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2026/05/10:神の現実に生かされる
2026-05-10 19:08

2026/05/10:神の現実に生かされる

2026/05/10 聖日礼拝

加藤歩名牧師

ローマ人への手紙 -39


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サマリー

本講話は、ローマ人への手紙8章31-39節を基に、人生における苦難や葛藤に直面した際に、目に見える現実だけでなく、目に見えない神の現実と希望に目を向けることの重要性を説いています。使徒パウロがローマ教会に宛てた手紙の背景にある対立や苦しみを紐解きながら、神が味方であるならば誰にも打ち勝つことができるという福音の宣言を強調します。語り手自身の経験を交え、神の愛と約束を信じ、忍耐強く希望を持ち続けることの大切さを伝えています。

友からの励ましと大学卒業後の不安
今日の歌書は、私の4年間の大学生活の最後に、 友人が送ってくれた見言葉です。
誰が私たちをキリストの愛から引き離すのですか。 苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか。
これら全てにおいても、私たちを愛してくださった方によって、 私たちは圧倒的な勝利者です。
これからいろんなことがあると思いますが、どんな苦難も、 みんなを神様の愛から引き離すことはできません。
安心して進んでいってほしいです、と。
私が大学を卒業する時に、友人がこのようにメッセージを送ってくれました。
卒業して15年たったんだな、と今振り返りますけれども、
15年たってもこの友人がこの見言葉を送ってくれたということを覚えているわけですから、
実際私は本当に励まされていたんだな、あの時と思い返します。
その時の私は確かに、これから社会の荒波にもまれてやっていけるのかと不安の中にありました。
介護施設での経験と葛藤
大学を卒業したその春から私は、介護施設の職員として働きました。
その介護施設で働く中で、人間関係の悩みや、 社会人としての責任の重さというものを感じる日々でした。
その中で何度も自分に言い聞かせました。
何も神の愛から私を引き離すことはできない。
神様は共におられるから大丈夫なんだと言い聞かせながら働きました。
でも言い聞かせながら必死に働く中で、ふと考えずにはいられませんでした。
今の私の一体何が大丈夫なんだろう。
苦しい現実を目の前にした時、私たちは何もかもが自分に敵対しているように思うことがあるかもしれません。
とても勝利しているなんて思うことができない。
でも今朝の箇所でファウロは言うのです。
神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。
私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者ですとファウロは宣言するのです。
これは福音の宣言です。
ローマ教会の背景と苦難
私たちの生活は目の前の現実とこの福音の宣言との狭間で葛藤する歩みであると思います。
そしてきっとそれはファウロが手紙を出したローマの教会でもそうだったと思うのです。
今朝お読みしたこの箇所は神の愛の完全さが大胆に記されていますが、
この八章に至るまでにファウロは、
罪の力について、また今の時の苦難について、
そして被蔵物とともにうめく海の苦しみなどについて、
苦しみの現実というものについて言及をしてきています。
ファウロが手紙を出したローマの教会にも問題はありました。
少し背景を見てみますと、このローマの教会、
ここはもともとユダヤ人のクリスチャンが設立したユダヤ人がメインの教会であったそうです。
しかしある時、ローマ皇帝がユダヤ人をローマから追放しようという命令を出したのです。
それによってローマの教会からユダヤ人のクリスチャンたちは追放されていきました。
その結果どうなるか。
ローマの教会は、
違法人のクリスチャンがメインの教会になったということです。
ユダヤ人のクリスチャンが建て上げた教会が、
違法人のクリスチャンがメインの教会になった。
しかし時代を経て、その後、ユダヤ人を追放した皇帝が亡くなった後、
ユダヤ人のクリスチャンたちはローマの教会に帰ってくるのです。
戻ってくるとどういうことになっているか。
かつて自分たちが建て上げた教会の形とは異なっていたわけです。
おそらくかつてはユダヤ教の習慣に従って、
立法や活礼を重んじた教会形成をしていたローマ教会が、
今やその習慣を重視しなくなっているという状況だったのです。
同じキリスト社であっても、
ユダヤ人と違法人との間に価値観の相違が起こったという歴史です。
同じキリスト社であっても、
ユダヤ人と違法人との間に
仲互いが起こってしまった。
ローマの教会にはそのような背景があります。
忍耐と目に見えない希望
そしてパウロは、
このような状況のローマ教会に対して、
今はうめきのとき、
忍耐を必要とするときであると語りました。
忍耐を必要とするとき。
忍耐。
それは、目の前の現実が
自分の願うようには変わらない状況。
だけれども、その変わらない現実をあきらめないで、
なおも神様の約束に希望を持ち続けることを
忍耐と言えるのではないでしょうか。
ローマの教会の中にも、
それぞれの正しさがあり、
それぞれの神様への使い方がありました。
でも、それをわかりあえない現実。
ローマの教会の彼らにとっての苦難があったのです。
私たちにも、このローマの教会の中にあったように、
神様を信じていても、
苦難が目の前に立ちはだかるという現実はあると思います。
自分の願う形ではないこと、
変えたくても変えることができない現実、
それは私たちの歩みの中に起こってきます。
しかしパウロは、忍耐という言葉を持って
ローマ教会を、そして私たちを励まそうとしています。
この少し前の8章の24節と25節を
お読みしたいと思います。
8章の24節25節
私たちはこの望みとともに救われたのです。
目に見える望みは望みではありません。
目で見ているものを誰が望むでしょうか。
私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、
忍耐して待ち望みます。
忍耐という言葉を聞いたら、
耐えろ、我慢しろとそういうニュアンスで聞き取ってしまいますけれども、
パウロはそのように言っているのではありません。
目に見える苦難の多さを知りつつも、
私たちに与えられている目には見えない現実、
希望に目を向けなさい。
パウロはそのように教会を励ましているのです。
目には見えない現実を見なさい。
目には見えない現実、希望。
それは私たちが何とかして得なければならないものではありません。
神様がもうすでに成し遂げ、与えてくださっているものです。
神の愛の完全さと勝利
私たちに与えられている目には見えない現実、希望は何なのでしょうか。
今朝の歌書の32節から34節がそのことを教えてくれると思います。
8章の32節から、
私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、
どうして御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
誰が神に選ばれた者たちを訴えるのですか。
神が義と認めてくださるのです。
誰が私たちを罪ありとするのですか。
死んでくださった方、いや、
よみがえられた方であるキリストイエスが、
神の右の座につき、しかも私たちのために取りなしていてくださるのです。
これが神様が私たちにすでに与えてくださっている望みであり、神の現実です。
繰り返し読みながら覚えていたいと思います。
惜しみなく御子を与え、十字架で死なれ、死からよみがえられ、
今や天の神の右につかれてすべての王となられた方が、
私たちのために取りなしていてくださっている。
これは目に見えないですけれども、確かな神の現実です。
私たちの歩みを決めるのは、目の前の状況ではありません。
神の現実です。
そしてこれらを合わせてパウロは宣言しています。
神はあなたの味方です。
私は大阪聖書学院という新学校を卒業しましたが、
そこで教えておられた織田明という先生がおられます。
織田先生は今日のこの箇所のことを一言でこのように表現されました。
信仰で生きる人は宇宙で最大の味方がついていることを忘れてはいけない。
宇宙で最大の味方がついていることを忘れてはいけない。
私たちは目に見えない神の現実を小さくしてしまうことがあります。
しかし私たちの神は死に打ち勝たれた、天の神の座につかれた宇宙最大の権威者です。
そんなお方が私の味方でいてくださる。
だからこれら全てにおいても私たちを愛してくださった方によって
私たちは圧倒的な勝利者なのです。
口語訳ではこの言葉を勝ち得て余りあると表現します。
ギリギリで何とか勝てるのではない。
余裕勝ちだという表現をしているのです。
語り手の個人的な苦難と神の慰め
何よりもこの手紙を書いたパウロ自身、苦しみとうめきの中を通らされたと思います。
35節にある一つ一つ、苦難、苦悩、迫害、
この一つ一つはパウロ自身が経験した苦難です。
しかしパウロは目に見える現実を超えた、
目に見えない神の現実を受け止めたから神様が味方であると、
私たちはその神様によって圧倒的な勝利者であると宣言したのでしょう。
最初に私は大学を卒業してから介護の仕事をさせていただいたということをお話ししましたが、
本当に社会と仕事の厳しさを教えていただいた本当に貴重な働きをさせていただいたなと思っています。
しかし当時はやはりつらいことが多かったです。
特に二つつらかったなということを振り返らされます。
一つは当然ですがたくさん怒られたんです。
たくさん私も失敗をしましたし、その度に厳しく怒っていただき、指導していただきました。
その愛を今は理解もできますし感謝をしますが、当時の私はその状況に対して
私ってこんなにもダメなんだ、社会に何の役にも立てない存在なんだと落ち込んでしまった。
それは一つつらいことでした。
そしてもう一つつらかったことがあります。
この施設は365日空いている施設でありましたので、
シフト制の仕事、日曜の礼拝になかなか行けない生活になりました。
わりと教会が大好きな若者でありましたので、教会を離れる寂しさというものがありましたし、
行けないことへの罪悪感というものを感じていました。
礼拝は守らなきゃいけない、日曜日に行かなきゃいけないのに、
仕事をして守れていない私を神様はどう見ているだろうか。
この二つのことが私の心をだんだん孤独にしていったのです。
これは私にとっての苦難でした。
しかしそのような生活の中で一つの死と出会いました。
この罰水なんですけれども、
ダッセルケルファーという方の
あなたがあるわけという詩の一部の部分です。
この言葉に励まされました。
あなたが受けたあの心の傷は決して軽くはありませんでした。
しかしあなたがその傷に苦しむたびに、
神も涙を流しておられました。
やがてそれはあなたの心の糧となり、
あなたは成長して神に似たものとされました。
この詩を読んだときに、
神様は私のこの現実に
共に涙を流してくださる方なんだということを知りました。
孤独と思っていた私に
これほどの味方がおられたんだということを教えられ、
神様のイメージが変わった経験だったなと思わされています。
その後も職場は変わらずつらいこともありましたし、
教会も行けない日々は続きました。
でも私の心は孤独ではなくなり、
仕事と向き合う勇気が少しずつ与えられていったように思います。
自分にとって苦難を覚える職場という私の現実に、
神様が及んでおられる、
神の現実を教えられる経験でした。
私はこの職場で神様と共に歩もうと思わされました。
神の現実を信じる歩み
私たちの歩みは認体を強いられる現実が起こってくるかもしれません。
また時には、
罪ある自分に苦しみうめくということもあるかもしれません。
けれどもそういう時に、
目に見える世界に少し目を閉じて、
目に見えない神の現実に思いを馳せるということは大事だと思うのです。
私たちは目に見える現実だけを見て一喜一憂するのではなく、
目に見えない神の現実が私たちに及んでいることを知り、
なおも神様に約束の希望を持ち続けることができます。
神が私たちの味方であれば、誰が私たちに敵対できるでしょうか。
私たちについている味方は、
天の王座に出しておられる宇宙最大の権威者、主イエス・キリストです。
私たちの歩みには宇宙最大の味方がついていることを覚えたいと思います。
神の現実が及んでいる私たちの歩みには圧倒的な勝利が待っているのです。
一言お祈りさせていただきます。
ありがとうございます。
19:08

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