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古代の福岡を歩くシーズン7 遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン7 この番組は
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シーズン7に入り宮町の園山を中心に歩いています 先週は神宮皇后から討伐された
タブラツ姫の古墳だと言われるクモ塚を歩きました 今週もその近くにあり神宮皇后と関係のある
車塚から歩きます お話を宮町の世田谷郷土司会会長の熊川たけしさんに伺っていきます
宮町の郷土司会で誰も書けなかった山大国の著者 村山賢治さんはこの辺りに山大国の中心があったのではという説を出されています
車塚古墳にやってきました クモ塚からちょっと離れたところに
この古墳があります この古墳は藤野集落の東北に位置するというふうに書いてあります
クモ塚のところでちょっと話が出ました神宮皇后が こちらへやってきてそしてタブラツ姫を討伐したと
いうことですけど神宮皇后ともちょっと関係のある塚ですか
あの一説はですね 神宮皇后がタブラツ姫を討伐するためにこちらへやってきて
陣営を引いたと言いますか車を止めたという形からクモ塚という話もありますけども
それはまだ定かではないですよね
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そしてこの車塚ですけどもかなり大きな前方後衛雲ですか
前方後衛雲ですね 大きさどのくらいなんですか
南北に約55メーター東西に27メートル そして高さが3.5メーターという前方後衛雲で
そしてあの周りはですね 幅が3.6メーターぐらいの掘りがあったんですよね
今はちょっと今もねなくなってしまっております
田んぼの中に埋没しちゃったような感じですね
この発掘というかこれが見つかった内容を非常に得意なんですよね
これはあの 京宝20年と言いますから
1735年ですね 江戸時代なんですけども
三子田
三子田さんというですねこの農家の方がですね
この 辛いもを掘っている時にですね
辛いもの根がずっと伸びていてちょうど塚のね 下の方まで伸びていたと
言うんで このその根を辿っていた時に実は一つの道橋を一面発見したと言うんですよね
すごいですね
このね 正式にはあの三子田禅の嬢さんという名前なんですけども
まさしくあの 鹿の島で発見された
神兵衛さんがね金を発見されたという話とダブルマンですが
この地域においては三子田さんというねこの方が辛いも掘りをねしている中において
この道橋を発見されたと
彼はねこれは神様がくださった尊いものであると思って喜んで家に帰って自分のね
家の家宝にしようと思ったと言うんですね
ところがですねその神棚に飾っておいたこの道橋ですね
道橋が夜更けになるとですね
こう書いてありますね
夜更けに光るものが家中を照らして恐ろしくて言葉を出なかったと
それでもう恐ろしくなって夜明けにですね
観物さんのところにですねこの鏡を持って行ってですね
占ってもらったと言うんですよ
とした時にこの観物さんが言われるにはですね
もしこれをですね4,5日も家の中に置いておいたらね
家中のものがなくなるかもしれないと
早くね元に戻してきなさいと
ということで翌朝慌ててねもう一回その土の中に元のところに埋めたと
そういうひとつのこれは正式な伝承ですよね
書類に書かれた伝承があるんですね
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そういう中において実は同じような道橋が
後から2面追加して見つかったと
すごいですね
ですから宮橋全体には道橋が少ないと言うんだけども
ここだけで3面の道橋が見つかっていると言うんですね
そして実はですね
江戸時代に西原一歩さんという方が
その道橋のスケッチをですね綺麗に残しておりますね
ただしその時もすでに2面がなくなっていて
1面もねもう半分以上が壊れているような状況だったんですけども
そのスケッチ像がですね
これは七川の区民館の方にもきちんと残されております
でこのね特筆的のはですね
実は道橋のねこのつまみがありますよね真ん中にね
つまみの部分がですね
実はあのなんていうか
この竜のね斧の形をした純金でできていたと言うんですね
ここにはつまみどころは4.6センチ一寸5分でね
天竜の尾を刻んである純金であったと
天竜?
天竜天の竜ですね
天竜の尾をね刻んであるねそういう純金であってと
すごいですね
で貴重な鏡であると
でこれが先ほど言った西原一夫のね
あの近畿万録というこの画集と言いますか
それにちゃんと収録されておりますから
江戸時代もこれはねしっかりと見届けた人物がいたということですね
そして今度は大賞になって
山田彦国論総の一番の筆頭であった東大学者
東大の平取倉彦先生
この平取先生も大賞3年にこの地を訪れて
車津川をね実は調査されたり
また神戸石を調査された内容が残っておりますよね
その時もだから平取先生たちも
村の青年団の協力でもって
岩からその銅鏡を取ってもらって
それを調査されたという記録残っておりますよね
今その銅鏡は残ってるんですか?
もう2面がなくなってその欠片のね
1面も紛失してしまっておりまして
欠片もないんですか?
もうねただしそのねスケッチ像がですね
江戸時代の西原一夫が描いた
スケッチ像もね残っておりますから
大体の内容を伺うことができますよね
それによるとこれはあのあれね
東京の博物館の方にある新人画像鏡と
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非常に似ていると言うんですね
しかしあのさっき言ったように
取手部分が純金でできているということは
相当のね技術が必要だったろうし
やっぱりそのこの蓮舫公園墳の方に
収まっているねこの埋葬者の権威と言いますか
これがね普通の人ではなかったというふうに
考えることができますね
これは村山賢治さんは
卑弥呼の墓じゃないかというふうなことも
言ってらっしゃいますね
そうですねいくつかゴンゲン図鑑とかですね
雲塚とか車塚とか
まあこの内容がこの本当に平地の
田んぼの中にですね転代しておりますから
ここに古代の山田彦区の拠点があったんではないかと
いうふうな形で村山賢治さんは論を進めている感じです
そういう車塚ですけども
ちょうど今入り口に立っておりまして
ここから蓮舫の方に
全方向の前方の方に当たるわけですね
今ねそうですね
でこれがだいたい4,50メートルかな
ちょっと長い通路になったんですね
幅が2メートル3メートルぐらいあります
その横を水道が流れておりまして
その古墳の上にこの高さが3メートルちょっとあるという
少し細かい丘風になってますね
そこを行きますと前方に小さな小屋がありまして
これは何か神と関係あるというふうに書いてありましたね
これが詳しくわかりませんけども
こういう大きな石この石の下に実は道橋がね
保存されていたんではないかと思うんですけどね
なるほど
そうですね高さが2メートルちょっとある
小さい屋根を持った小屋になってますね
小屋の中に長さが1メートル半ぐらいの
それと高さが4,50センチあるかな
そういう石といいますが大きな岩ですね
岩が一つあります
この下にあったんじゃないか
そうですね
大正3年の白鳥先生たちご一行ですね
青年団たちがこの岩を持ち上げて
そこから道橋を持ち出して調査された
このスケッチが山田彦判検記の中に書いてありますよね
はっきりと白鳥先生の絵なんかも書かれておりますから
ですから当時もまだいくつかの道橋の
4分の1か3分の1かその辺は残っていたんですよね
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ただ残念なことにはもう今はなくなってしまっていると
これがあったら本当に貴重な異物なんですけどね
そういう感じです
この大きな岩が目印といいますかになってますね
この下にあったんですよと鏡が
へー
そんな小屋が5分の1の部分に一つポツンと建っております
ですからそれ以降に参考とさんは
子孫たちにですね
ゆいごん状を書いてるんですね
これが見つかった9月14日かな15日
毎年ここでお参りをしてほしいというような形で
ゆいごん状を書いてますよね
これは今も残ってますね
そうですか
毎年9月15日にお祭りをしてらっしゃる
そうですね
その小屋の中に大きな岩が一つあります
これが目印になってたというんじゃないかということですね
はい車塚でした
車塚から畑の中をしばらく歩きますと
塩分が突然畑の中に現れます
これがこれから紹介するゴンゲン塚古墳です
ゴンゲン塚へやってきました
タブラツ姫を討伐した神宮皇后の兵士たちをここへ
葬ったというお話がありましたけれども
そのゴンゲン塚です
ここはこれは塩分になってますね
塩分です
どのぐらいの塩分になりますか
高さが5.7メートルとなってます
ちょっとありますね
そうですね
直径が45メートルと言いますから
ですから結構大きな塩分ですよね
そうですねこれは歩くと何分かかりそうなくらい広いですね
そしてこの周りが10メートル近い堀が
ずっと塩分の周りに囲んでいたと言われておりますね
そうですか堀があった
今は雑草が生い茂っておりまして
雑草が2メートルくらい伸びてるのもありますね
そういう塩分の前に来てます
この古墳どういったような古墳ですか
これはですね村山賢治さんの説によりますと
山大国秘密子の墓ではないか一つではないかというふうに
村山賢治さんは想定してます
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あの秘密子さんの墓の広報の一つ
広報の一つですよね
ですね
ちょうど義手は神殿の方にですね
秘密子をもって死す
大いに塚を作る
経緯100余方あり
巡走せられる者
ぬひ104人というような記事が書いてありますけれども
ちょうどこの周りをですね
回った時に100余方くらいのね
そういう一つの広さであるというふうにやれておりまして
村山さんは
あの
ちょっとね
一般の学説からは少しあの
違うんですけれども
彼はですね
実はこの
御元土川
神戸皇后の
兵士たちのお墓ではないんじゃないかと
いうふうな説をされてますよね
じゃあないんじゃないかという
なぜかというとね
南側の方にはですね
広い敷地があって
これはあの
祭儀を行う
祭儀ですね
神様に祀る
その敷地がこうね
南側に面していると
南側って言うとこれ
こっち側のこっち側が右側ですね
左の方ですね
はい左の方です
そこのところからですね
実はあの
高貴な人が持ち入るという
広範囲と言いますか
40センチ50センチもあるね
土器で作った広範囲が出てきたりとか
炭でできたらね
炭で
塗られたそういう広範囲が
出てきたりとか
それから祭祀用に使う
柵を包むね
土器とかが出てきたりとか
いう感じで出てきてますから
そしてまたあの
北の方はですね
今度は
右の方になります
ここは見たらね
ここには
同じようにですね
石缶とか
亀缶とか
結構数多く出生して
出土してるんですよね
ですから
単に
神戸皇后の兵士をね
祀ったところにしては
ちょっとね
なぜ広場があるかとか
そういう
後輩
大きな人がね
出てくるかとか
考えた場合には
村山さんとしてはね
ここに一つの
卑弥呼の墓を想定するね
一つの広堀という形で
言ってますよね
お祭りの場があって
そして
周りにその亀缶とかね
いろんなものが出てると
いうことで
卑弥呼だけが
葬ってあるわけじゃなくて
それに従事した人も
おそらく一緒にね
そうですね
巡葬という形で
亡くなっている可能性は
ありますよね
葬られている可能性は
ありますよね
北側の方には
結構まだ
石缶と言いますか
そういう石缶が
畑のね
隙間から見えるとか
そういうのもいくつか
あるみたいなもんですから
そういう意味ではね
卑弥呼と共に埋葬された
そういう
主たちのね
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墓が北側の方に
あったんではないかと
南側の方にはね
祭祀を行う
そういう広場があって
ずーっと周りを
10メートルぐらいの掘りが
囲んでいたと
いうことで
村山剣士さんとしては
これは
卑弥呼のね
墓の一つの第一広報ではないかと
いうような形で
考えてますよね
そうですか
あの
久保塚から
それから久留間塚
通ってここへ来ましたけども
だいたいあの神宮広報と
関係のありそうなところが
何箇所かありましたよね
そうですよね
ここはそうすると
神宮広報とは
ちょっと関係なさそうな
場所だということも
言えるんでしょうかね
あの
村山さんたちよりもっと先輩の方の
古代史の研究家たちはですね
久保塚の方が
田ぶらつ姫の
お墓として設定し
御元塚の方は
神宮広報の兵士たちのね
葬られた墓であると
設定しますけども
まあそれとちょっとね
異を異にしますけども
村山さんの場合は
ここは
卑弥呼の墓ではないかと
いうような形で
あの想定されてますよね
でもう一つはね
あの村山さんの説の
あの第一によると
この御元塚からですね
あの村山の方向かった時に
ちょうど春分の日
秋分の日ね
ちょうどその
あの村山の向こうにあの
聖地があったと言うんですね
その聖地に向かって
ちょうどね
春分の日
秋分の日に
太陽がそこから昇ると
ということで
ですからこの御元塚の
土地の設定自身も
やはり考えられていた
内容であると
そうですか
そういう点からもね
あんなる兵士たちの
御元塚ではないと
もちろんそれはもっとね
もっとそこには深い意味があって
設計された
そういうこの延分ではないかと
いうような説なんですね
ああそうですか
でそれでここから土山までは
1キロぐらいですか
そうですね
1キロぐらいですかね
向こうは東ですよね
東の方です
ですから
ちょうどね
あの辺から東のね
中心の方からね
東の方から日が出ますよね
春分にはね
太陽が昇ってくると
はい
そしてその
その土山のずっと向こうをね
行くとですね
実はあの
一つの節なんですけども
やべ村の
地の方まで行くんですね
やべ村の方
やべ村といって
一切によると
この地域の一つの伝承としまして
その辺で
あの
あんたら葬身の神の
聖誕の地があるとね
いうような形において
そこはもう聖地という形でね
その宝閣はですね
いうような形で
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言うような資料との記録もありますね
ああ
じゃあ上村の方といいますと
あのやめつ姫が
やめつ姫が
葬られている
あの近辺ですね
あの近辺を指すんですか
じゃあこの
土山ははらか向こうになるわけですね
こそうずさんという山があって
そこをずーっとね
いって
もっともっと奥なんですけども
やべ川の上流の方が
実は
あんたら葬身の神
聖誕の地であると
いう伝承がですね
ありまして
南地区明蘭という
古文書館のね
ところに残っている
その書物によると
あんたら葬身の神の
聖誕の地が
実はあの
宗神
いうなれば今のやべ村のね
あの地域が
あんたら葬身の神
聖誕の地であると
いうな一つの
一切が残ってますから
ですから東の方がですね
そういう面での聖地と言いますか
そこからねちょうど
春分
秋分の日にはですね
太陽が昇ってくると
いうことで
このゴンゲンド川はね
そういう面でもね
地形的にピッタリあったね
地域であると
古文であると
いうようなことを
やっています
重要な場所ですね
ゴンゲン塚古墳でした
お話を
三山市の瀬戸川郷土司会会長の
熊川たけしさんに伺いました
ここで古代の福岡を歩く
リポーターの中島リエさんです
こんばんは
今日は古代史ファンには
ぜひお勧めしたい
ユニークな講演会と美術展の予定
ご案内しようと思います
はい
村方三女神と
古史の布川姫
でサブタイトルがですね
出雲の大国主の御事と古代の女神たち
ってなってるんですね
講演会は11月の23日金曜日の
午後1時から
村方ユリックスの大会議室で
この番組のシーズン通して
ずっとお話いただいてました
歴史作家の河村哲夫さん
と日本画家の川崎光さん
この2人の講演会なんです
面白い組み合わせですね
でしょ
美術展は翌日
11月24日から28日まで
展示室で行われまして
こちら古代の女神たちをテーマに
日本画家の川崎光さんと
博多人形師の川崎幸子さん
ダブル川崎の展示会なんです
で日本画家の川崎光さん
新潟県の上越市出身なんですが
今回のテーマでもある
古史の布川姫
この人を地元の伝承を盛り込みながら
ずっと日本画で描いてる人なんですよね
でせっかくなんで
どんなことがあるのか話を聞いてきました
日本画家っていうのは
岩絵の具で動く
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天然の石を砕いて
苦弱石を緑で出したりとかですね
青色はラピスラズリで出したりする
そういう方法がとっても
古代とつながるとおっしゃるんです
古墳時代の壁画と描き方は
全く変わってないんです
天然の岩粒を砕いて
にかわで溶いて
それを接着剤にして
絵を描くという技法が
古典的な描き方なんですけれども
どういうわけか
世界中で日本の国だけ
その描き方が残ったんですね
それを今日本画と呼んでるんです
なのでもう本当に
古くは縄文時代から
弁柄という三階第二鉄をですね
にかわで溶いて
祭祀に使う土器や何かの
赤い顔料に使ったりしてましたし
描き方は全く変わってないんですね
古来の方法で
今は息づいていると
そうなんです
だから高松塚古墳の壁画ってそうなんですよね
1000年2000年経っても色褪せない
この日本画というのは
神様を描くのに
ぴったりだと思うっておっしゃるんです
で神様を描くから
嘘は描きたくないとおっしゃる
英川崎碇さんなんですが
例えばこんなふうにおっしゃってました
当時どういう衣装を着ていたかというのは
わかっていませんけれども
あの古墳時代になりますと
埴輪の衣装などで
そういったところから参考にしたりとかしております
なので打ち合わせもあれなんです
今の着物とは違って
左前なんですね
左前で合わせを結ぶような衣装を着ている
っていうのが古墳の埴輪なので
御服が入ってくる前までは
打ち合わせも逆だったのかなとかですね
面白いでしょ
さらにこんな話も聞かせてくれました
神々がそして村元につけているのは
女川姫が司っていたとされる
糸井川さんの翡翠のマガタマなんですよね
村方の御神法たくさん展示してありますけれども
糸井川さんの全部翡翠なんです
何らかの交流が
古代からあったという証明にもなりますし
出雲大社の間内遺跡というところから
弥生時代の女川姫の
女川っていうのは玉の川
翡翠のマガタマの川という
訳すことができるんですけれども
その翡翠のマガタマ
最高級の真緑の
今国の重要文化財になってますけど
翡翠のマガタマと
そして九州の道家が一緒に出てきてるんです
これはまさしく大国主の神様が
やはりいらっしゃって
西のは村方の女神
そして東は女川姫の美しい女神たちを
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それぞれ目取っていたという
証明にもなるわけで
非常に面白いですよね
そう考えると
なるほど
いろんな異物は残っていますけれども
それをきちんと視覚化する
ああこういうことかと生々しく
目の前に人物として浮かび上がってきますね
それを詳しく講演会でも聞くことができます
講演会は11月23日の午後1時から
村方ユリクス
そして翌日24日から美術展がスタートです
詳しいことは福岡アジア文化塾にお問い合わせください
福岡アジア文化塾でインターネットで検索するか
電話番号090-2516-2274までどうぞ
中島リエさんでした
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ご案内は坂田集大でした