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002.科学者『カタリン・カリコ』:Part.2~幼少期
2024-12-23 28:12

002.科学者『カタリン・カリコ』:Part.2~幼少期

前回に引き続き、科学者カタリン・カリコ教授をご紹介していきます。
”Part.2”では、彼女の家庭と幼少期を中心にお話していきます。

様々な環境から刺激を受け続けたカリコ先生が、今後どうなっていくのかをお楽しみ下さい。

シーズン1
「m-RNAワクチンを発明し世界をコロナ禍から救った不屈の科学者カタリンカリコ」
の参考図書は

世界を救う mRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ
ジャーナリスト 増田ユリア
ポプラ新書

ノーベル賞科学者 カタリン・カリコ自伝
ブレイクスルー (breaking through)
笹山裕子訳
河出書房新社

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00:06
生命科学の冒険者
ようこそ、生命科学の冒険者たちへ。MCを務めます、金沢秀明ことあきです。
アシスタントを務めます、山崎愛子です。どうぞよろしくお願いいたします。
お願いいたします。
今回は、第2回ということで、前回はですね、カリコ教授の幼少期の時代から、そういった生活環境、またお父様、お母様の話し背景を聞いていきましたが、
またそこのお母様の途中から、今日も続けていきたいと思います。よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
それではですね、話を続けていきたいと思うんですけれども、こんな調子でやっていると、一体いつまでかかるんだという感じなんですけれども、
まず、時代背景をぜひ皆さんに知っていただきたいというところで、詳しくやらせてもらっています。
お母さんなんですけれども、1943年ですね、14歳の時にですね、町の薬局で働き始めたそうです。
これもなかなかすごいなと思うんですけれども、中学校2年生ですね、からもう独り立ちをされたということですね。
で、おばあさんですね、さっきカリコが子供の頃ですね、お花を市場に出すために手伝ってたよって話しましたけれども、
そのおばあさんはですね、ガチョウを育ててですね、それを打って生計を立てて、3人の娘を育てたんですけれども、
そのガチョウをですね、もう打ってしまって、それで第二次世界大戦ですね、こちらも足音が迫ってきたので、
町にいた方が安心だろうということで、町に移り住むということになります。
で、その時にですね、ハンガリー、ドイツ軍が侵攻してきてですね、そのせいでですね、ドイツ軍と戦うためにソ連軍も入ってきたという形で、
ハンガリーは意図せず戦場になってしまったんですね。
で、カリコが育ったキシューイ・サラーチュもですね、漏れなく戦場になってしまいまして、
それでお母さんですね、家族で防空壕に逃げ込んで、それからですね、外に出てみると、せっかく人がいっぱいいるところにと思って、安心だろうと思ってきて、
買った家がですね、焼けてしまってたみたいです。
で、燃え残ったのはですね、家畜を飼うためのですね、離れの小屋があったんですね。
なので、そこを回収してですね、人が住めるようにして、で、おばあさんは最後までそこに住んでたそうです。
03:06
そうなんですね、家畜小屋で。
家畜小屋を回収して家にしてですね、すごいですね。
で、町はですね、ソ連側に占領されまして、で、おばあさんはですね、兵隊のご飯を作ってくれっていうふうに、ソ連の兵士から言われたみたいですね。
で、そうは言っても依頼というよりはですね、命令っていうような形なんですけれども、なんかソ連ってめちゃめちゃ優しかったらしくてですね。
へー、そうなんですね。
なんかソ連兵ってめちゃめちゃ乱暴者で、日本兵なんかもむちゃくちゃされたっていうようなシベリア浴竜とかですね、そういうイメージがあるんですけれども、なんかここに来たソ連兵たちはすごい優しかったそうです。
で、町にはですね、戦場になったので、壊れたですね、ソ連の戦車とかが放置されてたみたいなんですけれども、お母さんが細っとその当時の思い出話をしてくれたところによるとですね、
当時ですね、お母さんは15歳で道端に壊れたソ連の戦車があって、だいたい自分と同じぐらいの年頃のですね、少年兵の死体がその周りに転がってたそうです。
なかなかきついですね。
きついですね。日本も当時、そんな少年がですね、飛行機に乗って特攻させられたりとかしてたんですけれども、本当に戦争って嫌なもんだなっていうのがよくわかります。
で、その子ですね、いろいろあってですね、集団農場で働くようになるんですね。で、お母さん、薬局でも働いてましたけれども、数字得意だったのだと思うんですけれども、ケリの仕事をしてたみたいですね。
で、同じくやはり集団農場で働いてたですね、お父さんと出会われたということになります。
で、お母さんはですね、頭が良くて勤勉なお父さんのことにすぐに夢中になって、出会って数ヶ月で結婚したということですね。
当時はもう出会ったらすぐ結婚するっていうのが、なんかこう、まあそれが普通だったみたいです。
でですね、共産党政権のですね、ハンガリー、ちょっと先ほども言いましたけれども、まずですね、やったことっていうのは財産を没収したと、いろんな人たちの財産を没収していったんですね。
それでですね、経済は一気に低迷してですね、生活水準は悪くなって、食料はその当時、戦後ですね、廃給制になったそうですね。
06:10
1956年ですね、カタリン・カリコが生まれた翌年の10月なんですけれども、ブタペストにですね、学生たちが集まって立ち上がったんですね。
で、反政府の意思を示してですね、議会に向かってデモ行進をしたそうです。
当時ですね、党諸国の中でもですね、ポーランドではですね、選挙があったみたいで、そこで選挙があったってちょっと意外なんですけれども、それで改革派の方が主導権を握ってですね、それによる軍事介入とかの回避にも成功してたらしいんですね。
なので、多分その隣国のポーランドのですね、そういう動きもハンガリーの若者たちは見てたんだと思うんですけれども、それで政府に対して抗議行動を起こしたというところなんですけれども、
ハンガリーの場は悲惨でですね、政府がですね、トレンに助けを求めて、トレン軍が軍事介入のためにですね、入ってきたんですね。
これは僕動画で見たことあるんですけれども、トレンの戦車がですね、本当に普通に町に入ってきてですね、民衆に発砲するというような形で、
ハンガリー動乱と呼ばれるですね、この放棄で死者数千人、それでまた数十万人の逮捕者がですね、2万2千人も投獄されて、数百人が処刑されるというようなことになったみたいですね。
本当に悲惨な出来事がハンガリーが続き続けるなという感じなんですけれども、何と言っていいやらという感じですね。
これ翌年ってことはカリコ先生が1歳ってことですよね。
1歳ですね、の時期ですね。
お母さんも大変だ。
大変ですね、本当に。もちろんお姉さんも生まれて、2人の娘もいるようなそういう時期ですね。
ブタフェストはですね、カリコの住んでたですね、キシュウイサラー州よりはだいぶ遠いエリアですけれども、
お父さんはですね、ちょっと治安が危なくなるんじゃないかということでですね、警防団を地域の人たちとですね、決めて警防団を組織したみたいなんですね。
不安になってですね、事件を起こす人が出ることを抑止するためにというふうにそういった活動をしたんですけれども、
これがですね、政府側が非常に暴動なんか、暴動じゃないですね、そういう反政府活動が起こっているというところでですね、敏感になっている時期だったので、
09:04
お父さんのその行動もですね、反政府的な動きじゃないかということで、逮捕されてしまって、
で、集団農場での仕事ですね、もう奪われてしまうということになります。
政府から睨まれた人っていうのはですね、自由のない社会ですので、その人を雇うとまたその人にも迷惑かかるかもしれない、
政府から睨まれる可能性があるということで、お父さんは誰からも雇ってもらえなくなっちゃったんですね。
せっかく守ろうと思って組織したのにね。
そうなんですよね。なので、お父さんは政府に反抗するとこんなことになるっていう見せしめにされちゃったのかなというところです。
ただですね、お父さん、町の人々からですね、愛されてたんですね。
なので、闇家畜を解体してですね、ソーセージを作るっていうのをですね、お父さんにみんな依頼してくれたみたいですし、
あと、町のですね、学校を建てる、そういう工事に借り出されたりとかですね、春には何週間も家を留守にしてですね、
羊の毛刈りの稼ぎに行ったりとかして、何とかお金を稼いでくれてたそうです。
本当におばあさん、お父さんのお母さんが言った格言ですね、
肉のさばき方を知っていれば一生食べるに困らないということがですね、この時には正しいということが証明されましたよという形になります。
すごいなぁ、すごい時代を生き抜いてきたっていう感じですね。
そうですね、本当にすごい時代ですね。
保守風景で家族を守って何とかやってきたっていう感じで、こんな時代に僕は生きてたら耐えれたんかなっていうのがね、
本当ですね。
思ってしまいますね。
何年も経ってですね、1961年ですね、お父さんついにパブの従業員という定職に就くことができたみたいで、
お姉さんとですね、カタリン、大きくなったカタリンですね、時々ですね、お店の掃除したり、
タバコの在庫補充、それから空き瓶のリサイクルなどをしてお店を手伝ったみたいです。
この時、パブですので置いてあるワインがお酢になってないかっていうのを発行しすぎて、
っていうのを子供だったカタリンは確かめてくるために、9歳だったんですけれども、ワインを味見してたそうです。
そうなんだ。
この時どれくらいの正義があったかわかんないですけど。
そうですね、割とそれは普通のことだったみたいですね。
12:04
じゃあちょっとカタリンの方に話を戻しまして、彼女の小中学校の時の話に行きます。
時代はですね、東西で冷戦の真っ只中っていう形ですね。
東側のハンガリーは西側よりも優れてるということを示すためにですね。
東側諸国どこもですね、西側より頑張ってるぞっていうところを見せるために、結構どこも教育に力を入れてたみたいなんですね。
で、あともう一つは国の人口を増やそうっていうので躍起になってたみたいで、
特に第二次世界大戦ではですね、ハンガリーで100万人亡くなってるんですね。
で、日本も確か大戦で100万人ぐらい亡くなってるんですけれども、
ハンガリーの方が人口がもともと少ない国なんで、
100万人亡くなったっていうのがかなりの人数が日本以上に死んだのかなというところですね。
で、人口を伸ばすために何をするかっていうとですね、
ハンガリー政府は駐船を禁止したんですね。
それなので、子供は爆発的に生まれたみたいです。
増えたんですね、それはそれで。
制作は成功したんですね。
ただ貧しいので、子供が生まれるたんびにみんな喜んではいながらも、
心の中ではどうやって食べさせていったらいいんだろうっていう風に困ってたそうです。
で、日本でも当時は同じですけれども、第一次ベビーブームですね。
で、学校ではですね、生徒がものすごい増えて、一クラスが50人。
で、それでも収まりきらずに学校をですね、午前と午後の生徒に分けたそうなんですね。
で、先生も足りなくなっちゃったんで、退職した先生を呼び戻したりしたみたいです。
そのためにですね、
カタリンはですね、2年生の時の担任の先生は、
おばあさんも教えてたし、お母さんも教えてた人がカタリンの担任になったみたいです。
一体いくつなんですかね。
何歳なんでしょうね。3世代教えてくれたってことですね。
すごいですね。
で、子どもの健康をですね、守るっていうのもすごい大事にしてくれたみたいで、
医者がですね、よくオートバイでやってきてですね、
調子が悪い子どもに対して抗生物質を与えたりとか、ビタミン剤を処方したりとか、
っていうことをしてくれたみたいです。
子どもはとにかく人口を増やすために大事にされたんですね。
割と医療はまだ整ってないと言い切れないですけど、あったんですね、ちゃんと。
そうですね。医療はかなりきちんとしてたみたいですね。
15:04
で、さっき鳥居を追っかけて獣医師に渡すっていうのが、
ワクチンの最初の経験だっていう話をしましたけれども、
カタリンにその後ですね、幼稚園の頃なんですけれども、
みんなで歩いてですね、町の病院に行ったことがあるみたいで、
そうするとですね、医療チームがいてですね、
スプーンで液体を飲まされたらしいんですね。
後から考えるとですね、
これポーランド生まれのウイルス学者のセイビンって方がですね、
開発した抵抗のポリオ生ワクチンだったみたいですね。
ポリオって聞かれたことあります?
はい。今もね、子ども打ちますもんね。
そうですね、今でも打ちますね。
何種類か混合になってますけど。
蛍光だったっていうところが気になって。
そうですね、蛍光の生ワクチンっていうのがなかなか過激なやり方をするなって、
当時しょうがないのかなと思うんですけど。
えー、怖いですけどね、ちょっと普通になってる人ですからね。
ポリオ、生のポリオを口から飲むワクチンですよね。
ポリオはですね、今ではほとんど絶滅した病気になってますけれども、
これが神経系に張り込むとですね、麻痺とか呼吸困難、それから死亡することもあるっていうことですね。
で、後遺症で一生歩けなくなるようなこともあったりします。
で、ハンガリーではですね、
取り組み非常に早くやったおかげでですね、
1969年、サタリン・カリコがですね、14歳になった時には
ポリオの症例はなくなったみたいですね、ハンガリーで。
これは結構画期的なことで、アメリカよりも10年早くて、
イギリスより15年早かったということですね。
だいぶ早いですね。
だいぶ早いですね。
で、他にもいろんな医療サービスがあってですね、誰もそれを受けられたというふうに書いてありました。
当時はですね、誰も嫌がらず、誰も口応えせずという形で、
ワクチンを受けたりすることをしていましたよっていうことですね。
そこら辺結構長々と書いてあったんですけれども、
なんでサタリンがそんなことを書いているのかな、
これサタリンの辞典を読んだんですけれども、
なんでそんなことを書いているのかなっていうので、
コロナですね、ウイルス、受けたくないなど、何だろうっていういろんな話があったので、
当時はそうだったんだっていうことをですね、多分主張したかったのかな。
そうですね、みんな受け入れて予防のために取り入れてたってことですよね。
18:01
そうですね。
1963年ですね、博士が3年生のときですね、
医者サラー署ですね、では家畜の肯定期が流行ったみたいなんですね。
前、宮崎で肯定期流行ったことがあって、
東国原知事がドゲントセントイカンバイか何か言ってましたけど、
あれと同じ病気が流行ったんですね。
そのときはですね、町の人たちは感染拡大を防ぐためにですね、
ロックダウンしたみたいです。
もうみんな家にこもってですね、外出を控えて病気を広げないようにという形で、
自主的にやったみたいですね。
この当時ロックダウンしたんですね。
そうですね。
なのでなんか、彼女からしたらロックダウンは普通じゃんみたいな、そういう感じもあるんだと思います。
なるほど。
1968年のですね、博士が13歳のときはですね、
香港風邪って呼ばれたインフルエンザですね。
今、香港A型とかB型とかなんかいうあれだと思うんですけれども、
あれが萌えを振るってですね、そのときもやっぱり行動制限を行って、
他の人と接触を避けるというようなことをしたみたいです。
それは当たり前にやることだったみたいですね。
他にですね、村で、これなんて言うんですかね、
多分日本の村社会も同じかなと思うんですけれども、
世間が小さいからっていうのもあって、
やっぱりこう、一緒に行動して、ちゃんとみんなで一緒にやろうよっていうのがあるんだと思うんですね。
そういう団結っていうのは豊作のときにも見られたみたいで、
農業で定期的に豊作になるときがあるとですね、
農家の人たちだけじゃもうちょっと収穫手が足りないということでですね、
学校を全生徒がですね、その収穫を手伝うっていうようなことをよくやってたみたい。
カタリン、カリコですね。
一年研修のとき勉強を、あまりというかですね、
5段階評価でほとんどが4だったらしいんですね。
ほとんどが4って、俺からすればすごいいいじゃないかと。
十分な気もしますけどね。
十分な気もしますけど。
ただカタリン自体はですね、なんか悔しかったみたいで、
努力を始めるんですね。
努力して勉強して勉強すれば脳が鍛えられるっていうことを学んだみたいで、
3年生以降ですね、すべての成績がですね、
5段階評価の5になったみたいなんですね。
すごい。
21:03
もうなんか、彼女のこの後の人生はですね、ずっと努力の人ですね。
それはもう小学校の最初の頃からそうですね。
たぶん、親にも言われずそういうふうにやってたみたいなので、
たぶん、もう努力できる人なんだと思います。
なるほど。なんか悔しいとかの感情なんですかね。
知れないことを知れるっていうのが、本人はめちゃめちゃ楽しかったみたいで、
なるほど。
それでとにかく知りたい知りたいっていう知識欲で、
勉強をしまくったみたいですね。
7年生だから、日本でいうと中学校1年生の時ですね、
科学とか生物学、あと知識のですね、そういうコンクールっていうのがあるみたいなんですけれども、
普通はですね、高校生とかがですね、出るようなそういうコンクールに、
中学生の時から参加してたみたいですね。
8年生なので、7年生が中1か、8年生が中2ですね。
8年生の時にですね、キシュウイサラー州でですね、
高校生たちが出るようなコンクールで、生物でですね、1位になったみたいなんですね。
で、さらに県大会まで出て、そして優勝したらしいです。
すごい。
すごいな。
そこにはやっぱり、なんていうんですかね、
自然の中でいろいろ虫を見たり鳥を見たり、植物の名前を知ってたりとか、
そういうような知識がすごい生きたみたいですね。
お父さん、パブで働き始めることができたっていう話をしましたけれども、
そこに学校の先生がですね、よく飲みに来たらしいです。
お父さんの前でですね、カタリンのことをすごい褒めてくれてたらしくて、
お父さんは花鷹だったみたいですね。
きっと自慢の娘だったんでしょうね。
そうですね。
で、全国大会ですね、県大会で優勝して、
全国大会に出動できるっていう風になって、プタペストに行ったみたいです。
そのコンクールではですね、試験みたいなので、
いろいろとこの子の知識はどうなんだっていうのを聞かれるらしいんですけれども、
人体に流れる血液の量とかですね、いろんな骨の名前とかですね、
あと、草原に連れて行かれて、名前を知ってる草を全部集めてこいとかですね。
すごいコンクールの、紙で行う試験じゃないんですね。
24:01
ないみたいですね。なんかこの辺面白いなと思ったんですけど、
そこでですね、全国で3位になるということになったみたいです。
で、その賞品をしっかり彼女は覚えてまして、
1位がですね、チェコスロバキアへのですね、1週間の旅行ですね。
今、チェコとスロバキアと別の国になっちゃいましたけれども。
で、2位はですね、ソ連製のラジオですね。
やっぱり東側諸国はですね、ソ連製のものを使ってたんだなっていうのが思うんですけども。
で、3位ですね、カタリンがもらえたものはですね、ソ連製のカメラだったみたいですね。
で、私はこの読んだですね、辞典の中にいっぱいいろんな写真出てくるんですけど、
彼女はですね、生活の様子をカメラで録るっていうのが趣味になったみたいで、ここからですね。
いろんな写真を撮られたそうですね。
で、この当時ですね、すごい全国大会に行ってびっくりしたのが、
自動車に乗って来てた子がいたらしいんですね。
開放車っていうのを持ってるなんていうのは、周りに全然いなかったみたいで。
それがもう非常に驚いたということでした。
またラジオにも出演したりとかしてですね、
それをですね、町に戻ってからラジオ放送ですね、ワクワクして聞いたそうです。
あーすごい、いろんな体験をしたんですね。
そうですね。
それが小学校から中学時代という感じになります。
で、いよいよ高校に入ってきますけれども、
高校でですね、彼女は生物に出会うという形で、
ここで恩師に、一生決めてくれるような恩師に出会うことができます。
とうとうアルベルト先生ですね。
彼はですね、生物学部っていう部活みたいなのがあるみたいなんですけれども、
そこの担任もしてて、カリコはそこに所属したみたいなんですけれども、
教育方針っていうのが、いつもどう思うっていうふうに聞いてくれたみたいなんですね。
何か問題があったときに答えを、日本の先生だと教えがちなのかなと思うんですけれども、
そうではなくて、どう思うっていうふうに聞いてくれると。
これが本当に良かったっていうふうに言ってます。
すごいですね。
ちなみにとうとうアルベルト先生ですね。
またお元気で、いまだにカタリとですね、歴史的にやり取りをされているということですね。
27:13
すごい高校で、小中高とね、ずっと幼少期から遡って聞いてきましたけど、
いろんな方との出会いだったり、コンクールとか、本当にいろんなところから刺激を受け続けたカリコ先生が、
この後どうなっていくのかすごい楽しみなんですけど、
ちょっとお時間もそろそろっていうところもあるので、
今日は本当にね、母親のちょっとね、なかなか辛い過去を背負ったお母様の元を生まれて、
1歳の時には戦争にも巻き込まれながらもっていうところのところから、
どのようにカリコ先生が育っていったのかっていうところを語っていただきました。
またぜひ次回も聞いてくださると嬉しいです。
今日はありがとうございました。
ありがとうございました。
28:12

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