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古代の福岡を歩くシーズン9
遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン9
この番組は、宮間市の企画協賛、
餃子の山鉢、道の駅胸形、草と共に生きるオーレックの提供でお送りいたします。
こんばんは、坂田修大です。
国指定の特別施設、大宰府の水城跡を歩いています。
ご案内を、こと大宰府保存協会の学芸員、田中健一さんにお願いしています。
一緒に歩いているのは、この番組の津川ディレクターです。
水城東門近くの水城の内堀を歩いておりますと、
どうやら水城の外堀に水を引いた木碑の跡がありました。
実はこれが水城1350年前に作られてお話ししました。
今歩いてきました大宰府の内堀、こちらから外側に
敵が進行してくる正面の外堀に水を送っていた、いわゆる洞水管と考えられる木碑が見つかった場所です。
まさに津川さんがおっしゃったように、正方形で少し窪んだところ。
ここがいわゆる木碑という大変大きな洞水管に水を吸水する、ここから水を取り込んでいたと考えられる場所なんですね。
ちょうど南側には内堀が広がっていたと考えられていまして、
正方形の部分に対しまして、真っ直ぐ博多側に向かって木碑が真っ直ぐ伸びていたわけでございます。
木碑自体がどこを通っていたのかなと気になる方も多いかなと思うんですが、
実はこの場所、木碑跡に立っていただくと、いけがきが続いているのが、
不自然にあそこだけ一本ずっと博多に向かって伸びているんですけれども、
あの位置が木碑が通っていた位置だそうなんですね。
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横は112号線が走っていますけれども、それに沿ってずっと続いている。
何気なく伸びている一本のいけがき、これが実は木碑の埋まっている位置を示しているものになります。
まさにここの部分から、太宰府から博多側に向かって真っ直ぐ伸びておりますけれども、
こちらの長さが全長、南から北までで79.5メートル。
この長さが大変80メートル近いんですけれども、木碑自体も大きいんですね。
木碑の内側の幅を測っていただきましたら、横幅が1.2メートル、高さが80センチほどということなので、
大人の方でもしゃがんで中を通りくぐれるぐらい大変大きな、
いわゆる昔で言う切り出した土管なわけなんですね。
そのような木碑を通じて、内側から溜めていた水を通して外側、外堀へと供給していたと考えられる場所でございます。
木碑の大きさってかなり大きいですね。
そうですね、それだけやはり水を一気に運ぶ必要があったのかなということで、
120センチ×80センチってかなり大きいなと思いますね。
それをどっかから運んできた水になるんですか?
そうですね。
運びます水につきましては、内側に溜めていたんだろうと。
ただ、今津川さんと歩いてきましたように三笠川よりこの内側、木碑の場所ってかなり高いんですね、標高が。
そうですね、落差がありますね。
こちら側、高速道路の方を見ると、かなり下の方に緩やかになっていますので、
おそらくこういう高い部分の内堀というのは山側から、現在でもいろいろな神農川とかいろんな川が流れているんですけど、
そういう川から流れ込んだ水を溜めておいて、何かの際には木碑を通して一気に外側に吐き出すような、
そういう使い方じゃなかったのかなというふうにも考えられているんですけれども、まだまだなかなか研究、調査がわからない部分が多いんですけれども、
間違いなくこの場所からそれだけの大きい、ヒノキを使った大きな木製の土管が見つかりまして、
その後を記念して、場所を記念する石碑なんかも建っていますけれども、
まさに1350年前の水木を知る大変手がかりとなる場所ということで、今も大切に保存されております。
初めて知ったのは、この112号線沿いにツゲノキみたいなのが植えてあって、ツゲノキ沿いに木碑があったというのを初めて知りました。
なかなかどこをとってもイメージしづらいかと思いますが、こういうふうにイメージをしていただきたいなというのをイメージしていただくとですね。
今度は水が吐き出される外側のほうにも行ってみたいと思います。
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そのツゲノキに沿って今ずっと歩いています。
ここに木碑が表に出た部分があるんですね。
ちょうど輪切りにした部分というのがありまして、ここからも構造が見えるようになっていますね。
実際に木碑どのくらいで大きさであったのか、実は中に入る道が通行しています部分に、このくらいの大きさなんですということで再現されたものが、
実際にどのくらい大きかったのか、ぜひご覧になっていただきたいなと思います。
これは本当によくわかります。
それから木碑の厚さというのが結構ありますね。30センチくらいあるんですかね。
厚みがですね、やはりそれだけの水を送る構造で、重さにも耐えないといけませんので、かなり分厚いですね。
それをご紹介しましたように、かすがいで1.6キロくらいあるような、今のホッチキスの針のような大変大きな金具で打ち止めているところで、
まさに1350年も相当すごい技術があったんだなというのを改めて感じるスケールになっています。
ここでかすがいの凄さというのも見ましたね。
ちょうどホッチキスみたいな感じでね。
この字型になっているもので板をですね。
つないでいたという感じですね。
そういう木碑学校にあります。
ぜひ再現の部分を見ていただきたいと思います。
そして水木山頂目の交差点に出ました。
大きな石碑が目の前にデンと座っています。
水木山頂目の交差点を渡りますとですね、渡ってすぐに見えてまいりますのが、大きく水木大帝の碑と書かれた石碑になります。
こちらですね、実は建てられましたのが大正でして、
大正4年に大正天皇の御大典記念ということで、日本各地でいろんな行事や記念の混流されたりするんですけれども、
当時、現在は太宰府市ですけれども、この場所は水木村でございまして、
水木村の青年会の方々が大正天皇の御大典を記念しまして、この水木を記念する、検証する石碑を建てようということで建てられた石碑になっております。
立派ですね。
大正4年の1915年に混流を計画された石碑なんですけれども、
こちら正面には水木大帝の人が大きく描かれておりまして、
裏側には水木の測量、どこからどこまでがだいたいどのくらいの距離があるのか、そういったところも書いてあるわけなんですね。
裏にですか?
実は裏にです。
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表だけしか見てなかったな。
では裏へ回ってみましょうか。
これは漢字で書いてありますか?
非常に難しいですね。
表に書いてあって、横には記号した方のお名前なんかあるんですけれども、
裏面に行きますと、例えばどこからどこまでが何軒何尺だ、西側の積みがどのくらいの距離だというのを実際に当時計測して測った数字がですね、
こと細かくびっしりと、
細かいですね。
仰ぎ見て字を覆わないといけないんですけれども、
読めるのが天地戦の3年って置いて何とかかんとかって感じますね。
最初のところは天地戦の3年、664年に大帝を築いて水を蓄えしむ、水木の油田が書いてあって、
なるほど。
産業面からは今度もまた先ほど言いましたね、いろいろ過去の歴史であったり、
あるいは先ほどご紹介しました水木の修理戦地艦みたいな人もいらっしゃったみたいなことも書いてあるんですね。
積碑の碑文の残り、後ろ側の半分がですね、この水木を測定した長さというところでですね。
長さ176件ですね。
300。
そういうのが読めますね。
ちなみにこの測量結果も当時として測ったものですけども、
実はそれほど今の正確な数字と誤差がそんなに大きくないですから、
なので大正時代に測量に携わった皆さんの自立の高さというのが実はわかるんですけども、
当時のやはり水木村の人々の、やはりこれは水木村の象徴なんだ、シンボルなんだという大変強い思いが伝わってくる積碑になっております。
時間のゆったりとれる人はじっくり解読したほうが面白いなと思いますね。
この積碑ですね、それこそ地元青年会の方がすごく情熱を持っていますよね。
こちらの上の部分の竿石ですね、こちらは博多の方から青年会の方たちが自ら運んでこられたそうなんですね。
土台の下のこの石は法満山の方からですね、またこれも青年会の方から運んできたということで、
まさに建てる段階から青年会の方が率先して、
土台の石も大きいですよ。1メートル四方くらいのね、頂点とした石ですけどね。
重量もありますので、そういった部分でですね、一番下には携わった方のお名前なんかがびっしり書いてありますので、
まさに水木村の方々が100年前ですね、およそ1915年ですね、100年ほど前、
まさにこの地域の大切な文化財、シンボルとして水木を称えたそういう積碑ですので、
ぜひ裏面も余すことなくご覧になっていただきたいと思います。
見上げる高さ、およそ石碑の高さだけで3メートルぐらいありますね。
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下に土台が続いていますので、大きな碑になっていますね。
この大抵の碑からですね、もうすみません、山々話ばかりなんですけども、
太宰府の水木の伝説ということで、西門の方ではテテコ島という島があると、
水木を作る土を運んでいた親子が放り出した土が丘になったという、
伝説的な場所があったんですけども、実はこの大抵の碑からですね、北側、
ちょうど福岡空港の方に行く県道が伸びているんですけども、
これを150メートルぐらい行ったところに、かつてですね、ひともこ山、
太宰府の同じ伝承を持つ山があったそうなんですね。
こちらの太宰府のひともこ山はですね、残念ながら開発で失われてしまったんですけども、
伝説としては同じように、太宰府の水木を作る方々が、
木々、土を運ぶ道具に土を入れて水木に運んでいたところ、
完成したのを聞いて、そこに放り投げた土が山となっていたという、
本当にテテコ島とほぼ同じ伝承なんですけども、
太宰府の東門側にも同じような伝承が残っているということで。
西門の方はね、すぐ近くにありましたよね。
ここも150メートルぐらい。
少し離れた場所にあるということで、そんな伝説も楽しみながら、
ご覧になっていただきたいと思います。
それではいよいよ、東門がすぐそこにありますので、
ようやく東門の方へ到着して参ります。
東門にやってきましたけれども、
ここに、門の下に、
木その部分ですかね、石がありますね。
そうですね。東門の方に来ていただきますと、
ちょうど道沿いのところ、囲ったところに大変大きな石が置いてございます。
これが、実は東門の門の柱、扉の柱ですね。
それを支える土台となった組織というふうに言われているものなんですね。
組織の大きさが横2メートルぐらいかな。
そして幅が1メートルぐらいありますけど、
その中に丸い穴が開けてあります。
2つ穴があって、四角な穴も1つあるという。
ここに建てたんですかね。
そうですね。ちょうど扉の柱を建てる部分と、
あとそれを受けますと砲立てですね。
門の板なんですけども、
そういった差し込めるような跡が残っておりまして、
本来でありますと門ですので、片方の扉だけでは成立しませんので、
もう1つですね、反対側に同じものがないといけないんですけども、
1350年という長い歴史が経ちまして、
また西門の方は雰囲気がそのままよく残っているんですけども、
東門の方はこれまでお話ししたよりも、
ちょうどかつての3号線、今の県道112号線がバスッと通っておりまして、
門の跡というのはもうはっきり今残っていない状態なんですね。
なので東門がどのような幅で、どのような規模だったか、
跡というのはちょっと残っていないんですが、
門の組織というのはこうやって確かに1350年に受け継がれてきているというわけになります。
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こちら、津川さんがおっしゃっている大変大きな石ですので、
江戸時代ちょうどこの場所は北海道が通っておりまして、
太宰府にお参りする人なんかもたくさん通ったんですけども、
北海道がありましたな、そういえば思い出しました。
この旅する人たちはちょうどこの大きい石を見かけますので、
当時の人々、当時の地種類にはこの大きな石が鬼が使うスズリ石ぐらいあるということで、
鬼のスズリ石というふうに親しまれてまして、
これを見かけるといよいよ太宰府に入っていくんだなという、
太宰府を向かう水木を生き返る人たちの一つの目安というか、
名所にもなっていたそうなんです。
思い出しました。
田中さんと一緒に北海道をずっと歩きましたけども、
その入り口部分になるわけですね。
そういう組織がここにあります。
東門、どんな門だったかわからないということなんですけども、
実はその祖石の方から少し反対側を見ていただくと、
交差点に向かってこの土がL字型に残っているこの部分があります。
ほんとだ。
気づかずにとればただの通路で、ここだけ芝生がないのかなと思うんですけども、
実はこの祖石の北側にちょっと残っています、このL字の土を固めてある部分。
これ実は移行が出てきていまして、ちょうどこのような溝が見つかったそうなんですね。
先ほどから言っていましたが、ここには門があったのではないかと言われていますので、
門がありました、それの脇には排水するような、区分するような溝というのがありますので、
もしかするとこういう水木の出入り口を区分するのに伴うような、
あるいはそういう痕跡を伝えるような移行じゃないかなということで、
門自体はわからないんですけども、それに付随して見つかった、
区画するような溝、これはこの場所から出てきたんですよというのを、
実はひっそりと、すみません、この表面を固めて表示してありますので。
これはもう聞かないとわかりますね。
目立たないところに足元にありますけど。
これは表面で固めてありますね、L字型にね。
この祖石のあるところから、4、5メートルあるんですけどね、Lの字。
それが右側に2メートルぐらい続いていますね。
実はかつて跡を示してくれた移行のあった場所、それを示しているということで、
ちょっと目立たないんですが、足元もぜひご覧になっていただきたいと思います。
ここへ来るといろんな発見ができますね。
この水木の東もはと、本当にいろいろなものも合わせて置かれていまして、
周辺から見つかりました祖石とか石のようなものも、
実は先ほどご紹介した門の祖石の隣に、解説版と合わせて並べて展示してありますので、
奥の祖石なんかもご覧になっていただきたいと思います。
あとはこの門の祖石の隣には、この石石水木跡と表記されました。
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大正にここが石石に指定されたときに建てられた石碑ですね。
水木駅そばのどるい断面広場の上に水木の標識が立ってますってお話をしたんですが、
それと同じものがあちらは西側、そして東側はこの水木山頂面の交差点のそばに建てられているということで、
記号されたのは同じ猪鹿寺さんという福岡藩市であって、後に飯塚市長なんかも務めた方の記号になってますので。
猪鹿寺さんね、何か覚えてます。
その方が建てられた、こっちの東門側の目印はこちらになってますので、合わせてご覧になっていただきたいと思います。
これはね、はっきり読めますね。
大正10年3月に作ったんじゃないかって。
大きく書いてありますんでですね、ぜひこちらもご覧になっていただきたいと思います。
そして水木館を見学した後、水木館のすぐ裏の展望台に上がりました。
ここからの展望は素晴らしいですね。
そうですね。水木館の横にある階段からずっと何段か登ってきていただきますと、
ちょうど今日ご案内してきました水木を見渡せる展望所が広がっております。
こちら上がってきていただけますと、まず水木の外掘りであったり土塁であったり内掘りの構造ですね。
そういったものがよくわかりますし、また遠くを通っている高速道路との位置関係なんかもよくわかりますね。
まさに水木がどんな広がっているかというのを一望できる場所ですので、
ぜひ水木館、東の方に来られたらぜひこの展望所まで上がってみていただくと、
この歩いてきました西門から東門まで、西から東までおよそ1.2キロに渡る水木跡がどういった構造であるのか、
またどんな現在姿を残しているのかというのが大変わかる場所ですので、
ぜひご覧になっていただいて水木を最後まで楽しんでいただきたいなと思っているところです。
ちょうど位置的には水木の真上に立っているという感じがしますね。
そうですね。ちょうど展望所から2段下のところが水木館がある場所です。
さらにそこが2段ぐらい上に上がって、まさにもう土塁の真上に立っているという形で、
本当に高さというか規模がわかるような位置になっております。
そうですね。もう展望台に上がっていただくと水木の第二広場、そして木肥の池垣ですね。
それから木肥の取水口のところ、まさにもう一望できますので、
田んぼしてきた場所の振り返りとしてもですね、大変長めのいい場所であります。
今日ご紹介してきましたこの水木跡、1350年以上経ってもですね、
このようにちゃんと歴史を伝えてくれるように守り受け継がれてきております。
ぜひもう福岡を代表する古代の遺跡でありますので、ぜひ皆さん足を運んでご覧になっていただきたいと思います。
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国指定の特別史跡水木跡を歩きました。
全長1.2キロもありました。
土塁が高さ10メートル。土塁の両側に外堀60メートル、内堀50メートルありました。
古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんの案内でほぼ見て歩くことができました。
これから桜の季節もなかなか美しい景色が堪能できます。気候が良くなりましたら、ぜひ歩いてみてください。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。国の特別史跡太宰府跡で養蜂、蜜蜂を今育てているんです。
これは太宰府市の梅プロジェクトの一つの社会実証実験として行われているんですが、
この史跡地エリアで集めた蜂蜜の活用を目指す特産品を開発したりだとか、そういうことなんですね。
去年の5月の末から倉塚佐知区に2本蜜蜂の巣箱が置かれているんですよ。貴重です、2本蜜蜂。
立ち入り禁止の場所なので、太宰府市役所の職員さんと一緒に、このプロジェクトに関わっているNPO法人博多蜜蜂プロジェクトの理事長吉田凜子さんと出かけてきました。
見せてもらったんです。30センチ四方ぐらい、高さ80センチぐらいの巣箱が2つ置かれています。
中を覗くと寒い時期だったんで、蜂たちがほぼジーッとして身を寄せ合って集まっていました。
冬を守り中なので、だいたいこうやってみんなで集まって、巣箱の中は34度が保たれていると吉田さんはおっしゃいます。
その吉田さん、この倉塚佐知区、倉野塚佐という九州各地から税として納められた特産品とか布を管理していた建物があった場所なんですよ。
そういうところで養蜂するのをどんな気持ちなのか聞きました。
昔、元人が蜂蜜を持ってきた。それがここに貯蔵されていたんじゃないかと思うと、ロマンだなって。
元人の蜂蜜、倉野塚さんにあった?
あったかもしれない。その当時の時代的背景を見ると奈良時代でしょ。特産品がこの倉塚さんには貯蔵されていた。
蜂蜜とか砂糖っていうのはすごい貴重品なんで、きっとここに貯蔵されていたんじゃないだろうかと。
その場所で養蜂ができるっていうのは考え深いものがありますよね。
ロマンですよ。
元人が持ってきた。
多いにありますね。
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蜜を摂るだけじゃなくて、このプロジェクトでは環境学習をやってるんですね。
去年の秋にはこの環境学習をやった太宰府高校の生徒たちと実際に蜜を摂る作業もしてみて、味聞いたらすっごいジューシーで美味しかったんですって。
スバコを置いている場所は実は梅の木の下なんですよ。
今年はこのスバコのすぐそばにある梅の実の収量が増えるかどうか、これも検証するのも実験の中の一つなんですね。
蜂の活動が実の摘き方に。
そうなんですよ。実だけじゃない、もっと大きな働きがあるんですよ。
樹噴効果で必実するものが増える。
だから緑が豊かになる。
緑が豊かになる、緑化が促進される。
でなるとカーボンニュートラルにつながる。
実の作る量が増える。
鳥が来る、食べる、種を落とす、木がまた生えてくる。
人間が植樹しなくても勝手に木が生えてきたりするわけですよね。
大きな話もあるんです。
気になる花なんですが、ダザイフ成長の後に梅もあります、桜もあります。
大体日本蜜鉢って、スバコから最大で半径2キロくらいまで出かけて行って、蜜を集めてくるんですって。
この後、秋に蜜を摂ることになるんですが、そうすると梅だけじゃなくて、他の花の蜜も入るんじゃないかと思います。
その辺、こう仰ってました。
日本蜜鉢は古来種で、百合とか薔薇とか好きじゃないんです。
梅とか桜とか黒金餅とか栃とか、南天とか金管とか柑橘系ですよね。
そういった樹木系の花、群生している花蜜が好きなんですよ。
蜜になるのが楽しみなんですけど、私、お花からとってきたらすぐ蜜とれるんじゃないかと思ってたら違ってまして、
秋までかかるんですね。
秋までかかりますね。
実は最初に花蜜を集めてきた時って、糖度が20度未満ぐらいなんですって。
これを蜂たちがメンテナンスしながら、糖度80度ぐらいまで上げていくんですって。
どんどん甘くなっていくんですね。
だから、秋を待たねばいけないんですよね。
どんな味になるのか、すっごい楽しみですけど、おそらくこれからの季節、太宰府成長跡を歩いてて、蜂を見かけたら、この子たちはひょっとして、と思って。
きっとそうですよ。
これは蜜蜂プロジェクトの子たちねって思って、あったかい目で見て、そして応援していただければと思います。
どんな風な蜜が出るのか、そしてどんなことをやれるようになるのか、とっても楽しみなプロジェクト、太宰府で進んでます。
中島理恵さんでした。
27:05
ここで番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
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また、Apple、Google、Spotify、Amazon、YouTubeなど各ポッドキャストでもお楽しみいただけます。
この番組は、宮山市の企画協賛、餃子の山鉢、道の駅村方、草と共に生きるオーレックの提供でお送りいたしました。
ご案内は酒田周大でした。
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