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ST-A 安曇族の足跡を探るの16回目は明科です。
2024-07-28 30:27

ST-A 安曇族の足跡を探るの16回目は明科です。

安曇族の安曇野での拠点となった場所は明科であったといわれます。
そして、明科には大きな伽藍をもった寺があったといわれます。
それが明科廃寺といわれ、現在も発掘調査が続けられています。
調査に携わってこられた安曇野市文化財保護審議会委員の大澤慶哲さんの話では瓦はたくさん出土しているが、伽藍があったかどうかは未だ分からないということ。
そして、安曇氏とお寺の関係もわかっていません。
というのは、調査地点は住宅地であるため調査の範囲が限られているからです。
安曇氏のお寺であったのか、さらに安曇氏の居館があったのか、今後の調査結果が待たれます。
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00:03
古代の福岡を歩くステージA 海の道から空の道へ
安曇族の足跡を探る。 この番組は安曇野市観光協会
安曇野市大王わさび農場 塩尻市観光協会
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こんばんは、坂田周大です。 千尋美術館常任顧問の松本武さんに
安曇族が安曇野へ入った話を伺い、さらにその本拠地を 赤品辺りにしていたのではないかという説を伺いました。
そして赤品には中心となる場所にお寺を作った。 それが赤品肺寺と言われる場所だということでした。
そこで先週は赤品にあったと思われる赤品肺寺を取り上げました。 今週はその続きです。
お話を安曇野市の文化財保護審議会委員 大沢啓哲さんに伺います。
お寺は平安時代と言われますね。 その時代に建築が始まって、最後はやっぱり平安時代の初めの9世紀代の初めから半ばくらいにかけて多分お寺自体は廃絶していくと思いますね。
お寺が作られたというのは安曇郡という郡が置かれたときぐらいですか?
そうですね。今の長野県は諏訪を除いて各郡に一つぐらいずつお寺があるだろうということがだんだんわかってまいりまして。
03:06
安曇郡の中のお寺というのは赤品肺寺しかありませんので、安曇郡の当時治めていた人が建てたお寺というふうに考えていいんじゃないかなと思いますね。
安曇郡が置かれたときというのは安曇氏がこの辺を支配していたということですか?
どういう人がいたかというのは文献にも出てきませんし、なかなか工学的な遺物の中にもそれを示すようなものがなかなか出てこないんですけれども、
諏訪郡の漁物の中に奈良時代に入って治められた朝の墓間というものが入っていまして、そこには作った人が安住部というのが出てきますので、
役人も安住部、治めた人も安住部ということですから、安曇氏のいわゆる配下のいわゆるなりわいに従事しているような民がいたということですよね。
それは確かだから、そういう安曇氏に関わる人が多分いたんだろうなということは多分想定できると思いますね。
安曇氏が建てるのに加わったと。
そうですね。だから、寺を建てるというのは容易ならざる事業なので、当然お金もかかりますし、それだけの財力というものも含めて、
技術者も連れてこなきゃいけないということで、いろんな力関係とか政治的な力とかいろいろ考えると、やっぱりこの地域の支配していた人というふうに考えるのがいいんじゃないかと思いますね。
例えば安曇氏とした場合、安曇氏というのはどういう仕事をしていたのか。
多分、この安曇氏の場所というのが言ってみれば、その当時は川というのは重要な交通路ですし、特に物流ですよね。
物の流通という事を考えると、物を大量に運ぼうとすると、やっぱり川を船で行くというのが一番いいので、
そうするとやはり、交易といいますかね、そういうものに関わっていた人というふうに、それによって財力を成してきたというふうに考えた方がいいかなというふうに思いますね。
やっぱり寺というのは財力でないと建てられない。
そうですね。その当時、一般の庶民というのはみんな縦穴住居ですからね。縄文時代からずっと続く縦穴住居に住んでいるわけですよ。
06:00
その時に、今の例えば奈良とかいった大きなお寺とかありますよね。
あのお寺、急に高層建築が出てくるわけですよ。
だからある時、例えばですね、ここの辺に東京にあるような何十階建てというようなビールがポンとできるという、
だから多分今私たちがそういうのを見る以上の驚きというのはあったと思いますね。
お寺というのは最初にできた時は真っ赤灰に塗りますからね。
真塗りの建物ですかね、基本はね。
目立つ?
目立つ。だから、自分の権力を示すという意味でも建てるというところがありますから、
新しいその時代の支配者のモニュメントといいますかね、そういう政治的な要素といいますか、
そういうビジュアルで自分の権勢を示すというような、そういう意味合いというのはお寺に多分にあったと思います。
こんなに力を持っているんだ。
そうですね、うわぁすごいなという。
自分をこう、固持できるような。
そうですね。
がお寺だった。
で、多くの人たちは今の安住のいわゆる穂高とかね、その辺に住んでいるわけですから、
そういう人からも見えるような形でたぶん建っているんだろうなと。
その頃の災厳もないですから、遠くからでも結構うわぁすごいなというのが見えたと思います。
赤だったのになおさらですね。
見せるためのものですからね。
この辺の琉球をやっていた安住氏というのは麻を取り扱っていた。
その厳選というのはね、富野厳選というのはなんだというのはわからないですね。
ただ平安時代なんかになると、新宿の特産品というのは麻ですよね。
麻というか、からむしの織物といいますかね。
そういうものが特産品になって、都でみんなワイルンに配ったりとかするわけですから。
そういうことから考えてね。
しかも奈良時代には同じからむしで入ったものが焼酎員の漁物に入っているくらいですから。
そうですか。
だから高温多湿な都で夏を過ごすための麻の生地というのは非常に重要ですので。
そういうことを考えれば、それも有力な候補の一つだと思いますけれども。
一体麻の元になったそういうものは何だったのかというのは断定的なことはなかなか言えないと思いますけれども。
これからそれが一番の研究の課題になるんじゃないかなと思いますね。
どういう流通物を取り扱っていたのか。
そうですね。
鮭とか鮭とかそういうものはどうなんですか。
09:06
その後ですね、新州の各地にミクリアって言われるのができるんですね。
ミクリア。
いわゆる焼煙みたいなものですけどね。
この安住の地にも矢原のミクリアとか近づいたら尾身のミクリアとか西山のミクリアとかいろいろできるんですけれども。
そのものは何をしているかというと伊勢神宮の焼煙なんですね。
そうすると伊勢神宮のいわゆる神仙ですよね。
だから鮭とか鮭とかそういうものを一年中お供えするわけですよね、神様に。
その一年中お供えするものを一番伊勢神宮の近くっていうのはこの近くなので、
麻の元から結構運んでるんですよね。
だからこの白沼流域って言いますかね。
ちくま沼災害のこの流域の鮭の獲れそうなところにミクリアっていうのができるんです。
だから多分そういうのも一つの手がかりかもしれませんね。
何か安住市とミクリアっていうのは関係で。
それは多分難しいなと思いますね。
安住市自体が平安時代の初めには朝廷の中で失脚しちゃいますよね。
さどいに送られたりとかして、いわゆる政治の表舞台から姿を消してしまいますので。
だからちょうど赤城範囲地がいわゆる被害をする人がいなくなって潰れていく時期と
安住市のいなくなる時期っていうのはなかなか被ってくるんですね。
そうなんですか。なかなか難しいですね。
そうですね。それ以降に多分そういうのができてくるのかもしれませんね。
なかなかどれがという有力な決め手っていうのはなかなか難しいと思いますね。
安住市の巨館が近くにあったっていうことはないですか。
そうですね。その当時の特徴って言いますかね。
地域の支配者のいわゆる住宅部分ですよね。
お館の部分と、それから当然それに伴う軍の役所ですよね。
そういうものとか、税を納めるための倉庫の小倉ですよね。
それとお寺っていうのは大体3点セットくらいで近くにあるっていうのが平均的な姿らしいので。
12:00
可能性としては和歌山廃寺の周辺にそういったものが多分あるだろうという。
ただまだあまり調査が進んでいないので。
わかりませんけど、たぶん掘れば出てくるだろうなという可能性はあると思います。
ここで揚げた瓦っていうのは非常に特徴的な模様があるという。
そうですね。一番中心となる瓦っていうのは大体2種類ありまして。
一つはレンゲの花を用いた、いわゆるレンゲ紋と言われている8つある蜂用のレンゲ紋というのの瓦ですね。
それが一つと、それからもう一つは12ある十二弁というのが出てくるんですけど。
どちらの瓦も他に例がないんです。
特に十二弁については全くどこからも出ていない。
もう一つは八弁の方もですね。
こことアルプスを越えたヒダにジョラクジハイ寺というお寺がありまして、
そこから出てきた瓦と同じ木型を作って作ったということが分かっていますので。
どっちが古いか新しいかというのはまだちょっと確定はしていませんけれども、
そういうものが出ていてそこと若下だけが同じ木型を作ってその瓦の模様をつけているということが分かりましたので。
ということはその瓦職人みたいな人が。
そうですね。向こうから来たっていうふうに考えるのか。
ただ都にはそういったものの類例がないので、
今までは都から技師者を派遣してお寺を作るという例が多かったんですけれども、
若下ハイ寺の瓦からいけばその大きな二つの流れと、
それからその後に地元で補修のためにいくつか瓦を作っているんですけれども、
それも予想に全く類例がないんです。
だから言ってみれば瓦が全部オリジナルなんです。
そうですか。
だからそれが非常に不思議ですね。
どういった人が作ったのかという。
通常は都から瓦の職人、もちろん建築の職人、土木とか、
全部それぞれ職人集団が来るわけですよね。
それはもう立花住居しか作ったことのない人の中で技術者がないので、
そういうものは都から派遣されて、そういう人たちの指導で建物を建てるということになっているんですけれども、
どうも都の方から来たという形跡ではないんじゃないかと。
先ほどの雛の…
そうですね、雛の匠役が作ったんじゃないかと冗談で言っているんですけれども、
15:00
可能性としてはゼロではないなと思っていますね。
例えば雛の職人が向こうで作った樹楽寺、樹楽寺というのはやっぱり柄があったんですか?
柄がありますね、お寺があって。
そこは雛の古川というところなんですけれども、
そこは本当に狭い、幅も狭いような盆地なんですけれども、
そこにお寺が十幾つとかあって、高い盆まで入れたらものすごい数が古代の人が集中しているんですよね。
だから多分、あと雛の匠というのは、
都で税金払うから都に行って建物を建てろということになっていますよね。
日本全国はそこしかないので、とても優秀な技術者集団がいたんだろうというふうに思いますね。
その技術者集団が柄まで作ったんじゃないかと。
だと思いますね、多分ね。
柄の模様が同じだということは柄の職人が行き来はしていたんでしょうから、
柄だけというわけではなくて多分建物もということになるんだろうなというふうに思いますね。
だったらこの明石の廃寺も柄があったんじゃないかなという、そういうことは考えられない。
だから共通するところはいくつかあるなというふうに思いますね。
樹楽寺からちょっと離れたところに杉崎廃寺というお寺があるんです。
そこは中心がらんの部分に細かい握り拳みたいな歴が一面に敷いてあるんですよ。
明石の廃寺も最初見つかったときに、田んぼの客道をしているときに見つかったときには、
一面のその歴史があったという記録があるんです。
歴が敷いてあったという、その中心がらんと思われる場所にね。
小石みたいなものですか?
小石というか握り拳くらいの石ですね。このくらいの石が一面に敷き詰めてある。
杉崎廃寺というところも一面に中心がらんに敷き詰めてありますから、
同じような共通の同じ時期に同じようなものを作っていたかなと思ったよ。
だから結構向こうも湿気のあるような土地だったし、
明石の廃寺のあるところも結構ジメジメしている場所なので。
そうなんですか。
可能性としてはあるなという気がしますね。
なかにその感じがしますね。
その一つのね、類例から行くとそこにたまたまそういう珍しいものがあるので、
同じ集団が来てもおかしくないなという。
ただ向こうは草から吹きではなくてどうも草吹きというか。
そうなんですか。
18:00
そういうの違いはあると思いますけども。
はい。この明石との関係ってあんまりまだよくわかってない。
そうですね、まだ証拠というのは出てこないので。
出てこないですね。
また一部分ですけど、国土の確保工事で少し調査も入るようですし、
全容解明というところは行きませんけども、
お寺の規模とかがだんだん明らかになっていけばいいなというふうに思っています。
大沢さんにお話を伺った後、大沢さんに
あずみ野の山や川が見渡せるという
標高933メートルの長峯山の展望台に案内していただきました。
こんなにいい天気が初めて来たんですけど。
ここ本当に天気のいいと見ると、本当にびっくりしますよ。
びっくりしますね。周りの山がすごいですね。
そうですね。だいたい雪のある3000メートル級の山がずっと連なっている景色って
なかなか予想にないですね。
ここから見ますと川が集まっているというところがよくわかりますね。
手前に大きな川が流れているのが西側ですから、
北の方からぐるっと回ってくるのが高瀬川ですね。
右の方からね。
右の方から来るのは上の奥の槍畑が分水嶺ですから、
槍畑で北方向に行ったのが高瀬川できますし、
南方向に行ったのは島々田を通って松本平を通ってこっちに来ますからね。
そういうのでここでちょうど一緒になる合流です。
そうですか。
全部の川がこうやって集まってきますから。
ここに集まる。
右から左からずっと集まってくるという。
ということはやっぱりお寺を作った人は、
ここの川の利権とかそういうものを持っていたということですか。
そうですね。やっぱり物を運ぶというのは、
人間が背負って運ぶわけじゃないので、
大量に船で運ぶということを考えると、
やっぱり水の道を抑えるというのは一番重要なことだったと思いますね。
ここでどういう権利を抑えていたのか。
そうですね。何を攻撃していたのかね。
それがやっぱり謎ですよね。
そうですね。
ここでは酒というような話もありましたね。
そうです。
昭和の13年に長野県の一番品の川の下流の西大滝というところにダムができたんです。
それから酒が上がってこなくなったんです。
あららら、そうですか。
はい。
じゃあ昔は酒が飛び跳ねていたという。
21:01
いや、飛び跳ねているかどうかは知りませんが、
江戸時代は税金を払って酒を取っていたという記録が残っていますので。
そうですか。
こんな山国ですから、
生の酒が食べられるなんていうのは1年に1回しかなかったと思いますよ。
なるほど。そういうことですか。
私の父は昭和の初め頃、近所の人からもらって食べたことがあると言っていましたからね。
そうですか、父の初め頃。
川もこの辺になるとちょっと深めになるんですか。
いや、基本的には洗浄地を流れていますので、
洗浄地が流れ下がってくる間にほとんどの川は複流水になっちゃうんですね。
そうですか。
その複流水の水がちょうどこの川が集まってくる辺りでまた湧き出してきているんですね。
だからこの辺から水量がまた増えていくかもしれません。
そうですか。
だから洗浄地を流れ下がってくる川って途中で千切れがしたりとかしますからね。
水がなくなる場合はありますから。
だからこの盆地の地下に相当な量の水を蓄えているということです。
そうですか。ここは水がおいしいところですからね。
そうですね。今は水道も全部地下水になりましたし、
だから100メートルくらいの水を汲み上げていますから、
何十年か前の恵みを今味わっている感じじゃないですかね。
お話を厚見野市の文化財保護審議会委員大沢啓哲さんに伺いました。
ここでリポーターの中島梨恵さんです。
こんばんは。
厚見野に昔から伝わるお話をモチーフにしたお菓子のご紹介です。
昔から伝わっているお話、八面大王のお話。
本編でもちょっとお話が出ていることもありますが、
この八面大王と手下が儀式の岩屋という岩穴に住んで地域住民を苦しめていた。
けれどもこの八面大王を魚植えの田村丸が討伐したという昔話があるんです。
これさらっと聞くと悪者八面大王に聞こえるんですが、
でも地元ではこの八面大王、性悪説と性善説とあるんですよ。
歴史は二面性がありますからね。
そうなんです。だから地元の人たちを苦しめていたという説もあれば、
いやいや朝廷に歯向かったんだぞという話もあるらしく、
その八面大王がモチーフになったお菓子もあるわけなんですよ。
作っているのは丸山菓子穂、お菓子の丸山というところなんですが、
ここで民話とか神話、地名にちなんだお菓子をいろいろ作っていまして、
24:03
社長の丸山明夫さんに話を聞きました。
ズバリ八面大王というお菓子があるんです。
お菓子の名前が八面大王。
持ってきました。竿ものなんですよ。
長さが25センチぐらいの丸い、一番わかりやすく言うと、
和菓子で作ったロールケーキみたいな。
この生地の部分は抹茶です。
クリームじゃなくて小豆がたっぷり巻かれているんですよ。
いい感じ。ぜひよかったら。
なるほど。ちょうどね。指先でつまめて。
小豆たっぷり入ってますね。
そうなんですよ。
おいしい。甘さそんなに強くなくて。
生地のところが、見たら米粉って書いてあるんです。
そうなんですね。それがこの食感なのかもしれませんね。
そうなんですよ。
30年以上前からあるお菓子だそうで、
渦巻きにしたのは、魔力があったといわれる八面大王にちなんで、
魔力があった大王であれば、周りに雲のような煙が渦巻いているんじゃないかと想像して、
仙台社長がデザインしたんです。
そういうイメージなんですね。
そうなんですよ。その抹茶、八面大王をやめの大きみとも読ませて、
この福岡のやめとのつながりを解く説もあります。
そこから、やっぱりお茶の井戸がいいんじゃないかなというふうにして、
この抹茶井戸が決まっているんだそうです。
この丸山のお菓子が大好きだという、
安住野市観光協会政務理事の白沢唯一さん。
一個人の感覚として、こんなふうにこのお菓子を捉えているんだそうです。
見た目が私の感覚だと、儀式の岩に苔もついている抹茶の色なんですよね。
その形が、かまぼこ型の切ったときの形が岩屋の形にすごく似ているという印象を私は受けました。
なるほど、岩屋の形ね。
想像しながら食べると楽しいんですが、
もう一つ八面大王に絡むお菓子として、
ヤムラのヤスケというブッセがあります。
どうぞ、目の前にありますが。
これはまたブッセ。洋風に来ましたね。
そうなんですよ。
丸くてふかふか。
でも40年前からのお菓子なんですね。
表面がカサカサっとした感じの中がふっくら。
マーガリンの、いいですね。
甘くないクリームが入っているんですよ。
これ何かって聞いたら、マーガリンととろけるチーズを裏ごししたクリームなんだそうです。
チーズも入っているんですか。
これが40年前からってすごいんですよね。
卵の優しい甘さとよくなじみます。
そうなんですよ。このヤムラのヤスケなんですけれども、
罠にかかって苦しんでいたヤマドリを助けたら、後日美しい女性がやってきて妻になったというヤスケさんの話なんですね。
実は八面大王を倒す時に倒せなくて苦労していた田村丸の一軍が観音様にお祈りした時に、
27:08
33不死のヤマドリの王を使った矢でいれば倒せるぞとお告げがあった。
その矢をヤスケに渡したのがヤスケさんの奥さんだったんですよね。
その話をさらに白沢さんが続けてくれました。
私は実はあの時助けてもらったヤマドリですということで去っていってしまうという悲しい物語にはなるんですけど、
その重要な人物のヤムラのヤスケの思いですとか悲しさですとか、
そういったものをお菓子で表現しているのかなと私は思いながらこのお菓子を食べています。
我慢がありますね。
ぜひアズミ属田んぼのお土産にどうでしょうか。
アズミの楽しむ旅も新州松本空港が玄関口です。
FDA富士ドリームエアラインズの直行便でお出かけください。
中嶋理恵さんでした。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
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この番組は、
アズミの市観光協会、
アズミの市大洋わさび農場、
塩尻市観光協会、
FDA富士ドリームエアラインズの企画共産、
餃子の山鉢の提供でお送りいたしました。
ご案内は坂田秀大でした。
卓五川の立川翔子です。
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