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こんばんは、港町レイドへようこそ。鶴田です。 村田です。
この番組は、荒沢になって生まれ故郷の横浜に帰ってきた2人が、アルコールを片手に浜談義や趣味の話に花を咲かせるレイドです。
村田くん、今日のお酒は何? 今日のお酒は、このキリンの安らぐお茶割りのほうじ茶範囲ってやつで、これセブンにしかっていうの見たことなくて。
あ、そうなの? そうそうそう。
で、前回か緑茶割りとか、お茶割り好きですって話したけど、コンビニで買うんだったら、宝錠中の緑茶割り、お茶割りに次いで、このほうじ茶範囲が2番手。
ということで、2回目にふさわしいお酒として、ほうじ茶範囲です。 なるほどね。だから今日セブンイレブンに行きたいって言ってたんだね。
あ、そうそうそうそう。 これセブンイレブンで売ってないよね。ファミマとかミニストップ、ローソンとか見たことなくて。
えー、ビールじゃなかった。お茶割りでもあるんだね。 そう、あるある。ということで今日はほうじ茶範囲ですと。
つるぽんは? 僕はね、今日ハイニケンというオランダのビールです。 よく聞くね。
よく聞くけど、なんか缶だよね。今それ持ってるやつ。 そう。
なんか瓶ではよく見るというか。 そうだね。日本で何年か前から缶でも見るようになったけど、すごいよでもハイニケンは。
もう世界に誇る。 えーでもね、世界の何位だったかな。でも本当に。 1位じゃないんだ。
1位売り上げじゃないと思うよ。多分。 なるほどね。
何か書いてあるの?それ。世界ないみたいな。 いや、えっとね、それはないかな。
そう、でも、あのヨーロッパとか行けば絶対にどんなパブにもあるビール。 安心な。そうそう、まあ安心の味ですよ。
じゃあ、しますかね。 じゃあ本日も。はい、かんぱーい。
ほうじ茶範囲はね、このなんだろう、ほうじ茶の深み?いや、ほうじ茶範囲だからそうなんだけど、
これなんか緑茶範囲に比べて渋みがあるんだよね。
そう、それが良くて。やばい、ちょっとこの話入り始めるとほうじ茶範囲のトークになっちゃう。
いいじゃないですか。渋みの話ですよ。
じゃあ今日も浜谷に行きますか。 そうね。
ちょっとその前回の宿題みたいなのがあったよね。 あった。
リサーチ不足がちょっと垣間見えたネタがあったね。
そう、僕ね、横浜村の話でしょ、何年ぐらいの話だっけ、そんなやつ。
横浜海国資料館に行こうかなと思ったんだけど、今コロナの影響でオンラインで事前予約しないといけないらしい。
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そうなんだ。入場制限をしているの? なのかな?
そもそもフラットは今いけない状態らしいね。
それも調べてわかったんだけど。
まあだからちょっとホームページ上とか、その他いろいろインターネット上で主に文明の利器を活かしてるんだけどね。
なので横浜村ちょっと調べてきたことを話すね。
横浜村ね、実はどれくらい前から横浜というキーワードが日本の歴史に登場したかというと、時は室町時代。
室町?
そう、1442年らしいよ。つまり今から約580年前ぐらい。
バッとああねってならない?508年ですって言われて。
そうならないけど、意外とそんなに結構昔だったんだって思った。
ああ、そうか。
なんかもっとさ、もうちょっと近代って言うとあれだけど、江戸時代ぐらいにできた村なのかなぐらいに思ってた、僕は。勝手ながら。
ああ、なるほどね。
横浜村というかその地名が。
だからもう500、800、600年近く前ぐらい前からあったと。
でね、そうそう、ずっと東海道って当時のさ、その日本の主な移動の道からも結構離れてて、横浜の場所はね。
はい、分かる分かる。
すごく孤立した寒村だったと。
寒村?
人がそんなにいない、結構寂れた村ってことね。
うんうんうん。
でなんかその、まあ本当江戸時代の1800年の頭ぐらいまでは、住んでた人が87と、だから87ファミリーぐらい。
ああ、87個、はい。
もうめっちゃ小さい村でしたと。
そんな。
おお、そうそうそうそう。
でなんか、この前話したさ、なんか砂浜の上にあるっていう話が、あの本当に砂の土壌の上にあった村だったから、本当に御土地とかも結構貧しくて、農業とかにはあんまできないし、半農半漁の貧しい人たちばっかりの村だったらしい。
半農半漁、半分農家で半分漁?
漁。
釣りか。
あ、そうそう、まあ海がね、あるから。
でもね、主要産業は、生子。
生子?
生子。
生子が主要産業だったらしいよ、横浜村の。
生子を、あれ釣るってあってるよね、生子。
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生子って、
取る取る。
落ちてんじゃね?
落ちてんの?拾うの?
あの、砂浜に落ちてるよね、生子って。
あ、そうなんだ。
そうそうそう。
僕もそんなに好きじゃないから、積極的に探そうとはしないんだけど。
そう、生子が主要だったんだ。
そうなの。
でも確かに砂浜の上だとさ、だって半農つっても農業何ができるの?みたいな、砂の上で。
水田とかも作れないし、だからなんかまあ、作れて、その砂浜のもうちょっと横側が、横浜って山というか丘も多いじゃない?
そっち側でちょっとこう、もしかしたら畑とかをやってたのかもなっていう感じらしいです。
当時ね、キリストの先教師のとある人が横浜村に来ていたこととして、なんかあんまり反映してないと。
うん、横浜村が?
そうで、悪臭が漂ってるっていう、なんかその記述が。
残ってんの?そんなのが。
そう、まさに今の横浜駅の近くの悪臭が当時もあんな感じだったのかなって。
ずーっと続いてるんだ。
つながってるのかなって。
まあこれはちょっと冗談だけど。
数百年悪臭漂い続けてる街じゃそうしたら。
で、そうなの。
海はさ、これ一個疑問なんだけどさ、砂浜の上じゃん。
ふと受け入れたけどさ、前回話したときさ、砂浜のふもとみたいな、つけ根みたいな話しなかったっけ?
してた。
なんかその横に砂浜、横に浜が伸びてて、そのつけ根の部分にある村ですみたいな感じだったじゃん。
これはどっち?
えっとね。
結局どっちなんだろうね。
つけ根末端だけというわけではなさそうに昔の地図を見てると思った。
でも確かにこれ砂浜の上にって書いてあるから、
なんかふもとの部分から突き出てる浜の一部あるいはもう別にそこ区分けなんてないだろうし、全体を横浜村って呼んだのかな。
そうなんじゃないかな。
なんかその石川町とか本町の辺りからグイーンって伸びてる人浜があって、その辺がたぶん横浜村と呼ばれていたんじゃないかなと思われます。
室町の頃から。
そう、室町の頃からね。
すごいよね、そんな昔からあったんで。
長いね、そこからずっと形変わらなかったのかな。
室町から江戸になり明治で。
そうだね、本当に埋め立てられるまではさすがにそういうこの話の輪があって、ずっと貧しい村だったんじゃないかな。
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なるほどね。
どっかのタイミングで発展してっていう。
ですよね。
そこがちょっとまた前回も話しててた、馬車道とか昔からあるじゃんみたいな話をちょっとしてたけどさ、あれ時系列がんむしで話をしてたからさ。
完全にね。
そうね、昔言うても横浜村の老いたちは、あれだよね、室町ですと。
で、周りに野家村とか、もちろん横浜村って今もこの話出てくる中で、なんで横浜がそれこそ発展し、使徒なり、精霊地形都市になったんだっけみたいな話も出たかなと思っていて。
で、ここちょっと調べましたと。
ぜひ。
で、確かに前回の時に、ツルボンが開校したよねみたいな、あの流れじゃないって言ってて、改めて考えれば歴史の授業でも習ったし日本史で、多分そうだろうと思いつつ調べてみましたと。
改めて。
そうそうそうそうそう。
素晴らしい。
で、ちょっとわかったから、ちょっとお話をしますと。
ありがとう。
で、この横浜の発展っていう意味だと、開校がトリガーになったのは、その通りですと。
で、ちょっとそこの手前まで遡ると、さっきもちょっと出てたけども、江戸晩夫の時代に、東海道の宿場として、宿場は地下として、神奈川宿、あるいは神奈川塾って呼んだりも、宿って書いてね。
はいはいはい。
ここが発展していましたと。
で、何でかっていうと、神奈川港っていう港があって、当時で言う江戸湾、今だと東京湾を通る時、海運交通の要所としてこの神奈川港っていうのが栄えていましたと。
あ、港としちゃったんだ。
そうそうそうそう。
で、港の対岸みたいな位置するところに、この横浜村っていうのがあって、さっき言ってくれた通り、総顧数は、さっき84つったっけ。
87?
7。まあ、ここら辺の細かい数はあれなんだろうけど、あんまりちょっと発展はしていない小さな村でしたと。
で、この横浜村の運命が変わったのが、ペリー来港、皆さんご存知。
浦賀。浦賀だっけ?
うん。
で、当時なんでペリー来たの?みたいな話、改めて振り返ると、むしろ昔過ぎで日本史で学んだこと忘れちゃってるからさ。
楽しいね。
そうそうそうそう。
で、太平洋を航海していましたと。アメリカ海軍になるのかな。
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で、その時言うても補給したいとかさ、いろんな欲求があるわけで、日本の港を使いたかったですと。
ていうので、当時無許可で、幕府も鎖国してたから、アメリカ海軍が八景島の近く、今で言う、のところに一旦泊まったんだって。
で、そこから幕府に、人を送り込んで交渉しようと。
海国を迫るみたいな、よく知ってる話に入ってくるんだけども。
これで幕府側が、アメリカ海軍とお話をする場を、じゃあ設けなきゃって。
応接所みたいな感じで、交渉の場所を設けましたと。
これが横浜村だったっていう。
あ、そんなの?
そう。
海国を迫られて、一旦八景島近く、シーパラとか今ではあるけど、あの近くに一旦チョンって泊まって、幕府交渉しようぜみたいな。
話になり、分かりましたと。
で、幕府側が、じゃあこの場で話し合いしましょうって言って、その応接所みたいなのを建てたのが、横浜村だったっていう。
うーん。
そうそうそう。
で、そこから教科書で習うような歴史、忘れてたけども、結果1854年に日米和親条約が締結され、
そこから4年後、1858年に日米州交通省条約、覚えたねこれね。
懐かしいね。
なんか昔はこの条約が何を定めたものかとか、いろいろ覚えた記憶があるけど、忘れちゃってるけどね。
で、こう調べると思い出したのが、その後で結ばれた日米州交通省条約の中で定められたのが、神奈川の開港っていうのが一つ入っていて、
で、先ほど挙げた神奈川港、これを開港せよっていう。
横浜じゃないんだ。
そうそうそうそう。
で、これをきっかけに横浜が都市として発展していきましたと。
でも、もうひと話あって、さっき神奈川港の対岸に横浜村があるって言ったじゃん。
ちょっと離れてるのよ。
で、ここにもストーリーっていうのがあって、この条約の中で神奈川港開港しますとなりましたと。
で、それにより外国の人たちが入ってきますと日本に。
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で、住みますってなった時に、居住区っていうのを定めましたと。
で、ここでちょっと冒頭の話がつながってくるんだけども、神奈川港はその宿場町として神奈川宿があり、これって宿場なので東海道につながっていますと。
つまり日本で要所をつなぐメインの道のすぐ近くが神奈川港なわけよ。
ってなると、幕府的にはこんな神奈川港の近くに居住区なんか設けちゃった日には、いわゆる幹線って言っていいのかな、今で言うとこの東海道にすぐ出れちゃうから、ちょっと怖いなと。
人の往来も多いしね。
そう。で、じゃあこの海外の方、来てる人たちの居住区をどこにするのかって言って、白羽の矢が建ったのが神奈川港の対岸にある横浜村だったのよ。
で、そこで横浜村は外国人の人たちの住む場所として開発が進んでいきましたと。
で、ここからはそんなに歴史的な話じゃないじゃないんだけれども、なんかへーと思ってちょっと補足なんだけれども、この横浜村、開発が進んでいって、石書がその村の中に置かれていて、そこの北側には日本人が住みますよっていうエリアがあって、
その石書の南側がここが外国人の人たちが住みますよっていう、こういうその地区の区分けみたいなっていうのを作っていて、
で、この石書があり、石書から見て外国人の人たちがいる側、要は南側を漢内と呼び、それ以外を漢外と呼んだっていうのが、今馴染み深い漢内の始まり。
確かに言われてみれば、漢って石書だろうっていうのは言われてみれば、追い出し的には確かにねってなるけれども、この漢内のワードのきっかけとなった石書っていうのは、このタイミングで置かれたもの、で、その日本人と外国人の居住区を分けるもの。
として設けられた石書が発端になっていたらしい。
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なるほどね。漢内駅あたりに石書があったんだ。
そうそうそうそう、あるいはあれを、漢南側、だから漢内エリアは石書から見て南側だから、漢内は多分もう少し北側に石書があり、で漢外っていうのは多分もう少し内陸、漢内から見てもう少し内陸、埋め立てとかもあっただろうから、もっと内陸の部分はもう江戸時代には漢外と呼ばれていたエリアになるらしい。
なるほどね。
で興味深かった。
なるほどね。
なんかでも外国人の人たちも、横浜村まじかよみたいなやっぱ思ったんじゃない?
僕がさっき話した通りさ、あのなんか錆びれた村ってさ、しかもなんかあの戦況集は悪臭が漂ってるでしょ。
臭いんだね。
そう、あのさっき神奈川宿がきっと宿場町でさ、結構そこであの、住み始める気持ちでいるのに、交渉しているのに、案内されたらさ、なんか錆びれた村だったみたいな、結構なんかまじかよみたいな感じ。
で、きっとなんか作り居住区の建設を進めたんだろうね。外国人の人たちも同時の。
そうなのか、神奈川宿、その宿場町で生活をしたかったのかね。まあでも、見えそうだしね、きっとね。対岸は栄えてるのになんか、こっちは臭いしみたいな。
すごく臭い、ちっちゃいなんか錆びれた村、ここで住んでいいよみたいな、まあ、まじかよみたいな、絶対思ってるよ。
でもそのおかげで、今の横浜の、横浜の町の文化を形成しているわけだから、全体こっちはね。
そう、ここがまあ発端、まあ大きくガラッとね、ここまで発展したのは、まあこのタイミングでしたと。
っていうのが、まあ改めて学び直せたね。
いやー、面白いね。
うん。確かにその中学とかで、日本史で習ったのって、横浜に、でそのペリー来航があって、
開国を迫られ、日米和親条約とか、日米州交通省条約みたいな、ここら辺のキーワードは覚えてるけど、
確かに横浜村っていう観点とか、まあそれこそ観内みたいな話って、教科書には出てなかったし、
なんか改めてなんか調べてたけど、興味深かったね。
いやそうだよね、確かにね。
なんかね、あの、これインターネットの記事だったかな?で読んだんだけど、
空襲とかもしくは地震で横浜市の資料とか結構燃えちゃったみたいで、意外とそんなに歴史の書いてある書物とかは残ってないらしいよ、横浜市って。
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あ、そうなんだ。
ちょ、これはどこのでなんだろうね。
多分その、メジャーのところはもう残ってるんだろうけど、もっともっと細かい情報とかっていうのは結構焼けちゃっているらしい。
へー、じゃあもうちょいドラマあるはずだけど、
ああね、いろんなドラマが実は隠されて眠ってるかもしれないっていうのもまたちょっと面白い。
なんか横浜村の悪臭と戦ったストーリーとかもしかしたらあるかもしれないよね。
いやいや、なまご臭かったかな?わかんないけど。
なまご臭いの?
わかんない。
あんま臭いのイメージがわかんないけど。
いやー、がっつり横浜浜談義、歴史の勉強になったね。
ね。
ね。
なんか調べがいもあったし、学びがいもあったし。
いやいや、すっごく勉強になりました。
うん。
いやもう、浜談義でだいぶ鼻も満開したんじゃないかと。
確かに今日もうちょっとお腹いっぱいだね、これね。
そうだね。
たっぷり話してるし。
じゃあまあ、今日はこれぐらいでおしまいしますか。
そうね。
ではまた次回の港町レイディオでお会いしましょう。
さよなら。