まずこの本なんですけど、松村さんがエチオペアっていう国に調査に行っているときの話というか、
調査に行っているときの話というよりも文化人類学っていうものそもそもが、
例えば日本の学者さんだったら、違う国とか違う部族の中で生活しながら、
いろんなことを現地の人に聞きながらですね、興味持ったことを調べていくみたいな。
僕は文化人類学者でもないのでそんなに簡単な話でもないと思うんですけど、そういう認識していますと。
そこでの気づきの話なんで、この松村さんエチオペアに行くわけですけど、
エチオペアについて調べているっていうよりも日本との差、自分が生まれ育った場所だったり、
エチオペアに行っていないとき住んでいる地域との比較にこそ気づく話だと思うので、
その文化人類学っていうものはどういうものかちょっとわからないですけど、
松村さん本にも書いてありましたけど、日本とエチオペアを行き来しているからこそ気づく点について深掘りしていくっていうことになるわけですね。
その中で今回は後ろめた人類学っていうタイトルなんですけど、
交換と贈与について展開されていくんですが、その一つの象徴的な出来事として、
エチオペアに行くとよく物恋、お金ちょうだいって言われると、
それに対しての自分の感情とか考察とか提言をしてくれているんですよね。
エチオペアだと物恋をしているのはエチオペアに住んでいる方なんですけど、
エチオペアって結構最貧国って言われるぐらい経済的な発展はまだまだこれからの国らしいんですが、
エチオペアの方は物恋されたら結構お金を渡すんですって。
日本だとそこまで物恋されることも少ないですよね。
僕は日本だとあんまり経験ないですし、そこまで海外に行ってもないんで、
そもそも物恋されたことはあんまりないんですけど、
エチオペアの方はそこまで日本人に比べてお金をたくさん持っているわけじゃないのに、
物恋の人にお金を渡したりするにもかかわらず、
松村さんはなかなかそれができなかったと。
僕もそうですね、いらないこと考えちゃうんですよね。
ここで渡したらその人は今後も働かなくなるから渡さない方がいいんじゃないかとか、
この本にも至る所で書いてありますけど、そもそも納税してるし、
そういう物恋しなきゃいけない人を支えるのは自治体とか国の責務とか仕事なんじゃないかということで、
見て見ぬふりというか考えないようにしたりとか、
物恋の方が近くに来ても視界に入ってないように振る舞ってしまうみたいなことは、
僕もそうする、僕こそそうしそうだなというふうに思うんですよね。
そう思ってしまうけど、エチオペアの方は物恋の方にお金を渡してるということを垣間見ると、
揺らぎますよね、ぐらつきますよね。
あれ?みたいな。
結果的に松村さんもお金が、これいい表現しますよね。
漏れていくようにしているっていうふうに書いてるんですよね。
お金が漏れていくようにしている。
私もポケットに小銭があれば誰かに渡している。
なるべく収支の長寿利を緩くしてお金が漏れるようにしている。
こういう表現も素敵だなと思いますが、
あえて脇を甘くして、はいはいっていうふうにするようになったということが書いてあって、
ここら辺も最初にエチオペアに行った時とは今なかった行動の変化なんだと思うんですけど、
こうなっていく経緯とかがね、いろんな事例とか使いながら、
あと感情の変化とか解釈とかしながら書いてくれていると。
増与と交換というか、交換と増与っていう話をすると非常に長くなってしまうんで、
その感想でうかつにシェアできるわけではないですけど、
さっきのね、税金を納めてるから国が何とかするべきだろうみたいな、
生活法があるから俺らは何もしなくていいみたいなので、
見て見ぬフリをするとか、考えることを放棄するっていうことで本当にいいのかなというのはね、
本当は多分良くないんですよね。
良くないと思った方がいいんじゃないかなと僕も思ってるんですけど、
どうしても自分の考えることを減らしたい、
感情でザワザワしたくないからどうしても見て見ぬフリというかね、
考えないようにしちゃってるよなというのが反省として思いましたね。
俺はね、僕もそうなんだよな、結局経営者だからとか家族がいるからとか、
いろんな理由をつけて交換の世界からあまり外に出ないようにしてますよね。
それの行為は別にその瞬間だけ見れば正当性はもちろんあるんですけど、
ある種、雑用とかが少ない世界、交換ばかりの世界を自分で後押ししてるっていうね、
止めるものがより止むとか、スキルが高い人がより活躍するっていう世界でいいのかなとか思いながらも、
見て見ぬフリすることで結果的に疑問を抱いている社会を後押ししてることになるよなと思いながらね、
この本を読んでまた反省しましたね。
僕ね、この本を前に読んだ後に、そのコーヒー屋さんで他の人のためにコーヒーを買っておくっていう文化を
イタリアで普通にあるらしくて、日本のコーヒー屋さんでもちょっと試したことあるんですよね。
僕はいきなり店員さんに、自分分とあと次に来る人の分のチケット買っておきますんで、
誰か財布とか忘れた人いたらこれで生産してくださいみたいなことをやったことがあって、
すごい迷惑そうでしたけどコーヒー屋さんは。
でもそういうことは今ではもうやらなくなっちゃいましたけど、
またそういうのちょっとどっかでやってみようかなと思いましたね。
なんていう文化だったかな。
でもいい文化だなと思いますよね。
いい営みというか習慣というか。
そこに来る人はコーヒー屋さんに入れるって時点でそこまで困窮してる人たちじゃないですけど、
ちょっとでもそういうの忘れたくないなと思ってやった記憶をちょっと思い出しましたね。
ということで物恋の話からそういうことを思い出しました。
ここの章にも他にもいろいろいっぱい書いてあるんで、
全部共有できたらいいんですけど、すごい時間になっちゃうんで、
次に行きたいなと思います。
2つ目は国家の援助というところですね。
物恋の方にお金を渡すというのは個人レベルの話なんですけど、
この本だとその後市場経済とか国家みたいな話に触れて、
そこから国同士の援助の話になりますと。
これもまた面白くて、
面白くてというかダイナミックに次の展開に行くのも面白いですし、
エチオピアは結構いろんな国から食料援助をされている国なんですって。
特にアメリカから多くて、そこの一説あったんですけど、
そもそもなんで食料援助っていうのが国同士で行われるかっていうところにも触れてくれてて、
アメリカが食料援助をするのはいろんな理由あると思いますけど、
そもそもは国が農家から結構買い上げていると。
すごい豊作の時に国内で小麦が流通しすぎると小麦の価格が下がってしまうので、
市場経済に任せると小麦を作っている農家さんの収入が減ってしまうので、
ある程度流通量をコントロールするために豊作の時は国が買い上げて、
それを国内には流通させないようにして、
国内で流通する小麦の量を最適化して価格を下げないようにして、
買い上げた、今小麦ですけど小麦以外もあると思うんですけど、
小麦を海外に輸出するんですけど、
その一つが昔日本にパンとして、
小麦がパンに変化してパンが流通したみたいな話は皆さんご存知の方多いと思いますけど、
その行き先の一つとしてエチオピアへの食料援助があると。
ただエチオピアが常に食料に困っているかっていうと、
松村さんが見た限りだと結構農産物がわしゃわしゃ育ってて、
本当に困っているのかなみたいな疑問も少し書いてありましたが、
そこらへんの真意はちょっとわからないですけど、
とにかくそうやってエチオピアの国に来たアメリカの小麦が、
いろんな地域に配られていくと。
それは別に普通というかいいんですけど、
その時にその小麦はもう売っちゃダメだよって書いてあるらしいんですよ。
小麦の袋とかに。
これ売っちゃダメですって。
これは援助しているものなんで、
みんな売らずにみんな自分で食べてくださいねというふうに書いてある。
でも普通に売ってるらしいんですよね。
エチオピアのいろんな地域のマーケットとかに、
アメリカの正常期がプリントされた穀物が売られてるんですって。
売却や交換は禁止で、
受け取った人が自分で食べてくださいねって言っているにもかかわらず、
売られてしまっていると。
何で売られているかというと、
英語で売却や交換禁止って書いてあるけど、
エチオピアの農民の方は英語を読めないから売ってるみたいに書いてあるんですよね。
これ面白いなと思って、
個人のバレンタインデーのチョコのプレゼントのことも書いてあったんですけど、
もちろんバレンタインデーに女の子が渡したチョコを、
他で売ってたらかなり屈辱というか絶望するけど、
さすがに文字は書いてないけど、
そういうことはやらないっていうのは分かっているからですよね。
だけどそういう風習が分からないというか、
エチオピアの農民の方は国からの援助だと思っているので、
アメリカの小麦っていうのは読めないから、
エチオピア国家からもらっているものだと思っているし、
たとえ分かってたとしても売ってしまうと。
読めないっていうのが一つ大きな理由かは分からないんですけど、
要因の一個だとした時に、
お互い持っている知識とかがずれていると、
雑用も途中から雑用的なものじゃなくて、
単なるものとして振る舞い始めるんだなという風に、
これを見て思いましたね。
雑用が雑用であるということを維持し続けるのは、
お互いのある程度の知識とかが共有されている人たちの中でこそ、
雑用品、プレゼントのまま生き続けるけど、
どこかで知識がずれてしまっている人同士だと、
単なる小麦だから食べきれないし売るかになってしまうから、
これもちょっとまた資産に富む一説だなという風に思いましたね。
さらにというか同じ話で、
今の時期は炎上された食用油がよく市場に出回る季節なんだよ、
みたいなことを現地の人が言ってたと。
その旬みたいな話なのかなと。
炎上された小麦とか穀物とか食用油が出回るってある種、
季節性があるみたいで、
アメリカで取れすぎたから炎上。
その時期が毎年同じだとすると、
エチオピアに来る時期もいつも同じで、
それがあたが旬みたいになっている。
旬っていうのも天からのお恵みだという風に思えば、
アメリカからやってくる小麦とか食用油も、
お天と様が施したというか、
お天と様の気分次第で来るものなんだろうな、
みたいな意味合いで解釈しているっていうことだと思うんで、
それはある意味正しいよなみたいな。
ちょっと笑っちゃいましたけどね。
面白いですよね。
最初の発動した理由が、
市場経済を崩さないようにっていうものの一つ、
そういう雑魚的な援助として、
海を渡った小麦が受け取った人たちによって、
また天からの恵みとして市場に出回ると。
同じ小麦屋なんだけど、
その都度その都度意味を変えて流通していって、
結果的にそういう穀物がよく来るから、
お酒がいっぱい作れるようになって、
祭りが復活したみたいなことが書いてあるんですよ。
ここまで行くといいですよね。
良かった良かったみたいな。
祭りが復活するのは良いですよね。
みんな仲良くなるし。
そのダイナミックに国同士を移動しても、
個人間でのプレゼントも同じように振る舞いが変わっていって、
結局今読んでて思ったのは、
思ったっていうか書いてありますけど、
国とか市場っていう自分とは桁違いに大きいものだし、
全然関わろうとしても何の影響も与えられなさそうな怪物みたいなものも、
実は自分たちと同じように振る舞いをしてるんだなっていうことを、
伝えようとしてるのかなというふうに思いながら、
読んで諦めるなよみたいなことを言ってくれてると思うんですけど、
面白いですよね。
こういうシーンを聞いとってくれて、
それもエチオピアに行ったからね、
日本との差分が分かって気づきになるんでしょうし、
おかげさまでね、
僕はエチオピア行ってないですけど、
津村さんが行ってくれたおかげで見直せるわけで、
今の日本とか今の自分の在り方とかね、
立ち位置とかを、
すごい学問ですよね、文化人類学ね。
というのが2点目ですね、
国の援助の話でした。
3点目は後ろめたさっていう、
タイトルにもありますけど、
この単語そのものですよね、後ろめたさ。
僕が事業をやり始めようとした一つのきっかけが、
実家が農家なんですけど、
農業を継がずにサラリーもやってて、
何か後ろめたいなってずっと思ってたっていうのがね、
理由の大きなものっていうか、
ほぼそれが全ての理由なんですけど、
農家を継がないといけないとも言われてないし、
ついで政権が立てられるほど大きな、
事業でもないんですよ、実家の農業がね。
親父はそもそも兼業農家でサラリーもやってましたし、
ただその実家の農業だけじゃなくて、
社会全体として一時産業に自分が従事せずに、
IT 企業に入ったんですけど最初。
そういう職業選択をしたっていうことに、
非常に後ろめたさを感じていたんで、
何で感じなきゃいけないかっていうと、
別に個人の選択だし、
IT 企業だって僕が入社したの2003年ですけど、
その頃はまだまだ社会においては必要だとされて、
今も必要ですけど、
それを選ぶことは何の問題もないって言ったら変だけど、
なわけだったんですけど、
勤めながらね、正月とかお盆とか実家に帰るたびに、
俺本当に東京でIT 企業に勤めてていいのかなみたいな、
なぜか思っちゃうんですよね。
で辞めたっていうのがあるんで、
後ろめたさっていうのを、
その時は別に後ろめたさを思う理由とか、
思うこと自体を素晴らしいと別に思ってないですし、
自分の中にある一つの感情だと思って捉えてましたけど、
松村さんからすると、
そういう後ろめたさを感じるっていうことは、
一つの希望なんじゃないかみたいな、書いてくれてるんですよね。
例えば物恋の方にお金を渡す渡さないっていうのはありますけど、
物恋をされるような立ち位置にいるっていうことを、
どう捉えるかというと非常に恵まれてると思えるじゃないですか。
というか不当に恵まれてるって書いてあるんですけど、
不当に恵まれてるとも思えるよねみたいに書いてあって、
努力の結果で物恋されるようなポジションにいるっていうことも思えるんですけど、
でも多くの人努力してるんでしょうし、
努力しなくても物恋しなくてもいい状態になるのがいい社会だなという立場に立てば、
物恋をされる立ち位置にいる自分は不当であるというふうに思うこともできて、
それはそうだなみたいに思うんですよね。
それが自分へのおごりとかそういうことでもないと思うんで、
その後ろめたさっていうのを感じたら正直に行動してみよう。
それがいい悪いっていうことではなくてというか、
それが社会を松村さんの言葉だと公平にしようとする動きにつながるというふうに書いてくれてて、
そっちの方が僕もどちらかというと好きな世界なんで、いいなというふうに思いましたね。
後ろめたさを感じないようにその交換経済の社会にどっぷり使うこともできるんですけど、
そればっかりやってると今の交換経済の社会を促進することになってしまって、
それが必ずしも全部ダメってことでもないんですけど、
自分の生き方としては後ろめたさをちょくちょく感じられるように、
居心地のいい人たちとだけ話してると、やっぱりそっちに加速しそうですよね。
いつも会わない人たちと会うみたいなことをやっていけばいいのかな。
最近はあまり後ろめたさを感じる機会がなくなってしまったというか、
いや感じる機会なんかいくらでも作れるんだけど、
感じないように意識してたら本当にそう自分がなってしまったみたいな、
麻痺してるんだと思うんですよね。
こういう本を読むだけでも少しリハビリになりますし、
さすがにいきなりHOPI行くのはちょっときついですけど、
そういうのをいつでもふとした時でも感じ取れるように、
心とか頭をふにゃふにゃというか柔らかくしておかないとなって思いましたね。
でもすごいですよね、後ろめたさ駆動ってことですよね。
後ろめたさで駆動していくっていう概念とか考え方とかね、
すごいなと思って、謎の力ですね後ろめたさってね。
謎じゃないのかな?
ちょっとね感想が非常に散漫になってしまってまとまりないですけど、
まとまらなくていいんだよなと思っていますが、
後ろめたさの人類学ねこれをみんなに読んでほしいですね。
すむらさんってどこにいるんだろう今。
いつかね直接なんか講演とか講義とか聞いてみたいなと思いますが、
非常に自分にとっては横から殴られる感じの本で、
経営者ねやってますが、
本当にこう交換経済のね権限みたいなところになってしまう、
まあ権限みたいなもんですよね職業からね。
何度かこういう本を読んだりして、
今の自分をいつも見つめ直していきたいなと思える本でございます。
ということで今日もお聞きいただきましてありがとうございます。
本日の本は後ろめたさの人類学でございました。
ということでありがとうございました。