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067.1978年の奇跡~薬を捨て、自然と和した先に生まれた子~
2026-03-23 28:50

067.1978年の奇跡~薬を捨て、自然と和した先に生まれた子~

失敗続きだった体外受精チームは、これまでの薬物投与を捨て「自然周期」への切り替えを決断します。

理想的な患者レスリー・ブラウンさんを迎え、持田製薬の検査薬を使いながら24時間体制でホルモン値を監視する執念の追跡。ついに1978年7月25日、世界初の体外受精児ルイーズさんが誕生しました。「私たちはようやく自然と和した」と語ったボブ(ロバート・G・エドワーズ博士)。最終的に、この技術が単なる科学的成果に留まらず、現代の不妊治療の標準プロトコルとして確立され、世界中の不妊に悩む夫婦に子供と幸福をもたらしました。科学が生命の摂理に寄り添い、不可能を可能にした歴史的転換点の舞台裏と、手術室に響き渡った感動の産声の記録、そして3人のその後の人生をお届けします。

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生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者へ。
プレゼンターのあきです。
アシスタントのとみーです。
前回は、IVFによって肺移植を行い、子宮外妊娠ですね。
卵管への着症にはなってしまいましたが、
胎外受精で肺が人間に根付くということを科学的に証明できましたよと。
半分成功しましたよということまでたどり着いたということをご紹介させていただきました。
ただ、きちんと妊娠をさせるためには、
子宮の環境を荒らしてしまう肺乱誘発剤を使うのをやめようということを
ボブとステップ等で話し合って決めたというところまでご紹介させていただきました。
このプロトコールをやめるというふうに決断してから、
非常に理想的な患者さんとしてレスリー・ブラウンという方が彼らの前に訪れます。
彼女は9年間、子宝に恵まれずに、原因もはっきりしていました。
両方の卵管が詰まっているというような卵管性不妊と呼ばれる状態だということがわかっていました。
しかし、それ以外の子宮環境や生理の周期も非常に健康的だったのです。
卵子は肺乱されるけれども、それが卵管に吸われない、
つまり子宮まで行かないという状態であるということは、
外で肺を作って戻してやったらうまくいきそうだなというのが容易に想像できる状態だったということです。
僕たちは、肺乱周期が非常に生理不順でもないということなので、
肺乱周期が読みやすいということで、
かつ子宮の状態も健康な彼女こそ、薬を使わない自然周期法が使えると考えます。
1977年11月ですが、
薬を使わない肺乱には、今までは肺乱誘発剤を使って、
かつ肺乱するためのホルモンも使ってというような形で、
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ホルモンで整えてやることによって、
肺乱の正確な肺乱比をコントロールしていたわけですが、
それが5年間積み上げた成果だったわけですが、
それを捨てるということになるので、
逆に自然な肺乱が起こるのはいつなのかを突き止める必要がありました。
そのために、1977年11月のレスリーさんの自然な肺乱周期に合わせて、
この辺りぐらいで肺乱になると予測はついたのですが、
それが何時に肺乱するのか、
というところまで突き止めないといけないわけです。
卵子は37時間かけて成熟するので、
そこの一番いいところで取りたいというのがあります。
レスリーさんの尿を3時間おきにジーンは採取します。
そして、肺乱のサインであるLHサージのピークを
3時間ごとのこの後のデータをとにかく測り続けて待つということになります。
この肺乱を調べていて、日本人として嬉しかったのですが、
もち田製薬さんが当時ハイゴナビズという検査試薬を作っていたそうですが、
これがホルモン値を捉えるのに非常に良かったそうです。
これをジーンは採用して使っていました。
ただ、この試薬は非常に良かったのですが、
この当時これが最適だったのですが、
それでも尿を採取してから結果が出るまで2時間かかるというところだったので、
だから3時間おきに採取していたのかなと思うのですが、
それでやっていたそうです。
今だとおしっこをかけたらすぐ分かるみたいな、そういうものが出ているみたいですが、
この当時はおしっこを採ってから結果が分かるまで2時間かかったということです。
11月10日の夜、ジーンが今が一番良いという判断をいたします。
そしてステプトーがずっと控えていたわけですが、
深夜に叩き起こされて、今だということで複空鏡手術を行うという形です。
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この時には自然廃乱のギリギリ前という状態ですので、
成熟している卵子はたった一つしかありません。
それをステプトーは見つけ出して、たった一つの卵子を回収するということになります。
その唯一の卵子にボブは調整した、夫のジョンさんから取り出した精子をボブが調整しまして、
キャパシテーション、精子が卵子に受精できる元気な状態にしておいて、
それをジーンが振りかけるということをいたします。
ジーンは観察するんだよね。
ジーンはボブが調整したジョンの精子を観察するんですね。
ボブが受精させて、ジーンが受精卵の分割を観察していくんだよね。
そうですね。
ずっと観察を行って、ジーンが顕微鏡で精子と卵子の核、2つの全核と言いますけれども、
それが中にあることを確認しますという形ですね。
受精から2.5日後、胚は8分割まで成長いたします。
この8分割の状態で、また深夜に移植を行うということをいたします。
この時、技術的には胚盤法まで育てられたんですけれども、
胚盤法まで育ち切るか、もしくは8分割の状態でいくかというふうになると、
胚盤法まで育つ方が確率は低いので、8分割の状態で子宮に戻すと。
ただ、今まで8分割でもなかなか成功しなかったけれども、
この薬を使っていない自然な状態の子宮なら8分割胚でも受け入れてくれるだろうというような駆けを行ったという形になります。
移植後の数週間後に、ジーンがレスリーさんの尿を検査したところ、妊娠反応が確認されたということで、
この時も判定に使った持田製薬さんが開発していたゴナビズという検査試薬だったそうです。
2つの持田製薬さんの検査試薬が初めての時に使われていたというのが、僕としてはちょっと嬉しかったポイントですね。
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1978年の7月25日なんですけれども、妊娠が成立して初めてのお子さんが誕生することになります。
お名前はルイーズ・ブラウンさんですね。ミドルネームは映画ジョイの映画名にもなっているルイーズ・ジョイ・ブラウンさんになるんですけれども、
これはボブがジョイというふうにミドルネームをつけたそうなんですけれども、この子が生まれることになります。
体重は2600グラムの元気な女の子だったそうですね。取り上げたのはステプト先生になります。
ルイーズさんが産声を上げた瞬間にステプトはボブに出たぞというふうに叫んだそうですね。
ここのシーンというのはちゃんと記録映像として残っていまして、映画ジョイでも3人で映って赤ちゃんが映っているような映像が使われていましたけれども、
本当に非常に感動的なシーンだったんだろうなと思います。
エドワーズとジンは1972年に胚の育て方をマスターしましたけれども、その後に母体のリズムを尊重するのを学ぶという形で、
子宮の研究から始めてどの時期に胚を戻すのが一番いいのかとか、そういうのを何回も繰り返し失敗して、
半分成功の非常に悲しい結果となった子宮外妊娠も経て、やっとここまでたどり着いたということになります。
エドワーズは1977年に薬を捨てた時に、私たちはようやく自然と和解したと。
そしてジンが暗闇の中でたった一つの卵子が目覚める瞬間を捉えてくれたんだというふうに語っています。
このような形で初めて胚外受精が成功しましたよう、めでたしめでたしということになりました。
その後の3人についてご紹介したいと思います。
彼らはまずIVF専用の病院、ボーンホールというのを設立いたします。
ルイーズさんの誕生後、世界中から子どもを授かりたいという切実な願いが彼らのもとに届きます。
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しかしイギリス政府は相変わらず予算を付けずに、再度リリアン・リンカン・ハウエルさん、アメリカ人の方が資金援助をしてくれるという形ですね。
プラスアルファでイギリスの鉱山会社の経営者のルドルフ・アグニュという方もこの研究には価値があるということで資金援助をしてくれることになりまして、
ボブとステフとジーンの3人が1980年にケンブリッジ郊外の邸宅を改造して、世界初の不妊治療専門クリニックのボーンホールを設立いたします。
ジーンはここの初代の技術ディレクターに就任することになります。
ラボの設計は彼女が理想とする肺にとって最も安全な環境をゼロから考えて作り上げたそうです。
ジーンは人の肺をどう扱うのかという技術を自分一人だけしかできなかったので、これを教える教育者となります。
今、世界で活躍するベテランの培養士の多くはその孫弟子にあたるというような形で、ジーンがスタートでいろんな人たちに世界中にこの技術が広がっていったということになります。
最初の論文には名前を載せてもらえなかったジーンですが、その後いろいろな論文に携わるようになり、1970年から1985年の間にボブ・エドワーズと共同で26本もの学術論文を発表しています。
培養の部分でプロフェッショナルというか、肺の声が聞こえるのかこの人はというようなすざましさだったので、標準プロトコルの作成を行います。
何度で培養して、どのタイミングでどの培養液を使うのがいいのかという、現在でも使われているIVFの標準プロトコルを文書化して体系を立てたというのが彼女の功績となっております。
1982年にはボブとの協調で、体外受精による人類の受体という専門書を出版しております。これは初期の不妊治療におけるバイブル的な位置づけとなったような文章です。
体外受精をやるためには、まずこれを教科書としてスタートするということになりました。
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1980年代の前半ですが、イギリスでは体外受精を法的にどう規制するのかというワーノック委員会がようやく立ち上がるという形です。
ここで人員は倫理側の代弁者として、受精卵を単なる細胞の塊ではなく、潜在的な生命としてどう尊重すべきかという倫理的議論に現場視点からいろいろと説明を行うということを行います。
大変残念なのですが、1984年頃このような活躍をいっぱいしていたジーンは、悪性腫瘍、がんになっていることが判明してしまいます。
彼女はそんな状態でありながらも、自分が亡くなると分かっていても、ずっとボーンホールのラボに居続けたそうです。
いろんな方に自分の技術を教えて、顕微鏡を除いてというような形で、最後の最後まで治療に携わっていたそうです。
1985年の4月13日にジーンパーティーさんは、なんと39歳の若さで息を引き取ります。
ボブは彼女が亡くなった時に、私は右腕を失ったのではない、私の魂の半分を失ったのだというくらい悲しんだそうです。
本当にジーンパーティーの努力がかなりの部分を占めて、胎外受精が立ち上がったわけですけれども、彼女自身は非常に早い若さで亡くなってしまったということですね。
ステプト先生は、ボーンホールが立ち上がった時には、メディカルディレクターとして初代院長に就任いたします。
彼は自分が開発した腹腔の災難技術をさらに磨き上げるということをします。
普通だったら引退するような年ですね、この時には70歳になっていたんですけれども、それでも世界一流の技術を持っていたという形ですね。
世界中から集まる産婦人会たちに、この技術を惜しみなく伝授していくという形を取りました。
今、世界中で行われている災難技術の基礎は、このステプト先生が作ったというふうな形になっています。
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本当に教科書的な先生となります。
長年、ロンドンのエリート医学会から地方の怪しい医者みたいな扱いをされていた彼なんですけれども、
1987年には、王立協会のフェローとして選出されます。
これはイギリスの医学会、科学会の中では最高の名誉の一つとなります。
1988年には、大英帝国勲章を受賞されて、エリザベス女王から直接勲章を受賞されたそうです。
1988年ですけれども、ステプト先生は前立腺癌に起こされていましたが、
彼も病状を隠して診察を続けていたそうです。
1988年の3月に74歳でこの世を去ることになります。
最初に生まれたルイーズ・ブラウンさんはステプトさんのことをパトリックおじさんと呼んで、
実のお家族のように慕っていたそうなんですね。
彼の葬式には、彼が救ったというか、
治療した多くの家族が参列されたそうです。
ボブは不妊治療が科学的に標準化されるべきだと考えます。
1984年にボブが中心となって設立するんですけれども、
欧州人生殖委員会を立ち上げて、これを世界最大の組織へと育て上げていきます。
ここは不妊治療のガイドラインを作る世界最高の権威となっています。
また、不妊治療、ヒューマンリプロダクションというような形の名前の学会史を創刊して、
世界中の不妊治療に関わる研究者が成果を発表できる場を作ります。
ルイーズさんの誕生から32年経った2010年、
ボブが85歳の時にノーベル医学生理学賞が贈られるということになりました。
もちろん受賞の理由は、体外受精の技術の開発ということなんですけれども、
この時には既にステプトンもジーンもこの世にいなく、
ボブ自身も認知症を患い始めていたために受賞式には出席できなかったんですけれども、
妻のルースさんとあと5人の娘たち、
21:00
そして最初に体外受精で生まれたルイーズ・ブラウンさんが出席したそうです。
2013年4月10日、ボブは87歳で亡くなります。
彼の葬式には彼が作った技術で生まれたかつての赤ちゃんたちが世界中から参列したそうですね。
ボブは自分の仕事について語っていたそうなんですけれども、
科学において最も重要なのは、それが人々の幸福にどう貢献するかだ。
何百万人の子供たちの笑顔以上に素晴らしい科学の成果があるだろうかというふうに言っていたそうです。
ボブはずっと心に思っていたことがありました。
ルイーズさんが誕生した後の3年後の1981年、
彼女が生まれたオールドハム総合病院には記念のプラーク、鉄の板に名前が書いてあるような記念碑が設置されることになりました。
ここに病院側というか当局が、世界初の体外受精児がパトリック・ステップト氏とロバート・エドワーズ氏によって誕生したというふうに文面が書かれたそうなんですね。
これにボブは激しく反発します。
ジーンの名前が入ってないなら私は除脈式に出席しないし、そのプラークは嘘であるというふうに猛抗議をしたそうなんですね。
ただ当時のオールドハム衛生局はジーンは単なる技術者、ナースであって、医師や教授と同等に名前を刻むのは不適切だというような形で名前の掲載を拒否したそうなんですね。
なので結果としてはこのプラークにはジーンの名前は入らずに、ボブはその除脈式をボイコットします。
ボブは亡くなる直前までジーンの名誉を回復せよというような手紙を書き続けて関係機関に働きかけたそうです。
これは彼の生前中には達成できず、彼の死後、2013年から2年後の2015年、ようやく彼の悲願が叶ったという形になります。
2015年の新しいプラークには、かつて間違った評価を下したオールドハム協議会と、ボブが作った病院の関係者、それからルイーズ・ブラウンさん本人が立ち会って新しいブループラークが設立されるということになります。
そこには、ついにパトリック・ステップ・トーとロバート・エドワード、そしてジーンバーディという形で3人の名前が大きく刻まれたそうです。
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ようやく37年という長い年月を経て、ジーンバーディさんの名前が歴史の表舞台に刻まれたという形になります。
このような形で、3人はこの世を去っていったわけですが、偉大な対外受精という技術をこの世に残してくれたのかなという形になります。
という形で、対外受精編は以上になります。
対外受精について、実際我々がこの医療の恩恵を受けて、今見事に妊娠までこぎつけられたわけですが、
それを生命科学の冒険者でやりたいなと思って、調べ始めたらジョイという映画があるということを知って、
2人で見て、さらに深く調べて、このスクリプトを書いたわけですが、
本当にありがたいというか、ここまで信念を持って続けてきてくれたおかげで、
今その恩恵を受けられているんだなと、当たり前に受けられているんだなというところに感謝しかないなと思いました。
日本でもどんどん不妊治療に対して、お除菌なんかもついてきていて、
良い世の中になってきているなというのが嬉しいところではあるんですけれども、
ますます世の中の理解が得られればなというふうに思っています。
保険診療になったのも最近だしね。
僕自身のことで言うと、一回離婚してまして、前回の奥さんとの間に生まれた男の子が一人いるんですけれども、
その子も体外受精でした。
その時には保険とかなかったので、本当にとんでもないお金がかかりました。
それに比べると今回は非常に、その当時に比べれば、
かなり桁が一つ違うぐらいの感じでこの医療を受けることができたので、
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本当に感謝しているというか。
かつ、その技術自体も明らかに成長している。
前回が13年前、14年前ぐらいにやっていたので、
技術も変わったんだなというふうに思いました。
当時はタイムラプスのバイオウキとかもなかったんじゃないかな。
あったのかもしれないですけど、少なくとも僕が行った病院では使ってなかったと思います。
なので本当に変わったんだなというふうに思いましたね。
本当この分野は日進月歩というか、どんどんどんどん変わっていくし、
社会がそれに対していろんな人がいろんな働きかけをして発信をしてくれたおかげだと思うんだけれども、
保険適用もされたし、あと理解度もかなり深まったのかなと思うんですけれども、
より身近に感じてほしいなと思ってこの回を作りましたので、
ぜひ聴いて、また感想なんかをXなんかにいただけると嬉しく思います。
ということで今回、対外受精編というんですかね、は終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
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