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こんばんは、港町レイディオへようこそ。鶴田です。 村田です。この番組は荒沢になって生まれ故郷の横浜に帰ってきた2人が、アルコールを片手に浜談義や趣味の話に花を咲かせるレイディオです。
じゃあ前回に続いて、野毛界ということで、早速野毛の浜談義始めていきますか。やっていきましょう。はい、まずは野毛の歴史ってことで、野毛の名前の由来とか、
江戸時代とか、あとは、横浜の発展のきっかけになった、開港した後ぐらいまでのことを話せばなと思っています。
そうね、やっぱりその見つかった最古の情報と、あと、たぶん再三、ここの浜談義で言ってる、だいたい横浜開港と結びついてる説ね。
ここに野毛がどう絡むのかって、なかなかね、あとは、浅い資料って言っちゃうとあれだけど、サクッとググるとなかなか出てこなかったりとかした部分を、ちょっとひも解いていきたいね。
じゃあ早速、野毛の名前の由来なんだけど、江戸時代までは野毛浦と野毛は呼ばれていたみたいで、
野毛浦。
うん、埼玉県の浦和の浦和ね。
で、結構、しょぼいと言うと失礼だけど、発展してない漁村だったらしい。
家の数はだいたい100戸ぐらい。
横浜村みたいな感じなのか、規模感的には。
みたいっていう、小さな漁村で、野毛って、崖を意味する言葉みたいで、
野毛が?
どういう風に崖から野毛に変わってたのかわかんないけど、野毛っていうのは、崖っていう意味合いがあったんだって。
そうなんだ。初耳よ。
なんかさ、昔の日本の東海道の各所の絵とかあるじゃない?
で、野毛の絵を見たんだけど、本当になんか崖になってて。
だから、野毛のエリアって切り立つ崖で、なんかもう白波がバシバシと打ち寄せるような場所だったと。
えー、崖だったんだね。
今の桜木町あたりが岩床で、岩がゴツゴツしてて、荒波かどうか知らないけど、波が打ち寄せる場所だった。
これじゃあ、野毛っていう町は、今でこそなんていうんだ?その内陸部というか、もちろん港未来の湾岸寄りのところは埋め立て地なのは知ってるけども、
昔は本当に野毛が最前線というか海岸線が野毛裏のところで、その境目が崖になっていて、波が押し寄せていて、
まさにその崖を意味する野毛っていう言葉で、その場所が呼ばれていたっていうことなのかな?これは。
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そうそうそう、そうみたいそうみたい。
湾にだから面してたんだよね、野毛は。
そういう意味で桜木町とかとは違って、昔から土地というか地盤としてあったというか。
埋め立て地ではなく、本当に地面はずっと江戸よりも前からってことだよね。
そうそう昔から。確かにその野毛って地名だと他には二子玉川とかの近くに、
二子玉?
紙の毛とかっていう駅があったりしてて、そこも同じ漢字で野毛、紙の毛とか下の毛とかってそういう地名はあって、やっぱりそこの由来は崖から来てるみたいなんだよね。
そうなんだ、じゃあなんか日本各所っていうわけでもないけど何箇所かこの野毛っていう地名があって、これは全部崖に由来しているんだ。
元々崖だったからそんな風に呼ばれてたみたい。
これ普通に興味深いね。
そうそう面白い。で、江戸時代以降の話にここからなるんだけど、やっぱり野毛の発展もですね、横浜の開港がすごいきっかけで。
やっぱりそこはリンクしてるんだ。
1859年に横浜開港したんだけど、開港する時にさ、前も横浜の歴史の時に話したけど、横浜ってもともと当時の主要の街道の東海道からちょっと離れた場所にあって、結構寂れた場所だったっていうんだけど、開港にあたって東海道の発展してた場所だった神奈川宿?
宿場かな?
を横浜と管内を結ぶ必要が出てきたので、急ピッチで当時の野毛山を切り崩して、横浜道っていう大きな道が開かれました。
道路と思ってっていいんだよね。
そうだね。開港前日ぐらいまでギリギリで土管工事で作ったらしいんだけど。
えー、山を切り崩して。
山を切り崩して、その中に今の野毛坂とか野毛本通りとか、宮古橋って野毛から管内の方に歩いていく途中にある橋なんだけど、そういうのができてきたと。
はいはいはいはい。
横浜道ができる前までは、ホドガヤ道って、ホドガヤって地名は横浜にもあると思うんだけど、すごい細々とした道が通っていて、野毛浦とか京急線の戸部駅ってあるけど、
昔は戸部村とかがあって、戸部村とかホドガヤを結ぶための細い道だったんだけど、それを横浜道という大きな道がドカンとできました。
で、港から来る人とか、逆は逆に江戸幕府の方から港に来る人とか、いろんな要人がその道を歩くっていう風になって、交通の要所になったっていうのがすごい発展のきっかけになっていたみたい。
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こういう関わり方をしたのね。まあ、いわゆる座泊まる場所ではないのかもしれないけれども、主要な道路の沿いにあるっていう、なんかその途中下車しない駅みたいな、なんかその、そういう感じだからなかなか、
今まで見てきた資料とか、今まで見てきたその、何だろう、歴史のものにはあまりのげっていう単語が出てこなかったのかなとも今思ったんだけれども、でも確実にその発展で携わる、今今回で言うとこの横浜道みたいな主要なポイントの、まさにその道の道中にあったわけだもんね。
そうそうそうだね。本当にたくさんの人が行ったり来たりをするエリアになったから、その小さかった漁村とかがいろんなお店ができたりとかに渡っていったりして、まあ活気ある繁華街と発展していくきっかけになったと。
なんか昔の乃木山とかは日本人のお金持ちの人たちが住んでたみたいで、管内とかそっち側は外国人の人たちがたくさん住んでたけど、乃木のエリアの方は基本的に日本人街としてどんどん発展していった街になっていくみたい。
前にも話した野毛町っていう名前も開校した翌年の1860年から野毛町という、もしかしたら野毛町かもしれないけど、に名前が変わったと。
なるほどね。そういう感じなのか。
今言ってくれたみたいな感じで、確かに野毛町として名前が変わり、発展していくのがちょうど1860年代に突入して加速していくみたいな流れだったと思うんだけども、
せっかくの発展の兆しを断ち切るかのような事件がこの後発生していて。
1866年、慶応2年に横浜が大火災に見舞われていて、これが慶応の大火っていう呼ばれ方をしているんだけれども、これで横浜管内エリアの街が全部壊滅的な打撃を受けましたと、火災で。
ただ、これ実は明治初期、明治は1868年から始まるんだけども、66年って直前のタイミングだけど、大火災で街が壊滅的な状態に陥っちゃったけれども、そこからむしろそれを復興するっていうのに合わせて横浜の街は実は発展していってますと。
で、ここにもちろんのげが絡んでいますよって話なんだけれども、さっき横浜道って言ってくれたじゃん。のげとかを通る。で、管内で外国の人が来て、どんどん商人とかが入ってきてにぎわうんだけれども、管外ももちろんさっき言ってくれたように横浜道を通る道中の街ということで、そこそこにぎわっていきますと。
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で、さっき言ってくれたとべとかのげみたいな街。で、このエリアって吉田神殿っていうエリアになるんだけれども、ここら辺の吉田神殿近く、これは今でいうとこの、当時から呼ばれてたけども長蛇町とか石川町とか元町みたいなエリアになるんだけれども、管外を中心に周り管外は帯状に街を形成していて、それを同時に発展していったんだよね。
で、管内には貿易をする商人とかが集まってたんだけれども、その周りのエリア、管外のエリアっていうのはちょっとだけ土地代が安かったりだとか、家賃が安いみたいなところで、ちょっと賃金の低い労働者みたいな人たちが集まってたんだけれども、これ吉田神殿っていうのがちょっと沼みたいなエリアがあって、ちょっと埋め立てっていうのも進んでいきますと。
でなると火災になってガーッとその町が壊滅したっていうのも、ちょうどいいきっかけって言っちゃってあれなんだけれども、ある意味その更地じゃないけどボロボロになってるから、もうリセットするような形で、その埋め立てつつ町を整えつつみたいなサイクルが出来上がって、で、1876年ぐらい、明治9年ぐらいかな、明治突入して。
まああの火災からは10年ぐらいになってくるんだけれども、この段階でその管内管外含めこの横浜のエリアっていうのは、現段階で言うと横浜市を構成する骨格ができたというかエリアがほぼほぼできたのがこの時期だったみたい。
で、ちょっと面白かったのが火災になりましたと、で復興していきますよっていうところで一緒に発展をしていったわけだけども、発展の要素の一つに誘拐の存在があったらしくて、吉田神殿その沼のエリアがあってそこを埋め立てていきますよみたいになってたんだけれども、埋め立てをしますと。
そしたら埋め立て地の最前線に誘拐を持っていったんだって。で、そうするとまあ誘拐、人が集まるじゃん。で、そこの誘拐を主体にして周りのエリアが発展していきますと。で、また埋め立て地の要はその前線がその前に上がっていくと、またそこの埋め立て地の新しく埋め立てたところに誘拐を移していって、また周りが成長していく発展していくみたいな感じで。
だから誘拐ドリブンじゃないけど、誘拐に引っ張られる形でどんどんどんどん街を成長させていったっていうのが、この当時その慶應の大かなあと明治初期の横浜の発展のまあ一個のスタイルというか、ミソだったっていう。
そういう発展の戦略なんだろうね。人だって集まってきそうだもんね。
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今にも通ずるっちゃ通ずるんだよね。人が集まる娯楽施設、娯楽施設で言っちゃっていいと思うんだけども、人が集まるっていう施設なり、場所を作って、そしたらそこのさ、周りもさ、付随してさ、発展するじゃん。ご飯屋さんとかがさ、近くにあってとかさ。
っていうので周りもさ、ちょっと経済圏ができてきて、みたいな感じで街が栄えてくると、また次のエリアの発展に移っていってっていう。その明治初期のタイミングから横浜っていうのは、誘拐にリードされる形でどんどんどんどん、埋め立て、誘拐移転、発展、埋め立て、誘拐移転、発展っていうこのサイクルをどんどん回してきたんですよっていう。
いや面白いわ。
これはね、この明治初期のその横浜の市街地形成っていうのかな、その市街地のこの発展の特徴みたいで、ちょっと面白いなーって。
いや面白いね。なんかあの、慶応の大火で一度こう結構燃えてしまって、それがこう整備を加速させるきっかけになったっていうのは、実はこの後も結構出てきてる、みたいなことが出てきてて、関東大震災とか第二次世界大戦とかの空襲で本当にあの壊滅的な感じに何回かなるんだよね、野毛のエリアって。
結構でもそれが再構築のきっかけになるというか。
というので、どんどんどんどんこうスクラップアンドビルドというか、生まれ変わってきているのが野毛の特徴、面白い横浜の特徴でもあるのかなと、今話を聞いてて思った。
やっぱりね、なんかあえてね、壊そうとするとお金かかるけど、言っちゃえば天才って言っていいのかな、今回の場合は。火事はどうなんだろうね。
まあそうだね。
空襲とかだとね、人為的な気もするけど、とにかくそのなんて言うんだろう、もう壊れちゃったから、ぶつかして新しく作るしかないじゃんっていう状況で、ある意味発展を後押しするっていうのは、これはもしかしたら野毛を問わず、街の発展って意味だと結構あったサイクルなのかもしれないね。
そうだね。あとなんかちょっと面白いなと思ったのは、館内の方には貿易商人が集まってて、館外とかの方、長寿町とかの方には賃金が安い労働者の職人さんとかっていう話ってさ、なんか今でもさ、別に職業関係ないと思うけど、いわゆる館内側とか海側の方がなんかお高い感じをするよね。
家賃とか。
家賃とかも高いし。
確かにね。
それがずっとこう残り続けてるのはちょっと面白いなと思った。
うん。確かになんかそういう、確かにわかる。なんて言うんだろう。これなんだろう、あれだけど、野毛がっていう話じゃないけど、馬車道とか日本大通り近辺とか湾岸沿いの家と野毛の近くの家で、野毛の方が安そうみたいな。
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そうだね。まあ間違いなく僕も長寿町に住んでたから、長寿町とかも全然安いよね。馬車道とかに比べると。
うん。
これも当時の名残がきてるのか。
あるのかね。まあでもきっとその後の発展とかにおける、前話のことぶき町とかができたりとか、ハローワーがそこにあったからみたいなっていうのは理由になってるんじゃないかなと思うけど。
昔の感じが今も残ってるのちょっと面白い。
そうね、なんか北ナシュランじゃないけどね。
北ナシュラン。
やっぱその敷居の高いさレストランがポンポンと並んでますよみたいなっていうのではなく、割とこのラフに入って、そのなんかこういっぱい飲みつつ、ちょっとつまみをみたいなっていうので立ち飲みとかでポンポンポンってなんかはしごできるようなお店がとかっていう、なんかそういう雰囲気感はさ、野毛なんか感じるじゃん。
そうだね。
うん。
じゃあ今日はこんなとこで、次回は明治から戦時中の野毛についてお話をしようと思います。
そうね、明治から戦時中にかけての野毛がどういう文化とかね、なんかそのまあそういう発展をしてたんだっていう話ができると良いかなと思ってます。
はい。
ということでまた次回の港町レイドでお会いしましょう。
さよなら。