1. 古代の福岡を歩く
  2. 「古代の福岡を歩く」16回目..
2026-01-18 30:30

「古代の福岡を歩く」16回目は磐井の乱に戻ります。

筑紫の君磐井は、乱でヤマト王権に敗れてしまいますが、この時、息子の葛子がヤマト王権に差し出したのが粕屋の屯倉。

この屯倉とは一体どのような機能をもっていたのか、単なる倉庫群があっただけではありません。豪族たちの動きを監視する機能もあったとか。

ヤマト王権が各地に展開した屯倉のさまざまな機能を紹介していきます。
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:00
始まりました山田の本喫茶 一番バッターはロボット掃除機
打ちました ゴミを見つけて三塁側に走ってしまいました
さあ気を取り直して2番電子レンジが スライディングで時短セーフ
3番洗濯機 先ほどのスライディングの泥汚れをかなり気にしていますね
歌う 山田のフルスイング本喫茶セール開催中
古代の福岡を歩く 遥かな昔
海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました その足跡を尋ねる古代の福岡を歩く
この番組はja 福岡やめ 道の駅室方
餃子の山鉢の提供でお送りいたします ja 福岡やめの直売所ヨランノの絵頭です
博多天王の季節です赤くて丸くて大きくてうまい 今年もいいのができました美味しいです
やめの博多天王ぜひ食べてください こんばんは坂田集大です
今週は岩井の乱に戻ります 岩井は大和王権との戦いで敗れてしまい
岩井の君の子供岩井のクズ子は大和王権に霞の三宅を献上 命は助かりますが大和王権はその後
各地に三宅を作っていって支配を確実のものにしていきます ではその三宅とは一体どのような機能を持っていたのか
この話から紹介していきます お話をやめの古墳に詳しいやめ氏の職員
大塚刑事さんに伺います 三宅という名前を
勉強された人もいらっしゃると思うんですけど よく中学校とか高校とかですね
日本史の中ではよく三宅という名前が出てくるんですけど その時に教えていただけることといえば
大和朝廷とか大和王権とか言いますが 大和王権の直轄地というところでですね
教えてもらえるぐらいで あんまり詳しい内容とかそういうふうにお話を聞いたことがないんですけど
03:04
実際三宅というものがどういうものなのかというと 直轄地というふうに言われると
もうそれはあながち間違いではないというふうには思っています ただ詳しく三宅のことをですね
調べてみますと 一つの施設があれば三宅ですとかいうふうなものではなくて
総合的なものと言ったらいいのかな 例えばその成長跡があるとか
創古群があるとか 炸裂があるとかですね 道路があるとかそういうものなんですね
実はそれは三宅の中のほんの一部でしかないんですけど
本来ならその広い意味での三宅というのはそういう中核施設プラス
それに生産拠点みたいなものも持っている 例えば農業をやるとかですね馬を買うとかですね
それとか一番岩井に近いといえば公安施設を持っているような施設ですか
政治的なその成長施設もありながら公安施設も持っている
それがその地域を監視する 支配というよりは監視するのほうが近いと思うんですが
監視するためのその地域地域にいる有力豪族をちょっと抑え込むような感じでですね
監視をすることができるような施設 それを総合的にまとめて三宅というふうに言うんだというふうに
理解したほうがいいのかなというふうには思っているんですけど
そうですか いろんな機能を持っていたということですね
一つは穀物を貯蔵する倉庫みたいなのがあって
これは去年のために備えるというような施設ですかね
それとあとは敵がやってきた時のための蓄えといいます
それから外国から来たお客さんをもてなすという仕事はどうですか
各地にいろんなところに例えば九州であるならば岩井の乱が終わった後に
例えば蓄善の国でありましたらホナミとかカマとかですね
武善の方の国に行きますと三崎、桑原、加藤、大抜、赤という三宅が設置されるという記事が日本書紀に載るんですけど
外交施設を接待するための施設というのはそういう三宅の方にはおそらくないだろうというふうに思っています
それが後々ですね
景泰天皇から言えばその次の次になるんですけど
戦火天皇がいらっしゃって
戦火天皇が536年かな西暦536年に七つの宮家を作りなさいと命令を出すんですね
実はこの七つの宮家はいろんな各地に散らばっている宮家から
06:03
穀物とかをどんどんどんどん集めなさいと
そしてその外交施設が海外からやってきた時にですね
接待をしなさいと
それプラス有事があってですね
領民が困った時にはその食糧倉庫から
食物を出しなさいというふうなそういう命令を出していくんですけど
後々太宰府につながっていくような
七つの宮家というのはそういう外交施設をもてなすという機能を持っていたみたいです
これは三つですか
宮家を統合した形
そうですね
宮家の機能をある七つの宮家というところに集合させた上でですね
一部をちょっと取っていくような感じですけど
集合させた上で今まである宮家とはちょっと違う
後々の時代になりますが航路館のような形をですね
そういう機能を持たせたものが七つの宮家だというふうには理解しています
要するに朝鮮半島への備えといいますか
そういう拠点の一つにしたというふうに理解したらいいですかね
はい
それが宮家ということで
この間倉塚さ
太宰府の倉塚さに行った時に
組織の跡がたくさん残っていて
それをいくつか見せていただいたんですけれども
あの組織はですね
どうも役所はあったんじゃないかというようなことをしちゃったんですが
やっぱりそういう役所も宮家にはたくさん作ったということですか
そうですね
宮家
例えば先ほどお話ししたみたいなですね
ホナミとかカマという宮家が
蓄然の国の中には作られているんですけど
そういう組織建物というふうなものが全てにあったかって言われるとそうでもないような
そうですか
例えば先ほどお話ししましたその七つの宮家ですか
比叡遺跡とか中遺跡というところ
福岡市のですね
比叡遺跡中遺跡というところから見つかっているものが
七つの宮家の一部であろうというふうなことを今言われてるんですけど
その七つの宮家ができた頃のものというのは
掘ったて柱ですね
組織が使われるようになるのはもっともっと後の時代になりますので
そういうことですね
掘ったて柱の後ということになるんですね
それが見つかって
これは建物があったんじゃないかということになったということですね
そして次に移りますが
この岩井の乱をですね
古事記、日本書記、それから地古の国、古書記
一文に伝えてあるということですけども
09:00
これそれぞれどういうふうに書かれていたんでしょうか
そうですね
古事記にしても日本書記にしても非常に重要なですね
いわゆる国書と言いますか
国の歴史書になるんですが正式なですね
書かれている内容はだいぶ違うと言いますか
例えば日本書記であるならばですね
非常に詳しく書いてある
例えば岩井の乱のところに関してもですね
白木に破られた南からとか徳古トンを取り戻すために
大海の木の農民がやってきてみたいなことまでですね
詳しく書くんですが
古事記はそうではなくて天皇の名前であるだとか
老いたちであるだとか
どこに亡くなられた後にですね
どこにその御捧ぎと言いますか
墳墓を作ったか
それぐらいしかあんまり書いていない
書いてない
日本書記はとにかく詳しく詳しく
ちょっと純色もかなり入ってはいるんですが
詳しく書いてある
古事記は重要なところだけを書いているというふうな形になります
いずれにしても日本書記にしても古事記にしても
岩井の乱のことが少なからず書かれているわけなんですね
古事記の方は
景大天皇が在位されている間に
岩井が乱を起こしたと
そこに大友の金村
それから諸信の荒垣という大村氏が
二人やってきて岩井の乱を鎮圧した
岩井は斬り殺されたというふうなことが書かれるんですね
日本書記はもっともっと詳しくて
そこに至るまで
最終的には物延べの荒垣という人が将軍になって
岩井の乱を鎮圧するという形になりますが
それまでの間に
例えば福岡県の三位
今で言うと久留米市になりますが
久留米市のあたりで大決戦が行われて
岩井は斬り殺されたというふうなことを書かれる
そういうふうに日本書記古事記は
最終的には乱は鎮圧されて
岩井は亡き者にされると
いうふうな形で書かれるんですけど
ちょっと違うのが
筑後の国不土器一文というやつですね
これはちょっと面白いんですが
甲類と乙類という二つあってですね
我々がよくお話をするのは乙類の方なんです
そちらの筑後の国不土器一文の
乙類の方で話をしましたら
岩井はですね
やっぱり皇風に
要するに大和王権の命令とかには従わずに
荒々しい行動をとると
その人岩井がですね
そういう人でもあったから
まずは鎮圧しないといけないというようなことで
一応攻めてはくるんですけれども
岩井は最終的には
斬り殺されたではなくて
12:00
偶然の山の中にですね
一人逃れたというふうなことを書かれていますので
不土器の一文では岩井は
生きていることになるかなというふうには思うんです
難しいですねこれ
そこはやっぱり大きく違うところだな
反感美意気だというふうに言われることもあるんですけれども
実際本当に斬り殺されたのかもしれない
不土器の一文に書かれている通り
その無前の国に逃げたのかもしれないというふうなところなんですけど
結果がですね
亡くなられたのか生き延びたのかの差が
割と大きいなというふうには思います
大きいですね
古事記日本書記それから不土器によっても
若干違っているということですね
我々地元の人間からすれば
不土器の一文の方を圧倒的に信じたいというところがあるんですけど
無前の国に逃げたと
どっかに逃げたということですね
今で言えば福岡県のですね
無前市というところに
久保手山という山がありますが
久保手の山中ではないかというふうには言われていますが
実際はどこなのかというのはですね
まだ全然わからないというふうな状況です
それからですね
古事記の方は
大友の金村と諸延べの荒貝が中心になって
岩井を殺したと
日本書記の方は
大友の金村というのはあまり登用しないという
そうですねあまり出てきませんね
これ諸延べの荒貝が売ったんだと
いうような記事になっているみたいなんですが
こういう違いというのは
どういうことから来ているんでしょうか
そうですね色々諸説あるので
私の方でこうですというふうに
断定的にはなかなか言えないんですが
大友の金村は岩井の乱が起こる少し前にですね
美濃四県滑情という事件というか事柄があって
そこで少し信用度が落ちていくというか
諸延べの荒貝は日本書記によればなんですが
金村が行った四県滑情に関しては
どちらかというと基本的反対の立場にあったみたいですので
日本書記だけを見ればなんですが
岩井の乱が起きた頃
力関係がどちらが上かというふうになると
諸延べの荒貝
諸延べ一族の方が相対的に
権力の方が強かったのかなというふうな気はしますね
それと日本書記を編纂した人たちの中に
諸延べ氏が力を持ってたんじゃないかという方もありますが
15:02
これはどういう風に
結局その日本書記の中
岩井の乱が起きて鎮圧をするのに
誰が行くかという話になった時に
大友金村の方が
諸延べ一族のことを褒めたたえて
諸延べの荒貝を将軍として送り込むということになるんですけど
そこが少し影響しているのかなというふうには気はしますね
そうですか
編纂者によっても多少違ってくるということですね
そうですね
それからですね
岩井のことをつくしの国像と日本書記が書きましたけれども
この説大塚さんのお話では
大友金のこれは国像と書いたのは怪獣作じゃなかったのかという見方をされました
他の見方もあるんですか
確かに国像制というのが日本で一斉に成立したと言われていたのが
5世紀の後半ぐらい雄略天皇の時代ですね
その頃には成立していたのではないのかという話も以前はあったんですが
最近はそれはある意味否定されているような状況ですね
国像というのは結局中央政府があって
中央政府が任命したいわゆる地方官ですね
地方官僚ですね
昔みたいに豪族で地域の王とかいう話ではなくて
本当に地方官になりますので上下関係がはっきりしています
あともう一つ問題なのは
地方官として任命するということは
その地方官が赴任する場所が確定しないといけないというかですね
要するに境が決まらないといけない
今で言えば福岡県と佐賀県熊本県大分県の境があるというのと同じように
官僚として働かせるときに
ここからここまでが君の守備範囲という形を定めておかないと
官僚としては動けない
なので岩井の時代に境がちゃんとあったのかというと
実は境がないんです
だから国造として任命するということにかなり無理があるというふうには思っています
やはり大和王権が岩井の乱を鎮圧しようとした最大の理由というのは
やはり地域の王というふうにして認めて仲良くやっていきましょうではなくて
大和王権が中央集権国家として成立するためには
地方の王というふうなものはいらなくて
いわゆる官僚として配下に置かなければいけない
その時にやはりどうしてもあなたの守備範囲はここからここまでというふうに決めないといけない
18:04
でも岩井がいるとどうしても北部九州はそういうことができないと
まず岩井の乱で岩井という人物を排除しておいて
その後の人間ですね
それがイコールクズコだとは言いませんが
クズコもその中の一人だったとは思いますが
岩井がいなくなった後に地方官として任命をすると
そこから国造制が始まるというふうな形では思います
日本書紀の中にも
モロノメロン・アラカヒが岩井の乱を鎮圧するにあたって
渓谷天皇の方からですね
長都から東は渓谷天皇が
畜氏から西はモロノメロン・アラカヒに
全てを任せるというふうなことを書いてあるので
それはいわゆる境を定めるということになるので
岩井の乱が終わった後に国造制というのが
実際に九州の方にも浸透するようになったというふうに
考えた方がいいというふうに思っています
なので岩井が国造というのは
おそらくそれはちょっと言い回しとしては違うというふうには思っています
この辺非常に難しいところですね
そうですねちょっと難しい話ですね
それからですね
当時の九州の他の豪族の動きについて伺いますけども
この頃は村方では沖の島の祭祀があって
村方の君というのがおりますね
あとは目立った戸族
例えば三沼の君とか
幾波の尾身とかいろいろ出てきますけども
こういった人たちについてあまりよくわからない
そうですね
どうですかね
確かにその当時
つくしの君だけではなくて
三沼の君もいますし
村方の君
それから武全の方に行けばですね
大喜多の君とかですね
いろんなその種族がいます
もちろん君政だけではなくて尾身政の種族であるとか
与えというふうな
宇治をですね
かばねを持った人たちももちろんいるんですけれども
なかなかその
例えばそれぞれの種族が
こういう活躍をしたというところは
あんまり出てこない
出てきませんね
我々としては
つくしの君をですね
いろいろ調べている我々としては
その中でも一番目立つ
種族としてはやっぱり日の君になるのかなという風には思っています
日の君
系統がいくつか分かれていると
いうふうなことを伺ったんですが
21:01
この日の君の正体もよくわからないんですが
これについてちょっと詳しくお願いできますか
日の君の本層形というのはですね
今の行政区でいうと
熊本県
あそこは今ひかわ町になるのかな
のずこふんぐんというのがありますが
のずこふんぐん
前方後円風の大きなものをですね
4つほどポンポンポンとつくっている
こふんぐんなんですけど
のずこふんぐんの奏者は
日の中の君の本層形だという風には思っています
日の君にもいくつか系統があってですね
その本層形が
日の兄の国というか
兄の君という
これは正式な名前というよりも
そういうふうな分け方をされていると言った方が正しいと思うんですが
日の君の中でも
兄と仲と弟というのがあるんです
そうですか
兄仲弟
その兄が結局先ほどお話しした
のずこふんぐんの奏者たちだと思います
岩井さんというかですね
つくしの君が非常に
つながりが強かった日の君という風になると
じゃあどれなのかという風になると
日の中の君
はい
だという風には思います
日の君の話を詳しく伺っています
続きは来週お送りいたします
お話を
やめの古墳に詳しい
やめ氏の職員大塚刑事さんに伺いました
ここで古代の福岡を歩く
リポーターの中島理恵さんです
こんばんは
今日はやめの老舗のお茶屋さんを紹介します
好み本家って言うんですが
やめ福島の古い街並みの中に
三千と輝く古い店構えのお店なんですよ
聞いたら商売の始めは江戸時代
公営年間くらい
1704年以降ですかねとおっしゃってたんですが
そこから今の場所
このやめ福島に移転したのが
もうこれも古いんです
蚕から安成年間っていうから1850年代
すごい
その頃の建物プラス手直しの部分で
今も営業と製造をしているのは
好み本家のすごいところなんですよね
いろんなお話を
14代の好み本家の党史であります
代表取締役の好み刑事さんに聞いてきました
この作りがやっぱり古さ
どの辺がポイントなのか
これでした
お茶のこういう豚居屋の建物としては
九州の中では一番古いと思います
ですよね
こういう江戸時代の建物でやってるところは
日本の中でもあんまりないみたいでですね
見に行きたいですねこれはね
24:00
お茶のための町屋なんです
外から見ると真口すごく広くって
ガラスのはめ込んである引き戸なんですけども
一番左端の隅に横4,5メートル高さがですね
これやっぱり7,8メートルぐらい
2階に届くぐらいの大きな黒い板壁が
差し込まれてまして
まっすぐではなくて上の方は開放されていて
地面に近い方が建物にくっついている
こんな感じなんですよ
これがやっぱりポイントのようで
この古いお茶屋の作りのポイント
さらに解説してもらいました
一番前のファサードの日よけっていう
お茶の審査所があるところとかですね
あれも特徴的だしですね
あれは日よけっていう黒い板を正面に張ってるのは
あれは昔お茶の豚屋であるっていう看板だったんですよ
あれは品質を保証する
あれがあるとだいたいちゃんと検査して
品質がちゃんとしてるっていう証拠になったらしいので
ファサードに正面に持ってきているそうです
すごいですねこれは
さらにこの見本家では
ヤメ茶が生まれた様子っていうのを確かめることができるんですよ
実はカマイリ茶が黒木に伝わってきたのが1423年
これがヤメ茶のスタートなんですが
その頃はまだヤメ茶っていう名前ではなかったんです
1800年代に入ってホイイロという
焙煎の焙という字に炉を燃やす炉ですね
火変の炉と書きますが
ホイイロというのが渦から伝わってきたのがきっかけで
今私たちの知っているヤメ茶が生まれたんだそうです
それまではカマイリ茶だったんですね
釜で火を入れてたんですってお茶の葉に
その頃はチクゴ茶という名前だったそうで
その後ホイイロを使ったいわゆるグリーンの
蒸していっていくお茶ができた時に
区別するためにヤメ茶という名前を使うようになったといいます
このホイイロも釜も両方コノミさん家にあるんですよ
このホイイロなんですけど
大人の腰の高さぐらいの大きな木箱です
下は土を入れた炉になってまして
炭火が置いてあって
上に和紙を張ったトレイのようなものがあって
これを乗っけてその中でお茶を入っていくんだそうですが
私が行った時ちょうどさっき作業が終わったからって火が残ってました
ちょっと手を置いてもいいですか?
どうぞ
温かい!
それをじっくり火を入れていくからですね
それでお茶が乾燥されていって
炭火で乾燥されるから中に火が浸透してですね
塩石外線効果で
それで熟成も進んでいくようなお茶になるんですよ
これは心地が良い温度
27:00
そうですね
だから香りもお茶の香りと炭の香りと
和紙の香りが合わさってホイロ化っていう香りがあるんですけど
そういうのがお茶についていくんですよね
ホイロ化
そうなんです
そのホイロで作った煎茶どうぞお召し上がりください
いただきます
美味しい
2度来るでしょ
これお茶の甘みというかいいお茶ですね
ぜひぜひホイロで作ったお茶
好み本家でお買い求めください
やめ福島の街ぜひ探索してください
中島理恵さんでした
道の駅村方の横山です
道の駅村方のえほう巻きは種類が豊富
海の幸から山の幸まで
村方の美味しいものがぎゅーっと詰まってます
今年もえほう巻きは道の駅村方で決まり
番組からのお知らせです
ホームページのご案内です
これまでの放送内容と
番組を1回目からじっくりと楽しむことができます
RKBラジオのホームページの
古代の福岡を歩くのバナーをクリックしてください
またラジコアップルスポティファイ
アマゾンユーチューブなど
各ポッドキャストでもお楽しみいただけます
この番組は
JA福岡やめ
道の駅村方
餃子のヤマハチの提供でお送りいたしました
ご案内は坂田秀大でした
お願いします
30:30

コメント

スクロール