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生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者たちへ。
MCの金澤秀明です。
アシスタントを務めます、山崎彩子です。
今日もよろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
いよいよ、北里先生が日本に帰ってくるというところからのスタートですね。
はい、やっと帰ってきますというところなんですけれども。
6年からの。
6年からのですね。
まずですね、ちょっと日本国政府もなかなか一気なことをするなと思うんですけれども。
このロンドンの学会からですね、ベルリンに戻った北里にですね、内務省から通達があります。
帰国前にですね、フランス、イギリス、アメリカを視察して、各国の衛生事情を調査することというような、そういう使命がつくんですね。
で、言ったら最後、留学頑張ったから、コーヒー使ってちょっと視察旅行で羽根伸ばしてきなさいと、そういうような感じですね。
いいですね。
はい、いいですね。
これね、税金の無駄遣いとか言って、今だとすごい怒られそうな話なんだけれども。
大事なことですけどね、こういうのはね。
多少はね、って思いますけどね。
はい。
で、いよいよですね、コッホの元を去るというところで、コッホ先生に挨拶に行きます。
その時にですね、コッホ先生は言います。
北里くん、私が教えることは何もなくなってたよと。
おー。
まあ、免許改伝っていう感じですかね。
そうですね。
すごい、6年で取得するってめちゃめちゃ早いと思いますけどね。
いやー、すごいですね。
6年で。
羽ばたいたというか。
羽ばたきましたね。
1982年の3月23日ですね、北里は6年半滞在したベルリンを出発いたします。
で、翌日ですね、パリに着いた北里がですね、
思いがけずですね、パリ市民から熱烈な歓迎を浴びてですね、新聞記者からのインタビューも受けます。
フランスではですね、スター扱いだったんですね。
まあ富士の病を治したというか、そういう人ですね。
麻生風菌のですね、これを治す病を切られた人ということでスターですよね。
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まず日本大使館ですよね。
石垣久次郎がですね、そのときは大使をしてたみたいで、
彼と面談した後にですね、北里は憧れの人に会いに行きます。
その人の名前はルイ・パスプールですね。
頬と並ぶ最勤学のスターですね。
で、彼にですね、面談を申し入れてたんですけれども、
パスプールはですね、46歳の時に脳卒中で倒れてですね、
左の手足が不自由だったんですね。
で、さらにもこの当時かなりの高齢になっておりまして、健康を害していたそうです。
で、70歳を超えてたんですけれども、
ただもう研究は大好きで、大好きでというか気になったんでしょうね。
研究所に毎日出社してですね、そして狂犬病の研究に取り組んでいたそうです。
毎日?
毎日ですね。
で、パスプールはですね、このアポイントをですね、非常に楽しみにしてくれてたみたいで、
会談の最初にですね、私はあなたの活躍を頼もしく感じて見ていましたと。
今度は何を発表するのかと心待ちにしていましたよというふうに言われたらそうなんですね。
北底はですね、この自分の研究が偉大なパスプールに興味をもらっていたということに非常に感動したそうです。
嬉しいですよね。偉大な先生、パスプールにみたいな。
そうですよね。なんかもう本当ずっと尊敬している人から注目してもらえてたというような感じですよね。
北里はですね、自分の偉大な、自分の研究がですね、この偉大なパスプール先生にですね、興味を持ってもらえてたかということに素直に感動いたします。
そしてですね、疑問をぶつけます。
彼自身が思ってたことですね。先生は不服戦争の時にイタリアからの支えを断ったと聞いておりますと。
先にちょっとご紹介しましたけれども、パスプール自身はですね、不服戦争でフランスはですね、プロイセンに負けてですね、国土が非常に荒廃してました。
パスプール自体はもうその時すでにスター研究者でしたので、この参上を見兼ねてですね、イタリアから討ちに来ないかというふうに誘ってもらっております。
しかしですね、パスプールはその申し出を断っています。
その北里のですね、質問に対してパスプールは答えます。
悲劇の母国を差し置いて、良い地位を求めることはできない。私は脱走兵にはなりたくなかったというふうにですね。
ちょっと北里さん自身もちょっと重ねたところもあるのかな。
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そうですね。このことを知ってたので、私は絶対日本に戻るんだっていうのはですね、北里の信念でもありましたので、それを直に言っていたということですね。
で、パスプールはですね、会談の最後にですね、突然何を思い出したのかですね、壁にかけてある自分の肖像画というか、写真ですね。
を手に取りまして、その上にですね、北里博士、素晴らしい研究に敬意と祝福を込めてVPassツールと辞書してですね、そして北里に渡してくれたそうです。
うれしい。
嬉しいですね、これはね。北里はこれをもう本当に終生ですね、大事にしたみたいなんですね。
いや、お守りみたいなもんですよね。
いや、お守りですね。本当、憧れの人からその人の写真に直でサインを書いていただいて、手渡ししてもらうと、最高ですよね。
ちなみに、パスツールはですね、この3年後に亡くなります。
会えてよかった。
いや、本当よかったですね。
で、最後の言葉がですね、人は働くものだ、私はできるだけのことをやったっていうふうにおっしゃったんですね。
72歳だったそうです。
満足のいく人生だったっていう感じですね。
そうですね。
さて、北里はですね、パスツールと会った後ですね、イギリスに行きまして、そこで1週間滞在しています。
そしてですね、大西洋を渡ってアメリカに入りまして、ニューヨークですね、ニューヨークから列車でカナダのバンクーバーまでですね、
バンクーバーは西海岸にありますので、東から西までずっと大陸横断鉄道で横断するということをしております。
北里はですね、旅程をですね、細かく何日にどこに行ったっていうのは書いてるんですけど、どういったことをしたのかっていうのは書いてないんですね。
なので、どこで何、どこに行ったのかわかってるんですけど、何をしたかちょっとよくわかってません。
北里がですね、バンクーバーにたどり着いた頃ですね、ドイツ医学会はですね、北里が残した全人未踏の研究成果を評価してですね、
ドイツ皇帝のヴィルフェルム2世の名前でですね、大博士、プロフェソルの名称をですね、北里に贈呈します。
国庫はですね、学びしがこれを受賞したというのをとても喜んだそうなんですね。
この時期、海外の人にこういうね、言ったら皇帝の称号を与えるってことは、めったに。
特にこの大博士プロフェソルっていう称号をですね、これはなかなか、もちろんドイツ人でもなかなか取れる称号ではないと思いますので、
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それを海外の人に与えるっていうのはですね、非常に名誉なことだと思いますね。
すごいですね、そりゃ国庫は嬉しいですよね。
自分、多分国庫もこの称号を持ってたんじゃないかなと思うんですけど。
なるほど。
この賞状がですね、在ドイツ日本大使館に届けられまして、この公文書はですね、日本の外務省、外務大臣のですね、当時の外務大臣の榎本武明に贈られます。
ちなみに榎本武明はですね、坂本龍馬のお弟子さんですね。
そこにつながっていくんだ。
江戸幕府が結んだですね、不平等条約をですね、解消するのに頑張った外務大臣になりますね。
なるほど。すごいスターたちがいっぱい出てくる。
そうですね、やっぱりスターが出てくるんですよね、この当時。
榎本武明はごめんなさい、間違えた。
反政府軍として頑張るんですけれども、その時、肘方俊三が亡くなるわけですけれども、その後捉えられてですね、
試験になりそうなところを、これだけの人材を試験にするのは惜しいということで、
政府の方に雇い入れられてですね、最後外務大臣になるんですね。
それで不平等条約の解消に頑張る。
非常に日本のですね、ヨーロッパとかから落とし締められた条約だったところを回復させたっていう、
同等の地位まで押し上げた外務大臣として有名ですね。
だったと思います。すいません、ちょっと間違えました。
ここら辺はちょっとバッサリカットでもいいかもしれないですね。
ちょっと適当な知識でしゃべってしまいました。
カナダのバンクーバーですね。
江ノ本の立明に、そういうプロフェッサーの称号が送られたよということを聞いた人がですね、
そこから太平洋を横断する船に乗り込みまして、13日の航環のうちですね、
1892年、明治25年、5月28日に横浜港に到着をいたします。
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やっと日本に。
やっと日本ですね。太平洋を横断するのも約2週間かけてっていうような形で日本に来たというところですね。
プロフェッサーですね、プロフェッソールの称号を受けてですね、
しかもパリでもですね、大歓迎を受けたですね、スター研究者北里がですね、横浜に着いた時はですね、
誰からの寛大もなくですね、インタビューを申し込む記者もいなかったそうなんですね。
そんな感じだったんだ。
そうみたいですね。
あらあらって感じですよね。
横浜からですね、記者に乗り換えてですね、北里は新橋駅にたどり着きます。
駅の改札を出るとですね、送り出してくれた留学予算を訓練してくれてた上司の永世とかですね、
それから陸軍の石風呂ですね、陸軍医師の石風呂が出迎えてくれたそうです。
北里はですね、本当に予算を訓練してくれたことについて、いろいろお礼を伝えたということですね。
その場でですね、ドイツ政府からですね、届いていたプラフェソルの称号を受け取ります。
そして家に帰ります。
妻のトラは25歳になっております。
やっとご対面。
やっとですね。
どんな気持ちだったんだろうな。
お互いにこんな顔だったっけとかって思ってたかもしれないですね。
トラちゃんはね、どんどん綺麗になっていく年頃だと思うんですけど、
逆にトラちゃんからしたら、ひたずらと芝さん風呂、あれこんなおじさんになっちゃったって思ったかもしれないですね。
もともと年の差ありましたもんね。
かなりありましたからね。
32歳ぐらいで出てって、38歳ぐらいで帰ってってのかな。
なので、まあまあ年取りますよね、その頃は。
それにしてもね、カナダではとかドイツでは、こんなに英雄というかスターで来たのに、日本からは誰もいないっていうのはちょっと寂しいですね。
寂しいですね、ほんと。
なんとも悲しいなという。
温度差。
温度差がね。
この日本へ帰国後というところになっていきますけれども、
日本に帰ってきてですね、出迎えもほとんどなくですね、非常に礼務されていきます。
帰国後にですね、どのような行動してたのかっていうのをですね、詳しく調べてくれてる本があるんですけれども、
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どうも基調講演とかを行ったような記録もなくてですね、
外線帰国を伝える新聞もないんですね。
悲しいな。え、でもね、医学会とかそういうところだ、もちろん皆さん知ってるんですよね。
もちろん知ってると思うんですよね。
知ってるけど。
けどっていう感じですね。
で、明治天皇がですね、ご予算を出してくれたにもかかわらずですね、
宮中に参来させてですね、研究成果を報告させるというような、そういう機会も設けられなかったみたいなんですね。
で、なんとひどいことにですね、内務省衛生局ではですね、留学期限がですね、
延期をしてましたので、留学期限中はですね、休職期間ということになってたんですけれども、
延期をしてたので、休職期間の延長手続きをしてくれてなかったみたいなんですね。
なので、無職になっちゃってたんですね。
なんと。
なんとですよね。
そして、内務省は復帰をさせなかったそうです。
えー、こんなスターを。
こんなスターをですね。
で、北里が学んだ出身大学の帝国大学、東大ですね。
もう、彼に研究室一つ与えることもしなかったみたいなんですよね。
なんでなんですかね。こんなに有能な人が、いろんなものを蹴って日本にも帰ってきたというのに。
というのになんですけども、やっぱりあの、
学系論争でコテンパにしちゃったことをですね、
どうも日本の医学界は非常に怒ってたみたいなんですね。
ネギ持ちすぎる。
なので、まあ多分いろんなところに手を回してですね、
まず、多分新聞報道とかさせたら、北里が帰ってくるっていうので、
すごい熱狂的に迎えられたと思うんですけど、
そういったのも多分手回してさせなかったんだろうなと思いますし。
この時から情報操作が。
情報操作ですね。今もよく騒がれてる、
使えない自由っていうやつが使われたのかなと。
使われてますね。
思いますね。
しかも帰ってきて無職っていうですね。
非常にひどい状態ですね。
帰る場所がないっていう状態ですもんね。
そうですね。
ドイツはですね、もう当然非常に北里を評価してましたので、
ドイツ国のですね、特任全権公使ですね、
ゲード・シュミット、グード・シュミットですね、
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はですね、
彼が大使として来日した時にですね、
時の皇帝のビルフ・ヘルム陛下よりですね、
日本の天皇陛下へ以下の内容を伝えてくれという風に
命を受けてたそうなんですけれども。
すごい。
日本の天皇陛下のおかげで北里は留学を延期でき、
ドイツ帝国において伝染病の研究に尽力させてくれましたと。
北里のドイツでの功績は甚大だったと。
このような優れた人材をドイツに送ってくれた
日本の天皇陛下に感謝をいたしますっていうようなですね、
内容のことをですね、伝えてくれてるんですね。
すごい。向こうの陛下から、皇帝から。
そうですね。
で、グード・シュミットはですね、
その内容を時の外務大臣のムツ外務大臣に伝えております。
このムツですね、このムツの方が
坂本龍馬の弟子さんですね。
アリエンタイにいた方になりますね。
はい。
この内容はですね、このムツから速やかに天皇陛下に伝えられたそうです。
日本がですね、これほど北里を霊部したのはですね、
正直記録がないので、やっかみないんじゃないかっていうのが、
報道でしかないんですけれども、
閣議論争でですね、
尾形雅則の実験を否定したというところが起こったんで、
まあ東大総理のですね、
加藤博之とか内科教授のですね、
青山種道なんかの東大罰が尾形を味方してですね、
で、ここに陸軍のですね、石黒忠則とか森銀太郎、森鴎外ですね、
がそれに加担をしたというようなことがありました。
また、あのつぶりん研究の際にですね、
東大から送り込まれた3人が北里がいるということを理由にですね、
門前払いされているということも、
東大罰の自信、自尊心をですね、非常に大きく傷つけることになって、
まあ、この男の嫉妬なんじゃないかなと。
怖い怖い、男の嫉妬。
男の嫉妬本当にもうね、うるさいですからね。
まあこういうね、権利というかそういうものには。
はい、名誉とか権利とかそういうところで、
本当、ストーリー欲求強いですからね。
はい。
で、ここはもうですね、半年間ですね、
北里は無職無休のまま過ごすことになります。
半年。
半年ですね。
北里さんにとってのこの半年、2ヶ月でね、実験成功させちゃうぐらいですからね。
そうですね、2ヶ月でね。
ものすごいロス。
ものすごいロスですよね。
もう何やってんの、大日本帝国政府はっていうふうに。
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いや本当、ツッコミたくないぐらいですけどね。
タイムマシン乗って怒りに行きたいですけど。
本当ですね。
で、ただですね、北里もさすがでですね、この期間を無理には過ごさなかったんですね。
で、世界中のですね、伝染病研究所の現場を見て回った経験とかからですね、
伝染病の調査、研究などを行える施設をですね、
日本にも作る必要があるよということで、
内務省とか本部省とかなどの関係機関においてもあります。
行動はし続けてたんですね。
行動はし続けてました。
ただですね、誰も耳を傾けてくれなかったんですね。
このような国軍奮闘する北里に対してですね、2人の援軍が現れます。
まず1人はですね、内務省衛生局時代にですね、
局長として北里を推薦してくれたですね、長寄仙祭なんですけれども、
ここのですね、後を継いでですね、新しい局長となってた後藤新平ですね、
それから石でですね、衆議院議員になったの長谷川、
長谷川もしくは安志というんですけども、
この2名がですね、後押しをしてくれるようになります。
彼はですね、電線病研究所を設立して北里に一任するようにですね、
政府に働きかけを行ってくれます。
で、国会対策を一生懸命してくれるんですけれども、
なかなかですね、いろんな妨害があったみたいで進んでいきません。
予算がつかないという状態ですね。
で、かつての上司のですね、長寄仙祭、もうすでにこの時はですね、
内務省衛生局を引退してましたけれども、
これがですね、長寄仙祭が動いてくれます。
もうこれ以上ですね、時間を無駄にしていると、北里が海外に行っちゃうよと。
確かに。
もうこんな日本の宝、海外にやっちゃっていいのかということですね。
で、これでですね、内務省を退任してって、なかなか内務省が動かないので、
だったらやっぱり再度、国内省に働きかけをしてしまおうというふうに動きます。
ただですね、ここでもどうも国内省の動きに対しての働きかけも潰されてしまったみたいなんですね。
回路が。
回路が。で、長寄は諦めません。
長寄はですね、大阪の蘭岳社ですね、尾形公安の敵塾っていうところでですね、
学んでいましたけれども、そこの同志ですね、福沢諭吉に相談します。
出た。
出てきましたね。ここでまたスター選手が現れるんですけれども、
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この頃の福沢はですね、西洋辞書っていう本を書いたりとか、あと学問のすすめですね、
書いてまして、啓蒙宗家としてですね、非常に有名になっていた頃ですね。
福沢諭吉はですね、ひたざとこれ以上無職で置いておくのは国のためにならないっていうことの、
この長寄の意見に耳を傾けてですね、
我雲水深は我輩の道楽の一つである。十分なことはできないが、
柴公園内の私の土地があるので、ここに必要なだけの家具、家屋を揃えて、
とにかくに、都にも閣にも試験を始めさせようという形でですね、
自分の土地に研究所を建てろっていうふうに言ってくれたみたいなんですね。
すごい。
すごいですね、かっこいいですね。
もう政府が金用意しないんだったら、こっちで何とかやるべっていうことですよね。
すごいなあ、太っ腹。
太っ腹ですね。
この我雲水深は我輩の道楽の一つであるっていうのが、
道楽ってかっこよすぎる。
しびれますね。
結構ですね、我雲の勧めとか西洋事情があったって福沢由吉は、
印税をかなりガッポリ稼いでたみたいなので、財産があったみたいなんですね。
なので、自分の子供にですね、ここに将来的には住ますよと思って、
この土地を買ってたみたいなんですけれども、
もう子供のためよりもこのために使おうっていうふうに考えてくれたみたいなんですね。
で、財を成してはいたけれども、京王大学でですね、学問をしたいというような、
大学運営のためのですね、資金とか若者たちのサポートにかなり彼は財産を使ってたみたいなので、
土地はあるにはあるんですけど、すぐにその研究所を建てるような建設資金が福沢からは出てこなかったんですね。
で、ただ福沢はですね、いろんな人たちを育てておりましたので、その中にはですね、財を成した優秀な人材がいました。
その一人、森村一大門という方なんですけれども、森村はですね、江戸の京橋の生まれでですね、
実業家で、まずはですね、陸軍に取り入りまして、そこに良いものを収めるような仕事をして財を成します。
で、その後ですね、福沢の勧めでですね、弟はアメリカの留学にやりまして、森村組というですね、貿易会社を作ります。
そしてアメリカと日本で貿易をしてですね、巨万の富を築いておりました。
で、この福沢の弟子森村に資金を出してくれというふうに福沢が説得にかかっていたんですけれども、
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この時ですね、妻の寅ちゃんもですね、動いてくれたんですね。寅のお父さんは大蔵省出勤局でですね、将来日銀総裁とも目されておりました。
で、財界のですね、森村とも婚姻だったんですね。
なので福沢から、もしくは日銀総裁と目された寅のお父さんからも森村は働きかけを受けまして、
そんな立派な学者さんだったら検出費用を出しましょうということで、1000円を寄付してくれたということですね。
1000万。
1000万なのでちょっと大した金額ではないですけれども、それで非常に小さいながらですね、10坪2階建て上下6室ですね。
そこに多々との住まいもあるというような非常に小さな研究所ではありますけれども、研究所が準備できることになりました。
こういったところでですね、勉強ができる環境が整いましたよというところで今回は終わりにしたいと思います。
はい。いよいよいろんなところを蹴って日本に帰ってきたのに、この霊風さというところからちょっと光が見えてきたというところですね。
そうですね。本当にひどいなと思いつつ。
ひどいですね。だから無職というかいろいろ見て回ったのもあるんですけど、約1年ぐらいロスしてしまったところですね。
やっと研究所まで来たけれども。
やっと研究所が、この間のね、北里のバイタリティでの1年はもったいないですよね。
いやーもったいないですね。このただの男のネタ目によって。
ですね。
ストップされるっていう。
ただ永代先生が本当によく動いてくれて福沢諭吉を引き当ててくれたというところで。
いやーすごい。ね、本当。諭吉様。
諭吉様ですね、本当。お金を見ると諭吉様と思う。
諭吉様って思うけど、やっぱりそっちの方がね、またちょっと趣味にきますよ。
すごい。というところで、次回はいよいよ小さいながらも研究所がスタートしていくってところからになりますかね。
はい、そうなります。
じゃあここまで聞いてくださいました。ありがとうございます。ぜひ次回も聞いていただきますようお願いします。
よろしくお願いいたします。ありがとうございました。
はい。