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古代の福岡を歩くシーズン7 遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン7 この番組は
宮益の企画協賛 餃子の山八
道の駅室方の提供でお送りいたします こんばんは坂田集大です
かつて我が国を訪れた外国のお客様が航路間からまっすぐ 太宰府西門へ入り、そして太宰府成長を目指した古代官道水城西門ルートを歩いています。
ご案内を、こと太宰府保存協会学芸員の田中健一さんにお願いしています。
西門を出発し、県道31号線の杉塚交差点を左折しました。 いよいよ太宰府成長があった徒浦へと向かいますが、途中、住宅地の中に寺院の跡がありました。
杉塚廃寺跡と言います。 今週はここから歩きます。
杉塚廃寺跡は、建物の基段、土台が綺麗に残っていて、50メーター四方ぐらいのところに、2メーターぐらいの嵩上げしたところに基段があって、建物の座席の跡ですね。
杉塚廃寺と呼ばれている場所なんですけども、こちらの白鳥山の方ではその建物の基段ですね。
そして鈴木の方が、もともとから位置が変わらないものが4個と、新しく移したりされたものが7個で、今11個ありますけども、大体この広さがですね、南北におよそ5.4メートルほど、
東西に3.6メートルほどという範囲なんですけども、実際にはこの建物が今は住宅街で切れてますけども、さらに東西とかですね、それぞれの方向に広がっているので大変大きい建物だったと。
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こちらの寺院としましては、おそらくですね、発掘の見解では7世紀の末頃から8世紀の初頭にかけて混流された古代の寺院であろうということでして、
ちょうどこちらの白鳥山の方では老寺式の丸瓦とか平瓦も出ておりますし、ベルトの飾りですね、石体なんかも出てきてまして、まさに大変組織立ちの大きな建物も建っていたので、
こちらの建物の跡は混同化、高同化寺院の中心の建物かなと考えられているんですけども、まさしく古代においてこの地にはですね、大変立派な寺院が建っていたというのが、この発掘調査で分かっている場所ですね。
聞くところによりますと、太宰府の西南にあるということで、裏鬼門とか言われる道であるんですか?
そうですね、太宰府西庁から見ますと、ちょうど西南の方にありまして、東北の方は釜戸神社、法満山がありまして、鬼門だというふうに伝えられていますけども、その反対側の裏鬼門の方に当たる場所には位置していますので、そういう役割を持っていたかもしれない寺院の一つですね。
ちょうど太宰府水城西門からですね、まっすぐ来たところになるわけですよね。ですから周りにあまり家が当時はなかったと思われますので、大変目立った寺院だったかもわかりませんね。
そうですね、水城西門からまっすぐ、先ほど99時調査まで来ましたけども、ちょうどお寺の東側を古代官道がずっと通過していたわけですので、おそらくやはり当時古代官道を通った人からは大変立派なお寺の様子が見えて、大変注目される場所であっただろうと。
太宰府のこの南西と言いますか、西南の方には古い寺院がたくさんございまして、一番有名なのは武蔵寺と言いますか、天拝山のふことの武蔵寺様はやはり古くからお寺で知られていますし、この杉塚廃寺から少し行ったところには唐の春唐跡と言いまして、唐の祖跡がですね、交差点のそばに残っているんですけども、
なので太宰府の南西地域にはそういう寺院群があって、一つの信仰の場と言いますか、大きな役割を持っていた場所、その中にあった一つのお寺の跡というのが杉塚廃寺ということで、今こちらの開設板等も整備されていますけども、現在築志の市の指定史跡ということで大切に保存されていまして、紹介の看板なども置いてありますので、
ぜひ古代の人々が眺めたであろう杉塚廃寺の跡をぜひ皆さんも訪れてご覧になっていただければと思います。
建物の組織の跡が綺麗に図に書いてありますので、建物は想像できやすい図説ですね。
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そうですね、全ての長方形の多分大型の建物があっただろうということですね。
最初に目にする、おそらく朝鮮あたりから渡ってきた方たちが目にする建物、太宰府の一番大きな建物だったかもわかりませんね、当時としてはね。
そうですね、水木を抜けていきますと、最初に太宰府に差し掛かって、ちょうどこのあたりからですね、東の方へと折れて私たちは進んでいくわけなんですけども、
古代の外国施設もですね、水木を通って太宰府に徐々に近づいてくる中で最初に目にする大変立派な建物、それがこの杉塚廃寺だっただろうというふうに考えられますですね。
そういったところが杉塚廃寺です。
ここでですね、先ほどお話ししました古代貫道がどう進んでいったかという考え方があるんですけども、私たちはこの杉塚廃寺の側から東の方にまっすぐ折れまして、太宰府の城門、南の出入口、西門の羅城門、その跡があったんじゃないかなと言われる場所に向けて東の方へまっすぐ進んでいきたいと思います。
なるほど。まだ先ずっとまっすぐ伸びる道があったのかもわからないですね。
そうですね。もしかしたらこのまま伸びて、今で言うと畜種のインターの入り口の武蔵野交差点とかありますけども、穴あたりまで行って、そこから真北に折れて、二階町温泉の側を通って羅城門にまっすぐ入ってくる可能性もありますし、京都を通りますように杉塚の辺りから東に折れてショートカットで一直線に羅城門にそのまま突き当たるということも考えられますので、ぜひ皆様それぞれイメージして歩いていただければなと思います。
それではショートカットしまして、羅城門と言われる場所。え、え、羅城門って何?と言われるかわかりませんが、その説明は後ほどあると思います。
それじゃあ行きましょう。
杉塚肺寺から徒浦方面へと向かっています。昭和町の交差点へ向かって歩きます。
で、あの先ほど津川さんと言いまして、杉塚肺寺の後からですね、そしてそのままずっと東の方にちょうど杉塚交差点とですね、二階地の昭和町交差点を結ぶ広い片側車線の道路が走ってるんですけども、それに沿って東にずっと進んできました。
で、実はこの道路の少し北側がですね、太宰府城坊の南の橋という風に考えられている場所なんですね。
太宰府の古代の街並みと言いますと、あの唐の長安などに倣いまして、奈良の平城京や平安京の五番の目が引かれていました。
城坊制というですね、引かれておりまして、現在諸説出てるんですけども、現在のところ一区画が90メートル四方、そして太宰府は北から南はですね、横の列、城が22城。
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そして真ん中にこれから歩きます、須賀王子が走っていまして、東側、太宰府城長が見ている、いわゆる左角の方が12坊、12列。
で、王子を中心として左側ですね、西側の方に右角が8列、8坊あったと考えられています。
で、今ちょうどですね、津川さんと東の方に真っ直ぐ走ってますけども、この道路の少し北側部分が太宰府城坊の22城、いわゆる南の端の際になると。
なので城坊の街並みの南に沿った道をですね、間道をショートカットしてお越しになる場合は、杉塚のところから、そして城坊の22城の南側の道をこうずっと来て、こちらの方に進んでいくわけなんですけども。
ちょうどその道を進んできますと、津川さんのスクシバスのバス停があるんですけども、このあたり、実は書いてあるですね、この通りは太宰府22城にあたりますと、ひっそりと実はPRがしてあります。
ああ、もう消えかかってますけどね。
この通りは太宰府22城ということですね。
ああ、そういうふうに書いてあるのが欠けてあったんですか。
もうなんかね。
ちょっと色がどうかしてしまって。
あれはちょうど水槽ですかね、そのところにあるんですけども。
実際に竹下市教育委員会さんが試掘をされたらですね、ちょうどこのバス停の奥側に駐車場が広がってまして、少し小さい公園がありますけども、あのあたりからやはり東西に走る道の跡が確認されてますので。
城坊の跡が出てるんですね。
現在の道の真上ではなくて少し北側ですね。
ここをいわゆる22城の太宰府の街でも一番南の橋の道が通っていたと。
あの道をずっとたどっていきますと、この先に南の正面口、都でいうラジオ門があったんではないかなということで、さらにこの道沿いに進んでいきたいと思います。
はい、わかりました。
ここは、この通りは太宰府22城という看板があったのに全く気がつきませんでした。
ちょっと色が薄くなってますのでね、気がつきにくいですよね。
そこを今から通りまして、ラジオ門の方に歩いていきます。
太宰府にはかつて城坊が敷かれていました。
その城坊の南の橋、22城を歩き、ラジオ門へと向かいます。
JRの踏切を渡りました。
津川さんと道をですね、東の方へ進んでいきます。
ちょうどJR鹿児島本線の踏切を渡りまして、すぐもう正面には昭和町の県道112号線とあたる昭和町の交差点が見えてるんですけど、
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踏切を渡ってすぐですね、北に折れる道があるんですね。
この道に入って少し進んでいただきますと、
実はこの場所から真北にですね、太宰府省庁跡が位置している場所なんですね。
先ほどお話ししましたように、太宰府城坊の22城、いわゆる街並みの南の橋ですね。
その線とですね、そして真北から来る太宰府省庁の線を計算で合わせますと、
ちょうどこの鹿児島線の踏切を渡って少し北に入ったぐらい、この位置に太宰府の南の西門、
都などでは小説などでも羅城門として有名ですけども、
その太宰府においてもその羅城門のような立派な門がこの場所にあったんではないかと考えられている場所にあたるわけなんですね。
竹下一さんの調査などで、現在ですね、その門の跡と思われるものはまだ見つかってないんですけれども、
他の地域の発掘調査での計算とかですね、あるいはそういう古い小技なんかを調べてみますと、
この辺りに城坊の22城説で行きますと、正面の羅城門がこの辺りにあったと思われる場所がこの立っている場所になります。
ラジオというのはね、太宰府を中心にその周りをぐるっと回るような形で、
神戸市なんかがたくさんありますけども、そういう太宰府を回るようなラジオというのがありますね。
ひょっとしたら昔あったのかもわからないし、なかったのかもわからないという。
そうですね。中国の町並みなんかで言いますと、皆さん例えば時代劇だったり三国志なんかで思い出していただくと、
町自体を城壁に囲むので、中国の都なんかで言ってもあれが羅城にあたるわけなんですね。
その羅城に築かれた正面の門なんで羅城門などと呼ばれたりしますけども、
太宰府の場合で城坊の町並み、日本全体もそうなんですけども、町全体を中国のように高い城壁に囲むというようなことはしておりませんので、
太宰府の場合におきましては、この羅城門というのは中国や京の奈良や京の都になった名称に合わせたものかなと。
太宰府の羅城の場合ですと、いわゆる外国防衛戦ですね。
いわゆる、太宰府の北にある大野城、水城、貴城、それをぐるっと結んだ防衛ラインが太宰府の外側の地域に築かれていたのではないか。
そういうのが太宰府の羅城があったんじゃないかということで、今も調査が進められているところですけども、今後の研究の進展を期待したいところですけども、
この場所の羅城門につきましては、まだ門の存在も確認されていませんし、名称も詳しくわからないんですけども、
間違いなく太宰府の南の西門、いわゆる航路観覧機や外交施設が通過して、太宰府がいよいよここから街並みの中なんだと認識させるような立派な門がこの辺りにはあったと考えられています。
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そういった場所です。
ひょっとしたら羅城門というのがあったんじゃないかなというようなところに立っております。
ということで、いよいよこれまで古代関道を歩いてきました。
ここからは太宰府の街並みへと入っていきまして、太宰府の街並みの中心になりました。
作られた時、幅が36メートルという大変大きな幅の道があったんですけども、その都になって現在、須作王子と呼ばれていますけども、
この正面の門を過ぎて、いよいよここからは太宰府の街並みの中、須作王子の跡をたどりながら津川さんと太宰府県政庁跡まで歩いていきたいと思います。
今度は須作王子の方に入っていくということですね。
まさに航路観覧機を出発して、外国の施設は太宰府を目指してきたんですけども、その後同じようなルートを津川さんと一緒に歩いてきまして、
いよいよ外国施設といよいよ太宰府の都に入ったということでですね、大変印象深い場所だと思うんですけども、緊張が走るところですね。
こういう太宰府の街並みにも、当時の大きな道筋の痕跡というのが残っていますので、そのあたりを見ていきながら、太宰府政庁をいろいろ見ていきたいなと思います。
ということで須作王子へ向かっていきます。
県道112号線が出まして、六反の信号から西鉄二日市の駅の方へ歩いてきました。
そして途中小さな小川が流れているところまで来ました。
西鉄の二日市駅の近くまで参りました。近くに佐吉田川という小さい小川が流れておりますね。
先ほどご紹介しました六反の交差点からですね、県道の35号線を西鉄二日市の駅の方に歩いてまいりました。
そうしますと途中にですね、駅の手前にですね、交差点がありましてちょうど佐吉田川に橋が架かっているんですけども、今回古代寒道を歩くということは古代の道なんですけども、ちょっとせっかくなので道つながりで江戸時代のお話に少しちょっと飛びますけども、
実はこの交差点の佐吉田川のところで交差して、西鉄二日市駅に向かって左手から右に抜けていく道筋、これが江戸時代の街道、北海道なんですね。
北海道といいますと、福岡城下から出発しまして博多を経由して田財布、そしてこの交差点の右手側がいよいよ二日市宿ということで宿場になりまして、その二日市を通って朝倉や八木、そして最後は北の大観賞まで行くという江戸時代の道筋なんですけれども、ちょうどその道筋と交差するのがその交差点の場所になっているところなんです。
そうですね、少し歩きましたね、北海道。
そうですね、少しご一緒しましたけども。
あれが伸びてる。
はい、ずっと伸びてきて、それがちょうど渡るところなんですけども、ちょうどその北海道がですね、佐吉田川と共に県道と交差している場所、こちらがですね、入船と呼ばれている地域で、場所でございまして、入船といいますと、出る入るの入るに、川、海の船なんですけども。
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福岡がこの辺りまで来てたということですね。
はい、実はそうなんですね。
実は江戸時代におきまして、朝倉地方とこの博多の方の物流、いわゆる年熊井等の輸送を行おうということで、実は大規模な運河が計画されたわけでして、当時、太宰府や朝倉の商業さんたちが出資して計画したものによると、
ちくご川から水を引いて、そして朝倉を通って、そしてこの二日市まで大運河を掘ると。そしてこの二日市まで来ますと、今目の前を流れています佐吉田川がありますので、二日市からはこの佐吉田川を利用して博多まで、福岡城下まで年熊井を運ぼうという大変壮大な計画が立てられたわけなんですね。
年熊井を運ぶね。
当時、なかなか大工事でございましたので、四国川からここまで、二日市までの運河というのは計画だけで終わってしまったんですけれども、実際にこの四国市の入り船から、そして佐吉田川を使って博多までのいわゆる川船の運航は行われたわけなんですね。
その行き来した川船の船がここまで入ってくるから、入り船というふうに言われたと言われています。
この地域の、ちょうど対岸辺りには米蔵なんかも建てられまして、当時ですね、馬だと左右に2票米田原なんですけれども、当時の記録によると川船だと30票詰めたということなので、馬は15頭分のあれだったということで、対岸こちらの畜生の地域と博多地域との物流の運搬に重要な役割を果たしたということなんですね。
それがこの川だったんですね。
この佐吉田川なんですけれども、ただご覧になっていただくと、今の佐吉田川も水量が少ないんですね。
たくさん流れているわけで、江戸時代も結局ですね、運が川船を運航したのはいいんですけれども、結局水量が少なくて、土砂が堆積したり、なかなか川船の運航に支障が出て、実は短命で数年のうちで終わってしまったということなんですね。
その後何度も計画はされたんですけれども、最終的にはなかなかうまくいくことができなかったということなんですけれども、かつてこの畜生と博多を結ぶ江戸時代の名残がこの場所にあるということですので、ぜひ知っていただければと思います。
川口にはいろんな石碑が建っておりますね。
こうしん図か。
そうですね。
何かもありますね。
こうしん尊典の碑とかですね。
あとは、複数掛かっている橋の金流記念碑なんかも掛かっている場所ですね。
そういうふうに昔はね、ここで船の行き来があったんですね。
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江戸時代の街道と、そして運が川筋の水運の交通の要所がこの畜生地宿ということでございます。
はい、そういったところです。
詐欺田川という名前は、かつてこの川に詐欺がたくさんいたのではないかと想像させる名前です。
この川は畜生市から太宰府市を流れ、三笠川に合流して博多湾へと流れ込む河川です。
この川を越え、いよいよ太宰府城坊の中に入ってきました。
須賀王子は目の前に迫ってきました。
来週も太宰府城庁跡を目指して歩きます。
ご案内は、江戸太宰府保存協会学芸員の田中健一さんにお願いしました。
津川ディレクターと歩きました。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
今日は海の道室方館で2月27日まで行われています特別展。
海人王国室方、海の人の王国と書きます。
海人王国室方古墳時代の交流と繁栄。
これをちょっとご紹介しようと思っているんです。
世界遺産神の宿る島、室方沖の島と関連遺産群5周年のプレイベントとして開催されております。
この展示会、室方市世界遺産家文化財係の太田聡さんに案内をしてもらいました。
今回のポイントは大きく3つなんですが、
室方の人たちが乗った船はどんなのだったのか、展示を通しています。
船に乗ってどこに行っていたのかというのを見せる。
そしていろんな地域との交流を通じて、室方の人々が手に入れたものを見せる。
パッと見キャッチーなものもあれば、噛めば噛むほど面白いみたいなものもあるんですが、
今日はパッと見からキャッチー編に行こうと思います。
いいですね。
まずはポスタービジュアルにもなっています。
水裏神の神仏葉庭というのが出ております。
これは太田さんのお気に入りでもあるそうなんですが、
小ぶりの目とおちょぶ口、三角に尖った鼻。
眉のところから目にかけて少し落ちますよね。
この角度が見事に出ている葉庭なんですよ。
素朴なぬるんとしたお顔立ちの葉庭ですね。
なんとなくキャラクターっぽいというか、
職場に一人くらいこういう顔の子いるよねっていう、
そういう和み系の顔なんですよね。
よくよく見ると、水裏神、耳の横で髪を束ねますが、
それゆえにセンターパートでピーと前髪が分かれます。
その分け目もしっかり描かれているという。
これは水裏神なんですね。
耳が大きいのか、それとも手を添えているのか、
なんだろうかと思っていたら、髪の毛なんですね。
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草のように側面についてますけどね。
とっても面白いこの人物葉庭が入り口で迎えてくれるわけなんですが、
部屋のちょうど中央に一番重要と言われるものがありました。
復元された黄金の靴があるんです。
すごい。金色のスリッパですよ。
飾りに履くと書いて食履と言うんだそうですが、
キルティング風の格子ステッチがついてたりとか、
ひらひら飾りがいっぱいの足の甲のところに飾りでついてたりするんですね。
眩しいですね。
ムタジリというところの古墳から出たんですけど、
現物はもちろん劣化してますから、
でも靴底の部分とか足を覆う部分のパーツがはっきり分かるんですよね。
太田さんがおっしゃったのが、この飾りについての謎です。
これ何が重要なのかというと、
日本では20例ほどしか発見されていないんですよ。
日本では年間8000件以上、7000、8000件の発掘調査がされていて、
数十年、40年とか発掘調査がずっと続いているわけですから、
28万件とかぐらいはずっと発掘調査をしているんですよね。
28万件中に20点だけなんですよ。
確率でいうと0.00001%ぐらい。
奇跡でも起きない限り出土しない黄金の靴が、
なぜか胸肩から出てきたんですよね。
貴重ですね。
これを持っている人たちというのは、
総理大臣を含む大臣クラスとか県知事レベル、
こういった人物のお墓から出るんですが、
胸肩の場合は違うんですよ。
どういう古墳から出てきたのかといいますと、
13メートルぐらいの遠方から出てきているんですよ。
ランク的にはそこまで偉くないんですよ。
それがちょっと特殊でして、
他の19例は、のきなみ偉い人のお墓。
こっちはどちらかというと、僕ら的な普通の人のお墓。
なぜこのムタジリの古墳の被葬者が、
なんでこんなトップクラスの製品を持っていたのかというのは、
まだよく分からないですね。
せっかくなので、私と太田さんで適当に理由を推測ごっこしたんですけど、
例えば偉い人の思い人が亡くなって、
偉い人からお供えとして仕事を送られたんじゃないかとか。
ありそうですね。
持ち主が、手にしたときはすごい力を持っていたけど、
後に落ちぶれていって、このサイズのお墓になったとか。
それから偉い人の持ち物を託されたものの往領したとかですね。
見てるだけでワクワクしちゃうんですよね。
この職人の真後ろに、裏メニュー的に、
太田さんもこれも言っておかなきゃ忘れるところだったというぐらいそっと置いてある、
謎の金色の塊があるんです。
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本当に金色残っていて、輝きを残した飾りっぽいもの。
ひらひらとした保養と言われる飾りがなんとなく見て取れるんですよね。
大部長というところから出たんだそうですけど、
こんなのがあったんだという感じ。
でも実は20年以上に出たもので、大切に保管されていたものを今回出したそうです。
こんな話も聞かせてくれました。
本当は博物館というのは、正体がわからないものってあんまり展示しないんですよ。
正体、初めから答えを教えちゃうと、ロマンってちょっと半減しちゃうんですよね。
今回、あえてわからないものをわからないといった上で展示しているんですよ。
これが何かというのをちょっと皆さんに考えていただければなと思います。
なるほど。
海の内、胸カタカンで楽しんでください。
なお、新型コロナウイルスの感染状況によっては今後臨時休館の可能性もありますので、
確認してお出かけください。
中島理恵さんでした。
番組からのお知らせです。ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの古代の福岡を歩くシーズン7のバナーをクリックしてください。
また、ラジオクラウドという無料アプリをダウンロードすれば、スマートフォンやタブレットでもお楽しみいただけます。
この番組は、宮益の企画協賛、餃子の山八、道の駅胸カタの提供でお送りいたしました。
ご案内は、坂田修大でした。
数学教師芸人の高田先生だよー。
高田先生の算数ワクワクラジオ。算数が不安なあなたを算数ファンに変えるポッドキャスト番組です。
Apple、Spotify、Amazon、ラジコなど各種音声プラットフォームで配信中。
4649よろしくー。