今回も、科学者カタリン・カリコ教授をご紹介していきます。
”Part.7”では、秘密警察の訪問と結婚についてお話していきます。
共産主義時代のハンガリーで秘密警察の圧力や誤診、職場の資金打ち切りなど数々の困難に直面しながらも、科学への情熱を失わなかったカリコ先生。そして結婚をし子育てと研究を両立させ、逆境を乗り越えてアメリカ移住を決意するまでの奮闘と挑戦の物語をお届けします。
シーズン1
「m-RNAワクチンを発明し世界をコロナ禍から救った不屈の科学者カタリンカリコ」
の参考図書は
世界を救う mRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ
ジャーナリスト 増田ユリア
ポプラ新書
ノーベル賞科学者 カタリン・カリコ自伝
ブレイクスルー (breaking through)
笹山裕子訳
河出書房新社
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00:06
生命科学の冒険者。
はい、ようこそ、生命科学の冒険者たちへ。MCの
はい、金沢秀明とあきと、アシスタントの
山崎彩子です。よろしくお願いします。
お願いいたします。
前回はね、プーストの出会いというところで話が進んでいきましたが、今度はちょっと事件が起きちゃうんですけれども。
ガラッと話が変わってですね、カリコ先生が頑張って作った実験室がですね、できて間もないところですね。
時にですね、アパートに2人の男が訪ねてきたみたいなんですね。
で、もう入れたちはですね、格狩りですね。
お、出た、格狩り。
出たって感じで、もう一目でですね。
秘密警察ですか?
はい、秘密警察さんが来ちゃったんですね、2人と。
で、カタリンさんと相談があって来たんですよと。
研究所にですね、外国のスパイがいるかもしれないと。
で、スパイの可能性があるのかっていうような形で、何人かの同僚の名前が告げられたらしいんです。
っていうのを言った後に、
ところでと、キシュウイサラッシュのパブで、あなたのお父さんとお会いしましたよと言われたらしいですね。
お父さんパブで働いてましたので。
で、これはお父さんともうこいつら会ってるし、お父さんのことを認識してるなと。
なるほど、これはある意味脅しってことですかね。
そうですね、非常に緩やかにでも脅してるわけですよね。
怖いです。
相子さんと、あなたのお知り合いが実はスパイかもしれませんよと。
ところで、あなたの息子さん、どこどこ小学校に通ってられますよね。
可愛いお子さんですね、みたいな、そんな感じで来たわけですよね。
怖いな、じわじわ怖い。
じわじわ怖いですよね。
カタリンもやっぱり怖かった。
もしかして、ここで彼らに協力しなかったらですね、お父さん何か起こってしまうかもしれない。
しかも過去、逮捕されたこともあるお父さんですから。
ここでカタリンは分かりましたと答えてですね、協力するということで、そういう書類にサインしたみたいですね。
03:02
具体的には同僚の監視をしてくださいということですね。
ただ彼女自身、書類にはサインしたんですけれども、報告をすることは一度もなかったみたいです。
これ彼女の辞典の中に書いてあるんですけれども、何で書いてあるかというと、やっぱりさっきと同じなんですよ。
マスコミがですね、彼女がノベル賞を取ったというふうになった時に、やっぱり過去をいろいろ調べられたんですね。
秘密警察の協力者名簿の中に彼女の名前があったんですね。
そんなところまで知ってたんだ。
そうなんですよ。マスコミって本当に嫌なことするなと思うんですけれども。
なので私は確かにこういうふうにやられて脅されて、サインはしたけれども報告はしてないんですっていう。
そういうふうなことで、それを証明するために辞典の中にも書かれたのかなと思います。
結局スパイはいたんですかね。いなかったのかな。
そこらへんはちょっとわからないですけれども、
共産国って本当に怖いなと思うんですけど、お互いがお互いを監視するように政府がしむけていくんですよね。
そういうところの一部だったのかなと。
実際名簿にサインした人っていうのは、協力者としてサインした人っていうのはかなりいるんですけれども、
それでやっぱりせっせと報告してた人は報告してた人で、報告書は残っているので、
彼女の報告書はいつも残っていなかったんですね。
確かに同僚を裏切るようなことはなかったというところは証明されてるみたいですね。
ただやっぱりこれで定期的に報告しておかないとやっぱり怖いなと思って報告する人もいるでしょうから。
そうですよね。
本当に、例えば自分の子供を守るためとか自分の親を守るためだったら報告しますよね、普通にね。
なので誰も責めれないんですけれども、本当にアンガリーは東側の中では自由があったと言いながら、
こういう怖さもあったんだなっていうのがよくわかる事例として紹介しました。
この当時、彼女はとても体調が悪かったらしくて、
結核という風に診断されたらしいんですけれども、結局それ誤診だったらしいんですけれども、
色々と治療に通ったらしいんですけれども、全然良くならなかったらしいんですね。
でも彼女はですね、研究に夢中だったみたいで、
どんなに悪くても、具合が悪くてもですね、休まず研究を続けてたらしいですね。
すごいな、そっちが優先でしかないんでしょうね。
06:01
こんな時でも努力の人なんだなって。
とにかく好きなんでしょうね、そういうのが。
体調がですね、戻ってきた時にですね、いよいよちょっとめでたいことが起こります。
ベーラーとですね、将来について話したんですけれども、
その時には常にですね、彼女は言ったらしいです。
私は仕事を辞めないわよと、私は仕事が最優先。
当時のハンガリーというか、当時の世界がそうだったと思うんですけども、
女の人は結婚したら仕事を辞めて家事、育児をするというのが普通の世界ですね。
普通の感覚なんですけれども、私は絶対辞めない。
そういう社会とは違う生き方をするんだということをベーラーに宣言してたみたいです。
なるほど、さすが。
さすがですね。
本当にベーラーもいい人というか、
世間と違う生き方をしようとしている彼女に対して、
僕は全然それでいいよ、わかったよと言ってくれたらしいです。
ベーラーがある、すごい。
じわりますよね。
じわりますね。
付き合って3年近く経ったですね、1980年の8月ですね。
ベーラーがね、言ったんですけれども、
君は仕事が何よりも優先、それでいいんだよと言ってくれたらしいんですね。
それでよしこの人と結婚しようって言ったらしいです。
当時はですね、結婚指輪が金で作るというのが普通だったらしいんですけれども、
高くて手に入らなかったみたいなので、
テーブル工場で働いていたベーラーはですね、
テーブルで使う銅でですね、2人の結婚指輪を作ってくれたらしいです。
へー、面白いな。
指輪まで試作するっていうのかっこいいですよね。
ほんとですね。
面白い。
デザインがどうだったかわかんないですけど。
で、カタリン、実家でですね、婚約していたらしいですね。
で、相変わらずお母さんは心配してたらしい。
これはね、やっぱり親心、仕方ないです。
親心ですね、仕方ないんですけどね。
なんか結構嫌なこと言われたみたいで、
ベーラーは良い人だけど、あんた強すぎるから長続きしないわよとか、
あなたが45歳になると、女の人が45ってのはおばさんよと。
09:00
でもベーラー40歳、男の40歳はまだ若者だよっていうふうに言われたらしいです。
わー、傷つく。
傷つきますよね。
お母さん娘に言うことかよってちょっと思いますけど、結婚前にしか。
どこどこ嫌だったのかな、なんか。
心配から出た言葉だとは思いますけどね。
で、カタリンすごい強いんですよ。
言い返してまして、
お母さん、それならさ、私45歳になったらベーラーと離婚するわって言ったらしいです。
すごい。
それでも心配するかっていうね。
もうそこまでだ、それでいいでしょっていう感じで言い切ったんでしょうね。
で、カタリンすごい背が高いって話しましたけれども、
ウェディングドレスがですね、全然借りれなかったみたいです。
サイズが合うのがなくてですね。
そういうこともあるんですね。
なので、大学のですね、ご近所さんにですね、
ドレスを縫ってくれる方がいらっしゃったみたいで、
ここがまた手作り。
そうなんですよ、手作りなんですよね。
すごいですよね。
そういう方がなんか身近にいる、あちこちいるっていうのがすごいなと思いますね。
まあね、それだけの人望があったってこともありますよね、きっと。
そうですね、もう本当助け合いの社会だったのかなっていうところですね。
で、お金がないのでレストランの食材ですね。
それはですね、そこで出すお肉はお父さんが用意してくれたらしいですね。
さすが肉屋さん。
で、あとロマですね。
ロマ民族の楽団にですね、音楽を奏でてもらったそうです。
ロマってあれですね、ジプシーですね。
ジプシーの方たちの楽団に、
音楽を奏でてもらってパーティーをしたそうですね。
すごい、なんか温かい。
温かい雰囲気ですね。
で、2年後の1982年ですね、学位論文の試験に合格して、
学種を取得した数週間後にですね、娘さんを産んだらしいです。
すごい。
だから妊娠してても学位取るために頑張ってたんですね。
すごいな、数週間後って、
そこそこの臨月の中で受験、受験というか試験を受けてたってことですね。
愛子さんもね、お子さん2人いらっしゃいますけれども、
妊娠中ってどうですか、つわりとかありました?
私はあんまない方でしたね。
ない方でした?
はい、ない方でした。
なので、普通にギリギリ前働いてましたね。
12:02
じゃあ同じ感じですね。
同じ感じかな。
ダンスを踊ってましたね、お腹出して。
あれですか、ベリーダンスですか?
ベリーダンス。
いやー、本当愛子さんのベリーダンスすごいですからね。
そんなことしてたな。
すごい。
なんか逆に、でもベリーダンスってあれか、あれですよね、
妊婦さんのための体操みたいな。
私ね、骨盤を使うので、アンザンに良いって言って、
ヨガが主流ですけど、ベリーダンスも割と2、3分に良いって言う。
あれ、アラブ系の人たちも妊娠のためになんかやったとかって聞いたことあるんですけど、
そうなんですか?
いや、そもそもベリーダンスは宮廷の。
宮廷でやられてた?
踊ろうなんで、別に。
そういうわけではない?
そういうわけではないですけど。
ちょっと、すいません、話が脱線しましたけれども。
踊ってたんですね、すごいですね。
で、娘ちゃんの名前はですね、スーザンっていう風に名付けたそうなんですけれども、
カタリン自身がですね、バリバリの理系女というか、
研究が好きすぎたがためかと思うんですけれども、
子供とか赤ん坊っていうのは厄介なもんで、いらんって思ってたらしいんですよね。
なんですけれども、自分が母親になったことで、突然世界が変わったみたいですね。
良かったね、それは。
赤ちゃんはもう、良かったですね。
普通の人なんだなと思って。
赤ちゃんはとっても愛おしくて厄介じゃないなって思って。
で、この時、ベイラーはですね、兵役に行ってたらしいんですね、お父さんの方ですね。
そうなんだ。
多分この当時、ハンガリーは兵役があったのかなと思うんですけれども。
で、この時ですね、使ったですね、おくるみですね。
これは自分の娘が、やがて結婚して子供を持つ時に、またそのおくるみを使ってほしいと思って、
ずっとずっと大切に持っててですね、アメリカに渡る時も持って行ったそうなんですね。
なんですけれども、スーザンが、娘さんがですね、妊娠したのはコロナ禍中だったらしくて、
その混乱で娘さんにおくるみ渡してたらしいんですけれども、
屋根裏部屋にしまわれたまま疲れることはなかったらしいです。
残念。
残念な、残念な話ですけども。
置いてたのに、そうか。
11月生まれのスーザンはですね、2月に保育園に入ったらしいんですけれども、
だからわずか3ヶ月だけ、日本までも3ヶ月後から保育園に入れれるのかな、という感じですけどね。
15:03
そうですね、今はね。
当時のですね、共産主義時代のハンガリーはですね、やっぱり子供をすごい大事にしたみたいなので、
保育も手厚くてですね、
カタリンが子供の頃もすごい大事にされたというエピソードがありましたけれども、
スーザン自体もですね、非常に大事にされたみたいで、
保育園ではですね、ほとんどのスタッフが熟練で、
中には看護師さんも、熟練の看護師さんもいたらしいですね、子供を見てもらうために。
健康管理もしっかりやってくれて、
これ初めて聞いたんですけど、ヨーロッパではですね、外で赤ちゃんを寝かせるというそういう習慣があるらしいんですよ。
なんかでも聞いたことあるな。
聞いたことあります。
外に置いて寒さに強くするみたいな。
まさにそうらしくてですね、
外にずらりとですね、40人分ぐらいのベッドを並べて、
で、雪降る中でも厚着した赤ちゃんはそこのベッドですやすやに眠っているらしいですね。
外で昼寝をすると健康で丈夫になるっていう風なことで、そういう風習があるらしいです。
絶対今も痛くないですよね。
痛くないですよね。外出たくないですよね。
出たくないですもんね。
しかも雪降ってる中でっていうね。
ね。
おとぎ話の世界みたいですけど。
でもなんかノルウェーだったかな。ノルウェーの健康法みたいなの聞いたことある。
健康法というか、お育て法。
北欧の方の話ですね。
カタリンはですね、インタビューとかでですね、
子供を育てながらでも科学者として成功するためには何が必要ですかっていうのをよく聞かれたらしいんですけれども、
その時には必ず答えているのが、質の高い保育サービスが手頃な値段で受けれることがとにかく重要だという風に言ってたんですね。
カリコ先生ぐらいのレベルでもこれを言えるってすごいな。
そうですね。本当に本人がその恩恵も受けたんでしょうし、
また逆にアメリカに渡ってからかなりいろいろ苦労されてるんでですね、
本当にここが大事だということがあるかなと思います。
安心して研究に没頭できるってことでも必要ですもんね。
そうですね。
またちょっと研究の話に戻ります。
2-5Aですね。さっきインターフェローのところで出てきた、
2-5-アデニル酸ですね。
特殊なAだけが連なったRNAですけれども、
18:02
これを人工的に合成できるように彼らの研究室は成功したみたいなんですね。
有機化学の科学者たちがいたので、その先生たちが成功させたんだと思います。
もともとカリコの構想であるリポソームですね。
それに2-5Aを閉じ込めることも成功して、
それを細胞の方に送り込むことも成功したみたいなんですね。
ところが問題がありまして、
RNAの実験というのは非常に難しいんですね。
というのが、RNAというのはDNAと違って非常に不安定な物質なんですね。
すぐに壊れてしまいます。
その原因というのが、RNAを壊す酵素というのが至る所に存在するんですけれども、
例えば人間の汗とか唾とか、皮膚の表面にもありますし、
このRNAって酵素はタンパク質でできているんですけれども、
通常のタンパク質はゆで卵を想像してほしいんですけれども、
一回熱をかけるともう完全に形が変わってしまって、
もう元の働きには戻れないんですけれども、
RNAは非常に単純なタンパク質というとあれなんですけれども、
温度を上げてですね、壊してやっても温度が下がるとまた元の形に戻ってしまうという性質があるんですね。
なので、RNAを殺すというのはなかなか難しい。
RNAの酵素活性をなくすというような正確な言い方だとそうなりますけれども、
酵素活性をなくすことはもう非常に難しい、そういうものになります。
なので、RNA実験をするためにはですね、非常にクリーンな環境を用意しないといけないんですね。
汗とか唾とかがどっかで入ってしまうと、それでもう実験ができなくなるというところですね。
大変だー。
僕も研究補助員やってたことがあるんで知ってるんですけれども、
本当にRNA実験するのは厄介ですね。
RNAの形を留めたまんまずっと実験の先まで持っていけないといけないんですけれども、
本当に途中でもう壊れます。
途中壊れるので、これをできるようになるっていうのはやっぱり難しくて、
同僚の多くからですね、あれね、研究したって無理だよとか、不可能だ、厄介だって言われ続けたらしいんですけれども、
ここでやっぱり語りの負けず嫌いですね。諦めないんですね。
21:01
いや、これはやり方悪いだけでしょ。あんたたちにできないかもしれないけど、私にはできるわよって思ってですね。
なるほど。さすが。
頑張ったみたいですね。
なんですけれども、やっぱりこのRNAの厄介さでですね、実験がなかなか進んでいかないんですね。
レアナルシャーですね、資金を出してくれてたハンガリーのスポンサーですね。
いつになったら薬ができるんだ、こうウイルス薬ができるんだっていうので説かれたらしいです。
確かに。
まずカタリンはですね、正規職員から臨時職員に合格されるということが、おそらく不安定な立場になったのかなと思います。
そうですね。
給料も減ったかもしれないですね。
何度も何度もいろんな実験を繰り返したんですけれども、この2号Aを作ることはできるんですけれども、それを人間の薬に使えるところまではできなかったということですね。
そして非常にですね、悲しいことが起こります。
1984年の7月ですね。
お母さんがですね、勤めてた聴牧係ですね。
国営農場の聴牧係をするというのをだいぶ前の回にお話しさせていただいたかと思うんですけれども、いよいよここを引退するっていうですね、記念すべき日ですね。
家族でパーティーをしようということで、お父さんは張り切ってですね、お母さんのためにソーセージとかごちそうとかをですね、準備してたんですけれども、準備し終えた後にですね、倒れられたらしいですね。
お父さんが。
お父さんが。そして心臓マシで即死してしまったそうです。
お母さんのお祝いの日に倒れてしまったということですね。
まあそれからずっと非常に悲しい、耐えがたい日々が数ヶ月、なかなか立ち直れなかったらしいんですけれども。
その半年後のですね、1985年ですね、カタリンが30歳になった年ですね。
地元のレストランでベイラの友人とベイラとですね、食事をすることになってたらしいんですね。
で、その頃にはですね、新しいアパートに引っ越してたんですけれども、そのアパートはですね、10階にあって、非常に素晴らしい眺めだったらしいんですね。
で、結構びっくりしたんですけど、1985年ですけれども、しかも東欧諸国ですが、この家には食戦記があったらしいんです。
食戦記なんて、この時僕10歳ですけど、食戦記なんて見たことなかったですけどね。1985年。
24:12
で、ベイラと娘さんにですね、行ってきますのキスをしてですね、いつも通り実験室に向かって、
今晩は友達たちと食事だなっていう感じでウキウキ。お父さんからもですね、ちょっと立ち直ったぐらいだったのかなと思うんですけれども、
今日は食事もあるぞと思ってウキウキして出かけたらしいんですけれども、
もう衝撃すぎてどう伝えられたのかは覚えてないらしいんですが、
スポンサーのレアナル社が、もう資金を打ち切るって言ってきたらしいですね。
とうとう。
とうとうですね。
カタリンは雇用されないことが決まってしまいました。
期限はですね、7月までって言われてしまったんですね。
だからその月に終わっちゃうみたいな、そんな感じですよね。
なんでこんな不幸が縦続きに起こるんだっていう形で思ってたんですけれども、
さすがカタリン、すぐに頭を切り替えます。
高校の時に愛読したハンスセリア博士ですね、現代社会とストレスを思い出したらしいんですけれども、
この中に書いてあった言葉ですね。
誰かを責めても仕方がない。自分の力で変えられないことよりも、
変えられることに意識を集中させて、ネガティブなストレスをポジティブなストレスに変えようということですね。
すごい。
この状況で。
もううじうじ悩むなと。
この状況でこれはさっと切り替えられないだろうな、なかなか。
すごいですね、本当に。
できることをやろうということで、すぐに次の職場を探すということで、考えを変えたみたいです。
それのためにはですね、ハンガリーを離れないといけないなというふうに考えて、
なんせハンガリーそんなに研究所がないんでですね、
それでヨーロッパでですね、カタリの実績が役立ちそうな研究所にですね、
あちこちに手紙を書いてみたんですけれども、返事はですね、結構来たらしいんですけれども、
そこに対してこういうふうに書かれてたらしいんです。
ここに来るために助成金に申し込んでみなさい。
研究者たちってですね、自分の国の助成金を取って海外の研究所に行くっていうのが結構普通にやることなんですよね。
27:01
なんですけれども、ハンガリーですから助成金とかがないんですよね。
なので、なかなか行けないと。
ここでですね、もう一つ思いついたことをやってみようと思ったんですね。
そしてベーラーに相談します。
私たちはアメリカに行こう、アメリカに行くしかないみたいということですね。
そしてアメリカの方の職探しに入っていくというところで、
なるほど、ここでアメリカになるんだ。
そうですね。ヨーロッパだと助成金を持っていかないといけない。
だけどアメリカだったらアメリカでお金をくれるかもしれないっていうところで、
アメリカに目が向くということになります。
結構この激動の時期ですよね。
いいこともあれば、お父さんの死とか打ち切りとか。
そうですね。
ここで見切ってもアメリカに行くわけですね。
ここからいよいよアメリカに渡るための探談をしていくことになります。
すごい、今日はここまでというところになりますけども、
いよいよ次回はアメリカでの話になっていくんですかね。
そうですね。やっとアメリカに来ました。
やっとアメリカに来ましたね。
まだ行ってないんですけど、行く話になります。
ここまで聞いてくださってありがとうございます。
ぜひ次回も見ていただければと思います。
ありがとうございました。
ありがとうございました。すみません、失礼いたします。
ありがとうございました。
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