シャネル第3回。
今回は、
ガブリエル・シャネルが帽子屋を始めてから、
どのようにして“CHANEL”というブランドを
時代の象徴へ変えていったのかを追っていきます。
・なぜ帽子屋から始めたのか?
・ポール・ポワレとの決定的な違い
・1912年、女優ガブリエル・ドルジア着用による転機
・1913年、ドーヴィルとジャージー素材
・第一次世界大戦と“動ける服”
・1918年 カンボン通り31番地
・1919年 ボーイ・カペルの死
シャネルは、
単に“おしゃれな服”を作った人ではありません。
「女性はこうあるべき」という価値観そのものに、
服を通して革命を起こした人物でした。
そして今回見えてくるのは、
ブランドとは企業が作る前に、
“使う人”によって社会へ広がることがあるという事実です。
ポワレが“最後の王朝”なら、
シャネルは“次の時代の制服”を作った。
そんなブランド史としても非常に面白い回になっています。
ぜひ最後までお楽しみください。
---
✍️ noteでは、
配信内容の補足・裏話・ブランド史の深掘りを更新しています。
特にメンバーシップでは、
・ブランドの思想
・歴史背景
・価値が生まれる構造
・配信では語りきれなかった裏話
なども発信しています。
▼note
note「物と価値のリベラルアーツ」
▼X
X @monotokachi
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
00:08
はい、本日も始まりました、物と価値のリベラルアーツパーソナリティーのきのです。 シャネルも3回目となりました。
前回までは、シャネルがどのようにしてお店を出すに至ったのかを話しました。 夢を追いダブルワークをして、さらにそこで出会ったバルザンによって上流社会を知り、
可能性を感じたカーペルに投資されることで、お店を出すことができたというお話だったわけなんですけども、
今回はですね、あの帽子屋を始めてからシャネルはどのようにして、シャネルというブランドを世に知らしめていったのかを話していきたいと思います。
はい、1910年、ガブリエルシャネルはパリの観音通り21番地に帽子店シャネルモードズを開きます。
なぜ帽子店から始めたのか。 帽子が得意だったというわけではありません。
それには環境的な理由がありました、というところなんですけども、 シャネルはですね、
この1910年に帽子店からシャネルというブランドを、時代をね、元になったところですよね、を始めているわけなんですけども、
それはね、それぞれね、帽子店にする理由っていうのがあったわけなんですよね。
はい、まず一つ目がですね、参入がしやすかったからっていう部分があるんですけども、
彼女はね、個人育ちで正規の上流階級の出身ではないんですけども、
まあその状況でいきなり大規模なクチュールメゾンっていうのを開くのはすごく難しいわけなんですよね。
だけども、あの帽子だけっていうところからスタートすると、比較的小さな工房だったりとか、
まあ限られた資金だったり、個人のセンスっていう部分で勝負ができるっていう風に、彼女は考えたわけなんですけども、
しかもね、上流階級の女性の目に触れやすいっていうメリットがあったっていうところなんですよね。
はい、で、二つ目なんですけども、これがね、あの一つ目でもちょっとある部分だったんですけども、上流社会への入り口となっていたっていう部分があるんですよね。
シャネルはね、エティエンヌバルザンに囲われていたっていう状況があったわけなんですけども、
その時に、まあ上流階級の女性たちをね、しっかり観察して彼女たちに帽子を作っていくことを始めたわけなんですよね。
で、帽子はね、服よりもすごく試しやすくて、社交界の女性たちがちょっとしたきっかけで買うことができる商品っていうところがかなりのメリットだったんですよね。
はい。つまりね、シャネルは、あのそのシャネル自体が上流社会に商品として売り込むための最短ルートになっていたんですよね。
03:10
なので、帽子っていうところがポイントになっていると。で、三つ目が、あの時代の違和感をつける、
まあ最小限のね、存在だったっていうところがあるんですけども、
当時女性がしていたファッションっていうのはコルセットや過剰なね、装飾によって女性の体を美しく見せるっていうことをする一方で、
動きにくくて社会的役割を固定するものだったっていう風に言われてますね。はい。これなんですけども、やっぱりね、その
シャネルがね、孤児院出身だからっていうのはね、あると思うんですよね。
彼女はね、孤児院なんで上流階級の女性とかっていうのはマナーとかはね、すごいしっかりと叩き込まれたりしているわけなんですけども、
彼女はね、その間ずっとね、あの掃除をしていたりとか、張り子をしていたりとか、まあ教会のことに従事していたりしていたわけなんですよね。
で、その生活から考えると、まあどう考えても動きにくいぞ、こればと。あのいう風に思い始めたっていうところ。
なので、シャネルはそこに対して、帽子っていうところから軽さだったりとか実用性だったりとか、簡素さっていうのを提示していったっていうことなんですよね。
なので、帽子屋っていうのは単なる出発点ではなくて、私はこう見られたいとかっていうんじゃなくて、
女はこうでなければならないという概念をしっかりと抜いていくための最初の道具だったっていうふうに考えられるわけなんですよね。
彼女はですけども、バルザンの下、社交界の豪華な装飾を見ながら、そこに憧れるだけじゃなくて、
まあどこかね、冷静にね、その状況っていうのを見つめて、いろいろとね、考えていたはずなんですよね。
まあ そこでやっぱりこの
なぜこんなに重く飾られ動きにくくされなければならないのかみたいなね、 その違和感をまず帽子で形にしていくっていうことを進めていったわけなんですよね。
はい だからもうシャネルが帽子屋から始めたっていう本質は、帽子が売れそうだったからっていうんじゃなくて、
その帽子がね、女性の価値観を変える上で、自分ができる最小限の革命だったからっていうところがポイントなんじゃないかなと思います。
はい ただですね、シャネルといえばね、コルセットから女性を開放したっていうイメージがね、すごい大きいかなぁとは思うんですけども、
彼女以前にもそうやってコルセットをなくしたデザインをしたっていうデザイナーがいたわけなんですよね。
これがね、ポール・ポワレっていうデザイナーさんなんですけども、彼はね、この時期のね、ファッション業界では本当に王様のような天才デザイナーだったわけなんですよね。
06:02
デザインといえばポール・ポワレだ、みたいなところなんですけども、彼のポイントっていうのがですね、
東方のデザインっていうね、アジアだったりとかインドだったりとか、いろんなところのデザインっていうところが着想を持って、
そのあたりの服っていうのはね、やっぱりコルセットってやっぱ西洋の文化になってくるので、
そういったところではない美しさみたいなものを豪華なデザインとして作っていったっていうのがポール・ポワレなわけなんですよね。
一方でシャネルは現実世界の開放っていうのを目指して、機能性が動く女性、働く女性、自立する女性っていうのが着る服としての
スタンダードを目指していった。ここで大きく違ってくるんですけども、
防具もそのことについてちょっと触れているんですけども、ポールはね、ポール・ポワレに関しては新しさっていうのを作った人物である一方で、
第一次大戦後の女性の生活変化っていうのには十分対応できなかったと、
スポーツ服や簡素な服が広がる時代に遅れていったっていう形で整理しているんですよね。
特にね、シャネルはアンチポワレになったって表現されてはいるんですけども、実際問題、その目的自体が違ったんじゃないかなっていうふうに思うんですよね。
ポール・ポワレはすごい良いデザインをする上で、そのコルセットじゃないスタイルっていう美しさっていうのを見つけ出したみたいな感じなんですけども、
シャネルは実用的に服を改造していくためにコルセットをなくしていったみたいなイメージなんですよね。
そこの差が、その戦争っていうことが起きた時に、やっぱりその動ける女性っていうのが必要だよねっていうところで、時代の潮流にも乗っていったんじゃないかなっていうふうに考えられるっていうお話です。
ここから、ブレイクのきっかけとなったシャネルの成功の話をしていきたいと思います。
1912年の重要な出来事として、女優ガブリエル・ドルジアっていう女優さんがですね、シャネルの帽子をかぶったことが有名なわけなんですけども、
その資料では、1912年に女優ガブリエル・ドルジアが舞台ベル網でシャネルモードズの帽子を着用して、それがブランドにとって大きな後押しとなったとされています。
なので、さらにその後、シャネルはパリの劇場界の主要な女優たちの帽子をどんどん作るようになっていったっていうふうに記録されているわけなんですけども、
このドルジアですね、1912年の5月にはね、ロスモードっていうところにはですね、シャネルの初期の帽子をかぶった写真が掲載されているわけなんですけども、これもね現代で言えば、人気女優が舞台と雑誌で真新興ブランドを着用したっていう状態だったりとかね、
09:12
最近で言うとね、有名なインフルエンサーが着用した写真をね、アップしてバズったみたいな感じと捉えてもらえると結構わかりやすいかもしれませんね。
しかもね、当時の舞台女優っていうのは単なる芸能人ではなくて、流行の発信者であり、社交界と大衆文化をつなぐ大きな存在っていうふうにも書かれているので、やっぱりねインフルエンサーの方が近いんじゃないかなっていうふうに思いますね。
はい、なのでこのシャネルにとってこれかなり大きくて、なぜならもうそのシャネル自体っていうのは貴族とかじゃないですし、名門のメゾン出身とかでもないわけなんですよね。
なので個人育ちでバルザンやカペルの人脈を通じて上流階級、上流社会に接近していただけだったんですけども、
この12年の出来事をきっかけに、そのシャネルという名前がね、社交界の噂から公共の流行に変わっていった瞬間だったと言えるんではないかなっていうふうに思います。
で、それをその流行りだしたことを受けて、シャネルはもうこの時どう思っていたのかっていうところなんですけども、
これね日記のような確定資料とかがあるわけじゃないので、断定はするのはちょっと危ないんですけども、公式情報と彼女の行動から見てみると、心情っていうのはねかなり明確だったんじゃないかなって思います。
参考としてなんですけども、シャネルがですね、公式ではね、ボーイカペルが1910年パリ防止展、12年にドゥービルの開業を支援していったっていうね。
ドゥービルは13年に開業しているんですけども、シャネルはその資金をね、全額返すことっていうのにこだわったっていうふうに説明しているわけなんですよね。
理由としては誰にも依存しないことであったりとか、自由でいることっていうところに重きを置いていたわけなんですけども、つまりこの12年の成功は彼女単に売れたっていうふうには見てなかったはずなんですよね。
おそらくなんですけども、彼女にとっては上流社会に置いてもらう女っていう感じではなくて、上流社会に選ばれる作り手になれるっていうふうに実感した瞬間だったのだと思います。
これかなり大きいんですけども、バルザンとの関係性の場合はね、彼女はね、被護される側っていうところですよね。お金を出してもらって生活させてもらえるっていう立場だったわけなんですけども、カペルの支援を受けてもやっぱりまだ援助されている女性だったわけなんですけども、
12:06
ドルジアが帽子をかぶって、そういう舞台とか雑誌とか社交会とかで知名度が上がっていくことで、シャネルは初めてね、自身の美意識で社会に進出して、自立していったっていうふうに言えるのではないかなっていうふうに思います。
ここでね、本当重要なのは、ブランドはね、企業が作る前に使用者が作ることがあるっていうところなんですけども、シャネルはね、そのブランドっていうところっていうよりはもう自分のね、違和感だったり自分のセンスだったりっていうところを信じてね、進めていってたわけなので、シャネルはね、新しい女性像を作りましたっていうことではないんですよね。
女優だったりとか上流階級の女性が身につけたことで、社会の側があれは新しいっていうふうに見つけた段階に入ったっていうふうに考えられます。
ここでですね、ポアレと決定的な立ち位置の違いを説明していくんですけども、この時期ね、ポアレっていうのはファッション界のもうすでに帝王だったわけなんですよね。
1912年の時点で彼はパリモードの中心人物で、ボーグでもこの年彼がコルセットのないスタイルだったり、ウエストラインを消した服と結びついていたことを記録しているっていうふうに書いてあります。
対してシャネルはですね、まだ売れ始めたばかりの帽子屋だったんですけども、ポアレはその上から流行を命じる側で、シャネルは横から生活に入り込む形だったわけなんですよね。
ポアレの服は見せる服、シャネルの帽子は使える美意識、つまり1912年のシャネルはまだポアレに比べて小さい存在だったのですが、すでに未来の方向を向いていた構図になるわけです。
そしてポアレが最後の華やかな王朝であるならば、シャネルは次の時代の制服を作り始めていた。ここがね、ブランド史としてめちゃめちゃ面白いところなんですけどもね。
1913年シャネルはフランス屋のノルマンディのリゾート地、ドービルにブティックを開きます。シャネル公式も1913年のドービル店でジャージー素材のスポーツウェアを売り始めたことを、女性と体の関係を変えた出来事として位置づけています。
ジャージーは元々男性用下着やスポーツウェア、ストッキングなどに使われていた実用素材です。ビクトリア&アルバートミュージアムもシャネルがこの安価で実用的な素材の地位を変え、流れるような柔らかさと動きやすさを女性服へ持ち込んだと説明しています。
これ面白いところなんですけども、普通高級服は高級素材を使って価値を作り上げていくんですけども、シャネルはその逆をやったっていうところですね。当時で言うとかなり珍しいことだとは思うんですけども、安価で実用的な素材に近代女性の自由という意味を与えた。これはかなりブランド論的に重要なポイントなんですよね。
15:16
ポアレや同時代のクチュリエが装飾や演出で女性を非日常へ連れていったとすれば、シャネルは女性を日常、美しい日常へ戻していったっていうところですね。その日常を美しくしたとも言ってもいいかもしれませんね。これはね、もともと上流階級だったとしたならば、できなかった発想なんじゃないかなっていうふうに思います。
1914年、第一次世界大戦が始まります。男性は戦場へ行き、女性は働き、移動し、生活を支える役割を担うようになります。
つまりね、この戦争が起きたことによって、社会の状況がものすごく変わったんですよね。この時代、女性に必要になってきたのは、豪華で重い服ではなくて、動ける服であったりとか、実用的な服であったりとか、生きていくためだったりとか、動くために必要なという需要が完全に生まれてくるわけなんですけども、
ここでシャネルの作り出してきた価値観が時代と一致していくことになるんですよね。よくね、シャネルは時代に乗ったとか言われることもあるんですけども、僕は結構違うと思ってまして、時代が変わる前からシャネルは動ける女性を見て、その方向性に舵を切って作成をしてきていたわけで、
その積み重ねがちょうどこの時代とマッチした形になったんじゃないかなっていうふうに思います。彼女はコルセットを嫌って、男性服だったり女王婆服だったりから、体を自由にする服っていうのを作ろうとしていたわけなんですけども、なので、戦争が始まって社会が彼女に追いついたっていうところがポイントなんじゃないかなっていうふうに思います。
ここでシャネルはね、おしゃれな服ではなく新しい生活様式に合う服っていう形の力を持ち始めていくんですよね。続いてね、1915年、ビアリッツでクチュールハウスを作ります。シャネル公式も1915年にビアリッツでクチュールハウスを開いたという形で整理しているわけなんですけども、
ビアリッツはスペイン国境の近く、戦時下でも富裕層や避難者、国際的な人が集まる場所だったわけなんですよね。シャネルはパリ中心の求来型のモードではなくリゾート地だったりとか、移動国際的顧客っていう形の人たちとどんどん結びついて伸びていったっていうところが言えるのではないですかねっていうところです。
ここもね、シャネルらしさがあるんですけども、シャネルはね、サロンの中だけで育ったブランドではなくて、移動する女性だったりとか、働く女性、リゾートで過ごす女性っていうね、本来の生活に寄り添っていく形で育っていったブランドだったんではないかなというふうに思います。
18:15
これね、他のブランドでも言えるんですけども、例えばロレックスだったりすると、海、山、空っていうところに合わせて時計を送り込んでいって、そこのプロフェッショナルにっていうところだったわけなんですけども、シャネルは町、海辺、リゾート、戦時下の生活っていうところにあった服っていうところを送り込んでいって、女性の自由を現実にしていったというところです。
そしてですね、1918年、看板通り31番地ですね。これがもう最も有名なんじゃないかなっていうふうに思うんですけども、シャネルはパリの看板通り31番地を取得するわけなんですよね。
はい。シャネル公式も1918年に31番地を取得したっていう形で説明しています。
ここはね、本当に単なる住所じゃなくてですね、このシャネルの神話の中枢になるわけなんですよね。
ブティックであり、サロンであり、アトリエであり、その鏡張りの階段があるっていうところですよね。
ここで完全に商品を売るだけじゃなくて、シャネルという世界に入るための空間、つまりは完全なるブランディングの基礎となる部分ができたというところですね。
ここまで来るとね、彼女はもうただの帽子屋ではないんですよね。
このブランディングが完全に完成された後ろで、服を売る人から世界観を設計していく人っていうところに変わっていったっていうわけなんですよね。
はい。こんなね、上昇し続けていた中で、ついにシャネルに悲劇が訪れます。
1919年、アーサー・ボーイ・カペルの死ですね。
最も大きな喪失が起きるわけなんですけども、アーサー・ボーイ・カペルが交通事故で亡くなります。
彼はシャネルにとって恋人であり、資金提供者であり、良き理解者でもあったっていう形なんですけども、
彼女は後にポール・モランに対してカペルの死について、彼を失ったことで全てを失ったと語ったと伝えられています。
ここはね、本当に慎重に扱いたい部分なんですけども、この死後、カペルの死後ですね、
ブラックドレス、リトルブラックドレスだったりとか、黒の美学っていう部分を生んでいるんですけども、
やっぱりその当時ね、模服と言われた色っていうのを本当にファッションに持ってきたっていうのが、シャネルのもうとても大きな功績の一つなわけなんですけども、
これがね、やっぱりカペルが死んだからだって言われると、僕はちょっと違うかなっていうふうに思うんですよね。
21:03
やっぱり修道院とかの記憶であったりとか、そういうエレガンスっていうところと黒っていうのは、シャネルの中では結構結びついていたんではないかなっていうふうに思うんですよね。
ただね、そのカペルが死んだことで、その結びついていたモヤっとした形のイメージっていうところに、さらに厚みを与えたっていう可能性はかなり高いんじゃないかなっていうふうに思います。
シャネルはね、本当に悲しみを語る人ではなく、形に変えていくっていうことをできる人だったっていうところなので、
そのシャネルの黒っていうのはね、本当にこれが単なる黒の色っていうのではなくなって、感情を閉じ込めていく器になっていったのではないかなというふうに思います。
この深みある黒っていうのがね、次第にファッション業界の常識をどんどんここは塗り替えていくっていう形になっていくんですけども、
このところで今日はこのあたりにしておきたいかなと思います。はい、いかがでしたでしょうか。
僕が思うにね、このストーリーの厚さっていうのがね、本当にとんでもないですよね。
いろんなところでの新しいことを生み出して価値観だったりとか、時代に合う合わないとかっていうところだったりとかっていう部分が出てくるっていうのがね、
やっぱそれをしっかり乗り越えてきたブランドっていうのは本当に強いなっていうふうに思います。
はい、今ね、多分これからブランドを作ろうとしている人たちもね、もちろんいるかと思うんですけども、
やっぱり新しい価値観を生み出して、本当に売れるっていうことはね、多分できる可能性っていうのはあると思うんですよね。
ただね、このハイブランドとかっていうのと並ぶためにはね、本当にその新しい価値観を生み出し続けてきたっていうことがね、
本当に鍵になってくるんじゃないかなっていうふうに思いますね。
で、そういったブランドのようになるには本当に様々な困難を乗り越えていく必要がね、本当にあるので、
本当にね、今日ね話してきたポールポアレだったりもね、当時はモードの帝王とまで言われていたんですけども、
1930年にはブランドを1回閉じているんですよね。
そしてもう歴史上の扱いっていう、歴史上こういう功績を残した人ですよっていう感じになっちゃっていたんですけども、
その2018年にポールポアレの復活っていうところで、歴史というブランドの価値に目をつけた人が復活させたっていう形にはなると思うんですよね。
ただね、本当にそれだけ復活まで結構な期間が空いていたりっていうところで、
本当に帝王と言われたクラスですら残ることが難しいっていう状況があるわけですよね。
そんな中ね、シャネルがやっぱり残ってきたっていうのは本当に日々のね、
24:02
価値観の塗り替えであったりとか、
永遠にね、課題となるようなポイントっていうところをしっかり抑えた上でブラッシュアップし続けたきたからなんではないかなっていうふうに思います。
この配信では引き続きシャネルの歴史やブランドの話をするとともに、
物の価値を見つめて、ブランディングの参考にしていただければなというふうに考えています。
このXやノートでも日々更新してますので、
よければそちらもフォローだったりとか、いいねだったりとかお願いいたします。
もちろんこの配信もお願いいたします。
はい、ではまた。
24:56
コメント
スクロール