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古代の福岡を歩くシーズン7 遥かな昔海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その卒籍を尋ねる 古代の福岡を歩くシーズン7
この番組は 宮間市の企画協賛
餃子の山端 道の駅室方の提供でお送りいたします
こんばんは佐方周代です 宮間市の蔵山を中心に歩いていますがこの蔵山の中腹に
御船山古墳があります この遺跡は大和遺跡群が眼下に見える大変見晴らしの良い場所にあります
実はこの遺跡は生活の場ではなく 外敵の襲撃から集落を守る監視集落だったといった
御船山遺跡を一つの切り口にネットワーク化された筑紫平野こそ 山対国の有力候補であるという説を展開なさっている方がいらっしゃいます
山対国論争の新視点という本をお書きになった 小郷市埋蔵文化財調査センター所長の片岡康二さんです
一体どういう説かお話を伺っていきます まず山対国の候補地筑紫平野の範囲から伺います
筑紫平野というのは 明確な決まりがないんですよね
国土地理院の地図をご覧になると 筑紫平野とこういう文字が地図の中に書かれているんですね
それで私もちょっと気になって 筑紫平野は一体どの範囲って決まってるんですかと国土地理院にお伺いしたことがあるんですね
そしたらいや特にそういうのは決まってませんよと 地図上に書かれてあるその範囲が一般的に言われているものですよというような答えだったんですね
それで筑紫平野をその地図で見ますと さらに小さく書いてあるんですね平野が
左の方に佐賀平野って書いてある 右の上の方に両築平野って書いてある
で下の方に築後平野って書いてあるんです 佐賀平野それから築後平野はだいたい皆さんイメージされると思いますけどね
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両築というのはどういう意味かというと 築前築後にまたがっているという意味です
ですから 天木や桜が築前になりますし
それから 久留米御郷里
浮波は築後になりますね その両方にまたがった
築後は流域の平野を両築平野と言うんですけど この3つを含めて
筑紫平野というふうに書かれておりますので 確かに航空写真を見ますとね
広い平野になってますよ 切れ目ないんです両築平野と築後平野佐賀平野それぞれ全部
ですからそこを見るときにこれは一つの文化圏だなというふうに
思い当たった次第なんですけどね
まあこういった範囲内に山田彦ここはあったんじゃないだろうかと
いうような そうですね
それで
儀式和神殿の方にちょっと行きますけども 儀式和神殿に方位方向というのが出てきますけども
例えばこの和神殿の中の方位と方向について 先生はどういうふうに
持っていらっしゃるんでしょうか 例えばですね
あの 伊東国から那国は
東南五百里というふうに書いてますが地図で見ると 真東にあたるそうですね伊東国から
那国までが
東南って書いてありますけど実際は東です これはどういうことなんですかね
あの 私はですね
明治の学者で橋本真樹知という有名な方がおられるんですけどその方の説をすごく
指示してるんですけどどういうことかというと その儀式の使いはですね
その末路国から伊東国を目指して出発するときに 実は
東北の方向に今の地図であれば確かに東北にあるんだけれども でも出発する歩き始める方向はしばらくは東南に歩いていったと言う
んですね それから伊東国も同じです伊東国から那国までは
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東南に行くんです東南にの方向に歩き始めたと 実際伊東国の中心から
その那国の方を見ますとね 日向峠というその
糸島から福岡谷に抜ける昔からのあの主要な道があるんですけど 今でもあれですよね一番近い道にそうですよね
あそこはですねやっぱり東南の方向なんですよ そしてその日向峠を越えて今度は少し北に進路を変えて那国に着くので
地図上で見れば確かに 東なんですけれども
その儀の使いがですね 一体那国はどこにあるんだどっちの方向だと言った時にそこの日本人が和の
人間ですね 和人が
指差してあの峠を越えてあっちの方向だ という風にすると東南になるわけですね
ああ それと同じように末路国からつまり末路国って唐津の方ですね
唐津から 伊東国の方に向かうとなると今の糸島市ですけれども
そちらの方に向かうとなるとですね実は 唐津湾はずーっと湿地帯が奥の方に入ってきてるんですね
そこに移籍がないわけです 通る道というのは
末路国からだったら一旦東南の方に歩いていってそれからあの 北の方に上がっていかないといけないんです
ですから私はあの その橋本松吉先生は
あの そんなに移籍のこととかを詳しく考えずに
出始めた方向だろうというふうに書いてあるんですけれども 実際にその移籍を移籍の分布と言いますか
その当時の移籍がどこにあったんだというのを点で落としていきますよね まさにその道というのは末路国から言えば東南の方
はい それから糸国から言えばやはり東南の方
そういうふうになるので 技師の書いている記録というのは全く不正確ではないというふうに思いました
その集落から次の集落へ行く方向と言いますか あの日向峠を通ったら次の集落へ行くんだよということで
そうあの日向峠を通ってください その日向峠が
たまたま方角がそっちだったということですね そうですねそういうふうに考えました
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名国の次に出てきます文国ですね 文国は名国の東百里と
この文国というのを先生はどこにあったというふうに考えていらっしゃいますか
非常に難しいこれも難しい問題で 江戸時代からずっと文国はどこだどこだというのでいろんな学者の方が言っておられているけれど
決定打はないですね 海あたりじゃないかと考える説は多いですけど
海だとかそれから飯塚の方とか そういうところを考える方もおられますよね
私はですね
実際にそこに遺跡があるかどうかっていうのをすごい重要視するんですね 工学勉強してますから
遺跡のないところにいくら国だと言われてもそれはなかなか難しいところがありますね じゃああの
海ですね海深近辺には 4世紀の古墳があるじゃないかと
高生寺だとか古墳がありますけれどもそれから 今度は飯塚の方になりますよね今度は
縦岩遺跡という 鏡を10面
鏡というか中国の 禅官の時代に作られた鏡は10面もある
そういうような 王様の墓が見つかっているのでそれで
ここにはもう一大国家があったというか大きな一つの国があったんだというふうに 言われるんですけれども
あの考古学というのは 時間の軸っていうのはすごく大事で
岸場神殿の書かれたあるいは岸場神殿が描いた時代は2世紀の後半から3世紀の半ば ぐらいなんですね
そうすると 海の古墳はそれよりも100年ぐらい新しくなってしまう
それから
飯塚の縦岩遺跡は
100年か200年古くなってしまう 合わないんですね
じゃあその時代に そこに遺跡があったのかと調べてみたんですけれども
その縦岩遺跡のある 飯塚近辺では
山対国の時代 つまり日本で言えば弥生時代の後期の遺跡というのは
小さな遺跡が2つ見つかっているだけなんです 一体もうその縦岩の人たちは一体どこに行ったんだろうと
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いうのが疑問なんですけれども やはりその過去の栄光って言いますかね
そういうものがどうしても頭の中にこびりついてしまってますから ここには一大国家があったというふうに見てしまいがちなんですけれども
これから科学的な調査がどんどん進んでいけば だんだんそのあたりもわかってくるんじゃないかなと思います
そうですか その時代的なものが伝わらない
そうですね それでは先生は
海国はどのあたりにあったというふうにお考えでしょうか
あの難しいですよね もうあの
昔から大きく2つに分かれてたんですね 一つは海だとか縦岩と言いますか飯塚の方の東の方だという説
それからもう一つは太宰府近辺だという説 これがあの
大きく分かれてましてね その太宰府近辺だというふうに言っておられた方はですね
山田彦国論相で有名な白鳥倉吉という東京大学の先生ですけれども そういう方がですね
あの 太宰府近辺ではないだろうかというふうに想定しているわけです
でその太宰府近辺を想定しているというのは最終的には山田彦国というのは南の方にいて
その 白鳥倉吉先生の話ではまああの
有明海の沿岸の地域にあるというようなあの説を述べられるから結局そこに行き着く までの予定で書かれているんですけれどもこれもですねあの私たちが
その工学的な調査を見ていくとですねやっぱり近年 あの
その太宰府 というか太宰府よりも少し南の畜生野市ですね
あのあたりで非常に大きな 遺跡が確認されているんですね
あの今 畜生野のイオンがあるところですけどね
あのあたり一帯が常松遺跡って言いましたね であのそこなんかはですね非常に大きなあの集落でそれからそこからはですね
朝鮮の時が出てきたりそれから
近畿だとか瀬戸内だとかちょっとその 予想の時って言いますかね対外的なその交渉を何かやってたようなそういう遺跡が出てきて
いるんですね であの先ほどちょっと大きな遺跡って言いましたけれども
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まああの畜生野の遺跡とかあの 名古屋の
遺跡と福岡平野の遺跡それが畜生野の遺跡から見ると まあ若干それは小ぶりなんですね
で実際そういう小ぶりなのでその個数も1000個しかないって書かれてるんですけども はい
でもしかしこれはすごい重要でですねどうしてそういう 遺跡そういう国を記述しなければならなかったかというとこれ間違いなく山大国へ
の道がすがらにあって その山大国を
そのつなげつながる重要な拠点だったというふうに考えられるんですね ですからあの私はのその畜生野の遺跡群をちょっと注目しましてこのあたりに
文国というのを想定していいんではないだろうかなというふうに考えました そうですか
詰めます遺跡そうですね 今のちょうどイオンがある
そうですねそうですねそうですねあの辺に文国があったんじゃないかと いうことですねそれからの
この文国から先ですけども 東亜国へ行くのにこれを船で行かなきゃならない
a 船で8月かーでしたそうですね その辺はどういうふうに思わないんですか
あのこれもですねあの
方向方角にを指し示したのは歩いていった方角だということを言われた橋本松岸 さんがこれについてもあの非常にあの重要なことを言っておられるんですね
どういうことかっていうと
それまでの義師は神殿に書かれた 文国までの
距離はみなり あの
土地だがよ一理が4キロくらいのまあ当時はもっと短かったと言われてますけれども その理という
絶対的な距離で示されているわけですね ところが
文国から遠の角を行くのに途端にですね そこまで行くのは何日かかりますよという数字に変わっている
船で行こうが歩こうがですね立候補 水耕10日立候補1月というように
船で行けば10日あの 歩けば1ヶ月
ともこくはまあ船で行けば20日かかるかというふうに書かれているわけですね なんかおかしくありません
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ブーバーなんでここで 方を変えなきゃいかそうなんですよね
でそこにあの橋本松吉さんは注目 よし
橋本松吉先生は注目されましてね えっと
これは そのもともとは距離は書いてなかったんじゃないかという方ですね
はいで書いてなかったのを その後の時代の人が
大和王権が奈良にできてそれを 勘違いしたあるいはもう意図的にですね報告書としてきちっとしたものを仕上げなきゃ
いけないのでそこまでの距離を入れて 実は北九州にある大和大国ではなくて
近畿にある大和の国をそれを その数字をつけくあの書き加えたんではないか
いうことを言っているんですね 実際
義師は神殿の描いた 山大国というのは卑弥呼がおそらく死んだであろう3世紀の半ばぐらい
ここぐらいでまあ一つの終わりを迎えるわけです その後近畿には同時にその頃大きくなっていってきている
皆さんご存知だと思いますけれども巻向遺跡という 大きな遺跡が発見されておりますが
ここがあの後に大和王権の中心になっていくところですね でそういう政権が政権中枢が移動したことによってですね
それでその2世紀3世紀半ばのことから一気にその3世紀の後半ぐらいの実を書いたんじゃ ない
実際珍珠があのその義師は神殿を書いたのはだいたい280年 台と言われてるんですね
ですからその間にですね珍珠はそれを書き加えなければならなかった ということを書いていって私はそれに対してすごく賛同するんですね
まあ珍珠という人は役人だったので 正確にそういうその辺を書きたいと
ことがあったんですよ正確にっていうよりもですね 珍珠はですねあの
むしろ その義士は神殿を持ってその時の政権を正当化するために書いてるんですね
あの 中国の歴史でよく言われますけどね
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中国の歴史っていうのは本当の歴史こうあったこうあったということを書き留めるの ではなくて
その時代に今ある政権がどうして正当なのかというために書いていってるものなんですね
だから歴史書ではないんです珍珠は書いたのは歴史書ではなくて もう報告書のように近いようなものですねそうするとそのそういう
漏れと言いますかねあの そういう
記載がないとそのまあ今でもそうでしょうけれども 何か付け加えてそれで出さないと上司は納得しないところがありますよね
そういうことで珍珠はその実は今あの 和人から聞いた山田一国っていうの一体どこだって聞いたら
和人は今のそのそのその時点での政治の中心である近畿の大和をですね
示して遂行等が立候一月というような 言い方をしたんではないかなと
お話を 山田一国論争の新視点の著者で
小郷理史埋蔵文化財調査センター所長の片岡康二さんに伺いました この続きは来週をお送りいたします
実は片岡さんにはこの後ご紹介する小郷理史指定有形文化財平竹でお話を伺いました ここで古代の福岡を歩け
リポーターの中島理恵さんです
ということでその平竹住宅 平竹住宅なんでしょう平田さん家のお家なんですが
江戸の末期から昭和の初めくらいまでのお屋敷なんですが どーんと1個だけじゃなくて別々に建てられた建物が並んでるんですね
それ江戸時代末期の家がまだ現存していると あります
物屋と言われる主屋があって座敷と言われる別棟があり
またスキ屋と言われるこれはどこからか別屋から運んできたんだろうと言われてるんですがお茶室の大きなものがあり
さらには寝座敷と言われる奥の方のお座敷があったりあと太鼓橋でつながる客伝があったりと
太鼓橋が民家にあるわけですか そうなんですいかにすごいお家かわかりますよね
なんでだろうと思ったら実はお氷というのは木漏 長谷の木で漏を作るという
一大産地だったんだそうです この生地長谷っていうよく長谷がとれる
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すごいいい木があったそうなんですがそれを生み出した場所でもあったんですね この平田産地はその木漏で財を成したお家だったんです
お家だけじゃなくて 国の登録記念物の庭園というのもありまして大きな大きな石がどんどんと廃してあるんですね
高さ3,4メートル幅7,8メートルぐらいの大きな岩があったりするんですがこの辺の ことをいろいろ教えてもらいました
NPO法人文化財保存工学研究室の三重原ゆき子さん 岩についてこう教えてくれました
ここに元々あった岩ではなくどこかから持ってきた岩で 昭和3年に重機のない時代にどうやって持ってきたかっていうので
これも伝えられているんですけれども 採石場でちょっとカットして
近づいてみていただくとわかるんですけどちょっとひび割れがあるんですよね
カットして 中をちょっとくり抜いて軽くして持ってきて
昭和3年はもうモルタルがあったそうなんですけど ここでまたちょっと組み立てて
くっつけたっていうふうに言われています
面白い すごい
びっくりです そんなやり方があるのかと
今の残念ながらお水は流れてないんですが その岩の上から水を落として滝粒のように滝下ろしていったりとかですね
うねうねと庭に水を回したりとかという後もですね 雰囲気はしっかり残ってますので想像できるわけなんですよ
この家なんですが表が武家屋敷から移設してきた門があって これまた金具が美しかったりですね
お座敷と言われるところは玄関からもいると8畳6畳12畳とどんどんどんと
ポーンと全部突き抜けるようになるようなお座敷があったりとか あとあの主屋と言われるおもやすごい太い梁だとかですね
あと個人的に宮原さんのときめきで乱魔がね面白いんですよここっておっしゃるんです まあ立派な鶴や松茸もあるんですがこんなのもありました
株ですかねぇ あーあとなんか
これなんか見のかなんかこうして走ってるようなかそうですよねですよね でっ
ささささ で正面はまた可愛くあの鳥さんほんと立ち鳥が
とあやめか 柿ツバタか
ん
ランマに面白いです もうねいろんなところにときめきのポイントが多くてあのお道具類も昔ながらの金具が
たくさんついたタンスがあったりとか あの後に銀行業を営んでいたのでその頃に使われていただろうという木製の机とか
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もう目移りするほどの道具がたくさんあるんですね でこの平竹住宅なんですが実はすぐそばにお守り小学校がありまして
卒業を訪ねてきた卒業生がこんなことを言ってたんだそうです おごり小学校を卒業したっていう中学生が来てくれて僕たちここ通ってる時に
不思議なお屋敷と思ってたってなんかこんな風になってたんですねーって言われたので やっぱりそんなにまだオープンにはなっていなくてこれから皆さんに来ていただき
たいと思っていやいや見たいですでしょ 10月30日までは平竹の服飾と雑貨店という展示も行っていますのでこういったのと合わせて
ご覧ください 中島リエさんでした
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宮間市の企画協賛 餃子のヤマハチ
道の駅室方の提供でお送りいたしました 来週は都合により放送時間を変更して同じ日曜日の午後3時半からお送りします
午後3時半からの放送です 案内は酒田集大でした
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