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2026/08/16:わたしについて来なさい
2026-08-16 23:57

2026/08/16:わたしについて来なさい

2026/08/16 聖日礼拝

加藤歩名牧師

マルコの福音書 -20

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サマリー

加藤歩名牧師は、マルコの福音書1章16節から20節に基づき、「わたしについて来なさい」というイエス様の招きについて語ります。イエス様は、特別な場所ではなく、人々の日常の真ん中に訪ねてきてくださり、漁師であったシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネに「人間を取る漁師にしてあげる」と声をかけられました。彼らはすぐに網を捨てて従いましたが、それは彼ら自身の決断力ではなく、イエス様の恵みの力によるものでした。この招きは、人々を罪から引き上げて命を生かす存在になるという、神の祝福の管となる生き方への招待です。私たちは、自分の生き方や在り方に固執せず、イエス様の招きに応答することで、想像もしていなかった新しい恵みと安心を見出すことができると語られています。

祈りと導入
ありがとうございます。では、一言お祈りさせていただきます。
神の神様、主の皆を賛美いたします。
主が愛しておられるお一人お一人を 教会へ導いてくださって、
共に神様を礼拝できる恵みを感謝いたします。 8月半ばになりました。
まだまだ外では暑さが残っていますけれども、 また先週は台風もあり、いろんな天気になりましたけれども、
神様が変わらず私たちを背負い、 運んでくださっていることを覚えて感謝をいたします。
どど残されたこの暑い季節も、主が私たちの健康を支え、 歩ませてくださいますようにお願いをいたします。
祈られたように、熊本の被災地におられる方々の 今日とまた今週の歩みも特に守ってくださいますようにお願いをいたします。
この世界にある様々なところに起こっている苦しみ、 混乱を、神様がそのところに
癒やしと回復をもって臨んでいてくださいますように お願いをいたします。
ともに二言葉を聞かせていただきます。ここにおられる方々、 また露魂を通して礼拝される皆様とともに聞かせていただきます。
主の言葉によって私たちを元気づけ、養ってください。 おゆだねをして、イエス様の皆によってお祈りをいたします。アーメン。
特別な場所と日常の恵み
お祈りをありがとうございました。この数日、私はキリスト兄弟団の 青年全国大会に参加させていただいていました。
東京の国立オリンピックセンターで3泊4日、 若い世代とともに首を賛美し、特別な恵みのあふれる 素晴らしい時間を過ごさせていただいてきました。
私たちは聖会やキャンプなど特別な場所で いただく恵みというものがあると思いますが、
それは本当に大きな励ましとなります。 その恵みを抱えながら帰ってきてきょう、
こうして皆さんといつもの礼拝堂で顔を見合わせて 神様を礼拝できる、なんだか心をほっとした気持ちを 今もって幸いだなと感じています。
特別な場所で与えられる恵みは素晴らしいです。 でも同時にイエス様が本当に大切にされたのは、
私たちが普段生活している何でもない いつもの場所であることも覚えさせられています。
イエス様は私たちのいつもの日常の真ん中に 訪ねてきてくださるお方です。
今日は御言葉からその恵みをともに 受け取ることができればと願っています。
イエス様の宣教開始と弟子たちの召命
さて、私たちは何か大切なことに臨むとき、 特別な場所に行ってちょっと気持ちを入れたり、
形から何か入ろうとしたりするということが あるかもしれません。
日本人の方なら受験前にはお参りに行く ということがよくあると思いますし、
私自身はキャンプの前には 何か新しい服を買いたくなるというか、
ちょっと気分を高めて行きたくなるという 形から入るタイプなんですけれども、
大切なときだからこそ特別な準備をして 力を入れたくなるという心理があると思います。
実際、イエス様御自身も 宣教活動を始める前、
見てきました通り、 ヨルダン川で洗礼を受けられ、
荒野に入って祈られ、 父なる神様からの備えのときを深く通られてきました。
前回私たちは、イエス様が荒野におられても 神様の恵みと御使いが守っていたこと、
そして、神の国、恵みの支配は すでに始まっているということを見ました。
福井あらためて、福井を信じなさい。
この言葉とともに、いよいよ イエス様の公の宣教活動が始まるのです。
宣教スタートしたイエス様が まず向かわれた場所、それが今日の箇所です。
十六節を見ますと、イエス様が向かわれたのは 宗教的な聖地や特別な宮ではなく、
ガリラヤコの小鳥でした。
イエス様がお生まれになった流れにも近い 地元の湖であります。
そこに何があったかというと、 めちゃくちゃ普通の生活がありました。
イエス様が出会われたのは、 シモンとアンデレという兄弟、
そしてヤコブとヨハネという兄弟でした。
彼らはそれぞれ網を手に持って 仕事をしていたわけです。
真面目に網を打ち、家族のために魚を捕って 生きていくごく普通の漁師たちです。
「私について来なさい」の真意
そしてイエス様の宣教リクルートが 始まる場面ですけれども、
今回のこの物語はとても不思議です。
18節でイエス様は彼らに対して、
私についてきなさいと声をかけられますが、
彼らはすぐに網を捨てて、 イエスに従ったと書かれているのです。
彼らが何を思ってすぐに従ったのか という理由が書かれていない、
そういう意味で不思議です。
想像するしかないかもしれませんが、
なぜ彼らはすぐに従えたのか。
長年やってきた大切な仕事があり、
生活の基盤である網や船があり、 支えるべき家族がいたはずです。
20節では、父ゼベダイを雇い人たちと 共に残してすぐに従ったと、
目の前に家族がいるにもかかわらず すぐに従ったということです。
それは彼らがもともと特別な 信仰心を持っていたからでしょうか、
それとも思い切りのいい 性格だったからでしょうか。
きっとそうではないと思うのです。
彼らがすぐに応答できたその理由は、
彼ら自身の決断力の強さではないはずです。
自ら歩み寄って声をかけてくださった イエス様側の恵みの力に理由があります。
一つ目のポイントを見たいですが、
イエス様は彼らにこう声をかけられました。
私についてきなさい。 人間を取る良心にしてあげよう。
ここで注目したいのは、
イエス様は君たちが立派な人間になれたら 働きに入れてあげるよとか、
自分を鍛えてからついてきなさいと おっしゃったのではないということです。
何々してあげよう。 私があなたを何々にするという。
守護がどこまでもイエス様なのです。
自分の意思の強さではなく、
100%イエス様の恵みと主導権による 招きであることがわかります。
人間を取る漁師とは
イエス様は人間を取る漁師と言われました。
ここで使われている単語は、
ギリシャ語では単に魚を取るもの という意味が書かれています。
単に魚を取るものという単語が ここでは使われています。
しかし、平行歌書のルカの福音書では、
ここと同じ言葉が少しニュアンスが 違う単語で使われているのです。
生け捕りにするという単語が ルカの福音書では使われています。
生け捕りにする。
漁師の仕事、魚を取るということは、
いわば魚を海から引き上げて 命を絶つことと言えると思います。
そしてそれは世の中のルール、
相手から力を、命を奪うルールと重なります。
しかしイエス様が彼らに与えようと された働きは真逆でした。
人々を罪から引き上げて命を生かす働き。
イエス様が言われた人間を取る漁師とは、
そういう意味の人間を取る漁師です。
人々を罪から引き上げて命を生かす働き。
神様から恵みを受けて人を生かす存在になる
という生き方と言えると思いますが、
これは聖書がずっと語ってきている 大切なテーマだなと思わされるのです。
恵みを受けて人を生かす存在になるという生き方。
例えば旧約聖書の創世記12章で、
神様はアブラハムにこのようにおっしゃいます。
あなたは祝福となりなさい。
地のすべての部族はあなたによって祝福される。
そのように約束されました。
イエス様が今日の箇所で弟子たちに呼びかけられたのも、
これと同じではないでしょうか。
私について来なさいとは、
何か代々的なことをするために来なさいではない。
イエス様の後ろをついて歩むその歩み、
それは日々の静かな祈りや、
恵みを受ける中で温かくなる心。
そういう神様の愛と恵みを周りへ流し出していく、
神の祝福の管となりなさいという招きです。
神の祝福の管となりなさいという招き。
祝福の管としての生き方
先週キリスト兄弟団のキャンプで、
そのことを思い出させてくれる一つのことがありました。
私は高校1年生の女子グループのリーダーを担当しました。
グループに入るのが久しぶりだったのでちょっと緊張したんですけれども、
3人の女子高生と共に3泊4日を過ごさせていただきました。
その中の一人の女の子は通信生の高校に通う子でした。
彼女は普段教会にも行っていますし、
クリスチャンとの交わりは多くあるけれども、
クリスチャンでない人と関わる機会が全然ないと言っていました。
唯一の接点はアルバイトをしていると。
放課後デイサービスのアルバイトをしているそうなんですけれども、
そこには子どもたちやそこの職員の方がいます。
もちろんアルバイト先で直接宗教を進めたりするということはできないということでした。
でも彼女はこの全国大会を3泊4日過ごす中で、
最後にこのように分かち合ってくれました。
今回のキャンプで私は神様から、
イエス様の愛を伝えなさいと語られました。
でも私には言葉で伝えられる場所がありません。
だから思ったのは、まず私自身がイエス様の愛をいっぱいに受け取って、
その愛を持って生きる自分の姿で、
アルバイト先の人たちに愛を伝えていきたいです。
そういう分かち合いを最後に彼女はしてくれました。
状況が整っていないからとか、
直接語る術がないからと諦めるのではなくて、
今自分が置かれているその日常の中で、
イエス様の愛を受け取って生きる自分の姿を表していく。
まさにこれこそが神様の愛を周りに届ける、
祝福の管として生きる姿です。
イエス様が弟子たちに、そして私たちに呼びかけておられる、
人間を取る領主にしてあげようというその生き方は、
こういうことではないでしょうか。
イエス様は弟子たちを奪うものから、
人を生かすもの、人に与えるものへと作り変えるために、
自ら彼らの日常の中へと訪ねてきてくださったのです。
手放すことの意味
さて二つ目のポイントです。
このイエス様の呼びかけに対して、
彼らはすぐに網を捨てて従いました。
弟子たちが手放した網とは、
単なる仕事道具ではなく、
彼らにとっての網とは、
これまで自分が頼ってきた生き方、
自分の在り方そのものと言えると思います。
私たちも自分の生き方、在り方というものがあると思います。
無意識のうちに、これがなければ自分ではないとか、
自分はこうあらねばならない、
そういう自分の枠に無意識にしがみついてしまうということがあるかもしれません。
でも自分の生き方、在り方に固執していると何が起こるか、
目の前にある神様の新しい恵みを見落としてしまうということがあるかもしれません。
後年、イエス様はペテロに対して、
あなたは神のことを思わないで、
人のことを思っているとおっしゃる出来事があります。
少しお開きできればと思いますが、
人の思いと神の思い
同じマルコの福音書8章、
31節から33節を読みたいと思います。
新約聖書の83ページです。
8章の31節、
それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、
長老たち、妻子長たち、立法学者たちに捨てられ、殺され、
三日後によみがえらなければならないと弟子たちに教え始められた。
イエスはこのことをはっきりと話された。
するとペテロはイエスを脇にお連れして痛め始めた。
しかしイエスは振り向いて弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた。
さがれサタン、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
こういう出来事がありました。
イエス様は弟子たちに、
自分は将来十字架にかけられて殺されますと教えになったところです。
そういうイエス様に対してペテロは
痛めたと書いてますが、
あなたがそんなことを言わないでくださいと
痛めたと思うのです。
そしてそれはある種、
あなたは私の願う通りの先生でいてください。
そういうペテロの願望であったとも言えると思います。
あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。
この時のペテロは、
イエス様のためとは思っていたと思いますが、
イエス様がいなくなられたら困る、
誰かに殺されるような先生であっては困るというような、
自分にとっての理想のイエス様であってほしいと。
それはある種、
今の自分のままでいたい、
今の自分のこの状況でいたいという、
人間の経産や安心を求めている言葉であったと思います。
人間の経産や安心だけに心を奪われると、
私たちは神様が用意してくださっている
新しい恵みは見えなくなってしまいます。
今朝の箇所でイエス様が彼らを招かれたのは、
決して彼らのこれまでの人生を壊すためでも、
何かを奪うためでもありません。
イエス様は漁師として賢明に生きてきた、
彼らの歩みをすべて知っておられた上で招いておられます。
それは、一度自分の中の固執や願いを脇に置いて、
私の安心の中に委ねて生きてみないか。
そういう優しい私たちを解放するための招きであったと言えると思います。
何かを手放すということは失うことではありません。
自分の握りしめているものを一度そっと脇に置いたときに、
初めて見えてくる恵みがあり、受け入れられます。
受け取れる恵みがあるのです。
より確かな主の御手の中に私たちを委ね直すことに、
私たちは神様から招かれています。
イエス様の招きへの応答
さて最後になります。
私たちは、もう自分には何か新しい一歩なんて踏み出せないと思われるでしょうか。
いいえ、ゲス様は、私たちが人生のどの季節にいても、
どのような状況にあったとしても、
あなたはもういいねとか、あなたはもう違うねと、
私の前をすどおりされるようなお方ではありません。
私たちが長年積み重ねてきた歩みも、
今抱えている弱さや限界、
手放せない不安も、
そして人には見えていないかもしれない、
自身が持っている素晴らしい輝きも、
すべてを知っておられる主が、
今私たちの前に立って、手を差し伸べておられます。
私についてきなさい。
これまでの自分を捨てて、
何か新しいことを自分でやっていけという厳しい命令ではありません。
ゲス様の私についてきなさいとは、
私が前を歩くから一緒に行こう、
私の後ろについておいでという、
愛に満ちた招待状のようなものです。
自分で自分を支え続けようとしてきた、
手の力を少しだけ緩めて、
ゲス様の御手に、私の人生をおまかせしたいと思うのです。
そうした時、想像もしていなかった新しい恵みと、
生きていく安心が私たちは見えてきます。
そして主の愛をいっぱいに受け取ることができれば、
置かれたその場所で、
周りの人々へと恵みを流していく、
祝福の管として、
主が私を、私たちを用いてくださいます。
手放すことは失うことではありません。
前を歩んでくださるゲス様の安心の中に、
自分の人生を委ね直すことです。
今日も私たちに命を与え、
恐れから解放し、
安心をもって共に歩むことができるように、
招き続けてくださっているゲス様が、
目の前におられます。
私たちはゲス様のその手を、
どのように応答するでしょうか。
一言お祈りさせていただきます。
23:57

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