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古代の福岡を歩くシーズン10。
遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を訪ねる古代の福岡を歩くシーズン10。
この番組は餃子のヤマハチ道の駅村方の提供でお送りいたします。
道の駅村方日頃スタッフの井上です。
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こんばんは、坂田周大です。
今週は塩寺山にある古代の山城大野城跡を歩きます。
半時計回りに尾根を半分ほど歩きました。
見どころがたくさんあるのに驚きました。
大原山まで歩きましたので、今回は小石垣から歩きます。
ご案内は、古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんです。
一緒に歩くのはこの番組の津川ディレクターです。
今回から歩くコースについて。
前回はですね、ぐるっと南の方から回ってきましたので、
今日はぐるっとですね、大野城跡、塩寺山の東側を通りまして、
小石垣、百軒石垣を見まして、そして最高峰の微社門天を目指します。
いわゆる塩寺山、大野城跡のぐるりと東側から北側にかけて、
巡っていこうかなと思います。
半時計回りに歩いています。
微社門天というところまで、どのくらい距離あるかわかりませんが、
微社門天のあるところに大喜山という、ここが一番頂上といいますか、一番高いところですかね。
はい、そうですね。塩寺山で、前回ご紹介した大原山は東側で354mですが、
今回行く微社門天があります大喜山、これが西側に位置しています。
塩寺山で一番高い410mのここですね。
そこまで津川さんと一緒に歩いていこうと思います。
塩寺山西側に位置する大喜山、410mと書いてあります。
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そこへ向かって歩いていきます。
小高い坂道を登ってきました。小石垣へやってきました。
小石垣のてっぺんに来ました。
ここから石垣の上から下を見下ろしますと、
石垣が途中で崩れて、下の方に転がって落ちていっているという感じのところです。
石垣自体はまだきちんとしていますね。
はい、ということで前回ですね、東側には大原山という354mの高い山があるとご紹介しましたが、
そこからこうずっと道路線を巡っていきますと、33石物、江戸時代に祀られた観音様ですね。
そういったものが16番、17番、18番と続いていくんですけども、その附属を通り過ぎながら、
やがてですね、実は大野城の南側もそうだったんですけども、
北側も実は土塁がですね、外側部分、内側部分で二重になっている部分があるんですね。
これはまた今後の調査によっては変わる可能性があるんですけど、今のところ二重になって守りを固めていると。
大原山からずっと下ってきまして、道の分岐がまっすぐ行くと外側の土塁線、
左に曲がると内側の土塁線という分岐があるんですけども、そこを左側、内側の土塁線の方に曲がっていただいて、
しばらくなだらかい道を下っていただきますと、この小石垣に到着するわけなんですね。
分かりました、大体。
最初の方にですね、南の方には大石垣があるとご紹介しましたけども、
それに対するような北側の小石垣と言われるわけなんですね。
小石垣に対してこれが小石垣と。
そう言われてるわけなんですけども。
でも実際ですね、小さいってついてるから、ちっちゃいっていうイメージじゃなくてですね、
実はもともともっと大きかったのではないかと。
ああ、そうですか。
実は何回かご紹介してます、江戸時代の1806年に描かれたと言われます、
大野城、太宰府、旧石全図という絵図があってですね、
これは江戸時代のこの太宰府地域の色々な事跡を描き込んだ網羅した非常に参考になる絵図なんですが、
それのここの部分を見てみますと、やっぱり小石垣って書いてあるわけなんですね。
やっぱり江戸時代にすでに石垣があったっていうのはわかってまして、
越えずに石垣が書いてありまして、実はそこに2つ30件30件という数値が書いてあるわけなんですね。
いわゆる今で言うと54メートルぐらいにあたるんですけども、
もしかすると、今水害で壊れて復旧してますけども、江戸時代にこの数値を参考にするのも、
もしかすると54メートルの合わせて、2箇所合わせて108メートル近くの石垣があったんじゃないかなと。
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そうですか。今見える部分では半分にも満たないような感じがしてますけどね。
そうなんですね。だからもともとの大規模だったのはどうしても水害で崩れてしまって、
実は今私たちが立っているちょうど登山道の真下に小石垣があるわけなんですけども、
これも実は水害などで被害を受けまして、それをきれいに修復したものにあたるわけなんですね。
なので、もしかするともともとはもっと小石垣とはいえども、かなり大変大きな規模を誇った石垣があったのかもしれないと考えられている場所になっております。
途中でやっぱり少し崩れてますもんね。
そうですね。現場見ていただくとやっぱり水害の影響で石材が散らばっているんですけども、
この小石垣、大変立派に残っているんですけども、この小石垣のそばには縄文もあったと考えられているわけなんですね。
そうですか、縄文も。
いわゆる小石垣にあった縄文なので、小石垣縄文跡と呼ばれるんですけども、
門の跡自体はなかなか詳しくわかっていないんですが、実は小石垣から下を見ていただきますと、大きな石が実はかつて案内板があった場所にあるんですが、
そこに、本当だ、2、3メートルくらいの石がありますね。
小石垣から見下ろすと、あそこに大きな石がポンと置いてあるんですが、あれは小石垣の縄文の組織と言われているものになるんですね。
あそこに、じゃあお城の門があったということですか。
そうです。おそらく、この土塁に石垣のそばにあって、川で流されてあそこに見つかって、今はあそこに置いてあるということで、
もともとはやっぱり土塁戦場にあったものだと思われるんですけども。
今置いてある門の組織ですけども、その門の組織はこの石垣からかなり離れて、ちょうど平行になった部分があるんですが、谷の底みたいなところにありますね。
その向こう側に川が流れて、そしてそこからまたぐーっと山が続いてまして、その大きな山が4、50メートルくらいあるような山が目の前にあります。
そのちょうど谷間のところにお城の門の跡があるということで、これは絶好の場所ですね。
そうですね。何気なく通ってしまうと見逃しそうですけども、ここにかつ城門があったと、そういうことを教えている土塁がどんどん置いてありますので、ぜひ皆さんご覧になっていただきたいと思います。
それではせっかくなので、その土塁が置いてある方に降りていこうと思います。
では、土塁のありますところに降りていきます。
今日は2、3日前の雨のせいで、雨が残っていたんでしょうか。下が抜かれておりまして、非常に危険な状態ですね。
これを滑らないように降りていきます。
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ここから今ちょうど降りてくる途中ですけども、小石垣というのを振り返ってみますと、やっぱりですね、石垣としては4、50センチくらいの大きさの石をずっと下から積み上げていったという感じですが、
残っているのはだいたい10メートルくらいですかね。幅がやっぱり10メートルくらい。そのくらいの石垣が残っている感じですね。
あと下の方は崩れていっているという感じです。
下に降りてきましたら、目の前に先ほど紹介しました門の後の石が、そんなに大きくありませんでしたね。
横1メートル半くらい、縦1メートルくらいのところに四角い穴が2つ開いているという、そういう石です。
ちょうどですね、先ほど上を通ってきました小石垣を、ちょうどまた綺麗に眺める場所になるんですけども、こちらに置いてあるのが小石垣縄文の組織と考えられている石でございます。
先ほど申しました江戸時代の旧石全図の絵図にもですね、実は門の石据えということで、実はその時分かっていた組織というのが地図にいろんなところに書いてあるんですね。
で、門の石据えと書いてある組織で、この小石垣縄のところにも実は書いてありますので、江戸時代からたぶん存在が。
場所的にですね、詳しくお聞きすると実は近くの川のところから見つかったということなんですね。
なのでおそらく土類船場の縄文にあったのが水害で川に流されて、それが見つかったので現在はちょうどいい場所に移動しておいてあるということで。
残念ながら詳しいことはですね、縄文の移行なんかまだまだこれからなんですけれども、そばにはちょっと老朽化してしまっておりますけれども、小石垣のイメージの絵がついたご案内とご紹介のものがちょっと。
看板の残骸が落ちてますね。
小石垣は城の東北部にあり、二重土類の内側の石類であると。石類はほとんど崩れてしまったが、上の橋幅5メートル、高さは10メートル、やっぱり高さが10メートルぐらいですね。
両岸の間が30メートルほどで水門もあったのだろうと。
現在見えている部分は小さな部分で一部分ということで、それに続く右側に大きな石垣があったんだろうという、そういう絵が描いてあります。
これは小石垣復元図という絵で。もったいないですね、これきちんと直してはいかない。
今後整備が進むと思いますので。
ということで北側にですね、訪れまして、まず北側の縄文と石垣、小石垣、縄文と石垣をご紹介させていただきました。
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ここで下に下ってきましてですね、先ほど津川さんがおっしゃる小さい川を渡りますと、この高い尾根ですね、これが実は土塁になってまして。
土塁ですか。
この高い方の山道を行きますと、実はもう一つ石垣と縄文がございます。
そうですか。
この高い尾根前を行きますと、実は北石垣と北石垣縄文と呼ばれる、その石垣と縄文が実はこの尾根を上っていたちょうど百軒石垣までの中間ぐらいにあるわけなんですね。
こちらの北石垣と北石垣縄文というのがちょっと特徴がございまして。
北石垣なんですけども、実はですね、こちら今ご紹介した小石垣がいわゆる川が流れる谷を塞ぐような感じなんですけども。
北石垣の方はちょっと尾根向きが違いまして、尾根の先端に掛かるような感じで、張り付けてあるような石垣であるというふうに調査で分かってまして。
おそらくですね、例えば防御のためだけではなくて、ちょうど多分ですね、今木々が覆われてますけど、おそらく1350年前木々がなければ北からやってくる敵に対しての非常に見渡しのいい場所に位置してますので。
こう部位を見せつけるというかですね、まさに大野城の堅固さを見せつけるような、そういう見せるための石垣でもあったんじゃないかなと。
そういうふうにも言われている石垣でございます。
役目が違うという、敵に威嚇するような、こんなに堅固なんだぞという、そういう石垣だったと。
そういう石垣だったのではないかというふうにも考えられるわけなんですね。
その木体石垣の側にはご紹介した木体石垣城門が、城門の設けられていたそうなんですけども。
この門がですね、ちょっと普通の門と違いまして、これまでご紹介した太宰府口城門などは普通に平坦な道に門が設けてあったんですけども。
こちらの木体石垣城門は調査されたらですね、実は平坦ではなくてですね、やってきた道のちょっと10メートルぐらい崖を作りました。
その上に門があると。
で、普段の出入りはその段差にですね、はしごなどをかけて出入りするという。
いわゆる、これ専門家の方は懸門というか、かける門というふうに言うんですけども。
懸門構造だったというような、そういう城門だったらしいというふうに言われています。
そうですか。また城門もちょっと違うんですね。
そうなんですね。
当然はしごをかけて出入りするので、普段はやっぱり人もそんなにですね、大量に移動できませんし、物を運ぶのも大変ですけども。
いざ敵が来たらそのはしごさえ取ってしまえば、もう10メートルの高さを上ることは敵ができませんので、守りに関しては非常に強い城門だったというふうに言われています。
そうですか。いろいろ考えて作ったのですね。
まさに1350年前の人々がいろいろ工夫というか技術を使って作ってるんですけども。
さらにこの北石垣城門で特別なというか注目されるのはですね、実は平成15年の水害を受けてですね、その時の調査で確認された城門なんですが、
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実はですね、門の素石とともに門の柱を支える軸を受ける金具、鉄製の金具が実はそのまま出てきたという、非常に門の構造の部品がそのまま出てきたという非常に珍しいものなんですね。
実際その鉄でできた門の軸を受ける下の金具なんですけども、だいたい25センチくらい、25.5センチくらいでして、重さが12.8キロあるそうなんですね。
で、九州歴史書さんが調査したんですけど、まさに1350年前の門を実際にどう構造して使ってたのかっていうのがやっぱりわかるものがですね。
鉄製品もなかなか残りづらいんですが、まさにその貴重なものが出た城門ということでして。
この小石垣からですね、ぜひ奴隷戦場、川を渡って尾根城に上がって行かれますと、その北石垣と北石垣城門が残っておりますので、ご覧いただければなと思うんですが。
すいません、この時ちょっと私足を痛めておりまして。この川を渡りまして左の尾根に上がりますと北石垣なんですけども、実は右手の方にですね、保守管理用のアスファルト道路がずっと百軒石垣まで続いてますので。
今回はちょっとそちらの方をお返しながら見どころをご紹介していきたいと思います。
そういうことで、小石垣というのを見てきました。
小石垣を見まして、今度は百軒石垣を目指して石垣を下へ降りてきますと、途中綺麗な滝が見えてきました。
さて、こうやってですね、子たちの間を歩いてきますと、水音がちょっと激しくですね、大きめに聞こえてきますが、こちらがあゆ帰りの滝と呼ばれる。
あゆ帰りの滝、あゆは帰ってきた。
帰ってきた、おそらく登ってきたあゆが帰ってきたんじゃないかなと思うんですけども。
ちょうどですね、道の左側。
ここから左下に見えますね。
あ、ここから下へ落ちている。
そうですね、どのくらいあるんですかね。
4、5メートルはありますね。
そうですね、段差がどのくらいあってきれいに水がですね、流れをしております。
だいたい1本か2本か3本、4本くらいに分かれて、上から滝に乗って落ちています。
きれいですね。
そうですね、塩地山というのが水が豊富な山ということでお話してきましたけれども、
まさに先ほどご案内しました小石垣の方からずっと内部から流れてきた水がちょうどこの滝で流れ落ちまして、
さらに北側の海町の方に流れていくという、なかなか山の中に立派な滝があるというのも少ないかもしれないんですが、
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塩地山の水の豊富さを示すですね、非常に美しい景観になっております。
大変美しい景観なので、実は江戸時代の33石仏の札書にもなってまして、
実は崖の方に20番札書が祀られてまして、
こちら側の下の方にですね、後の時代に別の20番札書とした参法公人様とかが祀られているということで、
実は川沿いにはたくさんの石仏なんかも祀ってあるという、そういう信仰の場ということでもですね、
古きから大切に支えてきたようなんですね。
この滝がずっと流れていく先の方ですね、だんだん少し細めになってますが、
滝の幅としては3メートルぐらいかな、そこ滝が流れていってますが、その両岸にそういう仏様がある。
はい、あるのでちょっと下って行って、正面からちょっとその様子を見てみようと思います。
このお陶器。
滝の下の方へやってきました。
滝から100メートルぐらい降りてきたんですが、下から見上げられるという場所に来ました。
ああ、これは素晴らしい。
道沿いから見下ろすとまた美しかったんですけど、また正面からですね、来ていただいて見上げていただくと、
より大きさというか雄大さも感じられて。
そうですね。
本当に最終に、小沢にこんな素晴らしい滝があるんだというのがちょっとびっくりするぐらいなんですけど、
まさにこんな立派な滝が当面で、大変豊富な水流を誇って流れている。
これが湧き上がりの滝でございます。
そうですね。下から見上げると10メートルはあるなという感じがします。
そして上の方からちょうど4筋ぐらいの分かれ、水が流れ落ちているという感じですね。
なんか現在の私たちも滝を見るとなんか癒されるというかですね、感じるものがありますけれども、
やっぱり江戸時代の方々もそうだったようでして、
実は津川さん、滝の流れている、ちょうど真正面の上のところに岩壁の岩肌に四角く囲って観音様があるのが。
見えます。
あれがですね、四字浜33石仏の20番札所の仏様だそうなんですね。
まさに滝の見守るかのような岩壁に作られているということで。
ということは、あそこまで歩いていく道もあるんですね。
おそらく滝を回り込んでですね、行くんでしょうけれども、
やっぱり江戸時代の方々にとってもやっぱりここは真正面の場所ということで当てられたんだろうなと。
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特に両サイドにもありますよね、仏様がね。
そうですね。
正面の江戸時代の20番札所以外にも、例えば左側見ているとさまざまに仏があってですね、
下の方にもね、仏像が、1、2、3、4、5、20、30くらいの小さな仏像がありますね。
まさにといって修行の場というかですね、祭行などをされる信仰の場というか、
左側だと、右側にもですね、こうやってお祭りがされていたりします。
本当だ。
仏様が本当にたくさんありますね。
やっぱりさまざまな方が、やっぱりこの場所がそういうちょっとおごそかな場所だということでですね、
祭られたと思うので、ぜひこの塩路山を巡る際にぜひ立ち寄ってですね、
皆さんも少し癒されていただければなと思うところです。
今週は塩路山にある大野城跡の小石垣を歩きました。
この後、百犬石垣へ歩いていきます。
ご案内は、古都太宰府保存協会の学芸員、田中健一さんでした。
ここで、古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
今日は、福津市の歴史資料館の面白い企画展をご紹介します。
福津市カメリアステージ歴史資料館で、3月の10日まで、
古代ガラスとつや崎古墳群という企画展を行われています。
古代ガラスですか。
あのね、この古代ガラスって弥生時代とか古墳時代くらいの遺跡から出てくる古いガラスのことです。
このつや崎古墳群が作られたのが、大体5世紀から7世紀くらい。
このつや崎古墳群プラス、福津市内の遺跡から出てきたガラスをじっくり見ることで、
当時の交易とか交流が、一体どこからもたらされたもんだろうなっていうのを考えましょうという企画展です。
というふうに教えてくれたのが、福津市教育委員会文化財課の井浦恵さんなんですが、
井浦さんおっしゃるんです。
いや、今回ね、綺麗なガラスがどっさりじゃないんです。
成分別、タイプ別に1種類ずつ展示してるんで、ちょっと地味なんですけどねっておっしゃるんですが、とんでもない。
あのね、これブルーベリーですか?みたいな、コロンとしたブルーベリーの実みたいなガラスがあったりとか、
その綺麗な青色、水色、黄色、こういうガラスがね、並んでるんですよ。
で、実はこのガラスの化学素性を調べると、ガラスの元々、ガラスの塊っていうのを作るときに、原材料がどこから来たのかなっていう、一時生産地が分かるっておっしゃるんです。
で、これがね、大きく5タイプほど、日本の国内にあるガラスって分けられるそうなんですが、1つはその中国エリアで作られたガラス。
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それから、エトナージアから中国の南部、今で言うとタイとかミャンマーとかベトナムもちや、このあたりで作られてるのが1つある。
さらにこう、南東南アジア、インドあたりで作られたの。
まだまだ、西中央アジア、今で言うとイランとかアフガニスタンとか、ほら絵が来たでしょ?
広いですね。
でしょ?ところがところが、さらに地中海沿岸、シリアとかエジプトあたりで作られてるガラス。
この絵がね、分けられるんですって。
で、これらガラス玉について、由良さんがこんな風に教えてくれました。
貴重ではあったんですけど、大量に流通してるんですよね。
多種多様なガラス玉がですね、大量に流通してるので、古墳からガラス玉が出るっていうのは珍しくはないですよね。
なので、割とありふれてる感があるんですけど、改めて調べると結構な遠くからですね、運ばれてきてて、
あ、シルクロードと関係してるんだって改めて認識するということで、割と海外からにしても近いところからじゃないかな。
大体朝鮮半島からもらったとか持ってきたとかいうことが当時の貴重品多いんですけど、
さらに西の方と繋がってたっていうのは。
5世紀から7世紀の不屈に伝わってるけども、作られたのはもっともっと前かもしれない。
このシルクロードずっと移動している年数プラス作られた現場での年数。
だからね、本当にどのくらい前の人たちが作って運んできたのか、ロマン広がりますよね。
そして僕も今、世界史学び直ししてますっておっしゃってました。
他にもですね、インドパシフィックビーズって言われる不透明の赤色のビーズに混じってガーネット、宝石が入ってたりもする。
こういった面白みもあるんです。
不屈だからっていうだけじゃなくて、全国的傾向がガラス製品あるそうなんですが、こんなこともおっしゃってました。
つやたき古墳群の、例えば勝浦美音の旗古墳とか、100メートル級の前方公園墳ですね。
鏡もたくさん出てるとか、そういった沖の島とのつながりを感じさせるような、
沖の島祭祀を行ったであろう、胸形一族の豪族の首長の墓。
そういったところから沖の島に奉納されている、こういうインドパシフィックビーズですよね。
こういったのが集中的に出るんですね。
こういったのはその他の古墳からあまり出ないですね、大量には。少しは出ますけれども。
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つやたき古墳群は、やっぱり沖の島と関係あるんだなというのが、ガラス玉を見てもわかると思います。
面白いんですね。
ガラス玉からいろんなものが見えてくるんですね。
貴重なものも、最初は大型の力のある人のお墓しか出なかったようなガラス玉も、
時代が下がっていくと、わりとちっちゃめなところからも出てきたりして、
こういうふうな価値の一般化みたいなのも読み取れるので、ぜひ3月10日まで行われています。
福津市カメリアステージ歴史資料館でガラス玉研究してください。
中島理恵さんでした。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの古代の福岡を歩くのバナーをクリックしてください。
また、ラジコ、アップル、スポティファイ、アマゾン、ユーチューブなど各ポッドキャストでもお楽しみいただけます。
この番組は道の駅村方、餃子のヤマハチの提供でお送りいたしました。
ご案内は坂田周代でした。
落語家の立川翔子です。
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立川翔子ニュース