はじめに:対談と自身の経験
みなさんこんにちは、マスコットです。 今回は、わばばさんと涼太郎さんが対談していた、何者かになる、ということの話をSundayFMでなぞっていたんですけども、
その話を聞いて思ったことと自分はどうなのかということを考えたことを話をしたいと思います。 まあこの話まずね、何者かになるっていうか、なりたいとかってちょっとでも思ってる人はね、絶対聞いた方がいいと思います。
その後にノートでね、涼太郎さんが何者かになるについて話を書いているので、 そこをそのノートを読むとよりわかる、理解できるんじゃないかなと、僕はそれがありました。
一回聞いて、僕今2回目の途中というか前半までしか聞いてないんですけど、一回聞いたところ、僕の頭の理解力では正直そのそれぞれの言っていることの意味とか、
まあそういうことかという理解はできたんだけど、そうやってどこに繋がってたんだっけみたいな、ちょっとわかんなくなっちゃってて、
だから2回目を聞いているという途中なので、まだ完璧に理解はできてない部分があるんだけど、 そこで話をしたいなと思ったので、ちょっと話をしています。
あとその後にわぱぱさんもSundayFMで話をなさっていて、多分その関係の話なのかもしれなくて、まだ僕は聞けてないですけど、
また後で聞いていきたいなと思っています。 詳しくは聞いていただいたり見ていただければなというふうに思うんですけど、
僕はすごい面白くて、何者かになりたいっていうことを漠然と僕はずっと言っていたし、
なんならYouTubeとかの自分のチャンネルに一緒に何者かになろうぜって自己紹介文で書いてるんですよね。
これ今改めてその放送を聞いたりとか、自分で何がしたいかみたいなところを考えていくと、
明らかに間違ってたなっていうふうに思うんだけど、 そういう話をしていきたいと思います。
そもそも内容自体は聞いていただくのが一番いいからそんなに説明しないですけど、
僕自身が何者かになりたいっていうふうに思っている内容というのは、 現代の人が多く持っている内容と一緒で、独自性がありながら社会的だったりとか経済的に
うまくいっている、成功というか金を稼いでたりとか、 権威性みたいなのがあるみたいな状態を目指している、それを何者かになる、
その状態になっている状態が何者かになっている状態だっていうふうに思っていました。
でもそれが、だけど何者かに慣れてないから苦しいみたいなところも実際あったし、
そこがまさにその現代の人、多くの人がなっているっていう状態と僕は一緒だなという部分もあるっていうふうに思いました。
「何者かになりたい」という願望の背景
ただ、
そこは何でこう、途中で話をしてたように、例えばYouTuberになるとかインフルエンサーになるみたいなことをみんなこう慣れるって何か思ってやってるけど、
そもそもめちゃくちゃハードル高くないみたいな話をお二人ともされてて、
で、僕もそれを聞いた時にいやマジでそうだなって思ったんですけど、
でもこれは何かある種、洗脳、洗脳とまで言わないけどその流れ、今のこの社会とか時代的なもので、
例えば情報的にも何者でもなかった人が何者かになったっていうエピソードが世の中にたくさん出回ってたりとかして、
自分と同じようなことをやってたけど、今はその僕が今話した意味で言うところに何者かになっている人もいると。
身近な人でも何者かになれるんだみたいな錯覚を結構起こしていて、
正直言えば確率、そういう時ってやっぱ確率論みたいなところで僕は見ればいいと思うっていうか、そうすると一番中立に見れるんじゃないかなっていうふうに思うんですけど、
実際僕調べたわけじゃないけど、YouTuberになるっていうのを定義として登録者数を1万人以上いるっていうところを前提にしたとしたら、
1万人のフォロワー数や登録者数になる人って0.0何パーセントがあったと思うんですよね、なんか昔スタンカーで調べたことあったんですけど、
つまり相当な確率なんですよね。でも一般の人がそういった有名人になったっていうのがたくさん事例が周りにありすぎて、あたかも
例えばインフルエンサーとかっていうところから比較して考えれば、芸能人になりたいみたいなところと対比で考えてみると、
芸能人になるっていうことはなんかすごい明らかに無理でしょって感じているけれども、でもそのインフルエンサーになる、YouTuberになる、
インフルエンサーでもどっちもいいけど、そういうふうになるっていうのは、なんか楽に、それよりは比べたら、有名人になるというものに比べたら楽になれそうな気がしてしまうっていう錯覚を起こしてるからみんなそっちに
割とチャレンジする。あとコスパもいいですからね。だからこそそういうところを目指している。
芸能事務所に所属してとかっていうのとか、なんかステップを刻んでそのそれぞれの高いハードルを超えていってなるっていうものよりも、ある種昨日まで何者でもなかった人が
バズることによって有名になってフォロワー数が増えてみたいな、昨日、一日で変わるってことはほぼないけど、でもそういうようなこう
夢がある、夢があるって言うとちょっとバカバカしいけど、そういうふうに錯覚してるっていうのは僕もそうだなと思いました。
起業と転職の比較、ハードルの低い方への選択
正直例えばケンスーさんが、よく皆さんね、ケンスーさんのそういう話聞いてると思いますけど、そこで起業した方がいいんじゃないかっていうアドバイスをなされてることがあって、
それを転職するとかと同じレベルで起業するってことも一緒のレベルで考えた方がいいよって話をして、意外とそこまで大して変わらないんだよっていう話をなさっていて、
起業するなら10冊ぐらい本読めばなんとなくわかると思うからそれで起業すればいいと思うよみたいなことを話されているんですけど、
起業って本当イメージで資金調達とかしなきゃいけないとか、株式会社化するなら陶器っていうかそういうものをしなきゃいけないとか、
いろんな法律とかそういったハードルをね、なんかやったことないからわかんないのにすげー高いハードルのように感じて、
だったら転職っていうシステムがもうある程度決まってて、それこそエージェント制みたいなのもあるぐらいだからその中にそういえばそこで入れるみたいな、
そのハードルがやっぱり低い方を人間は選びがちで、僕は個人事業主だから起業家ではないですけど、
勝手に結構そう思う。 だからハードルが高いなぁと思ってハードルが低い方を選んで、
そのまあ逃げじゃないけどそういうところあるなぁと思ったんですよね。 ハードルが低く、コスパいいっていうのもあるし、そのハードルが低いところだけど成功する可能性が高いみたいな風に
思っちゃってる。正確には錯覚なんです。確率読んでいったら多分大して変わんないんだけど、 インフルエンサーになるか、芸能人になるかっていうのは大して変わらないっていうか、
なんなら多分インフルエンサーになる方がもしかしたら確率で言ったら少ないのかもしれないんだけど、 みたいなことですよね。でもそれは本当にあって、情報がたくさんあって、
目的化する「何者かになる」ことの問題点
SNSとかそのインターネットとかによってもたらされていて、さらに比較することが容易にできるようになってしまったから、
だからこそそういうことが起きてるんだなぁっていうのを改めて思って。 あと何が問題かというと、それが目的に何者かになるっていうのは僕は目的になってしまっているのが結構問題なんじゃないかなと思ったんですよね。
そういう意味では僕はちょっと何者かになるということが目的ではないので、 ちょっと違うなっていうふうに思ったんですけど、でも確かに
ある種その個人オリジナリティがありながら経済的にや社会的に成功するということを
目指すっていうことで何者かになるみたいなことを無意識というか、みんなそれ当然のようにやるよねみたいなふうになって、それがマジョリティというかな多くの人がそれを求めている形になっているっていうのはすごくよくわかる。
僕もその部分が全くないかといえばそういうのもないな。 ただそれが別に自分の好きだとか自分の行き通りとかそういうエンジンがあってじゃなくて、
そういう状態になって何か漠然と何者かになりたいっていうふうになっちゃってるから、そこででも何者かになれないって言って、何者問題みたいなのが起きて、そこで苦しんでもう働くことができないとか精神的にやんじゃうみたいなことが大きな問題だなっていうふうには聞いてて思いましたし、
それはすごく確実に多くの場所で起こっていることだなぁと思いました。 だからこそそれを状態から脱するために、
宇野さんみたいに政策の方に向かったりとかっていう話もあったりとか、それを一つの具体例で、それは両太郎さんが思う、両太郎さんに合うやり方であくまでやってるから、
それは人それぞれだというふうにめちゃくちゃ思いますし、両太郎さん文章を書く、エッセイを書くってことで、感情と感情を取り戻すってことが重要なんじゃないかという話をされて、
だから記憶と感情を結びついているから、その記憶に昔の記憶を思い出しながらそれをエッセイに書くみたいなことを、文章に書くってことをされていて、それが一つのある種、
デトックスじゃないけど、そこから脱する方法、何者かになりたいゲームみたいなところから脱する方法の一つとしてあるんじゃないかなという話をされていました。
だからそれは人それぞれだと思うんですよね。それで僕は、途中で今話した、何者かになるっていうことが目的ではないんですよね。
「自分の価値観で生きる」ことの重要性
それは本当にそうで、僕自身振り返ってみると、マスコットズーって毎日椅子を作るみたいな意味わかんないこと、自分でもよくわからない意味わかんないことをしているわけですよね。
で、1600日とかそのぐらい続けてやってるんだけど、なんでこんなことやってんだろうっていうのに、昔ノートで書いたんですけど、自分の価値観で生きるみたいなことをテーマにしてるんですよね。
正直僕が考えられる範囲のデザインのバリエーションでしかないから、そこに全然合わないやとか、全然僕は好きじゃない、私は好きじゃないっていう可能性も大いにあるんだけど、
でも自分の中でたくさんのバリエーションを出すことによって、ある人にとって、今までのやつは全然いいなと思ってなかったけど、今日のこの椅子めっちゃいいかもとか、めっちゃ好きだなって思ってもらえた時に、
それは何か自分の価値観で選ぶっていうことだと思うんですよね。 で、それが僕は割と生きている上での幸せの一つだと思っていて、
で何かというと、あまりにもそれは今回の話にも通じてくるんですけど、それこそ感情、
感情のその、両体その感情っていうのにも僕は結構近いなと自分の中では勝手に思ってるんだけど、そのある種、感情を
物よりことの価値みたいなことがね、今の世の中ではほとんどになっているがゆえに、自分の感想とか自分の感じたことみたいなのを抑制というか、抑えて、
他の人が喜ぶことをやるみたいなことの方になっているからこそ自分の感情を忘れてしまっている、みたいなことがあるっていう話をされていて、それはまさに僕もその通りだなと思っていて、
僕は結構その、自分の価値観で生きるっていう中にあるのは、なんか結構その自分で、
素人まずしてないし、なんか、そこから自分で選ぶっていうこともしてないっていう状態が、なんか
幸せじゃないとか、そこでがね、なんかこうなんていうんだろうな、 いいと思ってないんですよね。そこに対して腹が立っていて、例えば
建築選びの例:価値観に基づいた選択の重要性
あれ? ごめんなさい、あの
マイクが、なんか音拾ってないような気がしたので、あれって言いました。
というか息子が泣いたんで、抱っこしながら話します。
で、なんかその、なんだろう
あのー、なんていうんだろうな
例えば、ずっと僕話してるんですけど、 ハウスメーカー、家を作ろうって考えた時に、ハウスメーカー
か公務手に頼む人が95%で、建築家とか設計事務所とかですね、に頼む人は5%ぐらいなわけですよ。
まあこれ事実としてあるんですけども、なんかそれに対して、あの家作った後に後悔してる人の数ってめちゃくちゃ多いんですけど、
なんかその数を、僕偏りすぎてるだろうって思ってるんですよね。いやおかしいだろうって思ってて。
で、僕がなんか結構腹立ってるのは、建築家の人っていう、僕もそうですけど、学生の時からずっと建築のことだけじゃないけど、すごい考えてきて
どうしたらいいデザインと言うとあれだけど、いろんな水準で建築のこと考えて、設計のこと考えてみたいなことをやっているわけで、にも関わらず
なんか、大学のどっかの文系を出て、ハースメーカーの営業とかになって、建築のことなんか考えてなかった人がそういう状態になって、
で、だけど、なんていうんだろう、僕の知り合いの中でも、建築の人じゃないけど、家を建てた人で、なんでそこの
公務店に、ハースメーカーがなんかにしたのっていうことを聞いたら、営業の人がすごい良い人だったかなって言って、なんか悲しくなったんですよね。
うーん、マジかみたいな。いや営業の人が良い人であることは重要かもしれないけど、それはじゃあ良い家になるかっていうと別に関係ないじゃんって思いながら、
なんかあまりにも悲しいというか虚しいさを感じた。で、それはかなりこの、建築家は営業とかしないし、そういう営業の人もそもそもいないしっていう中で、
広告とか宣伝とかにもお金をガンガンかけているハースメーカー、公務店が、それは多く選ばれるのも当然だと思うし、
多くの人がまずその実例がないと不安だしとか、他の人と同じであることの方が安心するしみたいなことがまだ世の中にたくさんあって、
っていうことはすごい理解できるんだけど、なんかその選択肢として入ってないっていうことに僕はすごく苛立ちを感じているんですよね。
あの、多分95%おかしいんですよ。偏りすぎてる。本当はもっと多分建築家を選ぶ人がいていいはずなんですよね。
で、だから一つ言いたいのは、だからハースメーカーや公務店を選ぶっていうことを選んじゃいけないよって言いたいわけじゃなくて、
それを本当の、本当にその建築家も知った上で選ぶ人がいてもいいんですよ。それはその人の価値観だからいいと僕は全然思うんだけど、
まずは素人してくれよっていうか、素人しようよっていう。僕だっていろんなこと知ってるわけじゃないし、素人もしてない部分もあるけど、
せめて自分がお金をすごくかける部分に対してとか、まあその生き方とか、なんかそのよりよく豊かに生きるみたいなところにかなり関係してくる家とか家具とかに関して、
それはある程度知った上で選んだ方がいいよね。すごいお金、高いお金払うのが。
「素人して自分で選ぶ」ことへの訴え
で、それで自分で選びなよって思うんですよ。自分で選ぶってことに関しても僕はすごく思っていて、
なんか何々風だからこれがいいよねっていうのは僕はすごく嫌いで、なんかまあ別に何々風だからいいって、それは例えばじゃあ北欧風だからいいねっていうのは僕は全然思わなくて、
だってそれは北欧だからいいんだよって。あなた北欧に今から住むんですか?違いますよねっていうふうに思っちゃうんですよね。
だから確かに僕はすごい偏った人間なのかもしれないけど、あとおしゃれな感じとかも僕は嫌いで、
全然その人に合ってたりとかその場所に合ってたりってことの方の重要だと僕は思っているから、
だけどあくまでそれがみんなに、それを価値観をみんなに植え付けたいというか、そうに違いないってことを言いたいんじゃなくて、
ただまず素人して選択肢に入れようよって。そこで自分の価値観で判断しようよみたいな。自分で選ぼうよみたいな。
ちゃんと知って自分で選ぶってことが僕の中ですごく行き通りを感じていて、それは多分建築や家具を通して僕はそのことを強く訴えかけていきたいっていう思いがあって。
「自分の価値観で生きる」ことと「何者かになりたい」
で、なんかね、それが僕は幸せに生きるってことだと思っているし、
あとなおかつそのある種洗脳のように何者かになりたいとかっていうふうになっている価値観からすると、
それはそうじゃなくて、何者かになんてならなくていいよ、自分の価値観で生きようよっていうことを言いたいんですよ、僕は。
で、そのための方法として、ただ単に自分が思っているだけだったらいいんですけど、僕はそれを誰かに伝えたい、それで後悔している人を少なくしたいっていう、
そういった思いがあるからこそ、だからその手段として、多くの人に届ける手段として何者かになりたいっていうふうに思っているんだなっていうことを僕は思ったんですよね。
で、それこそが幸せだって、それも押しつけがましいかもしれないけど、
さらに言うと、なんか自分の価値観で生きるっていうことができれば、多分何者かになろうと思わないんですよ。
僕は何者かになろうと思ってたけど、それはだから手段としてはなりたい、今でもなりたいと思っているけど、何者かになんてなんなくていいよ、自分の価値観で生きようぜみたいなことが、
特にそれは建築とかものに対して僕は思っているので、そこを通して言えたらいい、多くの人に伝わってくれたら嬉しい。
そうすることによって、もしかしたら苦しんでいる、何者かになりたいとか、他の現代的な時代的なこの病みたいなのに苦しんでいる人にとって後悔とか悲しみみたいなのが少なくなるんじゃないのっていうことを
思っているのかなっていうことを聞いて思いましたね。
「何者かになりたい」病への処方箋
だから単純に何者かになりたいが目的には僕はなってない、僕自身はなってないんじゃないかなと自分には思っているんですけど。
これは勘違いかもしれないけど、両田さんはある種、そういう何者かになりたい病に対しての処方箋というか、
薬というか、対処法としてそういう自分の感情を取り戻すということをやっていて、僕は多分何者かになりたいという病に対して
自分の価値観で生きるということをものを通して伝えたい、それが多分そういった病から脱する方法の一つとしてあるんじゃないかみたいなことを思ったんですよね。
まだちょっとうまく話せてない気もするんだけど、単純に今はそういうことを思ってますね。
そうですね、その話をしたかったので今日はそんな話をしていきました。
ちょっともう一回聞いたりとかして、もうちょっと理解度を上げたいと思うし、だから間違っている可能性もあるので間違っていたら教えてください。
僕はだから自分の価値観で生きるという考え方をいろんな人に、そのものを通して、建築や家具を通して伝えたいっていうのが、
多分今の自分の思っているところで一番強いのかなとは、自分の中では思っていますけどね、そういう話でした。
だから何者かになりたいといっても多分いろんなタイプもあるし、本当に何者かになりたいが目的になっているんだろうするとそれは苦しい状態になる僕は気もするので。
自分自身苦しいかというと苦しい部分もあるけど、それを改めて考えるのは大事じゃないかな。
特に何者かになりたいと思っている人は、自分本当にどうして何者かになりたいかとか、何者かになりたいが目的になったら多分なかなか厳しいと思うので、
何かをやりたい手段としての何者かになりたいだったら僕はいいのかなと勝手に自分の中では解釈したんですけど、
そういうことを考えるのも面白くて、すごいそういう機会を与えてもらえて、
ありがとうございますという話でした。最後まで聞いていただいてありがとうございました。
失礼します。