2023-07-16 10:43

089.本田宗一郎について

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世界に多くの喜びを提供しよう! 起業家たちの心構え
はい、こんにちは、直人です。今日は、本田技研工業を一台で築き上げた本田宗一郎さんの話をしていきたいと思います。
本田宗一郎は明治39年1906年11月17日に静岡県で
鍛冶屋を営んでいた父と母の子として誕生しました。 父親は熟練した鍛冶職人であり、母親も旗織りの優れた技術を持っていました。
裕福とは言えない家庭ではありましたが、のびのびと育てられたようです。 一方で両親による仕付けはしっかりと行われており、
後の本田宗一郎の性格に反映されることとなります。 基本的に自由奔放な性格をしている本田宗一郎ですが、ただ無責任に行動するのではなく、
人に迷惑をかけることを嫌い、約束の時間は絶対に守る貴重面さも持ち合わせていました。 こうした側面は父に教えられたことだそうです。
本田宗一郎は高等小学校を卒業した後は進学するつもりは一切なかったそうです。
というよりも進学したくてもできないほど成績は悪かったみたいです。 そこで
大正11年、1922年の春に15歳で
東京本郷の自動車修理会社アート商会にデッチ暴行に出ます。 小学校を卒業してすぐに会社で働くことになった本田宗一郎ですが、
これは現代の感覚でいう就職とは全く異なるもので、 当時のデッチ暴行は
寝床と食事と数えるほどの小遣いをもらえる それくらいのひどい環境だったそうです。
そして本田宗一郎はアート商会では仕事といえば掃除や子守りばかりさせられていましたが、
自動車を近くで見られるだけで幸せなんだと自分を鼓舞して雑用をこなしていきました。
その合間に師匠の仕事を目で盗もうと食いついて見つめていたのです。 アート商会でデッチ暴行を始めてから半年ほど経った時、
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本田宗一郎はついに公務を握らせてもらえるようになってきました。 主人である佐垣原育三が
今日は忙しいからお前も手伝え! と本田宗一郎を呼び出したのです。
喜んで作業着に着替えた本田宗一郎はすぐさまに作業に取り掛かります。 その時から持ち前の器用さを武器にめきめきと腕を上げていきました。
本田宗一郎が持つ才能を見抜いた佐垣原育三は次第に彼を目にかけるようになっていきます。
大正12年、1923年の9月、関東大震災が起こりました。
あちこちで火災が発生しアート商会にも火の手が襲ってきます。 顧客の車に何があれば大変なことになるため、
自動車を運転できる人が1台ずつ安全な場所に移動される必要がありました。 ここが彼らしいのですが、大震災が起こっているにもかかわらず、
心の中でやったと思っていたそうです。 本田宗一郎は自動車を生まれて初めて運転することに感動と興奮を覚え、
地震など気にならなかったと語っています。 本田宗一郎はアート商会の主人である佐垣原育三からあらゆることを学んでいきます。
修理の技術はもちろんのこと、取引先とのコミュニケーションの取り方、 そして技術者としての教授までを学んだといいます。
佐垣原育三は熟練のエンジニアであり、そして優れた経営者でもあったのです。 本田宗一郎氏に尊敬する人物は誰かと聞くと、決まって佐垣原育三と答えていたそうです。
そして師匠である佐垣原育三から様々なものを学んだ本田宗一郎は、昭和3年1928年にアート商会からののれん分けの形で浜松市にアート商会浜松支店を開業します。
アート商会ののれん分けを許されたのは本田宗一郎ただ一人だったそうです。
本田技研工業が世界の本田と呼ばれるほど成長したのは本田宗一郎だけの力ではありませんでした。
本田宗一郎は藤沢武夫という人物と出会うことで本田技研工業を大きく成長させることができたのです。
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二人が出会ったのは昭和24年、1949年のことでした。
お互いに共通の知り合いを通じて対面したときは、両者はすぐに生きとんをしたそうです。
その理由はお互いに性格も専門分野もまるで異なっていたことにあり、
自分が持っていないものを向こうが持っていたと語っています。
本田宗一郎はものづくりに関しては右に出るほどはいないほど優れた腕を持っていましたが、
こと経営や営業のこととなると、からっきしで全くできなかったそうです。
実際彼は、俺はどんな数字でも最後に右がついたりパーセントがついていれば覚えられるが、
最後に円がつくと全然ダメだとユーモラスに語っていたそうです。
そんな彼を支えたのが藤沢武雄です。 藤沢武雄は技術面に関しては
全くド素人でしたが、経営や営業に関する才能は一一倍にありました。
専門分野が異なる二人が協力したことで、技術の本田宗一郎、
経営の藤沢武雄という最強コンビになり、本田を引っ張っていったのです。
そんな本田宗一郎さんの人物像がわかる逸話を紹介していきたいと思います。
1953年3月号の本田月報に
120%の良品というテーマの文章が掲載されています。
その内容は100%を目指していては人間のすることだから1%くらいのミスをする。
だからミスをなくすためには120%を目指さなければならないんだ、という内容のものでした。
そして実際に従業員に受けて日常的に120%を目指せと何度も言っていたそうです。
当時の従業員がうっかりミスをしたことが本田宗一郎に見つかった際に、自分たちの給料はお客さんからもらったお金だ。
そのお客さんを殺す気か?と激怒したと言います。
また違う話ですがある時本田社内でエンジンを空冷にするか水冷にするかという対立が起こったそうです。
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若手社員は公害規制をクリアするために水冷にするべきだと主張しましたが、
本田宗一郎は騒ぐれエンスとしたら水なんてない、空冷だと主張したそうです。
こうして空冷となりましたが、後に実験をしてみると水冷の方がパフォーマンスが良いことが分かり、
本田は水冷に切り替えていきました。 この件がきっかけとなり、本田宗一郎は自分はもう技術がわからないのかもしれない
と感じ、潔く社長を退いたそうです。 長く社長の座に座るのでなく、自分の知識が追いつかなくなったと察したら、
潔く身を引いています。 すごい、なんていうか、
人間器の大きい人ですよね。 自分のためっていうよりやっぱり、
そういう人だから、 みんなに愛されて、
会社もだんだんでっかくなって、
世界の本田って言われるような大きな会社になっていったんじゃないかなと思います。 僕も本田宗一郎さんみたいな考え方を
見習ってですね、 進んでいきたい、
活動していきたいと思います。 ありがとうございました。今日はここで終わりたいと思います。
それでは良い一日をお過ごしください。 港本でした。
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