6月の「#科学系ポッドキャストの日」は、共通テーマ「効果」についてお話します。 今回スポットを当てるのは、日本初のワクチン接種機関「除痘館(じょとうかん)」を開設した緒方洪庵(おがたこうあん)。
日本における感染症対策の最初の一歩はどのように踏み出されたのか、現在に繋がる感動のストーリーをお届けします。
【今回のみどころ】
・奇跡の命のリレー:冷凍技術がない江戸時代、ヨーロッパからインドネシアを経由し、子供の腕から腕へ「生きたウイルス」を繋いで大阪まで届けた方法とは?
・大デマとの戦い:ワクチンを怖がる世間の「打つと牛になる」というバッシングに対し、洪庵はどうやって安全性を証明したのか?
偏見を乗り越え、ワクチンの絶大な「効果」を日本に根付かせた洪庵たちの挑戦をぜひお聴きください!
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感想
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00:06
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者へ。 プレゼンターのあきです。 アシスタントのとみーです。
はい、今お届けしているシリーズがですね、妊婦と子どもの予防接種をテーマに、 子どもの間に打つワクチンとその病気についてお届けしてますから、
今回はですね、6月の科学系ポッドキャストの日に参加しますので、 こちらのですね、テーマに合わせた話をですね、ちょっと1回挟みたいと思います。
はい。 6月のテーマはですね、効果ですね。
それでですね、ホストはポッドキャストサイエンティストのさとしさんになります。
はい。 ポッドキャストサイエンティストですね、僕ちょこちょこ聞かせていただいてるんですけれども、
いつもですね、さとしさんは落ち着いた大人の声でですね、淡々と科学系なことをですね、解説してくれてましてですね、
で、ポッドキャストランキングの生命科学ランキングをたまに気にして見てるんですけれども、
だいたい生命科学の冒険者より上にあってですね、たまに勝つときがあるみたいな感じで、勝手にライバル視してなんか羨ましく思ってます。
はぁ。 って感じでですね、さとしさんのファンでもありますという感じなんですけれども、
本当に落ち着いて解説されていらっしゃってですね、私の場合はしょっちゅう噛んでるしですね、カタカナ名は読み間違えるしですね、
あとえーっととかですね、そういうのも多いのでですね、見習いたいなと思っております。
今ここまでの話でもちょっと噛んでたかなとは思うんですけどね。
そこはもうね、徐々に上手くなっていきたいなと思いながら、
ボイトレじゃない、なんかそういうの通ったほうがいいのかなってちょっと思いますけどね。
ナレーション学校みたいなね。
そんなのあるのかな。
あると思う。個人レッスンとかもあると思う。
っていうのを妄想しておりますが、そして多分行かないと思いますが。
ということでですね、テーマがですね、効果ということなので、ワクチンの効果ということで今回お届けしたいと思います。
ワクチンの効果でですね、日本で一番最初に予防接種というか、そういうワクチンが入ってきたの。
そして広めたのがですね、尾形康安という方になりますので、その方のお話をさせていただきたいと思います。
まず尾形康安さんなんですけれども、ちょっと簡単にご紹介をさせていただきますと、
日本でですね、天然等のワクチンを江戸時代の方になりますけれども、江戸時代に天然等のワクチンを広めた人物になります。
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でですね、その後お弟子さんのですね、長屋先生っていう方ですね。
これは過去北里柴札郎の会でですね、北里先生の盟友として出てくる方なので、よかったら過去会聞いていただければと思うんですけれども、
その長屋先生に引き継いでいくということになります。
で、まず尾形康安先生のですね、ちょっと来歴からお話をさせていただきたいと思います。
尾形康安はですね、幕末に生きた方という形になるんですけれども、後にですね、大阪でですね、鉄器塾というですね、私塾を開かれます。
で、鉄器塾からはですね、明治時代の偉人がいろいろと輩出されております。
例えばですね、いろいろ出てくる中で福沢諭吉なんかもですね、鉄器塾の出身の方になりますし、先ほど申しました長屋先生なんかも鉄器塾の生徒さんになります。
で、尾形康安自体はですね、1810年ですね、美中ですね、の足森藩というところで生まれます。美中ですので、岡山県の岡山市になります。
で、当時の日本のちょっと状況なんですけれども、家政文化っていうふうに呼ばれるですね、江戸中心に花開いたですね、浮世絵とか戦流とか国楽などをですね、ちょっと文化的な町人文化が栄えるというような時代ですね。
ちょっと豊かになってきて、人々に余裕ができて、商人なんかも、商業なんかも発達してきてですね、ちょっと浮き足立っているというか、いろんな文化が花開いたような、そんな時代になります。
逆にですね、日本近海にはロシアとかイギリスなどがですね、外国戦で頻繁にですね、当時鎖国してましたので、何とか日本に国庫を開かせようとして、海外の勢力がちょっとちょっかいを出しに来てたような、そんな時代でもあります。
最終的にはアメリカが来てね、それで国庫を開くということになりますけれども、その前にもロシアとかイギリスがですね、結構ちょっかいをかけてきておりました。
例えばですね、コアンが生まれる少し前なんですけれども、ロシアのですね、施設のレザノフという方がですね、通商の要求をですね、持って日本にやってきておりまして、それでですね、それを拒否したことによってですね、ちょっと軍事衝突があったりとか、
あとイギリスの軍艦がですね、オランダ船の旗を掲げてですね、長崎の出島に入ってきたりとかするっていうようなですね、出島を警備してた人をですね、連れ去っちゃったりとかしたっていうようなですね、そんな事件もありました。
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それが1808年ですね。こんな感じでですね、ちょっと外がザワザワしてきて、鎖国がちょっとやばいぞっていうふうな状態になっているような時ですね。
こんな国際情勢がですね、ちょっと変わっていって、日本が変わらないといけないよなっていうような感じの時にコアンは生まれますが、生まれつきですね、体が弱くて、武芸によってですね、武士として範囲使えるというようなことはちょっと無理だろうというふうな体の弱さだったというところで、
こちら、このですね、体の弱さを克服するというよりは、どっちかというと頭を使って社会に貢献したいというふうな志を持ちまして、学問に励むということになります。
1826年ですね、16歳になったコアンは、大阪のですね、蔵屋敷に赴任することになったお父さんにですね、ついて行って大阪へ移住をされます。
この前年ですね、1825年なんですけれども、江戸幕府はですね、相次ぐ外国船の接近とか衝突事件を受けて、日本沿岸に近づく外国船を問答無用で砲撃して打ち払うというですね、異国船打ち払い令というのをですね、発令していたんですね。
で、国全体としてですね、海外からの圧力に対して防衛姿勢を高下させるというような中で、国の知識人の間でですね、その対策として敵の知識を学ぶ必要があるよねということで、
西洋の科学技術とか医学というのがですね、ちょっと流行る、学ぶことが流行るという形になってきます。
敵を知り、己を知ればというやつですね。
敵のことを学びましょうという形で、当時は唯一ここを開いていたのがオランダですね。ヨーロッパの国としてはオランダでしたので、それで乱学がですね、非常に流行ってきまして、その中の乱医学とですね、出会っていくということになります。
ちょうどはですね、杉田玄博らが解体新書とかをですね、書いて発表したような時になります。
で、コアンはですね、大阪の乱学医であったですね、中川一雅という方の塾に入門しまして、オランダ語の習得とですね、あと西洋医学の基礎を学び始めるという形ですね。
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で、大阪でですね、基礎を固めたコアンはですね、かなり優秀だったみたいでですね、結構どんどんオランダ語も覚えていって、どんどん本も読み進めることができるようになりまして、さらなる高みを目指してという形で、二十歳になったですね、1830年にですね、江戸へ留学をするということになります。
で、当時ですね、江戸の乱学界ではですね、結構逆風が吹き荒れているような状態でした。
というのもですね、コアンが留学する直前のですね、1828年にですね、オランダのですね、小管医の、オランダの出島に来てたお医者さんですね、シーボルトという方がいらっしゃいますけれども、シーボルトって結構名前は聞いたことあるような方多いんじゃないかなと思うんですが、
彼がですね、日本地図をですね、日本からオランダに帰るときにいろいろな日本の物品を持って帰ろうとしたんですね。その中に日本地図が入ってました。
これがですね、軍事機密にあたるということで見つかりまして、これシーボルト事件というような事件なんですけれども、それでちょっと乱学医なんかも危ないというか、
あいつら、オランダとか海外に情報を流そうとしてるんじゃないか、みたいな感じでですね、戸惑いを受けたような形で、乱学者がですね、処罰とか連座で捕まるというようなことが起こりまして、ちょっと乱学に対して厳しいような情勢でした。
ただそんな緊張関係の中ででもですね、広安は、江戸の乱学医の大科であるですね、凄井信道先生という方のですね、私塾に入院いたします。
信道先生はですね、広安の抜群のですね、語学力とですね、誠実な人柄に惚れまして、塾生たちを率いる塾頭に抜擢します。
そして自分のそばにおいてですね、自らが手掛ける翻訳作業とかですね、お手伝わせるというような形で重要な人物として、塾の中で活用するということになります。
とにかくですね、この先生のやり方っていうのは、オランダの本ですね、現象を徹底的に読解させるというようなやり方をとりまして、これはですね、広安が後に開く的塾のスタイルにも引き継がれます。
あとですね、広安はさらにですね、科学とか元素とか酸素とか細胞っていうようなですね、今非常に便利に使われているこういった科学的な用語ですね、これをですね、作られた宇田川洋安という方ともですね、深く交流をいたします。
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ちなみにこの宇田川洋安さんなんですけれども、コーヒーの産地とか歴史、それから淹れ方ですね、そしてコーヒーがどう体に効能があるのかというですね、オランダの文献を翻訳して日本にですね、初めて体系的にコーヒーを紹介しまして、あとコーヒーっていうですね、漢字ですね、これを当てた人でもあります。
こういうコーヒーの父みたいな、それからですね、科学の父、それから植物学もですね、非常に日本に広めた方になりますけれども、こういった方ともお付き合いをされたという形になります。
そして、いろいろな知識を深く学んでいくということですね。
江戸でですね、約5年間の修行を終えた後半はですね、こういったですね、知識を書物から得るに留まらずですね、西洋人史からも直接学びたいということでですね、それでですね、長崎の方に出向くことにいたします。
当時長崎がですね、唯一出島の窓口が開いていて、オランダの人たちが来ているというところで、ここでいろいろと学べるだろうということで、長崎の方に向かうということになります。
この1830年代ですね、先ほどの広安が生まれた時代からは打って変わってですね、天邦の大飢饉というですね、飢饉が起こっておりました。
これによってですね、悪天候で強作が続いてですね、全国で深刻な食糧不足とですね、それに伴う疫病が蔓延してですね、社会は激しく動揺しているというような状態です。
でですね、にもかかわらず商人たちがですね、高く売れるからということで、米をですね、買い占めたりとかしてましたので、それに起こったですね、大塩平八郎さんがですね、大塩平八郎の乱というのを起こすというような形でですね、これが後々の幕藩体制の揺らぎになっていくわけですけれども、
そういった幕府のですね、権威が徐々に壊れ始めていく、そういった時代になります。
こうしたですね、社会的な危機の中で長崎に到着した広安はですね、オランダ商家のですね、ヨハネス・ニーマンという方ですね、からの協力を得まして、出島でですね、最新の内科学とか臨床を学ぶということになります。
ヨハネス・ニーマンはですね、オランダの王者さんというふうに紹介されているみたいなんですけれども、実際はですね、王者さんではなくてですね、出島の最高責任者であるですね、オランダ将官長という立場ですね。
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日本の中では当時、カピタンというふうに呼ばれていたらしいんですけれども、カピタンというのはキャプテンということですね。
とにかく出島の将官の中の一番上の方というような立場になります。
医学なんかにも詳しかったようですね。
彼はですね、ロンドンやパリで地理学を収めて、海外のですね、最新の医学書とかの入手とかですね、出島での修学を許可するような、そういうような方になりまして、
公安とかですね、他にも日本の若き蘭学医たちの勉強とか研究をですね、バックアップした人物というふうになります。
ここでですね、さらにいろいろな学問を学んでいく中で、医師としてですね、確固たる知見を獲得していきますという形になります。
一応ですね、一人前になったのかなというような形になりまして、大阪に戻りました、公安はですね、1838年ですね。
28歳の時に、28歳の時にもう出しちゃうというのもすごいですけど、蘭学塾のですね、敵塾というのを解説いたします。
敵塾というのはですね、敵敵際塾という略なんですけれども、敵敵際というふうにですね、公安自身は何か名乗ってたみたいですね。
で、こういった中でですね、大阪で塾をスタートさせますよっていうのが、前年にですね、大塩平八郎の乱が起こった時でしたという感じですね。
大塩平八郎の乱が起きた1年後に塾を開いたという形になります。
でですね、敵偉塾はですね、とにかく来た学生にですね、オランダ語の原書をとにかく自力で読み解きなさいという形で、
あまりですね、深く手取り足取りというよりは、自身の能力で頑張れみたいな感じで、その中で当格を表すものを引き上げていくような、そういうやり方を取ったみたいで、
たった一冊だけあったオランダ語の辞書を生徒の中で奪い合うような、そういった感じでみんな切磋琢磨しながら、寝ずに勉強したみたいですね。
で、この敵塾からですね、後に明治の衛政行政をですね、ゼロから築き上げることになる北里柴桜の名誉、長谷仙才が出たりとか、あと福沢諭吉ですね、慶応技術の創設者で、これも北里柴桜会で出てますので、ぜひ聞いていただければと思いますけれども、
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あと大村政次郎ですね、彼はその後ですね、長州藩に取り立てられまして、長州の陸軍ですね、騎兵隊に兵法を授けてですね、幕府軍を追い落とすとかですね、そういった形で非常に活躍される方になりますけれども、そういった方がこの敵塾からは輩出されております。
で、医師とですね、あと教育者として活動するかたわらですね、公安が最もですね、あの心を痛めていたのがですね、当時の日本で猛威を振るって、特に乳幼児の最大の死亡の死因の原因となっていましたですね、天然痘ですね、天然痘に非常に心を痛めておりました。
で、えー、イギリスのですね、ジェンナーが開発しました牛頭法をですね、えー、というのが非常に天然痘にとって良いよということは書物で知ってたんですけれども、当時の日本にはまだ生きたワクチン株がですね、牛頭株がありませんでした。
で、えーと、1849年なんですけれども、長崎のオランダ証刊員のオッド・モニッケがですね、えーと、日本にワクチン株を持ってきてくれました。
で、これはですね、あのー、えーと、幕府が非常に要請してたらしいんですけれども、当時あの、当然冷凍技術がないのでですね、えーと、ワクチンを、ワクチンというかこの牛頭自体をですね、えーと、生き、生きてる状態というか、まああの感染させることができる状態でですね、えーと、赤道を越えてですね、当時はあの、日本に来るときにはぐるーっと下回って赤道を越えてこないという状態でした。
なので、赤道を越えて日本までウイルスを運ぶというのがかなり至難の技だったらしくて、まあ何度か失敗もしてたみたいなんですね。
なんですけれども、なんとかこれは日本のためにやってあげようということで、オランダはあの頑張ってくれたみたいで、まああのー、当時ですね、ロシアとかイギリスが、それからまあアメリカなんかもですね、日本にちょっかいをかけてきてるっていう中で、えーと、江戸とのですね、交易の窓口として、
えー、唯一、あのー、オランダはですね、その窓口を持ってましたので、まあここで江戸幕府のですね、えーに恩を売って、で、信頼をつなぎ止めたいというふうに考えてたというのもあるのかなと思いますが、まあそれでですね、とにかく頑張ってくれまして、あのー、なんとかワクチンを日本に運ぼうというふうにしてくれておりました。
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で、えーと、当時ですね、あのー、どういうふうにワクチンをですね、えー、運んでたかというと、もう、普通ヨーロッパの中では牛頭に、子供の腕にですね、傷をつけて牛頭を、まあ、植えます。
で、えーと、水膨れができると、その水膨れの中の海をですね、また隣の子供に植え継ぐというような形で、あの、子供から子供へこう、生きた牛頭をどんどんどんどん植えていくということをしてたんですけれども、それをですね、あの、どっかに運ぶっていうときには、えーと、牛頭がかさぶたになります。
で、そのかさぶたをガラス板に挟んでですね、えー、それで、えーと、持ち運んで、で、えーと、着いた先で、えー、そのかさぶたにですね、えーと、今度は、あのー、牛の、おー、肉の煮汁とかですね、そういったのをこう、加えてやって、かさぶたをこう、溶かしてやって、で、それで、えー、ウイルス液を作ってですね、それを、あのー、また、えー、子供の腕に傷つけて、あのー、植えます。
植えるというような形で持ち運ぶという形です。
めちゃくちゃ原始的です。
めちゃめちゃ原始的ですね。で、ただ、あのー、えーと、やっぱりこう、期間が長くなってしまうと、ウイルス自体がやっぱり感染してくれなくなるんですね。
うんうん。
なので、あの、かさぶた自体もなるべく早く、えー、次に植え継がないといけないという形です。
で、あと、当然、あのー、ウイルスなので、えーと、熱に弱いということで、赤道を越えてくるという風になるとですね、あのー、まあ、そこで、えー、やっぱり、ウイルスが死んでしまうというか、あー、いうことも起こります。
まあ、ウイルスが死ぬっていうちょっと、表現もなかなか難しいんですけれども、まあ、ウイルスが感染する力をなくしてしまうということが起こります。
なので、オランダはですね、えーと、当時、インドネシアを食道として持っていましたので、一旦、インドネシアでですね、このかさぶたを中継しまして、インドネシアの子供たちに、えー、植え継ぐという形で、一回、ウイルスをですね、あのー、新鮮にするというか、あー、いうようなことをいたします。
そして、えーと、この、おー、インドネシアからですね、また、えー、かさぶたをですね、えー、取りまして、えー、それを長崎の出島へと運び込むという形になります。
はい。はい。で、えー、長崎に上陸したらですね、あのー、待ってましたとばかりに、えー、長崎からですね、えーと、佐賀県ですね、佐賀県の範囲だった奈良林総研っていう方、あー、ですね、この人も乱学を習っている方で、えー、シーボル、シーボルとからですね、直接この方は、あのー、えー、乱学を習ってましたけれども、
その、その、奈良林総研が、あー、自分の子供を含むですね、えーと、班の子供たちに、えー、接種して、えー、定着に成功させます。
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そしてですね、えー、こ、これがですね、えー、この苗が、あー、今度京都の方に、えー、送られます。で、京都の乱学医の、おー、日野体裁ですね、これも、あの、シーボルとの、おー、えー、私塾ですね、えー、から、あー、で、えー、乱学を習った、あー、人間になりまして、奈良林総研の、おー、まあ、えーと、兄弟弟子になりますけれども、おー、その方に、えー、伝わりまして、えー、それでですね、京都の方で、えー、
まあ、この株が、あー、増えていくという形になります。でですね、えー、広安はですね、あのー、この京都での成功を聞きつけるとですね、すぐにですね、えーと、子供たちをですね、連れて、えー、京都へ向かいます。
そしてですね、あのー、えー、大阪の子供たちに、えー、の腕にですね、この京都のワクチンを植え付けて、えー、大阪へ連れ帰って、えー、それから別の子供に植え付くというような形で株を、おー、増やしていくということをいたします。
そしてですね、あのー、まあ、こういうような形でオランダからジャカルタに行きまし、インドネシアのジャカルタに行った株はですね、えー、長崎、佐賀、京都を経てですね、えー、そして、あのー、多くの医師たちとですね、えー、あと、もう、あの子供たちの、あのー、協力を経てですね、あのー、繋ぎ止められていって、えー、ついに大阪へたどり着くということになりました。
で、あの、公安はですね、この内容を絶対に絶やしたらならないというふうに決意しまして、で、すぐさまですね、資材をおー、投じまして、大阪の震災橋付近にですね、えー、日本初の組織的なワクチン接種の復旧機関である、大阪女党、女党館ですね、えー、というのを設立いたします。
天然党の党を除く館ですね、はい、という形、除く天然党の党の館ですね、えー、を設立いたします。大阪女党館ですね。これがですね、あの日本のですね、組織的な感染対策の、えーと、ネットワークの中心となっていきます。
まあ、あのー、この活動はですね、えーと、非常に、あのー、えー、ま、あそこに行ったらですね、えー、子供が天然党にかからなくなるということで、えーと、どんどんどんどんいろんな子供が連れ込まれます。
で、あとですね、あのー、えー、この敵軸にはですね、全国からいろいろな方がですね、えーと、医学を習いに来てましたので、その方たちが、あー、自分の国に帰るときにですね、えーと、必ずこの、あの、かさぶたを託すというような形で、えーと、もう、無料でですね、どんどんどんどん全国に、えー、彼自身が、あのー、公安自身が、あー、配ったみたいですね。
それで、えー、どんどんどんどん、あの、日本の中で、えー、この牛刀を接種っていうのが、あのー、普及していきます。
まあ、こんな感じなんですけれども、ちょっとやっぱりデマもあったみたいでですね、例えば、あのー、首刀を受けるとですね、牛になるっていうようなデマがあったりとか、まあ、あのー、西洋のあらし、怪しい呪術だというような、まあ、そういったデマもあったりとか、
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あとですね、伝統的な漢方医からのですね、の、あの、激しい嫌がらせとか反発にも直面したみたいですね。
で、えー、まあ、ただですね、あのー、公安自身もですね、あのー、えーと、そのことはないよということで、えー、自らのですね、あのー、子供とかですね、あと、あのー、自分の近しい子供たちに接種を行って、
で、牛になんかなんないよねと、しかも、あのー、天然刀にこの子はならないよということを証明したりとか、まあ、そういった形でですね、あのー、とにかく、えー、こういったデマっていうのはだんだん消えていったということになります。
はい。
はい。でですね、えーと、1862年ですね、えー、公安はその託出した手腕を評価されてですね、えー、幕府の要請によりですね、江戸へと赴任します。
で、あの、将軍の主治医、あとですね、あの、西洋医学省の託取という形で、えー、えー、就任いたしまして、えー、国でですね、医学教育を普及してくれという形で、えー、命を受けて、えー、それの、あのー、まあ、あ、事業を行い始めるんですけれども、えー、それがですね、えー、まあ、なかなかの厳禁だったのと、もともと、あのー、何かしら病気を持ってたのかなと、
思うんですけれども、あのー、えー、突然ですね、託出しまして、えー、53歳でお亡くなりになってしまいます。
えへ。
まあ、これがですね、江戸時代の終わる、えー、わずか5年前ですね、1867年だったそうです。で、ただですね、この、公安がですね、残したですね、近代医学の精神とですね、あとこの天然痘の株なんかはですね、えー、後、えー、明治政府に引き継がれまして、
で、特にですね、その、おー、弟子のですね、えー、永世先生がですね、えーと、明治政府の中で、えー、まあ、これを頑張って、えー、制度化していくということをいたします。
ということでですね、あのー、永世先生の方にちょっと話を移したいんですけれども、
はい。
はい。
あのー、明治維新によって、新政府がですね、受立されることになります、なってですね、で、永世先生はですね、えー、まあ、その中で見込まれまして、えー、岩倉施設団のですね、一員として、えーと、欧米のですね、先進的な医療体制を視察するという形ですね。
まあ、あの、岩倉とも見率いるですね、あのー、政府の人間が、あの、ヨーロッパとかに視察旅行に行くっていうのが、あの、明治の初期に行われますけれども、その中の一員になって、あのー、海外のですね、えー、医学事情を見て回るということを、おー、の、メンバーになります。
で、えー、そこでですね、あの、彼らはですね、あのー、まあ、海外に行くわけですけれども、永世先生自体はですね、まあ、その中で医学を一生懸命いろいろ見てまいりまして、で、えー、国民がですね、国家の、あー、国家がですね、国民の健康を守るためには、あの、公衆衛生というですね、概念とか、まあ、その仕組みをしっかりするっていうのが非常に重要だなというふうに、えー、学んで帰ってきます。
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で、帰国後にですね、えーと、永世先生が作った言葉が、衛生っていう言葉ですね、あのー、衛生を、まあ、きれいにするとか、あー、そういった、あー、概念っていうか、そういう言葉自体が日本になかったんですけれども、その概念と言葉をですね、あのー、日本国内に定着させるように頑張るという形になります。
はい。
で、これが、あのー、まあ、
党首?首都?
首都、首都か、あー、すいません、首都ですね、首都規則っていうのを規定します。
天然痘のワクチンをみんな打ちましょうってこと?
打ちましょうっていうことなんだけれども、これが、あのー、ちょっと、今だとですね、あのー、いろいろと反発が出そうなんですけれども、あのー、とにかく全国民に打たないと意味がないということで、かなり、えーと、厳しい規則を作ります。
まあ、この規則はですね、あの生後70日から満1歳までの間に、えー、の入院時へ初回接種を必ずしなさいというふうに義務付けるだけでなくてですね、えーと、免疫の低下を防ぐためにその後もう7年ごとの追加接種をしてくれというふうに決めます。
またですね、あのー、やっぱりこう、なんかわからんものは打ちたくないっていうのは、まあ人間の心情だと思いますので、あのー、逃げ回る人っていうのは一定数出るんですよね。
なので、これを炙り出すためにですね、えー、まあ戸籍に、あのー、これをまあ書き加えるという形で、えーと、こいつは受けた人なのか受けた人じゃないのかっていうのを、あのー、わかるように、あのー、するという形、それからですね、あのー、学校の入学とか就職、それから旅行の際に定時が必須とされたですね、えー、首都証明書を必ずみんな携帯しないといけないというふうに義務付けます。
えー、そしてですね、正当な理由のない拒否に対して、えー、まあ罰則規定ですね、あのー、罰金とか、あー、場合によっては捕まっちゃうとか、そういったところまで、あのー、決めて、あの徹底的に、あのー、みんなに受けさせるようにいたします。
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まあ、こんな形でですね、あのー、首都が義務化されまして、で、えー、まあ、あのー、全国民が、あー、売って、えー、日本からは、あー、天然灯がなくなっていくということになるんですけれども、このですね、えー、仕組みは、まあ日本だけではなくて、あのー、いろいろな国で、えー、まあ、やられまして、まあ、最終的に1980年ですね、あのー、人類からですね、あのー、は、もう天然灯はなくなったということになります。
ということで、あの天然灯撲滅宣言っていうのが、あー、WHの方から出されたということになります。
はい。
はい。
でですね、あのー、まあ、ちょっとですね、あのー、最近面白いニュースがありまして、あのー、今DNA解析っていうのが非常に簡単にできるようになりました。
で、まあ、これは結構もうほんと、最近の技術というか、えーと、確か2000年ぐらいにヒトゲノム計画が終了したとかって言って、人のDNAが全部読めるようになりました、読めたよとかっていうのが確かあったんですけれども、まあ、それぐらいこう、DNAを読むっていうのは結構最近の技術というか、まあ、そうは言っても26年前とかそんな感じだけど、なんですけれども、あのー、それに伴ってですね、えーと、
天然党当時、この使ってたワクチン株のDNAを、えー、まあ、調べてみようということで調べたんですね。
で、そうしたところですね、あのー、なかなか面白い技術がわかり、あのー、事実がわかりまして、まあ、ジェンナーはですね、牛頭ウイルスっていう、あのー、牛の天然党にかかった人は、あのー、人の天然党にかからないっていうことを見抜いてですね、
じゃあ、牛の天然党を人間に、あのー、まあ、打てばいいじゃないかと。で、そうしたら、まあ、軽くだけ済んで、しかも人の天然党、致死率が30%あるんで、あのー、30%ぐらいあるんで、人の天然党で死ぬ人は少なくなるよねっていうので、まあ、ジェンナーは、あのー、この牛頭ウイルスをですね、人の腕に植え付けていくっていうことをやったんですけれども、えーと、DNAを調べた結果ですね、えーと、
ずっと使われていた天然党ワクチンはですね、あのー、牛頭ではなかったっていうことがわかったんですね。
これはですね、ワクチニアウイルスっていうですね、全然違うウイルスでした。なのに、ちゃんと天然党に聞いたんですよね。
なので、みんな牛頭を打ってると。なんなら、あのー、あれのせいで牛になるとかっていうふうに、あのー、言われてた、あのー、デマが出たぐらいだったんですけれども、実際はですね、全然違う。
ただですね、あのー、種類としては同じ種類だったので、天然党ウイルスにも、人の天然党ウイルスにも、あのー、効いたというか、あのー、免疫はついたんですけれども、全然違うものだったっていうのが判明してます。
36:09
で、実際ですね、それが自然界では何が近いんだろうっていうので調べた結果ですね、馬頭っていう、あのー、馬の天然党ウイルスに極めて近かったということがわかってます。
まあ、だいたいあのー、ワクチンやウイルスですね、は、その馬頭ウイルスの99%ぐらい遺伝子が一緒だったみたいですね。
なので、あのー、どっかでジェンナーが取ってきたはずの牛頭は、どっかで馬頭ウイルスにすり替わったのか、最初から牛についてた馬頭ウイルスだったのか、それともなんか馬頭ウイルスに近いように変異していっちゃったのか、人間から人間に植え付いている間に。
っていうのが、あのー、謎ではあるんですけれども、結果往来で、あのー、この、効果があったから、結果往来でですね、200年以上にわたって人間の中でですね、大切に使われまして、そして天然党を撲滅することに成功したという、こういうオチがあります。
はい。
はい。
といったところで、あの、バーッとですね、今回は科学系ポトキャストの日ということで、のテーマ、効果ということでですね、このワクチンの効果という形で、日本で一番最初に使われました天然党ワクチンについて紹介をさせていただきました。
はい。
はい。
あのー、ワクチンを広めるときに。
はい。
打ったら牛になるみたいなのって、なんかいつの時代もあるんだなと思いました。
なんかね。
あのー、ワクチン打ったら磁石がひっつく体になるみたいな、私あれ本当に面白くて忘れられなくて。
あの、このポトキャストに私が出るようになってから3回ぐらい喋ってると思うんですけど、人体に磁石はつかない。
磁石にはならない。
はい。
はい。
面白いんだよな。牛になるのかと思って聞いてた。
いやーね、磁石になるぐらいわけがわかんないデマだけど、結構これは、なんかだから磁石になっちゃうっていうのもなんか笑えないデマだけど、
当時この牛になっちゃうっていうのの、何て言うんですかね、刺し絵、新聞刺し絵みたいなのも書かれて、
打ったところからですね、牛の顔がこう生えてくるみたいなのとか。
それスイカの種飲んだら腹からスイカ生えてくるみたいなさ、そういうやつじゃん。
そういうやつですね。
39:00
っていうそのデマのところが一番面白かったです。
なんかそのチラシはすごいいっぱい流行ったみたいで、
いろんなバージョンもあって、日本にもそれが伝わってきて、
なので結構庶民は特にまだ科学知識がそんなにない時代だから、結構恐れたみたいですね。
っていうような感じです。
ということで、ありがとうございました。
ありがとうございました。
39:45
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