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古代の福岡を歩くシーズン9
遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン9
この番組は宮馬市の企画協賛
餃子の山鉢
道の駅村方
草と共に生きるオーレックの提供でお送りいたします。
こんばんは、坂田周代です。
先週まで太宰府の水城跡を歩きました。
途中、水城の西門を通過したのですが、この水城西門は福岡市の鴻臚館につながっていました。
そこで今週は鴻臚館を訪ね、どういうところだったのか、鴻臚館の周りを歩き、そして鴻臚館跡展示館を覗きました。
ご案内を、福岡市経済観光文化局文化財活用部資石整備活用課鴻臚館跡整備係長の中村啓太郎さんにお願いしました。
鴻臚館跡展示館に来ています。
ここはかつてプロ野球の球団、ライオンズホークスといった球団が活躍した平和台球場の跡になります。
そこの発掘調査が行われましたが、1987年からここが発掘調査に入られた。
まだ球団がここにあって、ホークスの球団がありましたね。
はい、ありました。
それから桃地に移る前に大体分かってきたと。
そうですね。逆に鴻臚館が出てきたことでホークスが桃地に行かなくて、行かなくなっちゃったという感じですかね。
そうですか。ここが発掘調査の結果、ここに鴻臚館みたいなのがあったんじゃないかというのが分かってきて、球団を移転するという。
ということが決まりました。
それからここ発掘調査があって、今でもやってらっしゃるんでしょう。
今も発掘はやっております。
ちょうど目の前にある発掘調査をされている遺跡、土石がいくつか点々としていますね。
深い穴、それから河原のかけらがたくさんあります。
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ここからはどんなことが分かります。
蘇生式があることでどういうふうな方向に建物が建っていたかというのが分かります。
それを元に復元したのが左の建物になりますので、同じような形でそこに柱が建っていたその間が何メートルかということもきれいに分かってきますね。
当時そこに落ちている河原が上に吹かれていた本物の河原が今ここにそのままの状態で見られるようになっています。
それから真ん中あたりに江戸時代の井戸跡というのもありますね。
これは後の時代に井戸を掘った跡ですか。
結局航路館が廃絶した後しばらくして1600年以降になって福岡城がここに作られますので、この場所が福岡城の三の丸にあたる場所になるんですね。
その中でいろんな江戸時代の遺跡もここには航路館の上に乗っかってくるような形でまだ残っているんですね。
福岡城の三の丸にあるんですね。
この建物のすぐ隣は石垣がありますよね。
福岡城の石垣がずっとつながっているのが見られます。
航路館について伺いますけれども、ここには先ほどのパンフレットを見せていただいたら、北館と南館があったというふうに書いてありましたが、北館という大きな場所と南館という大きな場所があったということですか。
こちらが南館の方になります。
ちょうど平田球場で言えばセンターの裏ぐらいだったんですかね。
ここは野球場よりももうちょっと後ろになりますけれども、そこと野球場の部分に南北2つ建物が建っていたということです。
広さで言えばどのくらいの広さになるんですか。例えば北館。
おおよそですけれども50メートルかけ70メートルの平に囲まれた建物が2棟建っていたということになります。
建物が2棟建っていた。北館、例えば50メートルかけ70メートルぐらいが北館。
北館、こちらも同じように全く同じ規格で50メートルかけ70メートルぐらいの区画があって、その中に何棟かおそらく建物が建っていただろうと思われます。
ああそうですか。それが宿望みたいな形になるんですか。
そうですね。
そして今目の前にこの遺跡のすぐ横に復元された建物がありますけれども、これもその一角に昔あったような建物ということができるんですか。
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そうですね。本来あった場所に復元して建てた建物になります。
ああそうですか。じゃあ昔ここにこういう建物があったということですね。
屋根付きの1棟分ぐらいになりますか。
そうですね。これ全体があるわけじゃないので、もうちょっと長くなるんですけれども、横に長くなるんですけれども、その一部を復元しています。
ああそうですか。3分の1ぐらいかな、長さとしてはね。まだ続きますね、ずっとね。
こういう建物が2棟から3棟。
そこが数はっきりわからないですね。
2棟ぐらいはあったんじゃないかと思います。
ああそうですか。そして周りですけれども、例えば田沢府県政庁のあたりに行きますと、回廊というのが周りを巡っていますよね。
そういうものがあったんですか。
あったと思われます。
回廊みたいなのがあって、そして門も多分あった。
門はですね、この建物の反対側にありました。
反対側。
東門というのがありますね。
東門がこの建物の反対側にあった。
東門から田沢府の方へ向かって道路が伸びていくということですよね。
ただ残念ながら、その道路はまだこの近くでは見つかっていないんですね。
見つかっていないんですか。
ここに航路館があったというふうに言われたのはどういう方なんでしょうか。
ここの場所が航路館というふうに推測されたのが、九州大学の医学部の博士だった中山平次郎先生という方が、文献とかあるいはこの中を歩いて当時の瓦を拾ったりして、
そこからもともと博多の方にあったんじゃないかと言われていた航路館が福岡城内にあるというのを突き詰めたということです。
ほってみたら実際にいろんなものが出たということですよね。
それでもここが航路館ということがほぼ確定したということですね。
この航路館ですけれども、いつ頃できたんでしょうか。
だいたい始まりが7世紀の後半ぐらいからというふうに。
それから11世紀の中頃ぐらいまであったと言われています。
これが作られた目的と言いますかね、航路館が作られた目的というのはどういうことなんでしょうか。
もともとここが海に近くて半島や大陸に近いというところで、そういった人たちを迎え入れる場所として、
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玄関口として、そしてそこで宿泊してもらってというような施設として作られております。
またこちらの方からでいくと、県投資とかそういったところの日本から向こうに半島や大陸に向かっていく人たちの出発の場所として使われておりました。
ここの役割の前身は七津のあたり、今の春済みですかね、あたりになりますかね。
あのあたり今、史跡として残っている七津のみやけ、そこがここの前身じゃないかなとは言われているんですけれども、そこからこっちに移ってきたんじゃないかと言われています。
かつて航路館は初期の飛鳥時代、奈良時代の頃はつくし館と書いて、つくしの室積みと呼ばれていたそうです。
航路館と呼ばれるようになったのは平安時代になってからで、東や白城からの施設を迎え入れた場所だったそうです。
航路館というのは全国でいくつあったんですか。
3つあったと言われています。
京都の方と大阪の方と、それとここのつくしの航路館と言われています。
ただ実際に遺跡が見つかったのはこの福岡の航路館だけですね。
じゃあもう2つはまだわからないものですね。
それから7席後半から11席くらいまでということですけれども、ここにやってきた方、いろいろ時代によって違うんですかね。
最初の前半の方は外交施設としてやってきたわけですけれども、後半の方はどちらかというと公益。
こうするために役割がだんだん途中から変わっていくということになっていますね。
それはどのぐらいの時期から変わってくるんでしょうか。
だいたい旧正時期ぐらいからはそういったふうに変わっていると思います。
それで公益の方ですけれども、どういったものが日本に持ち込まれたんでしょうか。
今ここに展示してあるような陶磁器類であるとか、そういったものがたくさん入ってきておりますね。
ここにお皿、おたるぎがたくさん展示してありますけれども、これが公益品ですね。
中国からもたらされた白磁であったり、青磁の碗とか皿が来ています。
主にだいたい陶とか蒼のあたりになりますか。
お皿があります。白磁碗とかですね。
これが八世紀のものだみたい。
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それからですね、陶三彩の焼き物がありますよね。
この陶三彩ですね、非常にきれいなもので、題名がですね。
三彩印花縁王門陶珍と書いていますが、これは押し鳥ですか。
これは大変貴重なものですね。
そうですね。これは複製品なんですけれども、かけらが実際に出土しております。
かけらが少しありますね。
ここは貿易の中継地というのはおかしいですけれども、ここからいいものを全部都の方に運んでいっているということで。
実際ここに残っているのは煮上げして壊れたものとかですね。
そういったものをここに廃棄していっているという形になります。
そうですか。
ですので後ろにありますような、こちらでは中で割れたものを一括して捨てているような状況が見られるわけですね。
これはゴミですか。
実際は割れて使えなくなったものですね。
これはゴミ箱、昔のゴミ箱みたいな形でお皿、土器類が山と積まれていますね。
この辺もそうですね、だいたいね。
イスラム陶器が来ているというところですね。
イスラム陶器。
これも多分早々出てくるものではないので非常に貴重なものだと思います。
そうですか。
イラン又はイラクって書いてますね。
精力有陶器一部のかけらということになりますね。
綺麗な色ですね、ブルーのね。
そうですね。
こういったものが日本へもたらされて、これを中央から取りに来たということですか。
まず確認していいものは全部都の方に持って行く。
都の方に持って行く。
残ったものだけ取引されるということですね。
それが一番最初の大体交易、旧正規終わりから実正旧正規になるんですか。
あと自由貿易になったという歴史もありますね。
その後がもっと後になってくるとだんだんなってきて、
そしていずれ中世の博多の方につながっていくという形になります。
最初はこの辺だけだったのがだんだん広がってくるという感じになってくるわけですね、貿易が。
それに伴って航路間もだんだん終わりに近づいていくという博多に移っていくと。
そうですか。航路間の終わりというのはどういうふうになるんですか。
基本的には最後火事にあうんですね。その後再建されなくなってしまいます。
これが実正期の終わりぐらいですね。
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11世紀の半ばぐらい。
11世紀の半ばぐらい。最後火事というのは残念ですね。
そして航路間跡で大変貴重な場所が見つかりました。
トイレの跡です。
発掘されたときの写真の前に来ました。
トイレの発掘されたときの写真がありますね。かなり深いところを掘ってますね。
深さがだいたい見つかったところで3メーターぐらいの深さがありました。
本来の高さでいけば4メーターぐらいは深く掘ってたと思われます。
このトイレの発見からいろいろ調査されたと思うんですが、どういうことがわかったんですか。
このトイレの一番下の堆積したものの中を土壌分析をかけたらその中からいろんなものが出てきまして、
それで何を食べてたかというのがわかりました。
何を食べてたか。
例えばトイレの中から出てきた卵とか種とかそういったものから
例えばお魚を食べてたとか木の実とか果物を食べてたとかいうのがわかります。
具体的にはそちらのほうに展示してるんですけれども。
ここにトイレの中から出たもの。
そうですね。ウリとかヤマモモとかそういったものの種が出てあったり、あるいはマキガイが出てきたりということですね。
あとは獣骨片ということで、おそらく豚とかそういった肉類も食べてたということがわかってます。
豚かイノシシかそういったものの骨が出てくるところは決まったトイレからしか出てこないんです。
当時日本では食べる風習はなかったので、そのトイレは白着の人が作ってたトイレじゃないかと言われてます。
そうですか。
一応トイレの使い分けがあったんじゃないかと言われてます。
白着の人のトイレと日本人が使ったトイレと。
それとダンジョンもあったんですよね。
ダンジョンはあったかどうかわからないですね。
そういうことですけれども、ここに注意という木がありますね。これは何ですか。
これは当時のトイレットペーパーと言いますか、それに使われた木片になります。
もともとは木管と言って荷札に使われていたものが廃棄されるときに、そういった中儀として再利用されたということです。
そうでしょう。なんか木管みたいな感じがしますもんね。
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物によっては字が書いてある部分があったりとか。
長さが20センチから30センチくらいありますね。
幅は2、3センチくらいかな。
そのくらいの棒ですね。
これで神代わりにしていたみたいですね。
ということですね。
ここにはツタとかヤマモの種、それからウリ、マキガエのヘタ、それから動物の骨が展示してあります。
こういったものを食べていたということで、トイレ自体はいくつかあったんですか。
数はいくつか出てきていますね。
ただ全体の数としては多くないので、多分トイレを使われるのは限られた人だったという可能性もありますね。
そうですか。じゃあ身分差があってトイレを使える人と使えない人。
あったかもしれないですね。
そういうことですか。
そして外へ出ますと、かつて平和大球場があった場所に北間の跡、南間の跡がありました。
芝生の上をよく見ますと印がありました。
これが南間の絵の表示をしている。
これですか。広い広場の中に茶色のゴムチップ舗装ということで、茶色の部分が一直線につながっている部分があります。
これが航路間の塀の跡です。
直線で50メートル、100メートルくらいありますね。
こっちが70メートルです。
南北が50メートルくらい。
南北50メートル、東西70メートル、そういうふうに繰り返した跡がちゃんと作ってあると。
ここに少し3、40センチくらいの段があると思うんですけども、
これが南間と北間の間の堀の跡になります。
ここですか。
向こう側じゃなくて、
これがもっと本来は深いんですけど、4メートルくらいあるんですけども、
それを今少し段差をつけて表現しています。
そうなんですか。
この広い広場にほんのちょっと段差があります。
30センチくらいの段差が。
緩やかな段差なので、気をつけないとわからないですね。
ここが昔堀があったという場所だそうです。
東門跡もゴムチップ舗装でわかるように作ってありました。
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今週は航路間跡を訪ねました。
ご案内を福岡市経済観光文化局文化財活用部市籍整備活用課
航路間跡整備係長の中村慶太郎さんにお願いしました。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
今日は閃光花火のお話です。
国産の閃光花火って、今は数件しか作っていなくてとっても希少なんですよ。
ほとんどの方は輸入の花火を遊んでらっしゃるんじゃないですか。
その一つが実は宮間市にあるんですよ。作っているとこ。
えつついときまさがんぐ花火製造所というところなんですが、
ここまで私何度も閃光花火って言いました。
どのスタイルを想像しました?坂田さん。
どのスタイル?
紙になっているものか。
ピンクの紙になっているほうか、わらになっているほうか。
両方ありますけどね。どっちなんですか?
実は両方ともそうなんですけど、わらの軸に火薬がついているのはスボテボタンという名前です。
西日本で主流なんです。
これね、お米の産地へこうなっていまして。
わらがあるので。
もともとの閃光花火の原型はこのわらの軸、スボテボタンなんです。
で、もう一つの紙でよったこより状に巻かれたものですね。
これ、長手ボタンって言いまして、東日本で主流です。
西ほど米作りが盛んでなかったけれども、紙付きの技術は盛んだったので、
この紙で巻くっていうのは東側で主流なんですよ。
そうなんですか。
で、このスボテボタン、わらの方を作れる唯一の会社が、
このつついときまさがんぐ花火製造所なんです。
えー、そうだったんですか。
このつつい京子さんにいろいろ話聞いてきたんですが、もうね、目から鱗だらけです。
この職人さんが作る閃光花火っていうのは、4つの花、表情が見られるっていうので、その解説を聞きください。
まず火の火球ができて、ぐつぐつぐつぐつってエネルギーを溜め込んでいる状態のときですね。
それをつぼみと言います。
で、そこからバシャバシャって勢いよく飛び出すんですけど、
その大きな花が咲く様子がボタンの花に表現されてボタンと言いますね。
ボタンのような大きな花がバシャバシャって飛び散ります。
で、それから今度ジャラジャラジャラって手元で小さくはじけるように咲くんですけど、
それをマツバと言います。
マツの葉っぱ、チクチクとげとげしいマツのような感じなので、マツバと表現されています。
で、最後、ゆっくり静かに花びらが散るようにですね、菊の花が散るように火花が出ます。
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それを最後、チリ菊と表現されています。
チリ菊、いい名前ですね。
これが見られるのは職人さんの技あってこそなんですよ。
すぐ輸入物落ちますからね。
その通り。
この西と東では閃光花火の遊び方が違います。
どういうことですか。
東側、紙好きですね。紙寄りにしている方は静かに下向きに動かないように持ちましょう。
西の場合はこうです。
藁のタイプのスボテボタンの方は斜め上を向けて遊ぶんですよ。
というのが、もともと江戸時代の女性がコウロ、お線香たてのコウロに刺して火をつけて観賞用の花火として遊んでいたんですよね。
その姿がお線香に似ているので、閃光花火という名前がついているので、
閃光花火というのはもともとそのタイプは立てて遊ぶのが本当の遊び方なんですよ。
知りませんでした。びっくり。
わーの声がずっとスタジオ中に響くくらい。
しかもね、この藁で作っている西の方は息を吹きかけて遊ばなきゃいけません。
そうなんですか。
風が大事なんですよ。この藁を燃やすのにエネルギーを取られちゃうと火の玉の温度が上がらないんです。
そうすると火花が飛び出せないんで、四辺形が見られないんですよ。
だから上手に風を当てながら遊ぶんですね。
だからですね、神寄りの方、東の閃光花火は夏の風があんまり吹かない時期におすすめ。
で、藁でできた西の方は冬は風が強くてもOKですし、あと海岸とか風が当たりやすい場所にはおすすめなんですって。
で、この藁の持ち手のすぼ手ボタンなんですが、冬の寒い時期に作るんですよ。今、最晴気。
これね、できたてって少し荒々しさが感じられるような火花なんですって。
違うんですよ。さらにこんな話も聞かせてくれました。
閃光花火は劣化もしないんですよね。逆に置けば置くほどどんどん熟成するっていうような特徴を持っていて、本当ワインと一緒で熟成します。
年数を超えても大丈夫なの?
ですです。もう30年でも40年でも全然使えます。
そうなんですか。
だから子供生まれた時にお祝いで買って、成人の時に火をつけるとか。
そんなこともできるんですね。
ありだそうですよ。ぜひ三山の閃光花火チェックしてください。
中島理恵さんでした。
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ここで番組からのお知らせです。ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
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この番組は三山市の企画協賛、餃子のヤマハチ、道の駅村方、草と共に生きるオーレックの提供でお送りいたしました。
ご案内は坂田周代でした。
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