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029.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.14~奇跡の再会
2025-06-30 26:41

029.日本の細菌学の父『北里柴三郎』:Part.14~奇跡の再会

前回に引き続き、日本の細菌学の父・北里柴三郎をご紹介していきます。 今回のエピソードでは、15年ぶりに再会したコッホ先生とと北里柴三郎、そして伝染病研究所を訪れた恩師の言葉、日本各地の旅、そして別れの時までの軌跡をたどります。

シーズン2
「ノーベル賞に最も近づいた最初の日本人、北里柴三郎」
の参考図書は

ドンネルの男・北里柴三郎
山崎光夫
東洋経済新報者

北里柴三郎 感染症と戦い続けた男
上山明博
青土社

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00:06
生命科学の冒険者。
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
MCの金澤秀明です。
アシスタントの山崎愛子です。よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。
前回、15年ぶりのコウホー先生との対面というところから。
そうですね。
なんせ、とにかく北里はですね、立派になった自分を見てほしかったのかなと思います。
もちろんね、コウホー先生に会いたかったというのもあるかと思いますけれども。
とにかく日本を招待したかったというところですね。
何と言っても見せたかったのがですね、立ち上げた大伝染病研究所ですね。
そうですね。同じくらいの規模感って言ってましたもんね。
そうですね。
コウホーはですね、この研究所に来てですね、本当に褒めてですね、いろいろな実験を見て回ってですね。
かつ、北里の弟子たちですね、実験者に対していろいろなアドバイスをしてくれたみたいなんですね。
君のような弟子をもって僕は誇りに思うよという形で言ってくれたそうです。
嬉しいですね。
嬉しいですね。
その後ですね、本館の玄関前にですね、月桂樹を植樹したそうです。
この月桂樹ですね、どうも子供なのか、枝分けしたやつなのかですね、
日本のいろんな医学部とかに植わってるって話も聞いたことがあるので、
ぜひ。大阪医科大学にあるとかっていうのを聞いたことがあるんですけれども。
すいません、ちゃんと調べたわけではないんで間違ってたらごめんなさいなんですけど。
機会があったらぜひ探してみてくださいっていう感じですね。
コウホーがですね、非常に日本に来てですね、気になったものがあったんですけれども、
それがですね、薬屋の看板なんですけれども、そこにですね、ドイツの最初ですね、
ビスマルクの似顔絵が書かれてるような看板があったらしいんですね。
で、その顔の上にですね、毒滅っていうふうに書かれてたそうなんです。
で、これがあの、コウホーはですね、自分の国の英雄の顔の上にですね、文字を書いてあるというのがですね、非常に不愉快だったみたいで。
03:00
北里にですね、なんとかならんのかっていうふうにですね、詰めたらしいんですね。
まあ、毒滅は確かにさすがにね。
まあ、毒滅の意味はわかんないかもしれないですけども、顔の上に文字、自分のね、国の英雄の顔の上に文字が書いてあるっていうような。
で、すぐにですね、北里はですね、都議の警視総監に連絡をしてですね、この看板を取り締まってほしいっていうふうにですね、訴えたみたいで。
まあそういう顔聞きがあったんでしょうね。
それであの、警察自体もですね、内務省に所属してたので、そのつてだったようなんですけれども、
3日もしないうちにですね、東京中の看板のほとんどが撤去されたそうです。
おー、結構な数あったってことですね。
そうですね、薬の宣伝だったんで、いろんなところにコピーしたのがついてたんでしょうね。掲げられてたんでしょうね。
6月22日ですね、ライバルの青山種道と森鴎外とですね、3人で北里は国宝を訪ねます。
これはですね、どういうあれだったかというとですね、閣議について国宝に意見を伺うためだったんですね。
北里はドイツ留学中にですね、小型のパッケ細菌説を否定したというか、細菌説を否定したわけではなくて実験手法がおかしいということでですね、
発表して、そのせいで東大バスとは非常に仲が悪くなってしまってたわけなんですけれども。
ただ、この時点ではですね、相変わらず閣議についての原因とか治療法っていうのはわかってなかったんですね。
日本ではですね、このお年の5月ですね、臨時閣議調査委員会みたいなのが立ち上がっておりまして、
会長にですね、陸軍軍医の森太郎が就任してました。
陸海軍の関係者とかですね、大学の関係者、それから伝染病研究所の研究員、医者などが総力を挙げて閣議を研究しようというような会だったんですけれども、
この会にはですね、東大を代表して青山、それからですね、伝染病研究所からはですね、北里が臨時委員という形で任命をされておりました。
なので、仲は悪いながらもこの3人がですね、閣議をなんとかしないといけないというような形で、国から任命されてたということになります。
閣議はですね、江戸時代の江戸ですね、現在の東京とか、あと大阪、京都などのですね、当時の第一都市で流行し始めます。
06:09
なので当初はですね、江戸患いとかですね、大阪晴れとかっていうふうに呼ばれてたわけなんですけれども、
症状としてはですね、全身の倦怠感から始まりまして、視覚異常、足の腐朽ですね、それから運動麻痺が起こり衰弱して死に至るというような非常に弱い病気だったんですね。
心臓障害からですね、突然死することもあってですね、それも活気消失というような形で非常に恐れられたそうなんですけれども、
今どうなっても明らかになってますけれども、都市部で白米食がですね、一般化していって始まってしまった病気ですね。
それまではですね、米ぬかをそこまで摂らないような食事をしてたので、ビタミン欠乏からの閣議っていうのはなかったわけですけれども、
ちょっと贅沢になってですね、白米食が流行って、白米おいしいということでですね、みんな白米食ばっかり食うようになってしまって出てきた病気というところなんですけれども。
ビタミン不足ですね。
はい、ビタミン不足ですね。
当時は各県は血核と並んで国民病となっておりました。
特にですね、布告共兵を進める明治政府の陸軍海軍の中ではですね、兵隊の病死ですね、各県による病死が結構深刻な問題というか、結構死んでしまう兵隊さん、病気になってしまう兵隊さんがいましたので、
それが結構深刻な問題となっておりました。
初期の日本海軍ではですね、航海中に多数の乗組員が各県になっちゃって、それで航行不能になるっていうようなケースもありました。
結構今じゃ考えられないけど、相当打撃大きかったんですね。
打撃大きかったですね。
この事態を有料したですね、海軍省の委務局長ですね、高木はですね、これもしかしたら栄養の問題かもっていうふうに考えてですね、
明治17年からですね、白米ではなくて麦飯とかですね、あとパン食に切り替えて、戦艦で実験航行をしたらですね、
翌19年にはですね、各県の発生率が激減したらしいんですね。
なので、高木はですね、パン食により各県は制圧できるっていう論文を書いてました。
ただ、これ結果論であって、何で撲滅できるのかっていう理論は書いてなかったんですね。
ビタミンが足りてないからだとか、そもそもこの時代ビタミンっていう概念がないので、何でかっていうところは書かなかったんですね。
高木はですね、鹿児島藩で生まれて医学を学んで、明治8年から6年間ですね、イギリスでですね、医学留学をしてました。
09:09
明治14年にですね、生医会ですね、後の東京自家医大を設立して、英国医学を実践するということをやっておりました。
当時ですね、医学っていうのは国ごとに派閥が、やり方が違うっていうんですかね。
イギリス流とかですね、ドイツ流とかフランス流とか、軍隊の運用形式とかでもそういう学ぶ国によっていろいろ違うとかっていうのが、当時いろいろ派閥があったんですけれども。
彼自身は英国流だったわけなんですけれども、その英国医学ではですね、臨床重視で患者に治療効果があれば、それは理論をあんまり考えずに、もうそれでいいでしょうっていうような傾向があったみたいなんですね。
対してですね、森屋、それから青山、北里が学んだですね、基礎医学を重視するですね、ドイツ医学っていうのは、理論が大事というところがありました。
なので、高木の論文っていうのはですね、日本はドイツ医学が、基本的には東大もドイツ医学で進んでましたので、重視してなかった。理論のない論文っていうのはですね、重視してなかったんですね。
なのでここに答えがあったんですけれども、全然採用してなかったというところですね。特に森隆太郎ですね、森鴎外はですね、高木の論文を過論じてたのはですね、森自身が陸軍、そして高木が海軍っていうですね、ライバル関係もあったというところもあるんですけれども、学問的な基盤の違いが非常に大きかったのかなというふうに思います。
海軍はですね、養殖が各家に良いというふうにしてたんですけれども、陸軍では米食がですね、何が悪いっていうような形でですね、全く取り合わなかったみたいなんですね。
その結果ですね、日清戦争では3,900人、日露戦争ではですね、なんと2万7,000人がですね、各家で亡くなってるんですね。
そんなに?すごいなー。
これ結構日高く死にしてたみたいです。
海軍はですね、米食をやめてですね、おかげでですね、各家の死亡者っていうのは1人だけだったらしいんですね。
ただこの事態になっても森鴎外はですね、各家栄養説を取らずにですね、細菌説にこだわってたみたいなんです。
12:00
すごいなー。もう異向地じゃないですけど。
異向地ですよ。2万7,000人殺してもですね、こだわってるという感じですね。
ちなみになんですけれども、他にもですね、説としてはですね、米中毒説っていうのもあったらしいですね。
米に何か毒があるんじゃないかみたいな。
なるほどねー。
この年はですね、オランダ領のバタビア、現インドネシアのジャカルタですね、でも各家が流行ってたそうです。
とにかくそのきっかけ、何か解決のきっかけがないかというところで森鴎はですね、国保にアドバイスを求めに行ったというところなんですけれども、
国保自身はヨーロッパの人間ですのでヨーロッパに関係ないんでですね、あんまりそのあたりよくわかってなくて、まずは森鴎の説明を黙って聞いてたそうなんですね。
で、その中で軍隊は集団生活、またですね、都市部などの人口を無一周知で流行るというところからですね、国保もですね、細菌性の疑いがあるなというふうに考えます。
そして森鴎外にアドバイスします。細菌かもしれない。ただ、証明には国保の三原則を満たす必要があるよと。
大事ですね。
森はですね、この世界的な細菌学者の国保にお墨付きをもらえたというふうに考えてですね、各県の多発しているバタビアに研究者を派遣することにします。
森と青山はですね、この国保との会談に非常に満足して帰って行ったそうなんですね。
北里は各県に正直あんまり興味がなくて冷めてたそうです。
そうなんですね。
その後ですね、臨時各県病調査委員会はですね、
帝国大学と伝染病研究所、それから陸軍からですね、それぞれ一人ずつ3人の研究者をバタビア、インドネシアのジャカルタに派遣しますが、
細菌探しても細菌じゃないんで出てくるわけないんでですね、成果はなく返ってくることになります。
ちなみにですね、各県が解明されたのは明治43年、1910年ですね。
まだまだ先ですね。
鈴木梅太郎っていうのがですね、米ぬかからですね、オリザニンを抽出して、これがビタミンB1ですね。
オリザニンっていうのが今で言うビタミンB1なんですけれども、この欠乏によって引き起こされるということが解明されます。
結果的にですね、海軍の最初、高木が唱えてた、米食わさなきゃ、白米食わなきゃ大丈夫だよっていう説がですね、正しいことが証明されます。
15:03
なるほど。それに気づくのはまだまだちょっと先ってことですね。
そうですね。ただこの1910年になってもですね、結構王政際がみんな悪くてですね。
最近世代の人たちは。
相変わらずですね、米ぬか食って各県が治るんだったらションベン飲んでも治るだろうとかっていうですね、そういう暴論を吐くやつとかもいたらしくてですね。
すごいなぁ。
最後の最後まで何か認めずにいたみたいですね。
なるほどね。新しいものに対しての受け入れ方っていうのは。
なんていうんですかね、ほんと学問じゃないなそれって思っちゃうんですよね。
学者のくせにっていう。
で、コウホーはですね、もともとの予定は10月まで日本に滞在するっていう形だったんですけれども、
9月21日にですね、アメリカのワシントンで開かれる万国結核会議にですね、出席してくれというふうに、
ドイツ皇帝が直々に依頼をしてきたんですね。
さすがにドイツ皇帝の依頼はですね、断ることができなくてですね。
日本の天皇陛下から何か言われてるようなもんですからね。
それはさすがに断れないんですよね。
それで急遽ですね、予定を短くするということになります。
北里はですね、本当に非常に残念があります。
というのがですね、故郷の熊本にですね、恩師を連れて行ってですね、
そこをメインとして九州の旅行をしようというふうに考えてました。
行きたかったんだ。
とにかく連れてきたかったっていう感じですね。
自分の育った故郷を見てほしかったんだと思います。
最後ですね、鎌倉ですね、鎌倉を訪れまして、
箱根で富士山の眺望を堪能して、名古屋を通過して関西に入っております。
伊勢の神宮ですね、お参りしたりとかですね、
あと奈良、京都で神社、仏閣を見て回るという形で、
故郷自身がですね、美術、特に日本美術に非常に興味を持ってくれたみたいで、
古い建物にも大変関心を持ってくれたということですね。
神戸ではですね、遊安線を貸し切ってですね、瀬戸内海を周遊したりとか、
それで広島の五福島神社ですね、に立ち寄ったりもしております。
しっかり観光してますね。
しっかり観光してますね。なんかもう、なんかこのルート行きたいですよね。
行きたいですね。
18:04
宮島をですね、最後に汽車で搭乗しまして、横浜のオリエンタルホテルまで行ったという形で、
横浜のオリエンタルホテルでですね、日本を経つ日まで過ごすことになります。
日本を経つ前にというところでですね、晩餐会が催されます。
この主催がですね、松尾ですね、虎のお父さんですね。
北里のお嫁さんの虎ちゃんのお父さん。
久しぶりに出てきました。
久しぶりに。
この当時ですね、ついに第6代日銀総裁となってたんですね。
もうすごい、ご立派に。
ご立派になっておられます。
そしてですね、この会にですね、虎もですね、柴桜郎とともに和装で出席をしております。
虎にとってはですね、この晩餐会は非常に感慨深いものとなります。
自分の父親がですね、日銀総裁としてですね、
接会的な最近学者の候補を勧退すると。
そのパーティーの主催で、その候補をアテンドするのがですね、自分の夫の北里であるというところですね。
虎さんにとっては候補は初めましてですもんね。
候補は初めましてですよね。
なので、もうこの日本に来ていただいてですね、
自分を6年間奪ったのはこいつかって思ったのか。
どう思ったかわからないですけどね。
どう思ったかわからないですが。
まあとにかく。
きっとたぶん、その候補先生に対する夫の人だとの対応の仕方を見て、
偉大な先生だとか、きっといろんなことを感じたんでしょうね。
いや感じたと思いますね。
しかもその会を主催するのが自分のお父さんっていうところですね。
とても誇らしかったと思いますね。
本当にそうですね。
で、8月24日ですね。いよいよ候補が日本を絶つ日が来ます。
73泊74日の開催だったそうですね。
すごい。2ヶ月ちょっと。
本当に一長一短に来れる時代じゃないんでですね、
もう日本のすべてを見てもらおうっていう感じだったと思いますね。
最後の晩ですね、オリエンタルホテルの一室でですね、
候補夫婦と北里、それから滋賀清志などですね、
数名の皇帝たちを連れてですね、最後の食事を共にします。
で、船が立つときにはですね、横浜港にはですね、
陸軍軍員の石黒とか森鴎外、そして横浜医師会の数百人が見守る中ですね、
候補の乗った客船は日本を離れたそうです。
すごい。最後までね、見送られて。
21:02
そうですね。
すごい良い旅だったんじゃないでしょうかね。
いやーもう本当に、とにかく日本が大好きになったみたいで、
結構日本にいてる間和装を楽しんでくれたそうですね。
へー、そうなんですね。
そんな写真も残ってますので、もしよかったら是非検索してもらえたらと思います。
さてさて、それでですね、1909年、明治42年なんですけれども、
この年はですね、北里ですね、
5ヶ月間欧州を視察してですね、そしてベルリンにですね、国宝を訪ねています。
そのときにはですね、日本でいろいろ歓迎してくれたからと、
今度は逆に国宝の方がいろいろと寛大してくれたそうですね。
この5ヶ月の欧州視察はですね、メインの目的はですね、
ノルウェーで開催された第2回のですね、ハンセン病会議にですね、
北里を議長として招待したというところになります。
北里はですね、ここでですね、日本におけるハンセン病と題する特別講演を行っております。
すごい、もう世界的に名前がもう通っててってことですもんね。
そうですね、というところでですね、ハンセン病の特別講演を行って、
実は北里をですね、日本のハンセン病をですね、
どのように治療していくのかとかっていうところの最初の企画というか、
そういったところにも実は携わっておりました。
ですので、そのあたりのことをこの学会で喋ったというところになります。
そのおかげでですね、国宝先生とも再度再会できたというところですね。
本当ですね。
ここでですね、本当に再会してたのが非常に良かったというか、
1910年ですね、明治43年の5月27日ですね、国宝は心臓病のために亡くなってしまいます。
67歳ですね。
やっぱりこの年は60代なんですね、皆さん。
そうですね、60代。
それも60代後半まで生きれたらなかなか高齢な方だと思います。
一般の方々って多分50代いかないかいくかぐらいで亡くなってますんで、この時代はですね。
そうか、良かったですね。
本当にその前年にですね、お会いできて良かったなと思いますね。
北里はですね、5月30日にですね、伝染病研究所で国宝先生の哀悼式を取り行います。
なかなか本当に尊敬されてたんだなと思うんですけれども、
24:04
北里はですね、国宝が日本で産発した際のですね、髪の毛とかをですね、なんか大切に保存してたらしいんです。
そうなんだ。
で、国宝夫人からもですね、再度遺髪を送ってもらったみたいです。
で、この髪の毛をですね、御神体としてですね、伝染病研究所内に国宝の祠を建立しております。
へー、すごい御神体として。
ちなみに国宝祠はですね、今でもあるみたいです。
そうなんだ。
なんかその当時、髪の毛っていうのはそういう意味合いがあったんですかね。
どうなんですかね。
なんかでも、それこそ戦争中の戦死者、遺体を持っていけない時は指を切ったりとか髪の毛を取ったりとかして、
で、遺族に送るっていうのをね、してたっていう。
場合によっては石ころしか入ってなかったとかね、そんな話も聞きますけれども。
石ころとかも、下手したら髪だけしかね、なくなったっていう、髪だけとかっていう話も、第二次世界大戦中の話には聞きますけれども。
なので、やっぱりそういう何かしら体の一部っていうのは、なんか日本人は大事にしたんでしょうね。
なるほど。
というところで、はい、今回は終わりにしたいと思います。
はい、ありがとうございます。
ねえ、コッホ先生の73日、374日の滞在ですね。
そうですね。
まあね、亡くなってしまうまで、何度かお会いできた機会があったっていうのはすごい貴重な時期だったのかなと思いながら。
そうですね、本当にいい時間が過ごせたのかなというふうに思います。
はい。
次回ですね、福沢由吉が心配してた大問題が起こります。
まさか。
まさかっていうところが起こりますので、ちょっとその話をさせていただければと思います。
ありがとうございました。ありがとうございます。またぜひ次回もお聞きください。ありがとうございました。
ありがとうございました。
26:41

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