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S7 22回目も糸島を歩きます。
2022-02-27 30:31

S7 22回目も糸島を歩きます。

糸島は雷山神籠石を見学した後は平地へ下り、平原遺跡で休憩。ここから見える風景の中の東南方向に日向峠が見えます。

伊都国から奴国は東になりますが、魏志倭人伝には奴国は伊都国の東南とあります。

つまり奴国へ行くにはこの東南方向へ使者は向かった、足を踏み出したのが東南であった、というのがこの番組で紹介した「邪馬台国論争の新視点」の著者、片岡宏二さんの説。

確かに現在でも東南の方向にある日向峠が福岡市へ行くには一番の近道なのです。

それが平原遺跡に立つとはっきりと分かります。
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古代の福岡を歩くシーズン7 遥かな昔海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン7 この番組は
宮益の企画協賛 餃子の山八
道の駅村方の提供でお送りいたします
こんばんは、坂田周代です 今週も糸島を歩きます
先週は平原大保の横に立って糸島の魅力について伺いましたが 今週はその平原大保について伺っていきます
ご案内を糸島ふるさとガイドの水戸真雪代さんと岩田久美子さんにお願いしました
糸島にはかつて山対国時代は伊都国があったと 儀式和神殿には書いてあります
このあたりの話から水戸真さんに伺っていきます
平原大保に今来ています その平原大保からですね見える風景なんですけども
日向峠がですね こちらからちょうどこのあたりから見ますと東南の方向にあるということで
那国へ行く那国は東の方向ですね しかし那国は東南というふうに書いてあるのは
東南へ行くんだと まず足を踏み出す方角が東南にあるということでその次の国は
伊都国の隣は 東南にある那国であるというふうに書いてあったという説を披露したことがあるんですが
儀式和神殿の一説ですよね だから起点は伊都国から見た東南
中国の使者たちはですね 津島や域を通ってここに来た
まずここに到着したということでここからの起点として東南の那国田のあと他の国とかを紹介してるじゃないかなっていうふうに考えたらですね
またちょっと別の儀式和神殿の解釈が出てきて面白いなっていう説が最近私も聞きました
通り過ぎたんじゃなくて伊都国には到着したんだから そういうことですかねっていうふうな話をちょっと聞いたことがありますけどそんなことですかね
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はい それであの日向峠が重要な峠ですよね
ここからの那国に行くには一番近いルートということになるんですけども その日向峠をまっすぐ
来たところに平原王母というのがあって平原王母と日向峠との関係ですね これをもっと詳しく言うとどうなりますでしょうか
実は平原王母の方は一体何をしてたのかな 女王様って言われてるんですけども
その方の大事な仕事っていうのは太陽の出る場所で 山並みを見ながら太陽が出る場所でその日にち日付を把握してた方なんですね
なのでお正月の太陽は今からその日向峠を挟んだ ここから見るとですけど日向峠を挟んだ右側の右端からお正月の太陽を登ります
で日向峠に来る頃には実は2月の20何日とそれから10月の20日と年に2回あるんですけども
2月の20日頃というのは記念祭って言いまして 種もみの準備をする日なんですね
そして種もみの準備しますよと10月の20日になったらその種もみを 稲として育てて収穫した稲の収穫を祝う日それが10月の20日
ということですので観舐祭といわれている観舐祭ですね
1年中のお祭りの中で一番大事な日で収穫を祝う観舐祭の日に 太陽神太陽のおかげでお米が取れたことを感謝する日
でもあるんです だからその観舐祭の日が一番大事だとすると
じゃあ何の話ってなるんですけど ここの平原の王母の女王様というのはその太陽の位置で日付を把握して稲作の日につまりこの日には
種もみ用意しますよ田植えしますよ稲刈りしますよというふうに指導していた方 ではなかろうかとその指導力によってここや弥生の国の
伊都国はとても繁栄した米作りの里であったという その米作りを指導された方を
方をですね太陽のお使いの方として 象徴づけるように
作られたお墓がこの平原の王母といわれている王母の遺跡 女王母です
この女王様っていうのがわかったのは何か出たんですか 女王様ってわかったのは
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耳のあたりから出たピアス今で言うピアス 考古学的な名前は自刀って言われてるんですけれどもその自刀を持ってらしたことによって
その自刀っていうのは中国漢の時代の 位の高い女性しか身につけないものだったということが
わかりましたので あじゃあ位の高い人女の人じゃあ王様女王様
女王様なんじゃないとそういうふうにまあ今はもう女王様という風に言っております 女王様が足を向けている方向が日向峠になるそうなんです
はいちょうどその方向から太陽があるはいそうですいうことですねそうですね 太陽をお祭りする方がねなんで足を向けてねで葬られているかってそこまた不思議
なんですけれども 太陽のことを太陽神とちょっと言いますけど太陽神と葬られた女王様は
あの一体となる形はい登った太陽の光が女王様のご遺体を 差し込むって言うとこう遺体に差し込んで
太陽神と女王様が一体になる形で作られている 一体になる形っていうのが
足を太陽の方に向けたというですね あのそういう葬られ方をされている
だからものすごくまた詳しく言うと太陽の美子さん 太陽は火ですから
美子さんなので太陽を司る美子さん ということで火の美子である女性ですというふうに紹介しています
ああそうですかここからあの王母の女王の中からですね 鏡なんかも出てきてますよね
巨大な鏡大きいですね日本最大級と言われるほどのね 直径46.5センチ
直径46.5センチ 高校の周囲ですねちょうど重さ8.4キロあります
そういう内向鴨向鏡というのが出てきましたね これで出土の調査に当たられた方が原田大六さんというね
ここの地元の方で大変苦労なさってね 出土状況なんか調べていらっしゃいますよね
どういう方だったんですかね原田さんは 原田大六氏はですね愛知県生まれの方なんです
ちっちゃい時からですね愛知県には神社行ったらなんか偉い古い神様ばっかりお祭りしてあるけどなんかいいなーって思われたみたいなんですね
でその古い神社の神様はようと調べたら古事記の中にいっぱい載っとんしゃと 古事記の人と神社と何の関係があるとかいいなと
幼少の頃に思うちっちゃい頃に思われたみたいなんですよね まあそれがベースにあるんですけども
09:01
いろいろありまして支持された先生っていうのが中山平次郎さんとおっしゃいまして 福岡で言うと航路館を初に発見された方ですよね
あの方に支持された原田大六さんは中山平次郎さんから 実は北部九州には
剣と魔が玉と鏡この3種の神器の元になる3種の宝物って言うんですけど3種の宝物 を携えた王様たちが代々いたはずだと
その3種の神器の元になる王様たちのお墓は絶対北部九州から出るはず しかも過去の例からして
それは糸島に出るはずというのを聞かされておりましたのがそもそもの原田大六先生のベースにあったんです
だから糸島中の遺跡や古墳を原田大六先生自分でいっぱい掘ってるんですよ 掘って調べていって絶対どっかからあるはずって思っていらして
昭和27年にその話をまとめた 3種の神器を持った天皇は実は糸島から出たよ
糸島から行ったんよっていう本の天皇のふるさとっていうのをですね昭和27年にすでにも発刊されて発表されてるんです
だからそういうベースがあった話なのでここは 昭和40年に
発見されたんです発見されたんですけどもうすでに その前13年前に天皇のふるさとはここだよっていうのを仮説とはいえ発表してあった
だからここの遺跡から出てきたものを見たときにもうまさにその3種の神器に等しい 鏡とまがたまと剣だ
もうこれは絶対 天皇のふるさとの自分の論文を実証する場所だっていうのはもう昭和40年の時点で
確信されたみたいですね その確信されたことを今度は考古学的に論理と実証するためにさらに研究が重ねられて
今ここにですね案内版とかありますけれども論章として発表されているという 実は天皇のふるさとはここだったと
というとてもセンセーショナルな場所としての発表をしています この原田さんの
あの ずっと出土した品は出土品なんかは
糸島高校ご出身の高校に展示してありますよね そうですねそうですね
高校生たちの研究のものといいますかになってますよね 非常に役立っているということを聞いてますけれども
そういう原田大六さんがここにいらっしゃってその方の功績非常に大きいですよね そうですねこの人なしではこの平原の遺跡のことは語れないぐらいの
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話になりますね 8平原から出た大きい鏡46.5センチのだいたい
発見された当時は4枚 今は国王になった時に1枚追加されて5枚になっています
その時その鏡なんですけれども46.5センチ8.4キロこれが実は伊勢神宮にある八田の 鏡の原型だと
ああそうはい八田の鏡八田の鏡と言いますよ 大きい鏡の大きい鏡その八田の鏡の語源はですね
女性の手の親指と人差し指で高校を測っていく 広げ広げてね広げられないだろうね長さねこれがね
いった1一つのたって言うんです一つのたこの一つのたーで鉢回りすることで 鉢のたでやたのやたのやたの大きさある鏡っていうのが語源なのでまさに
これちょうどですね私このこの人差し指と親指で18.4センチが一旦なんですけどここに 鏡の日本があるんですけどね
いったって言うんですけどこの一旦でね私ちょうど18.4センチあるんですよこれが なぜかこれで不思議と鉢回りすることができる
はいはいもうだからですいい私の手じゃんという 説明するのですごい便利ですねはいそれほどの鏡がねここから見つかったということですよね
ねえたの鏡はですね言えておさんいろいろあります見た人がいないということだけど 実は過去過去に伊勢神宮でちゃんと見た人がいてそれのことを形と形は
こういうものですよっていうのちゃんと書面に残ってるそうですかはいその残っている 書面を見ると形と大きさはまさにこれのことを指していると
そういうこれがやたの鏡と言われるもんじゃなかろうかということですね 平原大墓でした
そして伊都国の平原遺跡から今度は茅山の西側 碧津湾に面した海岸の砂丘上に位置する新町史跡墓群へやってきました
この新町史跡墓群は発掘された場所の上に屋根を設置し 館の中でそのまま遺跡を見ることができます
新町史跡墓群の中に入ってきました 建物はちょうど小学校の体育館みたいな感じのところですね
屋根があってその下は何もなくて掘ったままそのまま見せるというような感じでできてますね
これはいつ頃の史跡墓群ですからそっと古いですよね
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そうですね 史跡墓だいたい2500年ぐらい前の遺跡ですね
史跡墓って耳慣れないと思いますけれども通称ドルメンと言われて大きな上石を数個の石 史跡でテーブル上に支える形態を成したお墓のことということで
我が国の史跡墓ここのことなんですけど5番型というタイプで
5を打つときのですね5番とその下の石を支える石を考えてもらったら形がわかるかなと思いますね
史跡墓っていうのがだいたい右左に柱があってその上に横長の岩をドンと上から押すというような感じのお墓の制度ですね
四隅に小石を置いてという形で上に大きい上石がきますのでテーブル上ということで史跡墓ですね
朝鮮半島の南部にその直接の起源が求められて
西北九州の稲作開始時期の遺跡だけに分布が限られている特別なもの
この形の史跡墓って言われるお墓の形態っていうのは西北九州つまり
ここ糸島と唐津と海岸べたにしか残っていないとても珍しいお墓の形態なんです
最大で大きいのはですね上石5トンもある
ここにあるのがだいたい2メーターから3メーター近いですね
これも結構大きな岩ですけどね
この新町史跡墓群がこうやって発掘調査されたままで残されている意味はですね
とても重要な意味がありまして
縄文時代から弥生時代に移り変わる
つまり移り変わり方をここの遺跡から見ることができるんです
弥生時代の始まりと言われている河川
中国の秦の時代
河川がここから出てきてますので
その河川の出てきた時期っていうのが弥生時代の始まりだと言われておりますので
中国の秦の時代の人たちの交流もあったことを示すことができるし
その人たちの持ってきた文化が稲作だったのではないかと
その方々は寅人と言われています
だからこのお墓の形態は寅人の形態ではあるんですけれども
実は縄文人のつまり当時の日本にいた縄文の人たちが
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寅人が作ったお墓に葬られているという特別な形態を見ることができるんです
寅人のお墓の形態の中に縄文人の特徴を示す抜刺
刃を抜くという習慣があったんですけど
その抜刺をされた方がここに残ってましたので
骨として残ってましたので
寅人と縄文人交流はあったとみたいな
どういう交流があってここに文化が根付いたのかというのを
それで見ることができる
なるほど
朝鮮半島の方から渡ってきた人だけじゃなくて
土着の人の日本の人が葬られているということなんですね
人骨自体はかなり出ているんですか
出ているんです珍しくですね
通常山西の土壌の日本において骨はなかなか見つからないんですけれども
ここはアルカリ性の砂地だったので
公園にも骨が出てきておりますので
それを分析結果して今みたいな研究発表がなされております
これをちょっと歩きながら見ていきますけれども
この史跡自体はここでどのくらい何基くらい出ているんですか
57基出ております
そのうちに弥生時代の原風景を残す良好な周辺環境を残しつつ
必要なものだけを20数基ちょっと開けてみて中を確認されました
そうですか
調査したのは20数基ということですね
あとの部分は発見されましたけれどもそのまま埋め戻してあります
その中でも大変珍しい史跡があるというのは
20何号分か
24号分ですかね
ここで見れるんですか
ここではですね
かけらだけ
ここらへんというところの場所は分かります
どこらへんですか
それがですね
これ
これが本の先っちょだけですね
この辺りです
この辺りに24号母の人骨があったということですけれども
これはどういうふうな
実はこの方お亡くなりになったのがどうも戦争で亡くなった
戦いで亡くなったんじゃないかと
実は左大腿骨に石のやじりが刺さったままの状態で埋められておりましたので
たぶん戦いの犠牲者ではないかなというふうに言われておりまして
驚くべきことにもう一つですね
この人骨の真下に小さな穴があり
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人骨とは別個体の2本の歯が見つかったと
その歯を見た限りでは
もしかしたらこれは首だけがその人の真下に置いてあったということは
これは想像なんですけど
戦いで負けた相手 報復として相手方の首を埋めたのではない
相手方の首を
だから縄文時代は平和な時代と言われてますけれども
弥生時代の文化が始まる頃には実は戦いがあって
こうやって戦いで亡くなった人もあるのだなというふうな改めての認識があったみたいですね
そうですか
ということは戦争で亡くなった方 第一号に当たるかもわからないですね
そうですね
2500年ぐらい前ですよね
その方の骨がここに葬ってあるということですね
これ24号母と言いましたね
すでにこの頃から戦争が始まっていたんでしょうか
弥生時代の始まりがわかるという新町史跡母群でした
来週も糸島を歩きます
ご案内を糸島ふるさとガイドの水戸真雪代さんと岩田久美子さんにお願いしました
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです
こんばんは
今本編でもありました新町史跡母群
ここを見てから行くもよし
そして行った後に史跡母群に行くもよしという場所
糸島市の島歴史資料館をご紹介します
以前も一度ご紹介しましたね
そうなんですよ面白すぎてあと5回ぐらい行けるんですけどね
1回で我慢しておきます
とにかくここで謎解きのヒントとか答えを得ることができる場所
今あった24号分の葬られた人の骨格模型を使って
実はねみたいな話もさらに深いところがあったりして面白いんですよ
そういったお墓のこととか住居とか生産とか人々の生活を8つのテーマに分けて
ご紹介していくのは島歴史資料館の特徴なんですが
いろんな模型だとか見本だとかもありますので分かりやすいんですよね
案内していただいたのは伊都国歴史博物館学芸員の河合治さんなんですが
まあいろんなものがありますけども
ちょっとずつ自分の想像を膨らませながら見ていくのがいいんですよ
という中で私が心を惹かれた一つ漁業についてなんですが
古墳時代からタコツボがあったりとかですね
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ちょっと大きめの魚を作る森みたいなのがあるんですが
この刃先が黒曜石なんですよね
1本だけじゃなくて4,5枚ブレードのようにくっつけて森を形成する
1本の森に4つ5つ?
刃がついてるんです
しかもその刃の横がノコギリみたいにギザギザになってたり
面白いなーって瞬間もあったんですが
石のおもり石衰って言われるものもありました
溝が有効石衰というものなんですが
真ん中に穴も開いててほほーっと言ってたら
河合さんがこんな話も聞かせてくれました
これはこの糸島でたくさんこういったのが出土するんですけど
投げ網につけていたものだと考えられてますけど
今だと鉛ですね
この内垣石衰というやつは
今でも漁師さんはこういう石を拾ってきて作ったりもしてるそうですけども
かなり使われてますけども
真ん中のものは特に手の込んだものは
弥生時代から古墳時代にかけてのこの辺りの海で使われていたものになります
戸網をしていたわけですね
多分そういうことですよね
面白いです
今にもつながるそういう部分も発見できますし
あと船の移り変わりというのが模型で作られてるんですが
実は県東支線、県白城線の模型の前に万葉集の歌が書かれておりました
実はさっきもお話出てきました本編で
秘吉湾、秘吉の泊りと当時言ってたんですが
ここで風待ちをして
県東支も県白城支も何日か滞在してたんですね
そこで読まれた歌
草枕、旅を苦しみ漕いれば
茅野山辺に、さおじかなくも
という歌があるんですけどね
これはういを曲説の果てにここに来て
ふるさとの恋しい人を思い
茅野山に佇んでいると
オスの鹿の鳴き声が聞こえてきたよ
オスの鹿って求愛するときに鳴くんです
だから自分のこの恋しい人への思いと
おじかの気持ちを合わせたんですよね
うわぁロマンチックですねと言ったら
河合さんからこんな話が出てきました
一回山口のサバの海って言って山口の響きながらの辺りで
遭難してるんですよ
遭難して大分の方にたどり着いて
やっとこそどうにかして航路館博多の方に来て
体制を立て直してですね
そして今から朝鮮半島を渡るんですけど
まだ朝鮮半島を渡る前に一回遭難したりしてるので
ものすごく嫌なんですよね
旅を苦しみっていうのはまさにそういう
もう今からこんな海を渡るのはきついわーって
死ぬかもしれん
そういう感じなんですよ
しかも季節がですね
もう冬に近くなってきて
やっぱりそうやって来てたので
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それでもうなんか嫌だなーっていう気持ちがありありなんです
全部の歌はそんな感じ
ほかもう大体ですね
この巻に入ってる歌はですね
故郷に生えてきた恋人のこととか
早く帰りたいなーみたいな
そういう歌ばっかりです
背負った苦しみの大きさが
私の想像は遥かに超えてました
なのでそういった次の調べ物絵に
ちょっとワクワクするような瞬間も生まれますので
ぜひ糸島市の島歴史資料館
いろんなヒントを見つけにお出かけください
中島リエさんでした
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