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古代の福岡を歩く。遥かな昔。 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩く。 この番組はJA福岡屋目
道の駅村方 餃子の山鉢の提供でお送りいたします。
JA福岡屋目の食売所ヨランノの江頭です。 みかんのおいしいシーズンです。花たちばなみかんは特に甘いものを厳選しています。
おいしいですよ。花たちばなみかん私のおすすめです。 食べてみてください。
こんばんは、坂田周大です。 今夜から大宰府を取り上げます。
この番組では岩井の乱をいろんな角度から取り上げていますが、この岩井の乱と間接的にですが関係があるのが太宰府になります。
去年は四王子山大野城を何回も登っていろんな角度からお送りしましたが、今回もちょっと角度を変えて太宰府を取り上げていきます。
太宰府成長後に立ってお話を、こと太宰府保存協会の学芸員田中健一さんに伺っていきます。
太宰府成長後に来ています。 なぜ太宰府成長後に来たかと言いますと、この番組ではずっと岩井の乱について
やっておりますが、その岩井の乱とこの太宰府成長というのは実は深いつながりがあるということで、太宰府成長をちょっと調べてみようと思ってやってきました。
田中さんに伺っていきます。これ岩井の乱とどういうふうにつながってくるんでしょうか。
はい、今回ご紹介させていただく太宰府後、太宰府成長後なんですけれども、皆様一度お越しになった方も多いかなと思うんですけれども、
今回特集されている、いわゆる美しいのきみの岩井の乱ですけれども、確かに太宰府と直接何かつながりがあるというよりも、やはり間接的にご縁があるというところで、
まず一つは、岩井の乱が527年に起こるわけなんですけれども、それが一段落した後、北部九州の支配拠点としまして、名の継に三宅が設置されるわけですけれども、
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これが536年のことですけれども、この設置された名の継の三宅というのが太宰府の源流であるというのが、今一般的な考え方でございまして、
名の継の三宅が設置され、その後100年ほど経ちまして、663年、白村公の戦いがあり、それを受けて水城や大野城のそういったものが整備されるとともに、
名の継の三宅が持っていた行政機能を太宰府の方に移して、それが立行政の下、太宰府という九州管内を統括するような組織へと発展していった、
こういうふうに考えられているところですので、やっぱり築地の岩井の黄泉の乱からずっと北部九州の政治体制の統治機構の流れとして、
やっぱりその中の一つに位置づけられるものというふうに考えられると思います。
三宅が各地に大和王権によって作られていきますけれども、その三宅とつながりがあったということなんですね。
そうですね、そういったものの流れを受けて発展、組織化されていったのが最終的な形が太宰府という形になっていったというふうに考えられております。
ということで、太宰府の歴史もずいぶん古くからあったということですよね。
そうですね、その時代からというところで、やっぱりいろいろな方たちが携わってきた歴史ですけれども、
あともう一つあるのが畜種の岩井の黄泉の乱につきまして、いろいろ書物に書いてありますけど、
戸敷の方を見ていきますと、やっぱり大友氏というのが一つつながりがありまして、
後に太宰府で言いますと、今みなさん元号令和で有名ですけれども、730年に長官の大友の他人が赴任して梅花内をするわけですけれども、
まさにその大友の一族が畜種の岩井の黄泉の乱にも携わりまして、
その後、九州の長官として赴任してくるということで、この北部九州が大友氏とも大変兼ねの深い時期ですね。
そういう意味で言うと、やっぱり太宰府ともいろいろな面でのつながりが出てくるのかなというふうに思っているところです。
大友をつながりで。
はい、そうですね。
やはり中央で武門の家として携わっていた大友が、やっぱりこの北部九州にも深く携わって、
その中が畜種の岩井の黄泉の乱でありますし、大友の旅と。
一時期、まず1回目に南九州の担当として将軍として派遣されておりますけれども、
そういう九州とも大変深いつながりがあったというところで、
大友氏を通じていろいろな北部九州の歴史が肝といていけるんじゃないかなと思います。
太宰府の歴史を語るときに、第一期、第二期、第三期というふうに分けられますよね。
はい。
その辺はちょっと解説していただけますか。
そうですね。
まさに太宰府というのが、だいたい500年間ほど太宰府の地にあって、
その機能を果たしていたと考えられるんですけれども、
一番最初のというのは、先ほど申し上げましたように663年、白村公の敗戦を受けて、
この急遽、国家防衛のために体制を整えるということですので、
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太宰府の一期目というのは、その600年代の後半にですね、
太宰府の地に、まずは掘ったて柱で建築されたというふうに考えられております。
7世紀後半になりますね。
はい。
この600年代後半の太宰府を作られたのが、まず第一期と考えまして、
いよいよ立法体制が整ってきまして、
組織立ちの瓦吹きの、大変今展示館で模型も展示しておりますけれども、
大変豪華な威厳のある建物に作られた、これが二期目でして、
それが二期目なんですね。
これがだいたいですね、奈良の都が710年平城京と言われますけれども、
その前後して700年代の初め頃に、
この二期の建物に作り変えられたというふうに考えられているところでございます。
そしてこの二期目からですね、次三期目、最後の三番目があるんですけれども、
これの契機となったのが、どうも941年にですね、
藤原の隅友の乱が当時起こりましたけれども、
その際、隅友もこの太宰府まで進行してきまして、
どうも政庁の建物はその際に焼き討ちにあって、
消失してしまったというふうに考えられております。
この二期目で消失してしまった建物を、ほぼ同じ規模で第三期として建てたのが、
一番最後の三期目の太宰府政庁の建物ということになっております。
はい、わかりました。
はい、太宰府政庁の正面に立たれてですね、
一番最初に階段を登っていただきましてありますのが、
太宰府政庁の南門にあたる場所になっております。
これがまさに太宰府政庁の正門でありまして、
当時の建物の柱を支えた組織ですね、
3分の1ほどが本物でして、残りが再現したものになるんですけども、
大変ですね、規模を見ていただくと、大規模だったということがわかりますけれども。
組織がいくつあるのかちょっとわかりませんが、1、2、3、4、5、
20ぐらいありますね。
ここがちょうどですね、横が5件、縦が2件でして、
だいたい21メートルかける8メートルぐらい、
まあそういった規模のあるものでして、
これも高さもですね、復元しますと最大で18メートルぐらいの高さまでは立てれるんじゃないかと、
建築の先生が出してあるんですけども、
まさにこの九州全体を統括していた太宰府の象徴となる正門の、
そういった堂々したものがあるわけなんですね。
この南門をくぐりますといよいよ太宰府の建物の中に入っていくわけになるんですけども、
やはり中枢部分ですので、簡単に他の方が入るように当時は対峙で囲ってあったんですけども、
南門の左右を見ていただくと、その対峙を今再現した生垣がですね、
綺麗にL字型で左右東西に向かって伸びておりますので、
その内側がいよいよ太宰府の中枢部分という形になっております。
この南門で一つご紹介しておきたいのはですね、
記念碑が実は祖跡の上に建てられているわけなんですね。
記念碑が、これですか。
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1メーターぐらいの四角の記念碑ですね。
今考えると、当時の文化財であるその祖跡の上に石を建てるのは何事だというふうに、
お祝いの方もいらっしゃると思うんですけど、
実はこれだいぶ古いものでして、明治43年に建てられたものなんですけども、
石碑を見ていただくとですね、
徒歩路道路開通記念というふうに書いてありまして、
これ何かといいますと、
明治43年に福岡で九州・沖縄の博覧会があったわけなんですけども、
その際にですね、福岡に来るたくさんの人々に、
実はこの南には津軽三田猫が卓球をした南間、
絵の汽車があるわけなんですけども、
その絵の汽車からこの太宰府省庁までの道を、
この時期に合わせて開通させたわけなんですね。
この太宰府に多くの人、徒歩路跡を見ていただこうということで作られた道路、
それを記念したのがこの省庁に建てられるということで。
岐阜した方の名前が書いてあるような感じですね。
金額と名前ですね。
金200円と。
地元の方のお名前が33名ほど書いてあるそうです。
33名の名前が書いてある。
まさに明治時代からこの太宰府の地を保護して広めていこうという方たちの、
そういった思いが携わった石碑が建っております。
省庁の祖跡、この上に建っている記念碑もぜひご覧になっていただきたいと思います。
そして中に入りますと、中門跡という標識があります。
ここから中門に入るんですね。
そうですね。
ちょうど南門から行っていきますと、
すぐ北側に中門跡が広がっております。
ここがですね、さらに太宰府のいわゆる中枢部分、
本当に成長跡というのは太宰府の一番重要なところなんですが、
その中でも一番の大きな広場でありましたり、
あるいは聖殿に入る、
そういうのを向けた最後の門が中門ということになっております。
現在も見ていただくと、こちらもまた祖跡が残っておりまして、
南門の方が大変大きな門で、
中門はそんなに高層の門ではなかったというふうに言われておりますけども、
この中門から重要な役割としましては、
現地に来ていただくと、中門の左右、東西に向かって道が続いておりまして、
その道の両サイドには祖跡が置いてあるわけなんですが、
これまさに屋根付きの廊下が、この中門から左右に回っているわけなんですね。
これがそのまま左右を巡りまして、
最終的には中心部の聖殿につながるという形を構造になっているわけなんですね。
まさしく雨の時なんかは、今でいうと学校でいう渡り廊下のようなものですけども、
屋根付きの廊下を通って聖殿まで行くことができたと。
その渡り廊下で囲んだ内側にですね、大きな広場と役人たちが決祭などをする脇殿、
そういった建物が含まれていたというふうな形なんですね。
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脇殿は左右に糸ですか?
この中門を通りまして、いよいよ中に入りますと大きな広場が広がっているんですが、
その左右に2棟ずつ、東に2つ、西に2つで合計4棟が確認されております。
そういう組織もあります。
正に正面に中心となる建物があって、左右にそういう脇殿が配置されるという、
都のちょうど委員形式の配置を習って、また財布も都と同じような行政施設の配置をしているというところで、
この広い広場の面積を見ていただくとともに、脇殿にもそれぞれ組織が復元されて残っていますので、
そういった建物群の大きさなんかも見ていただきたいと思います。
東西にそれぞれ2棟ずつ脇殿が配置されているわけなんですけども、
ここがいわゆる各部署、組織の長官クラス、現在会社でいうと政務であったり部長さんであったり、
そういう方たちが詰めておいて、そういうところに各周辺に広がっていた役所域から、
現場の課長さんとか係長さん、クラスの方が来て文書を提出して決済をしたり、
物事を確認したりとか進めていくという形で、
まさに太宰府の中枢部分でいわゆる文書の行政をしていたのがこの脇殿だというふうに考えられているところです。
ですので、1300年前ここでかなりサラリーマンの皆さんがお仕事をされていたんじゃないかなというところですね。
脇殿を通り過ぎて、今西殿の方に向かっています。
今津川さんとともに南門を通り、そして中門を通り、西殿に向かって歩いてきました。
中央に大変広い広場が広がっているわけなんですけども、
これは当時としても重要な場所でして、
そうですね、広がって重要なんですよね、昔はね。
これ実際に脇殿を除いた広さで行きますと、
大体117m×60mくらいの空間が広がるということでして、
これはかなりの広さなんですね。
当時のこういう役所で言いますと、この中央の空間というのが重要でして、
やはり役所ですので役人たちが四季折々、年間でそれぞれの儀式だったり行事があるわけなんですね。
その時に役人たちが一堂に会して集まって、そういったものを行うと。
そのためにはやはりこういう広い空間が必要でして、
なおかつ太宰府ですと海外の施設がやってきた場合、航路館に到着して、
そして太宰府にありました客館に滞在して、太宰府で受付、横帯をして、
時には都に行けない場合はここで儀式や対応なども全部済ませてしまうわけなんですけども、
まさに海外の施設がやってきた時にも、そういう外交議令をするためにも、
やっぱりこういう広い空間がないとそういうことができないわけなんですね。
ですので、ただ単に広く空間をとっているわけじゃなくて、
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やっぱり必要な場所にあったからこそこういう広い太宰府の空間をとってあるということですので、
歩いてくると大変広いですね、広場が広がっているんですが、
その空間にもそういった意味があるというのを見ながら歩いてきていただければと思います。
太宰府西庁のど真ん中になりますけども、ど真ん中に広い空間がある。
実はその空間というのは昔からそういった空間が大事なところなんですよね。
儀式があったり、祭祀があったり、いろんなことがある重要なところなんですね。
この空間が重要だというのがポイントの一つですね。
そしていよいよ正面に来ますと、聖殿に到着するわけでございます。
これが太宰府西庁で一番中心となる建物ですね。
太宰府の長官は祖父と呼ばれましたけども、太宰の祖父が滞在しまして、
業務を行う、質問を行うというのがこの場所であったと考えられているところでございます。
ですので一段ですね、やはり周囲の地形よりさらにちょっと高くなったところがございまして、
こちらには三十数個の祖跡があるわけなんですが、
こちらの祖跡というのは三期目の祖跡。
いわゆる千年以上前に実際に太宰府西庁の聖殿を支えていた祖跡というのが、
全て本物が残っているというわけなんですね。
そして真ん中に石碑が三つ並んでますね。
真ん中に立っているのが都督府小市という石碑です。
そうですね、西庁にお越しいただくと本当に中心ですね、一番目立つところに三つの石碑が立ってですね、
来られた方も大変注目いただくんですけども、
こちらが実際にですね、今からだいたい150年前、100年前にかけて、
この太宰府跡を検証するためにですね、保存して皆さんにぜひこの場所を守り伝えていきたいという思いが込められて建てられた石碑になっております。
一番最初に建てられたのが津川さんのおっしゃる通り中央の石碑でございまして、
これは都督府小市というふうに書いてあるんですけども、
これはなぜ太宰府という表記ではないかというんですけども、
これ建てられたのが実は明治4年という大変早い段階なんですけども、
現在の大野城市の太宰を出身のですね、高原善史郎という地元の庄屋さんなどを務める大変地元の名士の方がいらっしゃったんですけども、
この方は大変太宰府をはじめとする地域の歴史の保全とか保護に大変熱心でして、
ご自身もですね、実はこの地域の庄屋を務めたことがあられるわけなんですけども、
その際にやはりこの歴史ある太宰府跡が皆さんに忘れ去られているのは忍びないということで、
全部自腹を切ってですね、石碑自体も、そして混流の費用も自分で自腹を切って申請して混流したものなんですが、
この太宰府というのがですね、もともと由来するのは、この太宰前史郎さんは菅原三田猫も大変通刑しておられましたので、
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菅原三田猫が府の南間に宅居してた時にですね、門を入れず不出門というような監視を作っておられまして、
自分はですね、禁止にしています府の南間から、外には一歩も出られないんだけれども、
遥か彼方太宰府の方、太宰政庁の方を望んでみれば、都府の廊の瓦の色はわずかに見るということで監視でございますので、
中国風にこの太宰府のことを呼びまして、都督府というのは中国の古代におきまして、地方を統制する政治的な組織の建物なんですね。
地方行政の拠点となるような建物、都督府、まさしく日本でいうのは太宰府というのがその役割を担っておりますので、
その太宰府を、太宰府政庁を中国風に都府廊、都府の廊角、高い建物の瓦の色だけは見れる、そういうふうに言ったことに起源しまして、
高原前城さんもその道座でこの監視を参考に、都督府の跡であると、そういうふうに文字を刻んで建てたと伝えられているところでございます。
石碑の中で最も古いのが中央の都督府戸市碑で、その次に建てられたのが左の太宰府跡碑、最後に建てられたのが右の太宰府碑となっています。
1914年に混流されています。これが3つの石碑です。
そしてこの後はどういうふうになりますか。
この太宰府という役所、そもそも役割としましては九州一円の統括という非常に大きな業務を担っていたわけでございます。
私たち今住んでいるところは九州と言いますけども、まさに1300年前は、
畜然畜護、非禅非護、武禅文護、薩摩、大墨、広賀という9つの国が主宰していたわけでございます。
またこれ以外にも島としまして、現在は長崎県になりますが、池、そして津島。
一時期は編入とか合併があるわけなんですが、宇宙ロケットが飛んでいっています、鹿児島の種ヶ島。
この範囲まで実は太宰府というのがすべて統括していたと。
それぞれの国に黒子がいて、国の運営はしているんだけども、その上位機関として太宰府が位置づけられていまして、
それぞれの国を束ねて九州、西海道と呼ばれた地域の国づくりの方針を進めていったという重要な場所でございます。
そういった太宰府の大きな業務をしておりましたので、実はこの太宰府成長跡というのは本当にその中の中心部分の一つなわけなんですね。
実はこの成長の周辺にはですね、成長がだいたい120メートル掛け215メートルほどと申しましたけども、
数倍、10倍にあたるようなエリアが広がっていて、この太宰府成長の周辺にですね、様々な役職業務を行う館が、いわゆる役所が広がっていたわけでございます。
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ですので、ぜひ今回はですね、この太宰府成長とともにですね、その中心部分の周辺部、この館街地についてもですね、皆さんにご紹介して、
ぜひこの太宰府のですね、古代におきます業務の多さ、大きさというかスケールの大きさ、それをぜひ周辺の役所の跡も見て歩きながらですね、ご紹介させていただきたいと思います。
というわけで、来週から太宰府の館街、役所を紹介していきます。
太宰府成長の周りに広がるいろんな役所があった町々を紹介していきます。
ご案内は、古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんでした。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中嶋理恵さんです。
さかたさんは、果物のキウイフルーツお好きですか?
甘酸っぱくておいしいですよね。
そのキウイフルーツの話なんですが、実は福岡県って国内第2位のキウイフルーツの産地なんですよ。
しかも、その92%ぐらいがJA福岡山の館内で生産されている。
大体年間2400トン前後みたいなんですけれども、実は日本の国内で愛媛県、福岡県、和歌山県、これが産地のトップ3なんですよ。
ここでふっと、あ、みかんと一緒って思った方もいるかもしれない。
やっぱり、みかんからの添削でキウイフルーツの栽培って始まってるみたいなんですね。
やめでももちろんそうなんですけれども、JF福岡やめキウイフルーツ部会、販売委員長の中村照佑さんにいろいろ聞いてまいりました。
やめって気温差、それから乾燥具合などがとてもキウイフルーツの栽培向きなんだそうで、中村さん家ではお父さんの代からおよそ50年。
そして中村さんご自身も退職後12年間ぐらいもう生産してますねとおっしゃるんですけれども、さあ中村さんに聞いた。
何がすごいのか、やめのキウイフルーツ。
何と言っても、実は専科上に他のところにはないような糖度センサーが入っていて、現状このぐらいだって糖度を測定するだけじゃなくて、
そこから数日経った、いわゆる販売される時の糖度を予想する力がある糖度センサーが入っているんですね。
糖度が15度以上になると博多売れっ子、完熟娘って書くんですが、博多売れっ子として特別枠に持ち上げて出荷されていくと。
甘さチェックしてるんですが、さらに聞くと強みはこの糖度だけではないそうです。
糖度区分ができる中と、食べごろになる水熟ですね。
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それを水熟庫に入れて、食べごろのものを市場に出荷して、消費者はすぐ食べられるような状態で出荷しているというのが特徴じゃないかな。
そうなんです。
収穫されるとまず巨大な低温倉庫で貯蔵されて、鮮花する分だけその度ごとに出して鮮花場に持っていかれるんですね。
鮮花が終わってランキングが決まった後、水熟庫で大体15度ぐらいの温度みたいなんですが、
必要な分だけ熟させてから出荷させるというふうなことで。
J.福岡やめのキウイフルーツなんですが、9月の下旬から出荷が始まります。
レインボーレッドからスタートして、10月の中下旬は博多アマウィーといって福岡県のオリジナル品種。
大きくてちょっと黄色っぽいものが出てきます。
そして11月の5日ごろからみんなが一番馴染んでいるグリーンのヘイワールドという種類。
これが大体3月いっぱいまで出荷されていくんですね。
ここまで話すと、キウイフルーツってニュージーランドっていうイメージありません?
キウイって鳥もいますしね。
じゃあ世界最大の産地でもあるニュージーランドってやっぱりやめのライバルかしらと思って中村さんに聞きました。
昔はライバルと思ったけど、今は逆に宣伝とかしてくれるから、あれのおかげで国産は売れてるんですよ。
いい宣伝をしてくれてると思いますよ。
だから宣伝面では感謝してます。
よくよく考えると南半球と北半球でできる時期が違うので、うまいこと進み分けができてるみたいなんですね。
そんなJF福岡やめのキウイフルーツなんですが、言うなればさっき言ったみたいに水熟もかけてすごくおいしい状態で出荷されてますし、
福岡県産の中の92%がやめのキウイだということは、ほぼ間違いなく買えばおいしさにたどり着けるかと思うんですが、
あえて聞きました。おいしいキウイの選び方ってあるんでしょうか。
ほぼこっちで選別して出してるからね。ほぼ差はないんですけれども、
どこに行ったらいいかな。やっぱ家計はある程度平和度はちょっと扁平柱がべったらかいのが高度は高いんですよ。
かっこいいのはね、これがマカロワ柱って買う人が多いけど、扁平のものが高度は高いです。
え、そうなんですか。
知らなかったですよね。
いや、驚きました。
今手元に見本持ってきてるんですが、やっぱりコロンとして丸みのあるのを選びたくなるんですが、ちょっとぺたっとしてる形の方が甘みが強いそうですよ。
マキウイフルーツ一年中作業があるそうなんですが、今は枝の剪定をしてる時期で、この後は春に芽が出て5月頃には十分作業、
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6月に実が成り始めるんですが、夏場の枝の管理も大変だと本当に心込めて作ってらっしゃる。その結果美味しくなってるんですが、やっぱり農家さんの高齢化で作付け面積が減りがちなので、これを減らさず終了をキープするのが最大の課題ですねっておっしゃってました。
また、若い生産者さんたちにこれからおやめになる方の分を土地を回したりとか、あと今年からは次に作る人が後継ぎが決まってますかっていう調査も始めたりして、いろいろ対策もなさってるそうです。直売所、それからお近くのお店で美味しいの買えますので、ぜひやめのキウイ召し上がってください。
中島リアさんでした。
道の駅村方、花と工芸雑貨のお店日頃の山本です。ホワイトデー限定のギフトセットを作りました。
村方鳥の炭火焼きと陶器のペアカップです。お二人で食べて飲んでください。日頃おすすめのホワイトデーギフトです。
ホームページのご案内です。これまでの放送内容、番組を一回目からじっくり楽しむことができます。古代よ福岡を歩くのバナーをクリックしてください。
この番組はJA福岡やめ、道の駅村方、餃子の山鉢の提供でお送りいたしました。
ご案内は酒田秀大でした。
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