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2026/05/24:聖霊さまを求める
2026-05-24 30:24

2026/05/24:聖霊さまを求める

2026/05/24 ペンテコステ礼拝

加藤満牧師

ローマ人への手紙 -27


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サマリー

この説教は、ペンテコステ礼拝において、加藤満牧師がローマ人への手紙8章22-27節に基づいて「聖霊さまを求める」というテーマで語ったものです。牧師は、聖霊が創造の霊であり、命を与える霊であることを強調しました。現代社会が抱える環境問題や争いといった混沌とした状況の中で、被造物すべてがうめき、私たち人間も言葉にならない思いを抱えている現実を指摘します。 しかし、聖霊はこのようなうめきのただ中に共にいてくださり、私たちの弱さを助け、言葉にならないうめきをもって神に取り成してくださると語ります。これは、聖霊が私たちの苦しみを我が事として共に苦しんでくださるという深い慰めであり、神の御心に従って私たちのために執り成してくださることを意味します。最終的に、牧師は、聖霊は私たちの内に住み、すべての被造物と共に働いておられることを示し、言葉にならないため息をつくその瞬間にこそ、聖霊が神の御前に立ち、熱い執り成しの祈りを捧げておられると締めくくりました。

祈りとペンテコステの賛美
それでは、短くお祈りをさせていただきます。
恵み深い、愛する天の父なる神様、
テンテコステの日を迎えて、
2000年前に、
聖霊なる神様が、この世界に下ってくださり、
祈る一人一人の家に住んでくださり、
風となり、炎となって、
様々な屈式宮座をあらわし、
世界中に主の福音を述べ伝えよと、
そのようにこの教会を生み出してくださり、
あなたが今も2000年も経ってもなお、
この世界に変わらない熱情を持って、
聖霊さまを通し、
宮座をなし続けてくださっている、
そのことを覚え、
皆をあがめ賛美をいたします。
私たちはだからこそ、
聖霊来たれりと賛美をできました。
聖霊さまはいらっしゃいました。
主よ、本当にあなたは、
今なお同じお方を私たちの家に宿してくださり、
それは私たちの家にも、
今なおあなたの宮座をなし続けてくださっていること、
暗闇の中に光を灯し、
神の言葉であるイエス・キリストを
私たちに教え続けてくださっていること、
そしてキリストに似たものとして、
この世界にあなたの愛を打ち立てていくことを
なしてくださっていることを感謝をいたします。
そのようにわかりやすくは進まないかもしれません。
私たちの中には様々な戸惑いや、
もしくは言葉にならない思いがあるかもしれません。
主よ、今朝また今一度、
あなたの御言葉に聞こうとしています。
命の言葉をもって私たちを養い、
今一度私たちがイエス・キリストの十字架に現された
あなたの贖いによってどれほど深く愛され、
神のことされ、
復活の命、永遠の命をいただいて生きていることが
どれほど幸いであり、
精霊様が共におられるという
その確かな約束を我が者として受け止めて
進んでいくことができるように
御言葉を開いてください。
お願いいたします。
今日もこの時に、
精霊様がお一人一人の心を開き、
あなたの御言葉を届けてくださることを
心事を委ねをいたします。
この一時を守り導いてください。
特にここに来ようとして
これなお一人一人のことをなおも覚えております。
どうか帰りに来てください。
今日は東京で彩奈先生も御奉仕をなさっています。
彼女のその精霊選挙中心の働きも守り
無事に帰れるよう助けてください。
お願いいたします。
これからの時を御手に御殿にして
イエス様の御名前によって御祈りを致します。
アーメン。
聖霊を求めることの意味
改めましてペンテポースでおめでとうございます。
幸いな賛美を心から感謝を致します。
やはり生活内の賛美は何か心が天へと向けられる
幸いなひとときだなと思って感謝をしております。
精霊きたれりという曲を賛美をしていただきました。
私がこの曲を聴いて思い出すのは
小学生の時に父に初めて連れられた塩屋生会です。
晩の集会に行きました。
その時は晩であるにもかかわらず
急行動ですね。
あの建物が割れんばかりに
拍手、手拍子と精霊きたれりの賛美が
割れんばかりに行動に響いていたのを覚えています。
何か手を叩いて揉むみたいな
踏んかかるみたいな思い出しますけれども
あの時の光景を思い返しながら
自分も塩屋に行きながら
そして日本衛生の教職をしながらつくづく
精霊様を真摯に求めていたなと思います。
熱心に。
精霊様が働いてください。
精霊様が今もいてください。
そのようなことを熱心に求めていた。
それはあの時だけではなくて
今も必要なことだなということを
つくづく思わされます。
ただですね
精霊様を求めるとは
どのようなことを求めているのでしょうか。
そのことを少し考えたいと思います。
私たちは精霊様を求めるというときに
何か特別な身業が表されることを
求めるかもしれません。
もしくはうちに精霊様が働いて
本当に心に勇気が与えられるということを
求めるかもしれません。
確かにあの最初のペンテコステのように
あの激しい風が
炎が私のうちに宿って
今こう燃やされるんだ
というそのようなことを思うと思います。
確かにそれは今も精霊様の
そのような働きはありますし
私はそのことを信じておりますが
けれどもそれは
精霊様のお働きの
一側面と言ってよいと思います。
実に聖書を見るは
精霊様は豊かに
あらゆるところで働いておられます。
今朝は精霊なる神様の
働きの一つの側面に注目をしながら
見言葉から聞いていきたいと思っています。
今朝注目をしたい
精霊様のお働き
三つのポイントでお話をいたしますが
一つ目それは
聖霊はうめいておられる
精霊様はうめいておられるということです。
精霊様はうめいておられるということです。
今朝ローマ書の八章を開いていただきました。
この前彩名先生が八章を開き
祈祷会でも八章を開き
今日も開くというのはたまたまなんですけれども
しかし導かれています。
ローマ書の八章を聞いています。
ここでパウロは
今朝読んでいただいた箇所の
22節、23節をご覧いただけるでしょうか
実に驚くべきことを
彼は語っています。
22節を読みますと
私たちは知っています。
貴像物のすべては
今に至るまでともにうめき
ともに生みの苦しみをしています。
それだけでなく
御霊の発放をいただいている私たち自身も
故にしていただくこと
すなわち私たちの体が贖われることを待ち望みながら
心の中でうめいていますと
彼は語ります。
これは決してマイナスのことだけではなくて
18節を見ると
やがて私たちに掲示される
栄光というものが約束されている。
その約束されていることに望みを置きながら
私たちは進んでいくわけですが
しかしパウロは言うのです。
私たちの現実はうめいている。
貴像物のすべてはとまず書いてあります。
貴像物という言葉はまさに
神に作られたすべてのものです。
木々や地上の動物
海の魚
目には見えない微生物に至るまで
神様の貴像物です。
そのような自然界だけではなくて
その自然界の中に生きている私たち
人間それぞれもですね
そして御霊の発放をいただいているという
キリスト社のその歩みの中にも
実は私たちはうめいている。
このうめいているという言葉
ちょっとギリシャ語を見ますと
この言葉はステナゾーという言葉なんですけれども
この言葉はもともとは形容詞から来ている言葉でして
狭いとか圧迫されたという形容詞から来ているんですね。
そこから転じて動詞になると何かというと
いわば強い圧力や重荷によって
胸の内からあふれ出てしまうため息
と表現している人がいます。
強い圧力や重荷によって
胸の奥から漏れ出てしまうため息ですね。
私たちはそういうものが出ないでしょうか。
なんかもうため息をつくしかないということがありますね。
つまりこの世界のすべての命が
今重荷に押しつぶされそうになって
もうため息をつくしかないような状況に
置かれているんだというふうにパウロはこの世界を見ているのです。
それは彼が見ていた非常世界だけではなくて
多分彼の目にしていた目の前の人たちを見てもそうだったんでしょう。
ため息をつくしかない。
このため息のもとになっている重荷とは一体何なんでしょう。
それはいろいろ言えるかもしれません。
現代に生きる私たちが直面しているのは気候変動。
今年は暑いのが早いですよね。
本当に早く暑くなってしまいました。
地球全体の環境問題はクリスチャンに無関係ではありません。
グリーンセオロジーという深刻領域はあります。
またあらゆる生物の命にも不穏な影響をもたらしますし
獲得できる資源が変動すると人間はまた争うわけです。
ただでさえ戦争は続いているのに。
そのように本来あるべき神様の秩序、平和で
互いを管理しあいながら
この世界を人間が正しく管理しながら
神を愛し隣人を愛する
本来あるべきこの世界のあり方、人間のあり方から
著しくずれている深い亀裂が入っている。
その現実が私たちの重荷になっています。
そしてそこにある命からのうめきを私たちは日々聞いています。
ただパオロはそのようなことを語りながらも
でもそのようにうめく現実だけで
私たちは終わっていないと語るのが今日の26節です。
彼は続けてこう語りました。
同じように御霊も弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは何をどう祈ったらよいかわからないのですが
御霊ご自身が言葉にならないうめきを持って
取り成してくださるのですと語っているのです。
私たちがうめくため息しか出ない。
でもその時に聖霊様は一体どこにいらっしゃるのでしょうか。
聖者は語るのです。
聖霊様はあなたのため息のそのところにおられる。
いや、そのため息をつくしかない。
そのところで聖霊様ご自身も共にうめきですよ。
共にため息をついておられる。
いたんでおられる。
でもこの聖霊様のあり方というのは
まさにどうしようもない。
なんかため息しかつくことのできない。
私たちの現実の中にしかしそこに聖霊様がおられる。
というのは実は聖書は最初からそのように語っています。
ちょっとだけ思い出していただきたいのですが
聖書の中で一番最初に霊という言葉が使われるのは
皆さんどこかおわかりでしょうか。
実は創世紀の1章の2節です。
最初の最初ですね。
ちょっとだけお読みしますと
こういう言葉が書いてあります。
創世紀の1章の1節2節有名な言葉ですからお聞きください。
はじめに神が天と地を創造された。
地は防爆として何もなく、
闇が大水の表の上にあり、
神の霊がその水の表を動いていたと書いてあります。
世界の現象ですね。
神様がこの世界、天地を創造されるとき
防爆として大水があったという表現はよくわかりませんが
しかし明らかなことを大水というのは混沌の表象です。
大水というのは混沌のことを言っています。
秩序がないぐちゃぐちゃであるという表現を旧約聖書は大水と言います。
しかしその大水のぐちゃぐちゃしているどうしようもないそのところの真上を
神の霊が舞いながらそこを漂っておられる。
それを包んでおられる。
そして私たちは知っています。この後何が起こるのか。
混沌の中に神は言葉を語られる。
まさに神の息吹とともに言葉を語られる。
その言葉によって神様はこの混沌とした世界に秩序を生み出しながら
まさに創造の御業によって美しい秩序と命をもたらしていかれたのですね。
それが創世記の一章に書いてあることです。
神の言葉とともに神の霊が神の息吹がこの世界に吹き抜けて
秩序が生み出され命が生み出されていく。
そしてご存知でしょう。
人間は土で作られましたが神の息吹が吹き込まれて生きるものとなったのです。
それはエゼキエル書にも続きます。
枯れた骨に神の息吹がかかると生きるものになったのです。
そして罪人に神の息吹がかかると罪人は生きるものになった。
全部繋がってますよ。
それがペンテコースで起きたことです。
聖霊は取りなしてくださる
生きるものになる。
そしてこのことは旧約だけではない新約聖書でもそうです。
首都原稿録は聖霊行伝と言われますが
しかしその前のルカの福音書から最初から出てくるのは
聖霊はミタマワミタマワミタマワという言葉です。
先ほど使徒信条でも告白しました。
聖霊によって乙女マリアに宿ったとイエス様は語られますが
まさにその通りに
聖霊様はあのまた混沌として暗闇の中で救い主を送ってくださいといったあの世界に
聖霊様はそこに臨まれて光であるイエスキリストを起こし
この世界に新たな命を生み出し光を形作られて
神様の美しい秩序を回復していかれた
再創造がイエス様によって始まっていっている。
紙編記者がこの聖霊様の御業を歌った箇所が一個だけあります。
ちょっとだけお読みします。聞いてください。短い言葉です。
紙編の104編の30節というところにこういう言葉があります。
紙編の104編の30節
あなたが御霊を贈られると彼らは創造されます。
あなたは地の表を新しくされます。
紙編記者が歌いました。
あなたが御霊を贈られると彼らは創造される。
生み出されて新たな命が作り出されていく。
あなたは地の表を新しくされますと
紙編の104編の30節で歌われます。
まさに聖霊なる神様というのは旧約聖書からもずっと働いておられる。
それは創造の霊であり、新たに命を与える霊であられるのです。
どれほど混沌とした世界であったとしても
先ほど丁寧に祈っていただきましたそうです。今も埋めく人がたくさんいる。
混沌としたその世界の中であっても
光の見えない暗闇の中であっても
聖霊様がそのため息の傍らにおられるということは
そこに常に創造と新しい命を生み出す御業が始まるのだ。
世界の回復、そして私たちの回復へと向かって
聖霊様はそのため息の最中に働いておられる。
パウロはこの大いなる創造の霊であるお方が
今私たちと共に埋めいていると語られました。
先週の水曜日に有名先生が説教してくださいましたが
埋めきとは言葉になる前の言葉にはできない
私たちの叫びだと先生はおっしゃりました。
私もすごくそうだなと思って聞いていました。
私たちはそういうことがあります。
言語化できない。
言語化したら人は回復するんですけどね。
でもたいがい私たちの心を深く押し込むのは
言葉にならない悲しみですよ。
言葉にもできない。
どう整理をつけてよいかわからない。
私たちの中に混沌があります。
でもその混沌の最中に、混沌の上に
聖霊なる神は自由にそこにおられる。
そして聖霊なる神様が
父なる神とともに働いてなされることは
そこに創造と秩序の御業を表していかれる。
少しずつ少しずつそこに
でも聖霊様が私たちには無理だけど
聖霊様が私たちのその言葉にならないその思いを
解きほぐしながらともに埋めていてくださる。
ともに埋めくっていうのは共感、共苦ですね。
神はともに苦しんでくださるお方です。
すなわち聖霊様も私たちの苦しみを
我が事としてともに苦しんでくださっているということを
私はこの言葉に見ます。
そしてそれは深い慰めだなぁと思うのです。
ただですね、二つ目のポイントに進んでまいりますが
聖霊様はここでともに埋めておられるということだけではありません。
26節を見ますと
この言葉にならない埋めきをもって
取りなしてくださると書いているのです。
二つ目のポイント、聖霊様は取りなしてくださるということです。
取りなしてくださる。
もう一度26節27節を読みますと
同じように御霊も弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは何をどう祈ったらよいのかわからないのですが
御霊御自身が言葉にならない埋めきをもって
取りなしてくださるのです。
人間の心を探る方は御霊の思いが何であるかを知っておられます。
なぜならば御霊は神の御心に従って
生徒たちのために取りなしてくださるからですと書かれています。
取りなしというのは何でしょうか。
これもまたギリシャ語を見ますけれども
ギリシャ語ではこれはヘペルエンチュカノーという
二つの言葉の合体語なんですね。取りなしというのは。
それは代わりにという言葉と
王に探願するという動詞です。
全知識と動詞が合体している言葉です。
いわば取りなしているということは一体何を意味するのか。
それは私たちが言葉にもできない
祈ることもできないその思いを代わりに
精霊なる神様が王なる神に探願してくださっているというのが
取りなしてくださっているという言葉の意味です。
そのうめきをもって私たちはうめくしかできないんだけれども
精霊様は取りなしてくださっている。
じゃあ何を探願してくださるのでしょうか。
それは先ほど見ました23節にもありますが
御霊の発放をいただいている私たち自身もまた
私たちの体が贖われることを待ち望みながら
心の中でうめいている。
御霊の発放を私たちは受け止めているというのはペンテコステのメッセージですね。
精霊様を私たちはいただいている。
ただ精霊様をいただいていると私たちは一体何が起きるのか
それは精霊様は私たちに自分の現実を示します。
私は罪人であるという現実を示します。
罪人であるということに深い自覚があるならば
それは間違いなく精霊様があなたに働いておられるのです。
そしてこの世界も罪によって悼んでいるということを
私たちは見ていきます。
そして本当に心から願っています。
この世界がまさに贖われるように
この世界が本来の神様の父である愛の交わりに帰っていくように
そして私自身が、罪深い私自身が
主よ、あなたが創造されたあの素晴らしい神の愛の姿へと帰らせてください。
これが身体の贖いを求めるという言葉の意味です。
私たちは創造の本来のあるべき姿を何となくわかるのです。
でもそこに至らないから私たちはいつもうめく。
私たちはそこにたどり着けない。
そして神を愛し隣人を心から愛したいと願いながら
そうなれない己の限界に私たちは深くうめく。
パオロの言うように私たちは弱い。
私たちはどう祈ったらよいかわからない。
世界の悲惨な現実を前に深い悲しみに出会うときに
自分の情けなさを思うときに私たちは言葉を失う。
しかしうめくしかできない回復への願いを
聖霊様ご自身が王である神様に対して
今も代わりに探願してくださっているというのは
どれほど大きな私たちにとっての福音でしょうか。
むしろこう言えるのかもしれません。
その言葉にならないため息が
私たちの情けないなと思うそのうめきが
聖霊様の祈りの舞台である
そのところで聖霊様は祈っておられる。
その淡々の声を神に対して挙げておられる。
そうパオロは語るのです。
だから大丈夫なのだと彼は語る。
祈れない現実はある。
しかし紙片の中にあります神は私の口が
言葉に昇る前に神はそのことをご存知でいてくださる。
神は私たちが祈る前からその私たちの必要を
知っていてくださると舞台の6章は語ります。
そしてこのところでもパオロは言う
うめきを神は知っておられる。
なぜなら聖霊様が取りなしておられるから。
私たちはそのところに安心をしたいですね。
祈れない、祈れないから神様に伝わってない。
そうではないです。
聖霊様が確かに伝えてくれています。
聖霊は全てのところに共におられる
そして3つ目のポイントです。
そのような聖霊様は全てのところに
そしてあなたとともに確かにおられるということです。
最初に少し申し上げましたが
聖霊様は一体どこにおられるのか。
私たちは何か特別な実感の中に探そうといたします。
こういう実感があれば
なんか聖霊様が働いているというようなね。
しかし何かが起きているということだけに
聖霊様の働きを認める
そういう実感は確かにありますが
でもそれだけにすると
あまりにも聖霊様の働きを
小さく見積もってしまうように思います。
聖霊様は私たちの中に住んでおられます。
実に切り離しがたく
私たちが自覚することができないことに
聖霊様は共におられます。
これはその通りですね。
そしてそれは人間に対してだけではない
聖書が語るのは
すべての被造物の中に
聖霊様は今なお働いておられるということを語ります。
ちょっと一箇所だけお開きしましょう。
詩編の139編の7節8節というところを
ご一緒に見たいと思います。
詩編の139編の7節8節
詩編の139編の7節8節
旧約聖書の1080ページの下の段に7節があります。
詩編の139編の7節8節を読みいたします。
私はどこへ行けるでしょう
あなたの御霊から離れて
どこへ登られるでしょう
あなたの御前を離れて
たとえ私が天に登っても
そこにあなたはおられ
私が黄泉に床を設けても
そこにあなたはおられます
この後読んでいただいてもいいですが
詩編作者が歌うのは
御霊はこの世界のどこにでもおられる
いやむしろ聖霊様を前にして
そこから逃れる場所など
この世界にはないと言わんばかりに
あなたを離れてどこへ行くことができるでしょう
この世界のあらゆる領域
自然の営み
人間のその争いのさなかにまで
聖霊様から逃れられる場所などありません
すべての秘蔵物がうめいているとパオロは語りました
しかしそのうめいているすべての秘蔵物のさなかに
聖霊様はおられる
そう語ります
そのうめきを聞けるほど近くに
そして聖霊様はそこにおられるのです
ヘブル語では
聖霊という言葉は
御霊という言葉を
神の息吹
ロアハという言葉で表現されますが
まさに世界には神の息吹が吹き荒んでいるのです
神様が呼吸をし生きておられるように
この世界には神の息吹が吹き荒んでいる
秘蔵世界は
聖霊様という大いなる命の懐に包まれているのです
だからこそ
本来ある秩序
神の秩序に亀裂が入り
すべての秘蔵物がおもににつぶされそうになっているとき
その中に満ちておられる聖霊様が
そのうめきを無視されるわけがないのです
パウロがローマ書8章で語る驚くべきこと
それは
すべての秘蔵物のうめきの背後には
すでにすべての秘蔵物とともにあり
その痛みを我が事としておられる
聖霊様の存在がある
それは人間私たちに対しても同じことである
なのでですね
もう終わりますが
私たちは聖霊様を求める
そのことを考えるときに
一体どういう姿勢をとればよいのでしょうか
今なお燃えるような
聖霊の炎が下るように私を燃やしてください
求めたらいいです
それは絶対に否定しません
でも
同時に私はこういう祈りも必要かなと思うのです
それはすでに私のうちに
ともにいて
私とともにうめき
私のために取り成してくださっている聖霊様に
自分をおゆだねするということです
うだねるしかないですよ
言葉にもならないんだから
でもおゆだねするのです
世界は今も環境の危機に
人間の争いにうめいています
私たちもうめいています
だから
神様
私は今
自分の弱さにうめくことしかできません
どうか
私のうちにおられる聖霊様
あなたの取りなしに
私のすべてをおゆだねします
そのことを信じておゆだねしますと
力を込めるというか力を抜いて
その身をゆだねるということもまた
聖霊様を求めるということではないでしょうか
今も聖霊様の大いなる命の懐に
私たちは包まれています
言葉を失い
ため息をもらす
その瞬間にこそ
聖霊様が変わって
神の御前に立ち
熱い探眼を捧げておられる
祈りの舞台がある
主はそこに立っておられる
ローマ書の26章を読んでも終わりますが
改めてこの御言葉が
今日私たちに語られている約束として
受け止めたいと思うのです
同じように
御霊も弱い私たちを助けてくださいます
私たちは何をどう祈ったらよいか
わからないのですが
御霊御自身が
言葉にならないうめきを持って
取り成してくださるのです
お祈りいたします
30:24

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