祈りと証への感謝
お祈りをいたします。
天の父なる神様、幸いな信友兄弟の救いの証を聞くことはでき感謝をいたします。
主は改めて、あなたがお一人一人に関わってくださり、
あなたの救いの御業を鮮やかに成してくださる、救ってくださる主であることを改めて覚えます。
それは誰かだけの話ではない、私たちそれぞれに主が等しく関わってくださり、
私たちそれぞれの罪のためにイエス様が十字架にかかり、死んでくださり、
三日目によみがえり、復活の命、永遠の命を与え、
私たちと共に生きてくださるという、その希望の救いを、
私たちに与えてくださる主であることを覚えて感謝をいたします。
どうか、これから御言葉を開きますが、そのことをまた主が教えてくださいますように、
これからの一時を見てにゆだね、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
信友さんの証と人生の悩み
信友さんのお証を本当に感謝をいたします。
そして聞きながら、私たちそれぞれに重なることが多くある、
そのような話かなと思いました。
悩みが人生にあった、ご家族との関係、その中で、
自分でどうにかしたいと思うけれども、どうにもできないということが私たちはあります。
家族を愛したい。そこで謙虚になりたい。
しかし、分かっていてもできないという状況に私たちは置かれるときに、
そういう経験をするときに、
ああ、自分一人ではどうしようもない。
誰かに助けてもらわなければ、作ってもらわなければ、
この状況どうしようもない。
そう置かれるときに、信友さんは教会に出会い、そして神様に出会った。
親友の死を通して教会から離れるきっかけも失いながらでも、
他でもない。
あなたは神様にどう向き合うのか、そのことを問われて、
鼻汁と涙の悔い改めをなさったということを、
そのことをお明かしくださり、
そして先ほど読んでいただきましたこのヨハネの17章を最後までは読めなかった。
そのこともお明かしいただきました。
イエス様がこの時を待っていた。
そのことも真実なお明かしだなと思います。
キリスト教における「出会い」
私は聞きながら思いました。
このヨハネの17章を読んだときに、
信友さんは明確にイエス・キリストに出会ったんだなということです。
私たちキリスト者は、イエス様を信じることを、
イエス様に出会うと表現をいたします。
出会うと表現をします。
私たちは何かイエス・キリストを信じるというときに、
何かの教理を信じる、何かの思想を受け入れる、
それが理解ができるから、
ああ信じるんだと私たちは言葉すらよく理解をいたします。
でもキリスト教の信じるというのは、実はそういうことではないんです。
イエス様について、聖書について、
何かを知って理解したから信じます、ではなくて、
それを通して、今も生きておられる神が、
今も生きておられるイエス・キリストが、
私にこう語りかけてくださった。
電撃を打たれたように、
ああ、でもここに主がおられるということに、
どこかで私たちは、それが劇的であれ、そうでなかれ、
でも、ああイエス様が神なんだということに、
私たちはどこかで気づき救われる。
救いとは出会いなのです。
「知る」ことの意味:個人的な関係
それは生ける神との出会いなんですね。
実はそのことを端的に語っているのが、
はからずも今日読んでいただいたこの17章の3節の御言葉なんです。
今日はこの3節にだけ注目をいたします。
ここから2つのポイントでお話をいたしますが、
聖書は、私たちが神様、イエス様と出会うということを、
知るという言葉で表現をいたします。
知るという言葉が、実はこれ出会うということと同じ意味なんです。
2つのポイントでお話をいたしますが、
この3節の中に書いてある知るというのは、
1つ目のポイントそれは、
神について理解をすることではなく、
神様との個人的な関係に入るということなんですね。
3節の御言葉をもう一度お読みしますと、
こういうことが書かれてあります。
永遠の命とは、
唯一の誠の神であるあなたと、
あなたが使わされたイエスキリストを知ることですと、
聖書にあるんです。
知ることです。
知ると聞きますと、
私たちは知ると、
人間、自分が主体の行動ですけれども、
何か情報を知っているとか、
誰かの名前を知っている、
というふうに理解をするかもしれません。
聖書について知っている。
神について知っている。
イエスキリストについて知っている。
でも、ここで書かれている知っているという言葉は、
これはギリシャのギニョウスコといいますか、
これは人格的な関係を持つという言葉なんです。
知る。
想像しやすいのは、
例えば、大谷翔平がすごく活躍をしていますが、
大谷翔平さんのことについては、
私たちはよく知れますよね。
青年合併はいつなのか。
どこどこ高校で活躍をして、
日本のプロ野球に入ったニチハムでやって、
海外に行って、記録はどのぐらいで。
私たちは大谷翔平については、
調べたらすぐに知ることができます。
でも、大谷翔平について知っていることが、
イコール、大谷翔平と個人的に仲がいいということとは、
全く違いますよね。
実はこれと全く同じことなんです。
私たちは聖書を通して、神様について知ることができます。
全能の神様、義なる神様、永遠なる方、愛なる神様。
イエス様もそうでしょう。
イエス様は優しくて、十字架にかかってくださって。
でも、それは神様について、
イエス様について知っている。
でも、聖書が語る救いというのは、
このイエス様は生きておられて、
あなたと出会ってくださり、
あなたと個人的な関係を結んでくださるお方なんですよ、
ということを言うのです。
それは、まさにその人の人柄であったり、
喜びや悲しみを共に経験するというような、
生きた関係ですよね。
そのようにあなたのことを、関係を持ちたい、
共に生きたいと言われる。
そのような関係を、聖書は信じるというのですね。
そして、私たちはそのイエス様に、
神との出会いを導くもの
個人的に出会うにはどうしたらいいのか。
野本さんの証が一番端的に語っているのは、
神様が用いられるのはおそらく二つです。
一つは、人との出会いです。
私は皆さん、今日どういうふうに教会に来ているか分かりません。
ある人は、私の家族がクリスチャンだったから、
今この教会に私は今、席に座っていますという人がいるかもしれません。
私の友人が今日誘ってくれたから、私は今日ここにいる。
野本さんみたいに、たまたま教会が近くにあって来たから、
私はここにいる。分かりません。
でも、もしも皆さんのご家族で、クリスチャンで、
この人のおかげで私ここにいると言うんだったら、
私はそれは偶然だとは理解しません。
神様は人を通してあなたを神様へと近づけます。
そうであるときに、実は皆さんはもう既に神様に捉えられながら、
今ここにいるんですね。
そしてもう一つ、神様が私たちと出会うために用いてくださるものは何か。
聖書の言葉です。
神様が私たちに語りかけるのはまさに、
人が言葉を語って聞くかのように、
神様は聖書の言葉を通して私たちに語ってくださる。
だから、クリスチャンは毎週礼拝で聖書の言葉を聞くんですよ。
神がここで私に語ってくださる。
そして、そのような神様の言葉、
それが人をも用いて、個人的に神様と出会う。
それは人生のどこで起こるか分かりません。
人によって起き方も全然違うでしょう。
でも、どこかでそれは起きるんです。
ああ、神様が私のために十字架に命を捧げてくださった。
ああ、イエス様は私のために。
他の誰でもない私のためにと気づくときが私たちは来る。
それが、イエス様に出会うという経験です。
そして出会うと、私たちは否定しようもなくイエス様を信じるんですよ。
それが、イエス様を知るということなんですね。
永遠の命とは満ち溢れた命
今日この歌詞の3節を見ると、もう一つ書いてあること、
2つ目のポイントですが、
じゃあイエス様を知ったら一体どうなるのでしょうか。
それは、永遠の命へと結ばれるということです。
ここに書いてある3節の言葉は、
永遠の命とは、唯一の真事の神であるあなたと、
あなたが使わされたイエス・キリストを知ることですと書きます。
永遠の命とは、イエス様を知り、神を知る、
いわばイエス様と神様との関係性、愛の交わりの中に生きることが、
永遠の命なんですよということがイコールで書かれているんです。
分かりにくいことかもしれませんが、
永遠の命と聞きますと、永遠の命って何なんでしょう。
それは、私たちよく死んだ後ずっと生き続ける命のようなイメージを持ちますが、
もうちょっと言葉を変えると、意味としてはこういうことなんです。
それは、満ち溢れている命であるということなんです。
永遠の命とは、満ち溢れている命である。
私は時々説明しますが、
永遠の命というのは、永遠なる神様に結び合わされた命ですよということを言います。
それは、私たちの命が枯渇して渇きがちで悩みながら、
どうしたらいいかわからない私たちの命が、
この神様と結び合わされることによって、
あなたのその渇きやうめきが、
癒されて満ち溢れて生きるようになっていくんですよというのが、
永遠の命という言葉の意味です。
そして、この命は、死を超えた希望も約束しています。
永遠の命、神様に結び合わされたその命は、
死をも超えても決して切り離されることのない、
神様との愛の交わりの命であるということが言われるのです。
人生の渇きと神の愛
命は渇くことがあります。
何かに満たしてほしいということがありますね。
何かの屈辱をすすぎたいという思いがあるかもしれません。
本当は受けたかったあの愛を、
私はずっと受けられずに生きてきたということがあるかもしれません。
本当はこういうふうに生きたかったけれども、
生きれなかったというじくじたる思いがあるかもしれない。
渇くんです、私たちは互いに。
渇きを抱えます。
しかし聖書が語るのは、
私たちのその根本的な様々な渇きの根本に必要なものは何かというと、
それは神様の愛なんだと語るんですよ。
神様に愛されていることはあなたが渇いているならば、
やっぱりそれは知らなきゃいけない。
なぜなら、私たちの人間の命というのは、
神と共に生きるようにデザインされて、
神様と共に歩む、
神の愛の中に共に歩んでいくときに、
実はその渇きは満ちあふれて癒されて、
一歩一歩癒されながら生きていく人生が始まっていくと聖書は語るからです。
第二の人生という言葉を先ほど信友さんが申し上げ、
言ってくださいましたが、大事なことだと思います。
イエス様を信じるというのは第二の人生が始まることです。
それは命の質が全く変わるんですよ。
渇いていたものが主と共に生きる命へと変わって、
そこで癒され、喜び生きていく。
神の愛を受け入れること
今朝もう終わりますが、お伝えしたいことは、
聖書の御言葉を通して主は私たちに語りかけると言われる。
今朝はこの三節の言葉を通して主が私たちに語ってくださっているのは、
永遠の命とは唯一の真事の神であるあなたと、
あなたが使わされたイエス・キリストを知ることです。
イエス様が語られることは、
私はあなたを知っているし、
あなたに私を知ってもらいたいと主は今日願っておられるということです。
あなたの痛みやうめきや渇きを私は知っている。
だから、あなたに私を知ってほしい。
私はあなたを愛している。
私はあなたを愛し、
あなたの罪が本当は裁かれなければならないものを、
私が身代わりになってあの十字架で裁かれたのだ。
十字架であなたのために私は命を捨てたのだ。
しかし、それほどまでに私はあなたのことを愛しているのだ。
イエス様を信じるというのは難しいことではない。
神様がそれほど私はあなたのことを愛しているよ、
私のことを知ってほしいよと言われることに対して、
ありがとうございますと受け止めることです。
ありがとうございます、そうです。
私はあなたのその愛を受け入れます。
私はあなたを愛していることを知ってほしい、
そう呼びかける声に対して、
神様、私にはあなたが必要です。
どうぞ、私の愛し、私のこれからの人生をおゆだねするので導いてください。
そう素直に心を向けることではないでしょうか。
新しい命への招き
どうぞ、心から願うことは、
今、宗教は様々な歪な形を持っております。
しかし、聖書を通して私もそして神様も願っていることは、
私たちの渇きやうめきや苦しみ、
自分一人ではどうしようのもないものを、
私は共に担う、私はあなたを愛している、
私と共に一緒に歩んでいこうと言われる、
イエス様を知って楽になってほしいということです。
救われてほしいということです。
どうか、神様と出会い、神様と共に歩む新しい命の歩みを、
ここから歩み出してみませんか。
ぜひ、この後短く祈る時を持ちますけれども、
心の中でも結構です。
もしも少しでもそう思われるのならば、
誰に言うでもないでも心の中でも結構です。
主よ、あなたが私を愛してくださっていることを、
私は受け入れます。
感謝します。ありがとうございます。
それだけでいいです。
そう祈っていただければ、
そこから始まっていくものがあります。
どうかそのことをぜひ覚えて、
イエス様と共に歩む道あふれた命を始めていただきたいと願っております。
一言お祈りをいたします。