みたいな感じじゃなくて、
もっと複雑にあるのが今の世の中だと思うんですよね。
価値観っていうのが色々とあって。
なので、ある人にとってはすごくいい広告なんですけども、
別の人にとってはすごく不快に見えることっていうのもあるんじゃないかなっていうふうに思うんで、
現代で三方よしを解釈するならば、
誰にとってのよしなのかをちょっと明確にしていくことが本当に必要なんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。
全人類に好かれるっていうのはすごく無理だと思うので、
最終的にはね、本当にね、
水飲むのは大事ですぐらいしか言えなくなってくるんじゃないかなみたいなところがあるので、
それだけだと多分誰の心にも刺さらないので、
誰に届けたいのかだったりとか、
その人にどんな変化をもたらしたいのかだったりとか、
その結果社会にどんな良さが増えるのかっていうところを知ってもらった上で、
共感してもらった人っていうのがちゃんとその三方よしにつながる。
共感できない人はイラとか嫌悪感だけはないようにして、
スルーしてもらえるみたいなところが重要なんじゃないかなっていうふうに思っています。
AI時代における情報の非対称性と広告の未来
そしてですね、最後にAIをつなげていこうかなと思うんですけども、
これからやっぱりAIが普及していくと、
情報の非対称性っていうのはかなり減っていく可能性があると思うんですよね。
つまりは知ろうと思えば知れる社会になってきているので、
今の世の中ってやっぱり売り手の方がね、
情報をすごく持っているのが強いっていうのがまだまだ続いていると思うんですよね。
なので書いてさんとしてはやっぱり自分の中に情報がないので、
広告だったり店員さんの説明を信じるしかない状態だと思うんですよ。
でも今は結構そのウェブの時代でも結構変わったと思うんですよね。
レビューだったり比較サイトみたいなんだったりとか、
SNSだったりとかっていうところなんですけども、
さらに生成AIが出てくると細かく聞けたりするんですよね。
で、だいたい9割以上ぐらいの精度ではちゃんといい回答返してくれるので、
下手したら下手な店員さんよりもいい回答が返ってくるっていう状態になっているわけなんですよね。
なのでその中で一回聞いた状態、他の人に聞いた状態、
つまりはあいみつしている状態ですよね。
選んでくるっていう人がすごく増えている時代になっているんじゃないかなっていう。
あいみつだと実際価格だけなんですけども、
一回AIを通してるってことになってくると価格だけじゃなくて内容も、
これがあいみつというのが正しいのかわからないんですけども、
あいみつしている状態みたいな感じになっているとは思うんですよ。
なので、そういったところっていう状態で、
売り手側もそういったお客様が来られるっていう風に意識しないといけないし、
買い手側もやっぱりそういう情報の非対称性を謳っているような
業者だったりお店だったりっていうところっていうのは、
やっぱり判断していけるような、
自分のルーティンを作っていかないといけないのかなっていう風には思うんですよね。
なので、情報を隠して売るような広告っていうのはどんどん弱くなっていくとは思うんですよ。
本当にそうなの?みたいな感じで聞かれたら、
調べられたら終わるみたいな広告になってくると結構きついですよね。
なので、やっぱり単なる情報提供ではなくて、
なぜそれを選ぶ意味があるのか、それを語れる広告であるのかっていうところを作っていく必要があるんじゃないかなっていうところ。
やっぱりスペックだったりっていうのはAIがすぐ比較してくれますし、
価格っていうのもすぐAIが比較してくれるわけなんですよね。
そしたら、じゃああと選ぶ理由って何なの?っていう話になってくると、
そこはもう自分の生活に合っているかどうかっていうところっていうのをAIに聞いて、
あなただったらこれがいいと思いますよっていうのを聞いた状態で、
プロだって言われる人に聞いてくるっていうスタンスになってくるわけなんですよね。
そしたら、AIが言ってた説得力より超えるような接客を受ける必要が全然出てくると思いますし、
その人の思想をちゃんと読み解いていく必要だったり、美意識だったりとかっていうところを読み解いていく必要があるっていう部分と、
自分の商品に対してその物語っていうもの、
やっぱりこのそれまで積み上げてきた歴史だったりとかっていうのを語れる必要っていうのが出てくると。
そういうのがないと信頼にも繋がらないし、
あとはコミュニケーションで参加したくなる理由みたいなのができてくると、
もっといいのかなっていうふうには思っています。
広告の進化:叫ぶのではなく語りかける時代へ
そんな感じでもうそろそろ締めていきたいかなと思うんですけども、
簡単にまとめると、
ここがもう単に買ってくださいって叫ぶものではなくなってきているぞっていう話。
これから必要なのは、私はこういう価値を信じています。
それがあなたの価値に少しでも役に立つと思っています。
良ければ一緒に考えてみませんかっていうような態度だったりとか姿勢だったりとか、
そういったものが必要になるのかなっていうふうに思っています。
はい、なのでまあそういう説得から語彙形成、煽りから信頼へみたいなところが重要なんじゃないかなっていうふうに思っているので、
まあこれからの国語は消えるのではなくて形を変えていく。
消えるのはそういう、なんていうんですかね、浅はかな部分っていうところになってくるので、
そういうところをしっかり考えていく必要があるんじゃないかなっていうところ。
なので、昔みたいに強気の広告みたいなのっていうのはもうできないんじゃないかなっていうふうに、
ちゃんとね、これからの広告っていうのはその人に対してのちゃんとリスペクトを持ったような状態で進めていくような話が生き残っていくのかもしれませんというところで、
今日の話は終わりたいと思います。
以上です。