マックス ヴェーバー(著), 大塚 久雄(訳) 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 岩波文庫(https://amzn.asia/d/066RUga8)を読んで感じたことを話しています。
近いうちに、品川皓亮(著)『資本主義と、生きていく。~歴史と思想で解き明かす「構造的しんどさ」の正体』についても話してみたいです。
感想
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サマリー
このポッドキャストでは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読了した感想が語られています。著者は、この本が非常に難解であったとしつつも、資本主義がキリスト教の一神教的世界観、特にプロテスタント(カルヴァン主義、ピューリタン)の勤勉さや禁欲的な生活態度から生まれたという逆説的な関係性に興味を持ったと述べています。勤勉に働き節約した結果得られた富は神の恩恵とされた一方で、富そのものを目的とすることは否定されたこと、そして当初は魂の救済を目的とした宗教活動が、結果的に資本主義精神を喚起し、その精神が失われた後も行動様式だけが残ったというウェーバーの考察が紹介されています。最後に、日本が西洋の思考フレームワークを取り入れる際に、形式だけを取り入れ精神部分を理解できていない可能性に触れ、このテーマについて考えることの重要性を改めて強調しています。
はじめに:読了の報告と本書への興味
皆様、いかがお過ごしでしょうか?
Leave a Voice 明日へのでんぱ
僕、シンイチの声や思いを今に残しておく。
それらが、でんぱに乗って明日の誰かにでんぱし、 役立ってくれたらいいなぁって思い出始めたポッドキャストです。
収録している今日は、2026年4月15日水曜日16回目の配信です。
いやぁ、3日前だったと思うんですけども、
ようやく、マックス・ウェーバーの 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』読み終わりました。
ボイス10、10回目の配信の時に、
資本主義と生きていくっていう本を読み始めましたっていう話をしていて、
その時に、このプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神のことも話しています。
その時は、このプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、
なんかプロ倫っていう風に略することもあるみたいなんで、
ここからちょっとプロ倫と言っちゃいますけども、
この本のこと、プロ倫のことをですね、
そこそこ難しいですみたいに言ってたと思うんですが、
いやぁ、そこそこというよりも、
自分にとってはですけども、結構難しくて、
本当に表面的なことしか理解できてないと思いますし、
読み違えてるところも結構ありそうな気はしてます。
でも結構前から興味のあった本なので、
一旦読み終えたこと自体には満足していますね。
読み終えたと言っても、注釈は読めてなくて、
本文よりもですね、注釈の方がはるかに量が多いと思います。
どのぐらいかなぁ。本文の3倍ぐらいは注釈があるんですかね。
最初は頑張って注釈も読んでたんですけども、
ちょっとしたら注釈を読むのは諦めました。
もともとこのフロリンを読みたいなって思ったのは、
これも古典ラジオの影響が大きいですね。
資本主義がキリスト教的一神教の世界観の中から生まれてきたっていうですね。
宗教が資本主義を生み出したというような、
すごいこれは自体は乱暴な言い方ですけども、
直感的には、「ん?どういうこと?」っていう風に思う逆説的な感じのことを、
どうしてそう言えるのかな?
どういうロジックでそうなるのかな?っていうのに興味があったからですね。
今日はこのフロリンを読んで感じたことを少し話してみたいなって思います。
一応、僕はノンクリスチャンで、
もしかしたら、クリスチャンの方が聞いていたら、
これは違うよ。何言ってんだ?っていうのがですね、あるかもしれません。
その点は特にご容赦くださいませということを前置きしておきます。
さっきですね、キリスト教的一神教の世界観って言ったんですけども、
キリスト教といっても、特にプロテスタントその中でも、
プロテスタンティズムと資本主義の関係性
カルバン主義、ピューリタン、聖教とピューリタニズムですね。
この辺りの人々の経済感覚というか生活態度というのが考察されている本ですね。
本文、この本のまとめ的なところで引用すると、
ピューリタンの転職観念と金欲的生活態度の束縛が、
資本主義的生活様式の発展に対して直接に影響を及ぼさざるを得なかった。
そうした書点を特に明らかにしていこう、って書いてます。
転職っていうのは、天上の天に職業の職で、神から与えられた職業ってことでいいのかなと思います。
金欲的生活態度の束縛って促すに迫るって書いてますね。
なので金欲的に生活することが良しとされて、脅迫観念も伴ったみたいな感じですかね。
ただ、金欲って言ってもですね、ここで禁じてる欲っていうのが、
人間の凶悪って本の中では言ってるんですけども、
衝動的な欲望って言うんですかね。
ただ単に遊びたい、解放したいっていう、お酒を飲みたいとか何でもいいんですけども、
そういう快楽追求の欲は禁じたってことですね。
でも一方で、一生懸命働いた、そして節約をした結果、財家、お金がいっぱい貯まったっていうのは、
とても良いこととされたんですね。
転職である職業労働の結果として富を獲得することは、神の恩恵だっていう風に考えたみたいですね。
ここで、労働の結果、お金持ちになるっていうのはOKで、むしろ神の意思に沿うものなんですけども、
逆に、富を目的とする、お金持ちであることを目的として働くっていうのは、ダメだよっていうことだったみたいですね。
この2つの違いは確かに大きいのかなとは思います。
大きいのはその人の中でっていうことで、見た目、周りから見ると、もしかしたらその違いがわからないお金持ちになることが目的なのか、
お金持ちになるつもりはなかったんだけど、神のために一生懸命働いた結果、お金持ちになったっていう違いがですね、周りからはわかりにくいかもしれないですよね。
この勤勉であることが救われる証拠であるということは、カルバンの予定説で、
元々は、自分は選ばれている側だから神様に選ばれているから、今こんなに一生懸命働けているというところが元々で、
自分は救われている側だと確信したいから勤勉であろうとしたっていう風になったんですよね。
当時の彼らがどんな感覚でいたかっていうのはわからないし、微妙なニュアンスなところがあるし、人によってグラデーションがあったと思うんですけども、
自分は救われたいから一生懸命働こうという意識はかなりの人にあったんじゃないかなって想像します。
今までのは一人一人が労働、個人として働くということの話だったんですけども、
一歩進んで、お金っていうのが神から与えられたお金であって、
お金財化の管理者なので、その財化を増やさなければならないというようなところも加わってきたってことなんですかね。
そこまではちょっと僕は読めてはいないんですけども、個人や家族単位で勤勉に働くというところから蓄財をし、
それを事業拡大のための投資をして産業を起こしていくとか広げていって、資本化にもなっていくということが肯定されて、
もっと言うと、そうしなさいよ、委託された、神から委託された財化お金を増やす義務があるというところに至っているみたいですね。
19世紀ぐらいでしょうかね。産業資本化っていうのが育ってきて、イギリス、アメリカが一番盛んだったんですかね。
フランスとかドイツとかもそれに続くような感じかな。
このルター・カルバンあたりの初期プロテスタンティズム、自分は選ばれている側だからこんなに一生懸命働けて、勤勉でお金も貯めることができているっていう、
これは純粋な信仰心ですよね。
勤勉さが救いの証拠となる考え方
出発点はこういう信仰心だったんですけども、
それが産業資本をより大きくし続けていくような資本化とかまで来た段階ではですね、
もともとのこの信仰っていうのから離れ去ってしまって、理順の追求行動と結びついている状態になった。
金欲とか勤勉がですね、だんだんと金儲けを倫理的義務として全員するようになっていったっていう、
このことをウェーバーは資本主義の精神っていう風に言っているようですね。
そのスピリットがだんだんとなくなっていって、その側だけ、行動様式だけが残っていった。
どうもそういう面があるんじゃないかなっていう風に言っているってことですね。
カルバン主義とかピューリタニズムを推進していった中心的な人物で何人もいるみたいですけども、
そういった人たちがやってきた、やろうとしてきたことはあくまでも魂の救済、純粋に宗教的な活動って言っていいんですかね。
で、それが結果的に資本主義精神というのを喚起、呼び起こすことになってしまったっていう、
全く彼らが意図していなかった結末、結果が生じたっていうところ。
これが何とも言えないというか、とても興味深くもあって、
まさに未来をコントロールすることはできないっていうことですよね。
こういう歴史上の思いもよらない結果になったっていうのは、古典ラジオでもですね、
何度もいろんなところで出てきたかなーって思います。
あともう一つ興味深いなっていうのは、
そのもともとの目的というか理念を目指していたところのためにやっていたこと。
実際に形として現れている行動とかですかね、
それだけが、外側だけが残って、中身、中の核になるようなスピリットのようなものが
忘れ去られていて、境外化っていうふうに言っちゃっていいのかな、どうなのかなって感じなんですけど、
蓄財と事業拡大への発展
形が標高に残って、
まあ、何のためにやっているんだっけっていう実行目的かとかになるんですかね。
これなんかあんまり言ってしまうと、
言い方気をつけないと、クリスチャンや特にプロテスタントの方に不快な思いをさせかねないなっていうところもありますかね。
ただ、今ここでは資本主義についての評価、
資本主義が良いものなのか悪いものなのか、
自分にとって好きなものなのか嫌いなものなのかかもしれないんですけども、
そういったのはこの回では言っていないつもりです。
Max Weberのプロ林でのこういった考察が興味深いなっていうふうに思って、
で、これが主流な学説の一つには少なくともなってるんでしょうね。
あと、この本ではプロテスタントの影響だけで資本主義が起こったなんていうことは言ってはいなくて、
というか、Weber自身も否定をしてて、
プロテスタントが資本主義の基盤の形成にどのぐらい影響を及ぼしたのか、
どういったところが、どういった側面が宗教、プロテスタントの影響と言えるのかっていうところをなるべく詳細に語ろうとしているということみたいなんですね。
いやー、やっぱり難しかったですね、プロ林は。
信仰心の変容と資本主義精神の空洞化
最初の方でも言いましたけども、表面的な理解しかできてないだろうし、
そもそも間違った理解をしている可能性も結構ありそうです。
でも、なんか知りたいんですよね。
資本主義だけではないんですけども、
欧米から来た考え方、いやその考え方の前提って言うんですかね。
思考フレームワークとか、かっこよく言うとそんな風にも言えるかもしれないんですけども、
それを明治以降、日本は積極的に取り入れていって、
で、まさにさっき話をした通り、形式側の部分だけを取り入れていって、
当然ですけども、スピリットの部分っていうのは、やはりわからない、遠いですもんね。
日本人からすると、一神教の世界観、神と、特にプロテスタントは1対1で直接つながるという感覚、世界観。
でもやっぱり今を生きる上では、一回は考えてみた方がいいテーマなのかなって思いましたね。
改めて思ったっていうことでもあります。
みなさま、今回もお聞きくださりありがとうございました。
今日はこのあたりで。ではまた。
27:14
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