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認知学のハイブリッド?〜境界有無の両方の良さ
2026-09-01 37:12

認知学のハイブリッド?〜境界有無の両方の良さ

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余剰を確定できてない感覚について、しょーまさんの自覚のお話しの続きで

解像度が高過ぎて、シュウとしてはそれはもう悟った人だと感じます笑

そのまま話は流れていって…


収録日:7月10日


#樋口塾

#シュウとショウの未知の理への道のり

#未知のり


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感想

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サマリー

このエピソードでは、境界線の有無という二元論を超えた「ハイブリッド」な生き方について議論されています。まず、時間のゆとりがないと感じる状況から、認識次第でゆとりは手に入れられるという理想論に触れ、それを実践できる人は「悟った人」であり無敵だと語られます。しかし、悟ろうと意識するとかえって到達できないというジレンマも指摘されます。そこから、認知学の概念である「境界(境界線)」の有無が、精神を守るための境界設定と、仏教的な境界をなくすことで全体を捉えるという、相反する二つのアプローチとして提示されます。現代社会では境界を引くことが自己防衛や合意形成に有効である一方、究極的には境界をなくす考え方も重要であるとし、この両方をハイブリッドに目指すことの意義が探求されます。後半では、境界線を引くことの具体的な意味合いとして、他者との合意形成の重要性が強調され、境界がない状態とは、互いの共通認識や以心伝心によって、わざわざ確認しなくても心地よい距離感が保たれている状態ではないかという考察が展開されます。最終的には、境界線を引くこととなくすことの両方が、状況に応じて、あるいは同時に、人間関係や社会の中で生きていく上で必要であるという結論に至ります。

ゆとりと「悟り」の探求
シュウとショウの未知の理への道のり。
この番組は文字通り、シュウとショウの気が向いた時に、
適当に好きなことを話しながら、未だ知らないことわり、
つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、二人の道を探すだけの気のままな旅。
ゆるーくお付き合いいただけたら、嬉しいです。
前回からの続き。
時間の白さが大きいので、自分のほかにやりたいこととかもそうですけど、
子どもたちと普通に遊ぶ時間とかに、それだけに集中できない時があったりとか、
そういうのがやっぱり嫌なので、やっぱりゆとりがないですよね。
ゆとりっていうものは、認識次第でいつでも手に入れられるものだったりするじゃないですか。
難しい話ですけどね。
それは理想論ですけど、認識でどうにでもなる世界ではある気はしてて、究極ですよ。
ただそれをできるかどうかっていうのは別問題で、それができる人はめっちゃ強いなって思ってるって感じです。
僕のイメージでは、強いというかそれを悟った人です。
無敵ですよね。
っていうイメージですね。
そういう意味では目指す価値がある。でも目指すものではないですよね。
目指すほどそういうところにはいけないって言いますよね。
そうなんですか。
それを悟ろうって思ってる人は悟れないみたいな言い方とかはありません。
確かに聞いたことある。
そういうものではなかったり。
そういう状態で至れるものじゃないというか、なんかジレンマみたいな状態ですけど。
そうですね。確かに。
うん。
認知学と境界線の概念
僕本当にそういう悟りというか、認知次第で全然精神状態とかも変わるし、変わるからちょっと認知学とか。
認知学ってのがあるんですか。
そういったのをちょっと勉強しようと最近思ってたりはしますね。
結構面白いですよ、その辺も。
認知学。
認知学的に捉えたときに僕は本当にそこの概念でいうところの認知学的フュージョンに陥ってるとか。
フュージョン?
フュージョン。認知学的フュージョンだったかな。
2人が合体する。
2人が合体のやつです。
教会を曖昧にしてて混ぜてしまってる2つの事柄を。
例えば仕事とかでも教会が曖昧になっておかしなことになるというか。
ちょっと具体例を挙げないと人は来ないと思うんですけど。
今ちょっと置いておいて、それは一旦置いておいて。
しっかりちゃんと合意形成をとるとか、線をしっかり引くっていうのは
認知的に言うと精神を守る意味では良いスタートというか。
そういうのがあって。
一方で教会を引くっていうのはこの前の分けるという話からすると
どうしても分断を生むことで良いことはないっていうので。
この前セラビと話してて思ったんですけど
仏教とかはどっちかというと教会を無くす感じじゃないですか、イメージ的に。
なんかナイスかとか言ってるけど。
ナイス?
いやいや、そうじゃないですかとか言ってるけど。
ナイスか。
僕も仏教を勉強してるわけじゃないんで、また知った風なこと言ってますけど。
いやいや、全然。
イメージ的にですよ。
仏教の世界は自分っていう教会とかを考えずに全体を一律で捉えるみたいな見方とか
ちょっとそういう全体的に通定する思想みたいなものがあるような感覚があって
仏教はどっちかというと教会を無くしてしまった先に
めっちゃ楽に生きれる心理状態に到達できるもの。
一方で真逆の存在にしっかり線を引いて
自分の認知として線を引いて
自分をしっかり守るっていう方向。
これは現代社会に向く方向。
両極端というか真逆なんですけど
両方ともすごく使えて
このハイブリッドを目指そうって思ってました。
全然伝わらないと思いますけど。
まだ分かってないかも。
境界線を引くことの有効性と限界
属性で生きる中では教会をしっかり引くことが大事
合意形成として
しっかりここからここまでは僕はこういう価値観で
だからここまでしかしないですよ。いいですね。
分かりましたっていうことがしっかり合意できてれば
別にそれで何かしら文句言われるわけでもなく
精神的に落ち着けるし自分もちゃんと守れる。
でもここの境界が揺らいでると混じってると
どこまでどうしていいかが分からないし
こういうふうに思い分かってくれたから
こうしないといけないかなとか
全然曖昧な状態で変に自分に負荷を背負い込んじゃったり
いろんなものができるから
それをしっかり線を引いてしっかり合意して
OKですよねっていうところでちゃんとやっていくのは
精神的にも大事だし
属性で生きる意味ではすごく有効なスキル
手段ではあるけど
僕はそれはそれで持っておく
持っておかないと自分守れないとも思うけども
究極的には境界をなくすっていう考え方は
大事だというか思ってて
それがアウトプットが先の世界だとか
僕がいいだと思う世界のあり方に境界はないと思ってるので
そういう精神性と考え方、数学みたいなものは持ちつつ
両輪が必要な気がしてて
今の自分にはどっちかに振るっていうわけじゃない
そういうところを両輪で見つめた上で
ハイブリッドで生きないとなっていう話がした
ちょっと確信はないんですけど
僕の中では
僕もそれを目指してますみたいな話につなげたいなって
今のところ思ってるんですけど
同時にちょっと富士山の眠さが気になってて
なんかすごい眠いんですけど
星野さんが面白い話するから
どうしましょうか
僕それ引き継いで話したい気分あるけど
話しちゃうとまた富士山が寝るチャンス失っちゃうかなと思ったけど
どうされます?
僕はちょっと話していいですか?
もちろんもちろん
ハイブリッドの話
僕も座りたいというか
サミュラリー式に全然まとまってない話をすると
境界線を引く生き方から関係性の中での生き方へ
最近まで本当に僕は
教会を分けてきたなと思っていて
教会を分ける生き方で
自分はすごくうまく
これってできるだろうみたいな感じで
家庭でも職場でも振る舞っていたなって
できるだろうっていうのは自分がってことですか?
それとも誰か相手がってことですか?
自分がですね
自分ができるだろうと予想をして進めがっちみたいなこと?
なんかこの範囲で
ここからここまでの範囲で俺はやっといたからみたいな感じで
ここからここまでが俺の役割だからみたいな感じで
他者ときっちり教会線を引いて
自分自身も安心してましたし
仕事に関してはそれで評価されてきたっていう感覚があって
そういうことをすることが自分にとっていいことなんだとか
自分の人生にとっていいことなんだみたいな
かつ僕の特性として人間に興味がないっていうか
特に昔の方が
日中とか
前おっしゃってましたね
人間に全然興味ないし
感情のキビとかも全然わかんない
昔は本当に妻によく怒られてて
本当に人間の気持ちがわかんないんだね
感じていったんですけど
ここ5年10年ぐらいで
そういう仏教の世界
教会線を曖昧にするっていう表現がありましたけど
関係性の中で生きるっていうこと
例えば世の中で悪いニュースがあったとしても
それって直接自分には関係ないのかもしれないんですけど
関節の関節の関節の関節で自分には関係してることかもね
悪いことも含めていいことも
それが関係性の中で生きるってことなので
そういうことを知ったり学び出したりして
今までの自分を振り返ってみて
もう全然違う考え方なので
そういう世界も素敵だなと思いますし
仏教に限らずだとは思うんですけど
関係性の中で生きていくっていう世界とか社会とかって
そういうふうに自分は思いたいですし
それが当事者になるっていうことの一つなのかなって思うので
殺人事件とか暗いニュースがあったときに
その人のデジとか
その人のこういう地域に住んでいるからだとか
家庭環境とか
そういうのを理由にして
自分とは関係ないんだあいつらはバカなんだとか
そういうふうに思うっていうのは悲しいなっていうか
そうじゃないんじゃないかって思うので
そういうところでやっぱり考え方が変わってきて
ハイブリッド線を引くと関係性の中で生きる
ハイブリッドって言い方が正しいのかわからないんですけど
やっぱり2つ必要というか
2つをうまく活用というか
2つの考え方っていうのは取り入れていきたいかなって
どっちも大事な考えかなと
西洋思想と東洋思想みたいなところ
そんな印象ありますね
瞑想と解像度、感覚と反応の分離
僕も自分なりの
大丈夫ですか引き継いでしゃべっちゃって
寝るチャンスがなくなった
引き継いでどうぞ
しょうもさんが最初に始めてくださったのが認識学でしたっけ
認知学
認知学でいうその境界っていうものと
一致してるかわかんないんですけど
僕が捉えた捉え方で言うと
自分の中での境界っていうものを作ったところで
ところでっていう表現よくないかもしれないけど
自分の境界は自分で決めれるんだけど
人の境界はこっちで勝手に決めれないっていうのが
基本的な僕の考え方で
それが認知学に当てはまってるかどうかわからないんですけど
でもその自分の境界は
決めるというかというか
決める
僕の中では
瞑想合宿行ってから観察することで
その解像度が上がるみたいなイメージなんですよね
自分の中での認知とか認識の仕方の
境界がはっきり見えれば見えるほど
微細なものまで見えれば見えるほど
そこから解放されるみたいなのが
瞑想での捉え方で
それ結果として
境界がいろいろなくなっていくんですけど
自他の境界みたいなものも
結果としてはなくなっていくけど
でも見える解像度はどんどん上がっていくっていう
ハイブリッドというかそれが同時に起こるっていう
感覚なんですよ
これはちょっと
伝わらない話を言いましちゃったかなって
難しいですね
僕のロジックとして理解したことで言ってしまうと
まだ体感できてないことが多いもんで
ロジックとして理解しちゃったことで言うと
瞑想合宿の初日に
感覚と反応の話がめちゃくちゃ響いて
感覚と反応っていうのが分かれるっていう風に
今まではあんまり思ってなかったんですよね
なんとなく感情みたいな
ざっくりその2つ感覚と反応がない混ぜになったものとしてしか
僕の中では認識してなかったのが
言われてみたらその感覚と反応って
確かにめちゃくちゃくっきり分けることができるって
少なくともロジックとして理解できたんですね
その状態を目指して今
瞑想を毎日続けてるんですけど
確かに解像度がどんどん上がってきてるんですよね
これは感覚でこれは反応だっていう風に
切り分けられる瞬間が増えてきたっていう感じなんですよ
僕の中では今
感覚と反応って
何がどう違うんですか
感覚と反応は
分かりやすいのは体の感覚
暑いとか寒いとか痒い痛いとか
心の感覚っていうのもあるんですけど
ざっくり体の感覚で理解した方が分かりやすいと思うんで
それでいいと思うんですけど
それが現れた瞬間に心の癖として
この感覚、いい感覚だったら
この感覚をもっと得ていたいっていう
渇望みたいなものが反応として現れやすい
悪い感覚だったら
この感覚から早く逃れたいっていう
嫌悪の反応が現れやすい
渇望も嫌悪もそれぞれ積み重なると
渇望が積み重なって執着になったり
嫌悪が積み重なって憎悪になったりっていう
結果として両方苦しみのもとになっちゃうっていうのが
仏教の考え方なんですよね
だからその反応の方が悪さをするみたいなことが
仏教で言われていることで
そこを明確にくっきり分けて
自分の目でくっきり観察することによって
その反応が自然に消えていくみたいなことが起こる
って言われてて
その話がめちゃくちゃしっくりきちゃったんですよ
僕の中で
それが僕の中では
自分の
教会とはちょっと違う話なのかもしれないんですけど
自分っていうものの性質の解像度を
よりくっきりさせていくというか
実際にその場でその瞬間
自分の体に起こっている現実を
観察し続けることで
空から解放されるみたいなことなんですよね
瞑想が
だからその
境界線のハイブリッドと合意形成
教会っていう表現だったんでしたっけ?
元々その認知学で
認知学で教会っていう表現があるっていうわけではないですけど
でもそこを
自分の体に起こる現実を
よりくっきり見れれば見れるほど
そこから解放されるっていう
僕のイメージとしては
今まで思ってたフワッとしたイメージからすると
真逆のことが
同時に起こるんだなっていう風に思ってるので
難しいものを2つとも同時にやるっていうような
ハイブリッドというよりは僕の解釈としては
なんかその
同時に起こる
理想的な状況っていうのは
その認知学でいうところの教会的なものを
極めていくことによって
結果として
仏教的な
なんていうあれでしたっけ
しょうもさんの表現忘れてしまいましたけど
仏教的な表現
みんなが溶け合う的な表現でしたっけ
あれはちょっとそういう意味合いじゃないですけど
フュージョンはあんまりいいような
イメージの意味ではあんまり使われないやつですね
そもそもなんかちょっとここの今の議論とは
少しずれがある
じゃあごめんなさいフュージョンではなくて
僕が今言いたかったのって
言いたかったのは別だと思う
じゃなくて今フュージョンではなく
しょうもさんが言われてた何でしたっけって言ったやつが
溶け合うではなくて仏教のこと
仏教的なことを何かおっしゃってましたよね
あれは教会がなくなる
なくなる方向ってことか
なんでしょうねだから
僕のイメージでは
教会がしっかりくっきり見えるほど
それにとらわれなくて済むようになるっていうのは
それは同時に起こる気がするんですよ
それは分かります
結局観察することで
解像度が上がっていくと
結局ただそれがそこに存在するだけっていう
意識になっていくと思うので
そういう意味からすると解像度がしっかり上がるがゆえに
全体としての構造がはっきりしてくると
一体として見えてくる
っていう意味合いなのかなっていう風には
今の話は捉えてて
どっちかっていうと
僕が言ったところの
教会をしっかり引かないといけないっていうところは
さっきしゅうさんがおっしゃった表現でいくと
今の話は瞑想とかで
多分自分の中の認識として
そういったところっていうのは同時に起こして
いくらでもやれる範疇だと思うんでしょ
でも
人間関係を社会の中を前提とした時に
しゅうさんがおっしゃったように
自分の教会は自分で引けるけども
相手の教会は相手が決めるみたいな話から言うと
教会を引くっていうところの意味合いは
自分の教会と相手の教会が
これですよねっていう合意形成が
教会を引くっていう意味合いでしょ
それを寄せて合わせて
こうですよねってすることで
お互いに納得をすると
これ以上はどうだっていう
そこがお互いに見えないと不安でしかないし
変なことが起きちゃうので
そのお互いの教会をぴったし認識合わせをするのが
多分認知学でいいところの教会を引くっていう意味合い
だと思いますね
そういう意味での人との関わり合いとか
社会の中で生きていくっていう上での
お互いが思っている教会の認識合わせ自体は
個別にやる必要があるけども
自分の中だけでいった時の
どこまで教会として思うか
そこを取り払って考えるかっていうのは
多分別問題として考えられて
そこは自分が動きたいように
動こうと思えば動けるし
それを教会を社会全体でなくして
なくなっていくとするならば
そこの教会を合意してるっていう教会自体が
これないよねっていう合意が
自然と社会の中でできていくことが
教会が実際なくなっていくっていう意味なのかなと
そんな感じで今ふわっと思いましたけど
ただそこに至る第一弾としては
各々がそういう解像度高く見て
一体としてないよねっていう
OSが備わっていかないとそもそもそこの合意に至れない
教会を敷くときの合意の話ですか今言ったのは
教会は自分の教会と相手の教会の合意っていうのは
今でもできると思うんですけど
教会がなくなった社会があるとして
相手と自分の教会っていうものをなくす
ざっくり言うと実際家族じゃないけど
お前とは家族だよなみたいな状態になるとするなら
そこの合意
教会線がなくなったよねっていう合意が必要というか
そこが合意できる状態っていうのは
お互いその教会線
その教会を解像度高く見ていった先に
これってあると思ってたけどないよねっていう
感覚の調整がそれぞれにないと起こらないのかなっていう
ピンとこないではなく
一個一個細かく話さないといけない話に
突入していったような気がしてるんですけど
僕が最初に理解してた話とはだいぶちょっと違ったんだなと思ってて
教会を敷くのが相手との合意形成っていう認識が
僕はちょっと足りていなかったんで
その合意形成を取るっていう話なんであれば
それは僕の今の認識では
別に仏教ではそれをなくそうと思ってないような気がしてる
っていうのが答えになりますまず
だからその教会がなくなるのは
どういう感じで
教会を敷くのがいいっていう
一旦いいっていう話からすると
それとはまた別の話だから
同時に実現するのはまず
ハイブリッドっていうのもすごく難しいのかなって
僕は今感じちゃっている
同時に実現する
ハイブリッドっていう言い方がちょっと少し
そういう意味で多分誤解招いてると思ってて
境界線のない状態と以心伝心
はい
時と場合によって
使い分けるっていう方が
いいかもしれないですね
それからすると
ただ現実問題として
合意形成を取るために
線を引くことで合意形成を取る
というところでやってるけど
その合意形成を
これですよねって引くこと自体を
お互いの何かしらの利害があって
それをお互い干渉しないよねっていう意味合いじゃないですか
干渉し合わないようにっていうための合意形成じゃないですか
ただいいなって思うのは
そういうんじゃなくて
利害で引かれるこの境界って
なくても別に大丈夫だよねっていう
合意形成が取れればそれは意味合い的に
境界を引くものじゃないのかなっていう
ちゃんと分かってないかもしれないですね
チャブでひっくり返すみたいな感じだったかもしれないですけど
要は境界を引くにしても
毎回確認し続けるしかないかなって
まず思ったのが一つと
それがないっていうのは
素敵というか
それなしで離れる分にはいくらでもできるけど
近寄った時に
境界なく対現なく近寄ることって本当に可能なのかっていうのが
一個浮かんじゃいました
だから言うとそれは
対現なんかは難しいし
今言う境界を引くっていう表現が合意形成を取って
精神的に安全な状態を担保しましょうよっていうものだとすると
僕がイメージしてる境界がないっていうのは
ここの
境界線が
わざわざ合意形成を取らなくても
お互いの共通認識になってる
共通認識
すり合わせ合意形成をわざわざしなくても
そこの近づき度合いというか
一体度合いっていうのが
通定してるというか
異心伝心的な
そうそうそうそう
そういう感じでお互いに大体このぐらいの距離感で
心地いいっていう状態がみんなわかってて
それをわざわざ
ここからこっちに来るんじゃないぞっていう風なのを
わざわざ確認し合わなくても
その状態バランスのいい状態が
保っててるって感じですかね
でもそこでいうところに
なのでバランスよくそれぞれが
共通認識として持ってるけど
それはお互いにくっきり決めたわけではないから
お互いにくっきりとした線ではないから
ぼやけた線のような
そういう意味合いで
境界線のハイブリッドの模索とまとめ
富士山のあくびに気が付いちゃってごめんなさい
たまらず出ちゃいます
いやいやすいません
チャンスがなかったですよね今ね
抜けるチャンスが
そろそろ私は抜けます
ていうか
正馬さんもあれですよね
これ夏は結構長くなりそうなので
またどっかで話し合いしましょうかね
正馬さんが今のお話を
大丈夫であればって感じですかね
ここまで行きたいみたいなのがなければ
そうですね
大体言いたい感じのところは
持ってるイメージとしては
出てるかなと思うんですけど
でもめちゃくちゃ面白いので
覚えてたら前回
前回じゃない次回ここから続けたい
今はそんな感覚なんですけど
でも次回覚えてる自信はあんまりないです
すいません
じゃあ今日はこんな感じっていうところで
はい
突然に感じるかもしれないですけど
終わろうと思います
すいません藤さん
本当に遅くまでありがとうございました
おやすみなさい
37:12

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