そう、誰かに似てるぞ、と思って。
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオ。
この番組では、精神科医療を作った人々、現在のトピックスを精神科医が解説します。
精神科専門医30年、医学博士で、現在、開業医のマリモと、
その姉で、障害を持ちの方の就労支援事業所を経営していて、
先日、韓国のプロ野球をスタジアムで見てきた、さくらがお送りします。
クレ・シュウゾウと明治大正の精神科医療の話です。
はい、ありがとうございます。ようやくクレ・シュウゾウの話をしようかなと思うんですけどね。
第2代東京大学の精神科の教授ですね。
クレ・シュウゾウは、言えば日本の精神医学の父と言っていい人物だろうと思います。
1代目大丈夫なのかと思うんですけど、
クレ・シュウゾウの師匠は坂木はじめ先生なんですけど、
この先生は実は30代で亡くなっちゃうんですよ。
そうなんですか。
だから2代目を若くしてクレ・シュウゾウがついて、
この方は長く御存命だったのでね。
昭和期まで存命で後輩を指導される先生なので、
この先生の話をしていこうかなと思うんですけどね。
日本の精神医学の父の話になります。
クレ・シュウゾウは1965年、慶応元年に江戸、その当時も江戸と言ってました。
青山百人町にあった広島藩邸で生まれました。
お父さんはクレ・コウセキと言って、広島藩の藩医ですね。
公明な乱法医で、
クレ家っていうのは医師学者の家系だったと言われています。
実際そうだったようですね。
このクレ・コウセキさんってお父さんですけれども、
手刀ですね。手刀って天然刀の予防注射あるじゃないですか。
あれって江戸時代の後期に日本でもやられることになるんですけどね。
それに尽力した人としても知られています。
そうなんですか。
江戸とかのですね、人民の方とかに手刀というかですね、
予防注射をするというようなことに関わった有名な乱法医です。
クレ自身は幼少期は広島で過ごしていたみたいなんですけれども、
でもやっぱり東京には出てくるみたいです。
東京で勉強していたみたいですね。
ところがですね、
修造が14歳の頃ですね、お父さんが亡くなるんですよ。
一家のですね、大黒柱が亡くなるんですけれど、
勉強し続けている最中だったんですけれどもね、修造さんはね。
長男さんというのが14歳ですからね。
その当時ですね、お兄さんがいてて、クレ綾利さんって言うんですけれども、
この方は、この方も実はですね、現代の統計学の祖と言われる方で、
このお父さんが亡くなった時には28歳で、
もうすでにですね、官僚学者として自立していました。
なので、このお兄さんの支援を得たりとか、
あるいは母方ですね、クレ修造の母方っていうのは三栗家っていう家で、
この家もですね、学者の家なんですよ。
お母さん方も学者の家で、お父さんも医学者の家の子供さんとして生まれたクレ修造なんですけど、
この母方の三栗家の親族もバックアップしてくれて、
奨学金を得たりしながら勉強を続ける修造君です。
修造君はね、やっぱりここで出てくる人物みんなそうなんですけど、めっちゃ賢いんですよね。
はい、賢いですね。
みんな賢いです。
今の実質聞いてるだけでそうだろうなって思いました。
非常に賢いです。
賢いプラス、歴史学への関心が強くて、
当初はですね、歴史学とかの方に勉強しようかなと思ってたみたいですね。
お母さん方の親族の方々っていうのは、こういう文献の家柄だったみたいですね。
漢石とかですね、歴史とかのことを学ぶような学者さん方だったらしい。
でもお父さんはお医者さんだったので、やっぱり医学にするかということで、
1880年に東京帝国大学の医学部に進学します。
で、その医学部に入っている中で精神学に興味を持って、
当時ですね、日本の精神医学を初めて切り開いた坂木はじめですね、
第一代の教授先生の影響を受けることになります。
で、呉修造は1990年ですね。
90年だから25歳かの時に大学を卒業して、精神科の医学教育に入局して、
坂木の助手になりますね。
助手になって同時に東京府転教員、後の町沢病院の勤務になります。
この当時さ、東京大学って、もちろん東京大学医学部があるんですけれど、
そこで学生さんが勉強するんですけど、医学部の勉強ってさ、やっぱり病院で勉強するんですよ。
実際の患者さんを治療したりすることで勉強するっていうのが一般的じゃないですか。
だから東京帝国大学にも付属病院があったんですよ、この頃は。
当然ね。そこでみなさん勉強して、医者になっていくわけなんですけれども、
ところがですね、精神医学っていうのはないんですよね。
この精神医学の病院はないんですよ。
つまり東京帝国大学の付属病院には精神科はなかった。
でもなかったけど医学はあるので、
勉強するのは東京府天狂院とか松沢病院とかで勉強することになります。
結構これは長いこと続いて、
呉修造が後々ここの教授になってですね、
東京帝国大学の付属病院にも精神科病棟を作らないと、
みたいなことで働きかけて何とかできるということにはつながるんですけど。
そうなんだ。
結構それも反対運動もあったとかっていう。
やっぱ後回しですね。
そう、後回し。
プラス、ちょっとやっぱり理解が得にくかったみたいね、実際の。
偏見よね。
例えばこういうこと言うたらあかんのかな。
今はもう絶対言うたらあかんことだと思うんやけれども、
その当時はですね、
例えば精神疾患を持っている方々っていうのはちょっと声を上げたりとかですね、
ちょっと理解できないような行動をすることもあるじゃないですか。
そういったことがうちの病院とか、私が診察していると横で怒っているようじゃとても診療なんてできないみたいなですね。
というふうに他の診療科の先生が言うたりしたっていうのは記録後に残ってて。
だからその当時はですね、やっぱり精神医学っていうのはやっぱり病気とは認めないという言い方はあれだけれども、
正しく理解はやっぱりしづらい教があったみたいね。
そうでしょうね。同じ舞台にはなかなか乗せてもらえない感じですよね。
そうです。始まりはそうやったんですね。
そういった中で呉修造はですね、やっぱり精神医学に入ろうということで、
精神医学の入局をして、松沢病院というところで勉強をし始めるということですね。
この頃ですね、しげこさんという方と結婚します。家庭を設けるということになるんですけど。
ちなみにですね、この呉修造さんというのは良いタイプの先生で、家庭もちゃんとするんですよ。こんな方ね。
っていうか、温厚な父親で静かで、読書好きで温厚だったという記載が残っています。
実際のところは分からないけどね。
残ってるのはそういう記載が残ってて。
で、3人の子供ができるんですけど、この3人ともですね、1人はお医者さんになって、
東京帝国大学の教授になった先生がいてたりとか、
次男はですね、ギリシャ文学者になって、東京帝国大学のイニシャ神話の大会になる。
この次男が一番有名な学者になるんですけれども。
3男の方も学者になったという記載があったりしてね。
みんな3人とも優秀なんですね。
優秀ということでね。そういった方がお父さんの記録として残っているのは温厚な父親だったと。
温厚な。
怒ったりはせえへんかったし。
間違いないですね、じゃあ。
自宅は図書館みたいになってて、医学書とかドイツ語文献とか歴史書とか鑑識とかが大量にあったみたいな記録が残っているので。
勉強する環境ですね。
家庭人としても明治の人としては温厚だったというようなことがあるんだろうなと思いますね。
呉修道先生はね、非常に優秀なので当然ですけども順調に出世します。
入局して4年後ですよ。1894年明治27年には東京大学女教授にもなります。
翌年には精神医学修養というですね、本格的な精神医学の教科書を出版したりするんですよね。
1997年明治30年に欧州に留学します。
ウィーン大学とかベルリン大学とかですね、その当時のドイツの医学を中心としたところを学ぶわけですね。
エミル・クレッペリンとの話っていうのがね、昔あったと思うんですけれど、ちょっといじわるをされたとかね。
握手してくれへんかったみたいな出来事を受けたりとか。
ちょっとそういうね、いじわるを受けたりとか。
あるいはこのフランスニッスルっていう、ニッスル染色ってめっちゃ有名な染色法があるんですけれども、
そのニッスル先生に次回に習ったりとか。
っていうんですね。
そういうクレシューゾーさんっていうのは、最新のその当時のドイツの精神学を勉強すると。
ベルリンとかミュンヘンとかウィーンの精神科病院も見てたみたいですね。
その当時の作業療法とか開放病棟とか、科学的に精神学を診断する方法とかっていうのを学んだようですね。
最新の精神科ですよね。
学問もそうやし、実際の精神科医療の現実っていうのもしっかり学んで。
4年後、シューゾーさんは帰国します。
帰国後すぐにですね、東京帝国大学の教授に就任します。
これ就任っていうのも、坂木はじめさんがもう亡くなってたものなので、早く優秀な人をつけないとってことになって。
壊れてですね、シューゾーさんが教授に就任すると。
東京府菅野病院の院長にも兼任するということですね。
教授もしつつ、菅野病院の精神科病院の院長も兼ねるというパターンですよ。
このパターンってちょっとあれと似てません?ピネルさんと似てるかなと思ったりして。
そうですよね。今ちょうど誰かに似てるぞと思って思い浮かべてました。
大学の教授プラス院長も兼ねるという形式ですね。
まず、クレイ・シューゾーがやった有名なことっていうのが、この菅野病院の改革なんですよ。
この菅野病院というのは精神科病院で、新時世には違いないんですけれど、
やはりこの当時っていうのは、手錠とか足枷とか鎖とか使ってたんですよね。
こういうのの削減に取り組みます。
病院の運営とか処遇の近代化を推進するというのがですね、一番やったことで有名なことなんですけれど。
でも実はなかなかすっきり、すぐには行きません。
エライ先生が帰ってきたからといってですね、クレイ・シューゾーがいくら優秀だからといって、
それがするぞと言ってすぐに進むようなものではないんですよね。
最新の精神病院を見てきた方なのに。
見てきてこうしたいという理念はあるんやけれども、でも現実はやっぱりそうはならんわけですよ。
結構時間はかかりますが、2年間ぐらいかかるんですけど、2年間でうまいこといくんですけどね。
なかなかトップが思ってもすぐには互換ということで、頑張るんですけれども。
まずですね、この拘束をなくそうとしたんですけど、クレイ・シューゾーは。
でもやっぱり看護院とか職員は反対します。危険やからね。
現場の人はね。
現場はね。
先生は来てどうこう言うだけやからいいけれども、ここで仕事をしているのは私たちですというわけですよ。
今も絶対そうですよ。
その通り。実際そうなんですよね。
当時って実際、精神病薬もないし、鎮静薬もほぼないし、保護室とかっていうそういう装置もないので、手錠とか足枷とかがないとさ、やっぱりそこそこで働く職員っていうのはやっぱり危険なわけですよ。
怖いですよね。
反対を受けると。先生、それは危険ですと職員から言われる。
でもクレイ自身はですね、やっぱりこれはですね、ドイツができてたことが日本もできるはずだから、絶対できるんだよと。
精神病者も病人だし、別にそんなに危険なわけじゃないんだから、みたいな信念を曲げないということもあって、バチバチ対立することになります。
で、何が大切かというと、やっぱり看護人をしっかり教育しないとダメだなということを考えて、その看護人を教育しようとします。
この当時、看護師っていう考え方は、看護婦っていう考え方はできては来てたんですけれど、精神科病院まではそういう思いってまだなかったわけよね。
なのでやっぱり当時の精神科病院の看護人っていうのは、養務員というか力仕事の警備員みたいな、そういうイメージの方が強かったんですよ。
暴れる人を抑えつけるというか、そういうことが第一だったみたいね。
なので、そういった方が入ってたわけですよ、職員としても。
でもやっぱりそうじゃなくて、教育しないとダメだということで、この看護人の教育に力を入れることになります。
しかしですね、その当時精神科病院に勤めてる看護人っていうのは、最も処遇が良くない職業の一つとされてたようですよ。
で、この拘束時間がめっちゃ長いし、泊まり勤務も結構あるし、給与はこの房席助行の下回ってたって言われてて。
だから多くの方っていうのはすぐに転職して、この3年間教育課程を呉修道は作ったんですけれども、この3年間ずっと勤めてくれる人っていうのはごく一部だけだったって言われてる。
しかも看護人っていうのは募集しても、すぐには来てくれなかったりとかしてね。
っていう、なかなか教育にも問題があったようです。
でね、どのくらい病棟が大変だったかという記録が残っててね。
実際1889年に患者の手記が残ってるんですけれども、看護人がですね、患者にどんなことをしてたかっていうのが残ってるんですよ。
これ呉修道が赴任する3年前の精神科病院の出来事なんですけれども、実際記録に乗ると、看護人は患者の見舞いの品をかすめ取って、食事の遅い患者の食事を自分のものにすると。
自分の食事にすると。で、自分の食事を浮かすようなことをしてたりとか。
あるいは患者への暴力とか、患者の物品を市地に入れて自分の金にするとか、っていうようなことも起こってた。
で、院長が、この日曜以外病棟を改新するようになったので、暴力は減ったって書いてた。
つまり、医者が来た時には、院長が来た時には、暴力は振るえへんけれども、そうじゃない時には暴力を振るうこともあったよ、みたいな記載があるんですよね。
そういう文化というか、そういう状況の精神科病院に呉は就任したっていうことですね。
でもそこで、なんとか呉は教育をして、看護人を協力して患者の接し方、症状を記録したりとか、そんなことをしないといけないし、
ここは患者を監視するんじゃなくて、患者を治療するんですよ。治療すると良くなるんですよっていうことも教えたようですね。
そういう努力の経緯もあって、なんとか菅野病院の運営というのは一定の成果をあげて、精神科看護の基礎になったと言われています。
教育って時間かかるからね。
時間はかかるし、プラスやっぱり金がないとっていう問題もあったみたいで。
そうですよね。
やっぱり患者さんの処遇を良くするには、看護人の処遇も良くならないと良くならないわけですよ。
そうや。
今にも繋がるんですけどね。
今にも繋がる。同じだと思いますね。
そう。だから患者さんとかの方の処遇を良くするには、お世話する方の処遇も良くならないということにはなって、
それをクレイ・シューズは訴えたようなんですけれども、実は給料はあんまり良くならなかったという記載も残っています。
だからなかなかですね、その当時日本の国自体はあんまりそこにお金をかけるほど豊かじゃなかったんですよね。
ちょっとそれって今の日本の衰退と移しがみになりますよね。
そうですよ。衰退するとこういうことが起こってくるんですよね。
どうしても処遇が悪くなってくると、労働環境も悪くなって、
最終的に辛い思いをするのは弱い患者の方、弱い立場の方ということになってくるっていうね。
そうなんですよ。
そこってなるかもなとかと思って、それがですね、この初期のですね、ライジングする初めの段階っていうのがこういったことにも起こってたなということですね。
あとクレイ・シューズがやったことで言うと、看護記録、記録をしっかりつけましょう。
記録をつけることで、この患者さんがどうなっていくということが予想できるし、学問も進歩するということで、
後々の精神学の進歩にもつながるし、
あとこの病棟にですね、この作業療法も導入していきました。
患者に庭仕事とか農作業とか手工業をさせてですね。
この当時、この患者に作業をさせるなんて、みたいな批判もあったようなんですけれども、
いやこれが実は治療につながるんですよ、みたいなことも言ったようですね。
実際これで慢性状態の患者さんが良くなったりしたこともあったり、
あと病院自体を治療だけじゃなくて、教育的にも大切で、
医者教育に使いましょうということでですね。
その医学部の教育にも、この菅野病院っていうのを使っていって、
若手の医師からはここで勉強することで、
全国にですね、精神科医療を広げることにつながってきます。
学会も作るんですよ。
クレが作ったのは、神経精神学会っていうのを、
今でいうところの精神神経学会を作りました。
その当時は神経学会なんですけれども。
結構早かったようですよ。
この1902年、クレ修造が留学から帰ってきた翌年にですね、
この学会を作るんですよ。
すごい。
クレ修造が学会長になってですね、それ以降30年ずっとクレ修造がほぼ学会長ですわ。
実はですね、僕らが今年というか先週ですね、
ちょうどこの精神神経学会に出席してきました。
122回の精神神経学会に僕も出席してきましたけどね。
クレが作った学会なんですけれど。
脈々と続いていく学会ですね、すごいな。
この学会ってちょっといやらしいところがあってさ、
いやらしいっていう言い方あれだけど、
プログラムとかあるじゃないですか。
プログラムにね、歴代会長とかね、歴代大会の場所とかっていうのをずっと書いてるんですよ。
百何回。
ありたことあります。
それでね、今回も確認したらやっぱり1回目から30回目ぐらいまでクレ修造が会長でしたわ。
書いてるじゃん、すごい。
それは歴史的なことでね。
あれってやっぱり今ね、大会長やった先生方の共栄心を満たしてるんかなとかって思ったりもしてるんですけれど。
いや、わかんないけど。
え、そうなの?
はい。
いや、またそういうとは別の違う思いで受けてあるかもしれんし。
でもまあ、今時ってやっぱりああいう大きな学会を受ける先生ってやっぱりそういうことなんですよ。
やっぱりそういう名誉的な意味合いがあるみたいな気がするね。
ちなみにどうでもいいけど、僕が学んできた3大の教授先生がいてるんですけれども、
どなたの先生もこの静止神経学会の会長にはなりませんでしたか、なれませんでしたかが分かれへんけれどもなってないですね。
え、なんでですか?
いやいや、そういうもんですよ。
つまり、あのね、一番大きな学会の大会長をする先生っていうのは、普通の教授先生じゃないんですよ。
やっぱりその当時に力のある先生が学会長になってですね、
みんなのものをよく聞きなさいと、よく勉強しなさいみたいなことを言うわけですよ。
なるほど、力のある教授、教授の中の教授ですね。
そう、教授の中の教授が、というかね、まあまあ、いや、帝国大学とかの教授先生とかがなったりとかね。
あるいはそうじゃない、地方の先生もなることがあるんやけれども、まあそれはやっぱりその先生が力のある先生の場合とかね。
そうですよね、もう誰もが認めるってことでしょ。
そうそう、そういう先生が大会長になったりするんですけどね。まあまあ、それはどうでもいいんですけど。
僕としてはね、自分が異極院の間に教授先生がそれを引き受けなくて、本当によかったと思ってますよ。
あんなに引き受けちゃったら異極院大変っす。
あんな?
めっちゃ大変。
そうなんですか。
普通の仕事に加えて。
準備するのと。
準備がね、めっちゃ大変になってくるので。
そうですよね。論文発表の場やからね。
本当にそれは大変で、僕が大学の現役でおる頃にそれに関わらなくて、本当によかったって僕は心から思ってますけれども。
めちゃくちゃ想いがこもってますね。ちょっと笑いなさい。
まあそれは今のね、医学の話でいいんですけれども。
それを作ったね、第1回から30回、黒井先生が会長を務めてた会長なわけですね。
すごいですね。
30年でしょ、だから今日は。
30年ずっと学会長やったわけですから。
すごいよ。
30年、すごいですね。
だから精神医学の父でね。
だからね、僕らも自分が習った教授の先代、先々代、その前、その前に辿っていくとクレイ修道に行き着くんですよ。
だいたい今の医学者って。
なるほど。
っていう感じでね。
みんなここから育ってきたんですね。
黒井先生がいろんな医学者を育ててきて、全国に派遣してっていうことになるわけですね。
黒井先生のその後のね、菅野病院を改革した後のことで言うとくと、一番有名なのが1978年に、大正7年にですね、精神病者の試作感知の実況およびその統計的な観察と言うてですね。
いわゆるこの日本の試作感知、雑誌記録ですね。
あれの統計を取ったっていうのが一番有名なんですよ。
つまりですね、その当時、日本の雑誌記録っていうのはどんな風になってましたかっていうのを、実際リアルに調べたんですよ。
それを報告書として出して、報告書の中の言葉にですね、
我が国何十万人の精神病者は、実にこの病を受けたる不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸を重ねるものと言うべし。
って言うんですね。有名な言葉を残すんですよ。
この言葉ですね、わりとこの精神科を学ぶ方っていうのは有名で、絶対この言葉がクレシューズとともに出てくるんですよ。
つまりクレシューズが言うたら、この病気を受けたっていう不幸以外に、この国に生まれた不幸を重ねてますよっていうようなことを報告書とともに出すんですけれども。
雑誌記録、いわゆる雑誌記録、試作感知ってやつですよね。
こういうのっていうのは、ちょっとやっぱりかなり患者さんに不幸をしてますよっていうようなことを示す言葉だったりとか報告書なんですよね。
大正7年にね。
実はその翌年にですね、精神病院法っていうですね。
じゃあ精神病院を作りましょうっていう法律ができます。
っていうか作らなきませんよっていう法律ができます。
まあ試作感知は、まあちょっとねいろんな問題があるから精神病院の方を作りましょうということで。
精神病院法っていうのがクレシューゾーの働きかけでできるんです。
大正8年ね。
精神病院をしっかり作りましょうねっていうようなことを言いながら、クレシューゾーは昭和7年に67歳で死亡します。
クレシューゾーとしては有名な業績で言ったら、やっぱりこの精神科病院を開設、つか作って、より良い精神科病院を増やそうとした人物として有名なのかな。
そうですね。
多くの精神学者を作ったということも大切なんかなって言われてますね。
やった業績っていうのはそこになるのかなと思うんです。
日本精神学の父ね。
日本精神学の父です。
僕が勉強したところでやっぱりピネルとか重なるよねっていう気がしてね。
リアルの精神科病院を改革してですね、多くの後輩を育てたっていう意味で言うたらね、同じようなところなんかなという気がしますね。
立派すぎてどうなんやろうという気もするんですけど。
もうちょっときっといろいろあったりはしたんやろうなという気もするんですけど、あまりも伝わってないですね。立派すぎて。
やっぱり精神科医療とかっていうのは近代になるまで縁がつながらない分野だったなって、こういう歴史を私初めて今回勉強しました。
そうかそうか。クレシューゾーもシタクカンチも一般的には知られてないか。
だってさ、シタクカンチっていう四文字熟語は今回私初めて見たのと、意外だったのは学会が早くできたんですね、割と。
そうそう。これはね、クレシューゾーが賢かったからやと思うよ。
すごい意外だった。
法医学ができて、外科ができて、産婦神科ができて、4番目に神経科ができてるんですよ。
すごいな。
その後、小児科とか眼科とかジビンコとか皮膚科ということでですね、結構4番目ぐらいに学会としてはできたっていう速さだったみたいですね。
これはやっぱりクレシューゾー先生の軽眼だったんちゃうかな。
そうですよね。
学会を早く作って、学問としてまず進めていけないといけないし、プラス医療も進めていけないといけないなっていうふうに考えたんでしょうね。
最新医療を見てきたから余計ね、学ぶこともあったやろうし。
雑誌記録の話とかは全然出てこないもんね、さっきの。
相馬事件も出てこない?
そうそうそうそう。初めて聞いたし。
そうか、出てこないか。
出てこない。
有名なとこで言うたらあれかもよ。横水聖史の八坂村とか五股門島とかっていうのがあるんですけれど、あそこの股に出てくるんですよ、雑誌記録って。
そう、私八坂村怖いけど見て、そこで初めて知ったんです、雑誌記録。
生まれて初めて知ったのがその映画でした。
確かに、雑誌記録、横水聖史って戦後の話を限ってるんですよ、一応ね。
雑誌記録って1950年で、GHQが1950年に雑誌記録廃止っていうのを出すんですけど、
あのちょっと前なんですよね、だからあの話っていうのが。
戦後間もない話なので、一応理にはかなってるんですよ。一応国は認めてる制度なんですね、雑誌記録っていうのはね。
雑誌記録っていうのは明治から昭和の20何年まではあるんですよ、実際世の中には。
だから普通にあるんですよね。
でもまあ確かに僕ら知らんよね、雑誌記録って。
そう、生活の中にそのワードあんまり出てこなかったんやけど、なんか雑誌記録はあったんよっていう話を私、おばあちゃんとしたような母としたような。
そうですか。
それ多分八つ墓村の映画を見て、なんかこんなんあってんって言ったら、そうやよみたいに普通に答えてましたよ。
確かにそんな聞いたことあるような気がしてきた。
うんうんうんうんうん。
やろ?そうやでっていうか、何ともなく、そうよみんなお家の離れでみんなおったんよね。
名前忘れて、誰々さんとかも誰々さんとかもみたいな。
ああ、そうかそうか。昭和の人はそれが割と普通だった時代があるんよね。
そう、だから私同居してたおばあちゃんとかは多分普通やと思う。
ああ、そうか、おばあちゃんらはそうやね。
明治生まれだもん。
そうだわ。
でしょ?
で、母たちは昭和も二桁大生まれやけど、何となくたぶん聞いてるよね、お母さんとか。
そうそうそう。
やっぱああいうのって法律ですぐで言っても、すぐ残れることもある、亡くならないこともあるよね。
亡くならないもん。
そう、だからそれこそ老爺じゃないけど、離れから出さないとかっていうのもずっとあったやろうし。
で、その人自体は病院に行ったとしても悩み自体は残ってたりもするやろうしさ。
そうそうそう。
家から出さないとかはあったやろうしね。
だから昭和の中で生きてた人っていうのは割とこれは記憶に残ってる話なんかわかんないね。
かもしれない。いまだかいらっしゃるおじいちゃんおばあちゃん、お年寄めされた方は知ってるよ、みたいな話なのかもしれない。
でもそういった方もどんどん記憶というか人も少なくなって、たぶん日本の記録に、本当に記憶に残るだけになるんやろうと思うんですね。
歴史になっちゃうんやろうけどね。
そうですよ。
いくんですけどね。改善、改善でいくからね。
まあまあね、そこのところありますね。
で、次回その辺の詳しい資料の話をしていきたいなと思うんですけどね。
提供します。
よろしくお願いします。ありがとうございました。
精神科の知識を学べる番組、歴史から学ぶ精神科ラジオは毎週金曜日午前5時に最新話が更新されます。
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