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生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者たちへ
MCの金澤秀明です。
アシスタントを務めます山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回は北野さんが、ものすごい実験を行ってただろうというところで、やっと破晶風菌のね、血清にあったっていうところ。
そうですね、はい。血清療法までですね、たどり着いたっていうところで、
本当、まず、無菌培養ですね。無菌培養じゃない、純水培養ですね。
それも研究生の純水培養装置を作ってですね、
それに成功させて、さらにその後ですね、
免疫血清療法まで
開発してしまうというところですね、
をご紹介させていただきました。
はい、1年以内にっていうところですね。
いないにっていう感じですね。
ものすごいスピード感があるところですけど。
そうですね。
なんせ、純水培養は2ヶ月でやってますからね。
ね、本当ですよね。
それで一気にスターダムに押し上がったのに、
その治療法まで開発してしまったっていうところで、
本当にかっこいいなっていうところですね。
さてさてっていうところなんですけども、
この頃ですね、同僚のですね、エミル・ベーリングですね。
こちらはですね、ジフテリアのですね、
免疫に関する研究に取り組んでます。
でですね、2人からですね、
同じ免疫に関するですね、研究報告を聞いていたここはですね、
ベーリングがなかなか研究成果が出ないということを心配してですね、
北里から助言をもらえばっていう風にアドバイスをいたします。
なるほど。
はい。
で、北里はですね、北里とベーリングは国庫の指導の下でですね、
ジフテリアの免疫療法の共同開発、共同研究を始めます。
そしてですね、2人の協調でですね、
動物におけるジフテリア及びハショウ風免疫の成立について、
という風に題するですね、論文を1890年に発表いたします。
で、ちなみになんですけど、この論文の中ではですね、
ジフテリアの治療に関してはほとんど書かれておらずですね、
ほとんどの部分が北里が行ったですね、
ハショウ風の動物実験の血清治療の話が書かれております。
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やっぱりそうなっちゃうんですね。
はい。で、この後ですね、ハショウ風と同じようにですね、
ほぼ北里のアイデアをもとにエミルはですね、
ジフテリアの血清療法を確立いたします。
同じ手法を使ってですね、やっぱりジフテリアに対しても
血清が有効だということを証明したんですけれども、
これをもとにですね、1901年ですね、
第1回のノーベルセリ学賞、医学賞ですね、
ノーベル賞というのがこの時から始まったわけなんですけれども、
この選考が行われた際にはですね、2人が候補となるんですけれども、
これらの仕事はですね、エミル・ベーリング1人のアイデアと誤解されてしまいまして、
彼だけがノーベル賞を受賞することになります。
なんで誤解されちゃうんですかね。
まあちょっとこの、なんて言うんですかね、
この最初のですね、動物におけるジフテリア及び
ハショウ風免疫の成立についてっていうので、
北里はハショウ風で、ベーリングはジフテリアなわけですけど、
これジフテリアが最初に来てるとかっていうのも、
なんかあんのかなって気もするし、
なんかあと、
いろんな説がありますね、ここは。
例えば、当時は白人史上主義社会だったので、
やっぱりそこがあるんだかな。
かなっていう風なのも、なんかよく言われてます。
ただ、ノーベル選考委員会はですね、
それは明確に否定はしております。
まあそういうことはないよとは当然言うでしょうね、とは思う。
まあそうですよね。
まあちょっと正直、その辺りの選考に関しては
よくわからない部分はあるんですけれども、
一つはですね、ベーリングは受賞対象としていいでしょうっていうので、
かなりの研究者がですね、彼に票を入れたみたいなんですね。
で対して、北里はですね、日本で疎まれてましたので、
日本の研究者の誰も北里に票を入れる人がいなかったみたいなんですね。
へー、悲しい。
そういうですね、政治的な部分もひがみがかなりあったと思います。
そんなのもちょっとこう、影響しちゃってるのかなーって思いますね。
ここら辺はちょっといろんな説があるんで、
ぜひご興味のある方は調べてみてください。
はい、わかりました。
1890年ですね、師匠の古穂はですね、血格の治療法を研究していました。
彼はですね、その研究成果を報告するためにですね、
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1890年のですね、第10回の万国医学会の演題に立ちます。
この時ですね、古穂がですね、発表するっていうのはすごい久しぶりだったみたいで、
世界各国からですね、7000人もの聴衆が集まってたそうなんですね。
すごい。
すごいですね。
この時のですね、古穂の講演内容をですね、
北里が日本にですね、知らせてる文章が残っております。
大日本私立衛生会雑誌90号ですね。
その記事は載ってるみたいなんですけれども、
私、古穂は数年前から血核菌を治療する薬品の研究開発に取り組んできた。
血核菌の培養から始まり、いろいろな物質を探索した。
その中には血核菌の成長を防ぐ効果的なものもあったが、
いずれも死滅させるまでには至らない。
しかし最近になって治療に有効なスベルクリーンを発見し、
動物実験でその効果を得た。
今後は人間にも使えるようになるだろう。
こういうような講演内容だったそうですね。
それは北里が日本にも知らせた内容になります。
この講演はですね、拍手喝采、熱狂の渦で閉幕をすることになります。
日本ではですね、既に帰国していた森龍太郎、森鴎外がですね、
これに熱狂してですね、いろいろな雑誌や新聞でこのことを報じます。
森自身もですね、この学会に出たのかなと思うんですけれども。
ちなみにですね、森龍太郎、森鴎外はですね、
実はこの時もうすでに血核にかかっていたみたいなんですね。
なので自分の病気が治るかもしれないっていうのでですね、
多分狂気乱舞したのかなと思います。
それめちゃめちゃ隠してたってことですよね?
めちゃめちゃ隠してて、家族も最後の最後まで知らなかったんですよね。
あった一人、自分の体を見せてたお医者さん、
同僚であるお医者さんだけがそれを知ってたんですけれども。
当時血核にかかったっていう風になるとですね、
もちろん出生にも響きますし、
あと様々な差別も受ける可能性があります。
あちこちに移すかもしれないっていうので、
やっぱり当時はね、なかなか怖かったと思うんですよね。
ちょっと森龍太郎の話は置いておいてですね、
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候補はですね、滑るクリーンをですね、
どのように説明していただくかと言いますと、
滑るクリーンはですね、血核菌のグリセリン抽出液から
タンパク質を取り出して、それで得られた抗原を
血核の患者に接種して、血核の治療や診断に活用する
っていう風に言っておりました。
つまりですね、血核のワクチンのようなものをですね、
作ろうとしてたのかなと思われました。
ここ自身はですね、これをですね、
自らの体に注射して安全かどうかというのも確かめております。
すごい、自分自身の体を持って。
結構ね、この当時のお医者さんというか、
こういう治療を開発したっていう風に言う人たちは、
自分自身に打つとかっていうことを結構やってますね、
人体実験で。
すごいなぁ。
すごいですね。
姿勢がすごいですね。
すごいですね。
この発表を聞きつけてですね、
ドイツ中の血核患者さんがですね、
ベルリンに治療を求めて集まってきたみたいなんですね。
あと世界中からですね、
国庫の研究室に人を送り込もうとしたみたいです。
学びたいっていうことですかね。
学びたいっていうことですね。
当時血核はもう本当、
日本でも国民病って言われたぐらいですし、
世界中に血核患者があふれていてですね、
将来的に死んでいくことは約束されちゃってるような病気ですので、
これはドイツとしてもですね、
どうも国庫はこの時まだ発表したくなかったみたいなんですけれども、
ドイツ政府としてはですね、
やっぱり国力増強というか、
そういう情報を俺たち持ってんだよっていうのを、
どうしても発表したかったみたいで、
国庫にかなり圧力をかけて、
そのような話をさせたみたいですね。
そういうところにも政治的なところがあるんですね。
そういうところでも政治が、
特にヨーロッパ列強がですね、
すごい争いに争ってるような、
そういう時代ですので。
なるほど。
このですね、研究者を送り込もうという意図はですね、
日本でも当然そのような動きがあります。
ちょうどこの年はですね、
日本でですね、議会がスタートした年になります。
1991年の2月6日、
そうですね、議会がスタートした年ですね。
第1回の帝国議会がですね、
開催されまして、
日本からですね、医学史を国庫のもとに送り込もうというですね、
権威がですね、
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王者さんで最初に大儀式となったですね、
天田昇より出されたそうです。
彼の演説の概要はですね、
国庫のもとに北津島がいるが、
彼一人では心もとないと。
さらに3名派遣して窓橋へ帰国後、
全国の海業員にその技を伝授させようという風に、
言います。
でですね、これはもう当然反対意見もなく承認されてですね、
東大医学部からですね、
3人の人間が人選されて国庫のもとに送り込まれます。
ですが、国庫はですね、
彼らを門前払いします。
日本政府は北里が、
私のもとにいることを忘れたのかという風に怒ってたそうですね。
そういう風に北里の目の前で起こるもんなので、
北里はですね、
日本の文部省はですね、
私のことを信用してないのでしょうというふうに返答したそうです。
実際のところはどう思ってたんでしょうね。
北里はですね、
内務省管轄の予算で送り込まれてます。
で、
こちら東大医学部、
送り込もうとした人間は東大医学部の3人なので、
こちらはですね、門部省管轄の人間ということになりますね。
なるほど。
なので、やっぱり内務省と門部省の対立があったのかなという気がしますね。
どっちがね、勝って出るかみたいな。
そうですね。
かつですね、北里は門部省のですね、
参加である東大の尾形が発表したですね、
閣議最近説を否定してますね。
そうでしたね。
なので、これも北里を門部科学省が目の敵にしたのかなと。
思いますね。
なかなか難しい問題ですね。
ですね。
ちなみになんですけど、日本だけではなくてですね、
コフコは世界中からの研究者派遣を断っております。
そうなんですね。
で、つべるぴんのですね、実際の実用化に向けてですね、
北里をチームに加えて、
そして臨床応用に向けた研究開発を積極的に推し進めていきます。
この頃ですね、北里の2年の延期、留学の延期2年認めてもらいましたけれども、
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これが終わりに近づいてたんですね。
で、これをですね、一番心配したのがコフコだったんですね。
このまま北里が帰ってしまうとですね、
すべるくりん研究が中断してしまうということでですね。
で、北里自身もですね、まだ帰りたくなかったんですね。
そのためにですね、コフコは北里をまだ残らせてくれっていう形でですね、
中ベルリンドイツ公使のですね、サイオン・ジ・キンモチを通じて、
内務省に留学延長を働きかけます。
したんですね、内務省もですね、もう2年延期してくれてますんで、
もうこれ以上予算割けないよっていうことで渋ります。
さすがのコフコ先生からの頼みでもね、みたいな感じでですね。
で、ちなみにコフコはですね、
国の延期が認められないんだったら、僕が私費で雇うとまで言ってくれたみたいですね。
わあ、すごい。
いやー、よっぽど信用されてたのかなと思いますね。
まあ本当に大事な右腕というか、研究者としての。
大事な大事な右腕としても、信頼されてたのかなというところですね。
で、この内務省が渋ったことによってですね、
上司のですね、長代が動いてくれます。
長代はですね、北里の記憶によって、
コフコのツブルクリンの研究が遅れて、
それを日本に持って帰ってくることが遅れるっていうのを記憶したんですね。
なので長代はですね、いろんなつてを頼ってですね、
国内省に上層します。
まあ要は天皇陛下にお願いに行くということですね。
で、この陳情はですね、あっさりと聞き入れられてですね、
明治天皇から特別恩賜としてですね、学資金1000円、
まあ現代のお金で1000万円くらいをですね、発資されることになります。
すごい。
ただとはですね、さらに1年間の留学延期を認められることになります。
ただですね、また僕は思っちゃうんですけど、虎ちゃんって思っちゃうんですよね。
本当ですね。虎ちゃんずっと、ずっと待って。
6年になりましたからね、3年。
本当ですね。
旦那が3年生きちゃうけど、3年でも寂しいなとか思ってたのが、
なんかあれがあるの?っていう間に6年返してこない。そんな感じですよね。
もうだいぶだって、16歳から6年って一番顔変わりそうですよね。
そうですね。16歳から2年間くらいは北側に日本にいてるんで、
18歳から24歳ぐらいまで。
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ちょっとね、幼さが大人になる感じですね。
そうですね。
私の旦那はどこなのよっていうね。
本当に、待て状態。
待て状態ですね。
この時期ですね、実は北里はとんでもない誘いをいろいろと受けております。
世界的な研究者として知られてますので、
例えばですね、イギリスのケンブリッジ大学にですね、
医学部細菌学研究所を設けることになったので、
ここの所長として来ないかっていうような誘いを受けております。
大学の新しい研究部署の所長ですからね、すごいですよね。
うわーってなりますけど、断るんでしょうね。
断ります。
断ります。
当然これを断るんですね。かっこいいですね。
その後ですね、留学も終わりに見えた頃にはですね、
その時にはツベルクリン研究も時短なくしていくみたいなんですけれども、
アメリカのジョン・フォックス・ヒンス大学からはですね、
どういう風にならないかとかですね、
ニューヨークのブルックリン病院からですね、
北里を公開部で招き入れたりとかいう話も出てきます。
さらにはですね、フラデルフィアのペンシルベニア大学からはですね、
年俸4万円ですね。
4万円。
自由に使える研究費が年額40万円を提供するっていうような申し出があります。
ちなみにですね、明治20年代の内閣総理大臣の年俸が1億円くらいですね。
うん。
で、まあだから4億円の年俸を、40億円を自由に使えますよと。
まあすごい手厚い。
っていうような、そういう手厚いですね、お誘いがあったみたいです。
でも断っちゃう。
はい、断っちゃいますね。
なんか内閣総理大臣の年俸が1億くらいって結構びっくりしましたけどね。
いや本当ですね。
今確か3000万とかですよね確か。
そうそうそうです。
内閣総理大臣が結構、そんなに高級じゃないっていうのは結構びっくりしますけどね。
はい。
まあ総理を断るんですけれども、だざとは日本への帰国を決めます。
はい。
これはですね、なぜかというと、国保とそれからですね、もう一人の再金額のですね、パスツールの存在が心の中にあったわけですね。
国保はですね、北里に私が再金額を志したのは、ドイツ国民の命を支える杖になりたいからだっていうふうに言ってたそうです。
またですね、フランスのパスツールはですね、科学に国境はないが、科学者には祖国があるというふうに言ってました。
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なるほど。
まあどちらもですね、不服戦争で荒廃した祖国をですね、救うためという目的でですね、それぞれ国に残ってますけれども、
特にパスツールはですね、不服戦争で荒廃したフランスをですね、捨てずに微生物研究所を立ち上げています。
はい。
あともう一つはですね、北里は6年間もの留学資金を出してくれた日本に非常に感謝をしております。
はい。
で、日本に帰って、ぜひこれを国民に恩返ししないといけないっていうふうに固く心に決めていたそうです。
北里はですね、内務省から通達を受けて、1991年のロンドンで開催された第7回バンコク衛星博覧会に出席することになります。
で、その途中でですね、ベルリンからロンドンに行く途中ですね、オランダを訪れることにします。
これはですね、熊本医学校で医学の道を転ざすですね、最初の師匠ですね、マンスフェルトに会いに行くためです。
マンスフェルトはですね、日本での生活を終えてオランダに戻ってたみたいなんですね。
で、オランダのハーグ駅でですね、かつての先生と生徒がですね、感動の再会をするわけですけれども、
その駅でですね、2人とも手を握りしめてですね、ただただ、再会を喜んでボロボロ泣いたそうです。
すごいなぁ。
当時のね、日本とヨーロッパの距離ってえげつない距離ですからね。
そうですよね。
ちなみにその、17年ぶりに再会ですね。
マンスフェルトは59歳になっていて、一方の北里も38歳となっていました。
約倍ですよね、17年ぶりってことは。
マンスフェルトはですね、もちろん北里のですね、フェルリンでの活躍をしていまして、
さらにそれ、その偉大となった北里が、わざわざ自分に会いに来てくれたということを非常に大喜びしたそうです。
嬉しいですよね。
嬉しいですよね。
大スターの、かつての弟子が。
俺の弟子、実は大スターだぜって言ってね。
絶対そうなりますよね。
花高々だったみたいなんですけど、ただマンスフェルトですね、やっぱりそれを誇らしく思ってて、
マンスフェルトたちに、俺は日本で北里を教えてたんだって言ってたらしいんですけど、
誰も信じてくれなかったみたいで、
北里に会ったときにですね、
ちょっといろいろな人紹介するから、
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俺から学んだって言ってくれないか、北里に頼んだらしいです。
なるほど。
そりゃそうですよね。
へー。
嬉しかっただろうな。
嬉しかったと思いますね、ほんとね。
面白い。
残念ながらですね、オランダではですね、あまり時間が取れなかったみたいで、
あちこち回ってくれって言われたんですけれども、残念ながら、数名にしかお会いしなかったみたいですね。
証明できたのは数名だった。
証明できたのは数名だったみたいです。
へー。
で、ロンドンの方に学会に出席します。
このときですね、イギリスのケンブリッジ大学に誘ってきたですね、
ペンキン博士からもですね、その学会でコンタクトがあってですね、
なんで来てくれないんだよというふうに言われたそうなんですね。
うん。
で、いろいろと調べたけど、日本には十分な最新設備がないじゃないかと。
はい、はい、確かに。
君、研究できるのかよというふうに言われたみたいなんですね。
で、北里はそのときにそれでも祖国に恩返しをしないといけないと。
はい。
なので私はケンブリッジにはいけませんというふうに丁寧に答えたそうですね。
まあ後ほどわかるんですけど、ペンキン博士はですね、もっと良い条件を示したところがあったと思ってた様子です。
おー。
そうなったんだ。
なので、いや実はここここで、こんな条件でとかって言われたら、それより高条件を出すからっていうふうな形で駆動をしてたのかなっていうところですね。
で、このときの学会の写真が残ってるんですけれども、
まあその中にですね、見事にですね、北里はこの、この学会の最近学者たち、スターのスター最近学者が大量にこの中、この写真の中に写ってるわけですけれども、
北里はですね、見事真ん中の方にですね、陣の上で写ってます。
そうですね、載ってますね。
はい、たった一人の東洋人がですね、白人のスター研究者に囲まれて、でもですね、彼自身もスターですから、真ん中にしっかりいるという感じですね。
はい。
そういったところで、はい、今回は終わりにしたいと思います。
はい、ありがとうございます。
すごい、1年間の延長も聞き入れられて、しかも天皇から。
はい、天皇から意思をもらってですね、1000万円ですね、頑張ってこいっていうことで。
すごい、まあ本当に期待されてたっていうところももちろんあるし、それにしっかり恩返ししたいっていう北里とのぶれなさ、ぶりがすごいですね。
そうですね。
日本に帰るっていう。
かっこいいですね、まあね、早く寅ちゃんにも会いに行ってあげてほしいですしね。
そうですね、それもあります。
すごい、でもあの金額出されたら、ね、普通ならぐらつきそうなところですけど。
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いや、普通なら行くでしょうと思うんですけどね。
すごい、まあその辺がね、やっぱりその北里さんらしさっていうところがあるんでしょうね。
そうですね。
軸っていうところがぶれないっていうところ。
ぶれないですね、本当に。
かっこいい。
かっこいいですね。
じゃあ、まあいよいよ次回は日本に帰るっていうことで。
そうですね、日本に帰っていく形になります。
はい、次回もぜひ楽しみにしていただければと思います。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。