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古代の福岡を歩くシーズン7 遥かな昔、海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました。
その足跡を尋ねる古代の福岡を歩くシーズン7 この番組は
三山市の企画共産 餃子のヤマハチ
道の駅胸形の提供でお送りいたします。 餃子のヤマハチです。三山市で育ったセロリの餃子ができました。
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一ぺん食べてみてください。
こんばんは、坂田秀大です。 かつて我が国を訪れた外国のお客様が、航路間からまっすぐ太宰府西門へ入り、
そして太宰府成長を目指した古代官道、水城西門ルートを歩いています。 ご案内を、こと太宰府保存協会学芸員の田中健一さんにお願いしています。
官道が途中で途絶えたところからコースをちょっと変えて、官道と並行して走っている県道31号線を越えて坂を登り、
太宰府西小学校の遺跡を見学して坂を下ってきました。 県立福岡農業高校のグラウンドが見えてきました。
大塚さんとだいぶ歩いてきましたけど、ちょうど小学校から南にまっすぐ道を下ってきまして、先ほど大塚の南交差点の大きいところを通過しまして、
まださらに南まっすぐ行くの最初の交差点ですね、左に入るところがあるんですけども、ここから左に入っていただきますと、
古代の戸の軌道遺跡とかですね、脇戸遺跡といった遺跡が実は広がっているんですけども、実はそこで古いものが出てますので、そちらをちょっとご紹介したいと思います。
右に見えてたところが福岡農業高校のグラウンドでした?
そうですね、ずっと小学校から下ってきますと、大塚の南交差点を過ぎて、右手には点数がありましたけど、福岡農業高校ですかね、そういうグラウンドが広がっておりまして、
それを右手を見ながら左の方に曲がっていただきますと、付き当たりには貯水池が見えるんですけども、その貯水池を挟んだ向こう側にですね、小さな公園がありまして、そちらにちょっとご説明があるので、そちらを交えながらですね。
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貯水池が見えてきました。広い貯水池ですね、これも。
そうですね、住宅街の中に。ちょうど県道31号線にいます、杉塚の交差点の少し西側の住宅街の方に入ったぐらいの位置でございます。
貯水池としては広いですね。200mぐらいあるかな。
50m、いや、もっとあるな。60m×200mぐらいの大きい貯水池が見えてきました。
今日ずっと津川さんと古代寒道の水木西門ルートを歩いてきましたけども、実はですね、古代寒道を作る時にやっぱり工事の労力を減らしたいというのもありますので、実は活断層の側に作られることが多いと。
活断層が地面がずれますので、その分直線的な地形が取りやすいと。
ちょうど実は福岡の地震でも有名なケゴ断層が、航路間の方からこのダザイフの方まで一直線に伸びているんですね。
その断層に沿って実は古代寒道のルートも沿っているので、古代の人々は地形も利用しながらもしかすると作っていたんじゃないかな。
あ、そうですか。
ちょうどケゴ断層がダザイフのこの南の端、ちくしの端に差し掛かるくらいまで断層の方が伸びているということでした。
所属位置をぐるっと回ってきまして、小さな公園が広がっております。
こちらが戸の木戸公園という地域の公園になっているんですけども。
戸の木戸公園ですか。
お殿様の殿に城の城に扉の戸ですね。
公園の奥まったところ。
また一番奥まったところに看板がある。
つつましくあるんですけども、こちらの方に実は出土したもののご紹介があるので、ぜひお話しさせていただければと思います。
そうですか。
ではその説明の看板でいきましょう。
戸の木戸周辺の文化財というふうに書いてまして、
時代は旧石器時代から中世。
場所は太宰府市大沢の2丁目と。
ここにどういうものが見つかったんですか。
実はこの戸の木戸周辺ですね。
南側に脇堂遺跡という脇にそれよりも脇に道と書いて、脇堂と読むんですけども。
その遺跡は実は古代からさらに遡りまして、
実は2万2千年前、鹿児島のカルデラ噴火による火山埋葬と、
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それにまつる石器や石材が1400点というたくさんの数の石器が見つかった場所なんですね。
太宰府といいますと、これまで古代は歩くと言うことで歩いてきましたけども、
それよりはるか昔、まさにですね、太宰府の旧石器時代という、
太宰府の歴史の出発点に近いようなところから出土した、大変太宰府の中でも古い遺跡でございます。
2万2千年前なんですか。
ちょっとなんとなくですね、想像がなかなかできないんですけれども。
この旧石器時代に見つかった石器というのは大変貴重でして、
太宰府の中でも古代よりさらに遡る重要なものということでして、
ここから出てきた脇堂遺跡で出た石器のうち70点ほどがですね、
太宰府市の文化財に指定されたということで、
太宰府の歴史にとっても大変重要な遺跡がですね、この周辺で眠っているという場所なんですね。
ちょっと古代からさらに遡ってしまったんですけども、
まさに古い歴史の眠る場所がこの辺り一帯でございます。
古墳時代頃はやっぱりこの辺集落がたくさんあったんでしょうね。
そうですね。もちろん古墳時代になってくるとですね、周辺で巨漢の跡とかですね、
古墳の跡などそういった施設も確認されたりして、住居跡なんかも見つかってまして、
古墳時代にもやはり人々が生活していた様子というのがこの辺りで見つかっております。
ずいぶん昔からこの辺に遺跡があったということで、
都の軌道遺跡という遺跡をご紹介しました。
周辺にはですね、木管なんかも出ておりますし、
実は都の軌道ということでですね、
軌道というのがお城の城門の街を区切るような軌道の意味もあるんですけども、
実は先ほど農業高校さんが見えておりましたけども、
あの丘陵一帯には実は戦国時代になりますとお城がどうも築かれていまして、
ちょうど太宰府では岩屋城が有名ですけども、
その岩屋城に対して攻めていた畜死士がですね、
佐野城とか枠堂城とかそういったお名前で出てくるんですけども、
ども岩屋城に対するお祭りの城として、
この一帯にも城が築かれていたということで、
まさに旧石器から古墳、平安、そして戦国に至るまで
さまざまな歴史が眠っている場所ですので、
ぜひ古代を中心にさまざまな時代も知っていただきたいなと思います。
戸の木戸周辺の文化財ということでここに看板がありますが、
旧石器時代から中世の掛け手の遺跡ということで、
この辺に本当に重層的に遺跡が眠っているということなんですね。
そうですね、実はこの太宰府の西側にはさまざまな歴史が今、
地面の下に眠っているということなんです。
はい、戸の木戸遺跡でした。
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今週も古代官道水木西門ルートを歩いています。
戸の木戸遺跡から今度は県道31号線へ出て、杉塚交差点を左折しました。
高速道路の方へ入ってきました。
水木西門を出まして、ジグザグとあちこち寄りながらここまで来ました。
杉塚と言いますけれども、およそ2、3キロ歩きましたでしょうかね。
あそこから西門から。
そうですね、西門から2、3キロ歩いてきまして、
ちょうど今は杉塚地区に差し掛かっておりますけれども、
ちょうど県道の31号線、地区中の方に抜けるバイパスに杉塚という交差点がありますけれども、
私と津川さんは杉塚交差点から、バイパスの方がちょっと斜めに入る細い道があります。
その斜めに入る道沿いにやっていきますと、2、300メートルでしょうか。
そうですね。
杉塚交差点からコンビニさんがあるんですけれども、
ここでコンビニを見まして、左手の方に高速道路の方に曲がってみますと、
そこからまた古代神戸の跡が出ていますので、
そちらの高速道路のそばの方にここから行ってみたいと思います。
わかりました。
ここは太宰府の水木西門からまっすぐ来たようなところですけれども、
途中に住宅街がいろいろあって、あちこち曲がりながらここまでやってきましたね。
そうですね。当時はビシッと直線的な道路が走ったんですけれども、
やはり現代ですよね、道も変わっていますし、住宅街も立って様子が変わっていますけれども、
ただ跡は残っていまして、やはり古代の神戸は本当に直線的に来ていたんだという跡がありますので、
ぜひそちらの跡を見に行きたいと思います。
では行きます。
目の前に高速道が出てきました。
その横を今歩いております。
ちょうどコンビニの方から曲がって入ってきました。
ちょうど高速道路につきあたったんですけれども、
実はこの場所が、
実は平成2年に竹志野市教育委員会さんが白地捜査をされまして、
太宰府情報の第99次調査という調査が行われているんですけれども、
実はこちらで古代神戸の跡が見つかっているわけなんですね。
だいぶ歩いてきましたけれども、
水金詩文を出まして、
島本遺跡、日明遺跡、そして前田遺跡などで、
その神戸の跡をご紹介してきましたけれども、
その跡がずっとここに伸びてきましたけれども、
こちらを掘ってみますと、幅がだいたいですね、
溝から溝まででだいたい11メートルほどの古代神戸の跡が見つかりまして、
やはり当時直線的に引かれていたということで、
水金詩文からずっと伸びてきた道路の跡が、
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ちょうどこの高速道路の脇で見つかっている場所なんですね。
ちょうど高速道路とそれから31号線の間に、
こんもりした森がありますね。
ちょっと丘陵がありますね。
丘陵がありますけれども、その辺りになるわけですね。
そうですね、その少し南東側と言いましょうか、
こちら側になるんですけれども、
実はこちらの場所で見つかった、99次調査で見つかった古代神戸は、
非常に興味深い成果が出ておられまして、
実は古代神戸の溝から溝までだいたい11メートルほどってご説明しましたけれども、
その路面を横切るかのように、
実は9世紀の中頃から後期にかけて、
実はお墓が道路上に作られていると。
その見つかった古代神戸などを横切るようにですね、
木を使った棺など、木漢墓であったり、
あるいは穴を掘ってそのまま埋葬される土工墓というようなものがあるんですけれども、
その道をちょうど横に斜めに横切るようにそのお墓がずっと作られているということは、
9世紀の中頃とか後半には、
実はもう古代神戸、今ずっと津川さんと歩いてきましたこの道を、
例えば外国の使者が通るとか、
そういった公的な役割はどうもその時代には終わっていたんじゃないかなと。
お墓が道路の中にあるというのはおかしいですもんね。
今の私たちも高速道路なんか走っていたらお墓があったらとてもじゃないですか、通れませんので。
古代神戸の役割がどうもその辺りで終えたというか変わったというか、
あるいは道筋が変わったとかもいろいろあるかもしれませんけれども、
水城西門からこう伸びてきた道は、
この時点でそういう9世紀中頃後半頃にはある程度の役割をおいていたんじゃないかな。
始まっていたのかもわからないということですね。
そういう興味深い調査結果がですね、
こちらの99次調査でわかっているということで、
最初は航路間の方からやってきて、
太宰府の南に回り込む、
外国の施設が主に通った道と考えられていますけれども、
その古代神戸の役割を考える上でも、
大変興味深い調査結果が出ている場所になっております。
そうですか、ひょっとしたらこの辺が終点ぐらいになっているかもわからないという。
そうですね、もしくは外国施設がこの道を通らなくなったとかですね、
かつては航路間からずっとこの道を通って、
そしてこの後津川さんと歩きますけれども、
太宰府の南の正面口、ぐるっと回って入っていった、
そのために整備をきちんとされていたと思うんですけれども、
例えば外国施設が航路間で済ませるようになったとかですね、
あるいは東門のルートに切り替えたとか、
あるいはもしかするとどこかで水城西門から、
どこかでショートカットするような道になったかもしれない、
いろいろ要因は考えられると思うんですけれども、
ある一定の当初の役割とはちょっと変わっていたんじゃないかなということが。
役割を終えていたのかもわからないということですね。
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そういう大変興味深いところになっております。
本当に興味深いですね。
古代官道なんですけれども、この場所を経由しまして、
さらに南の方へと伸びていたとは考えられるんですけれども、
この先、実はこのまま真っ直ぐ南に伸びて、
2つ今考えられていまして、
作られたときに航路間から試車の方がやってこられて西門を通って、
ずっとこられて、
じゃあどこで太宰府の方に入っていったかというのは今議論があるんですけれども、
このまま真っ直ぐ南東の方に伸びまして、
2日以上の線を過ぎまして、
ぐるっと本当に南から回り込んで、
そして太宰府の南の正面の羅城門と都では言えますけど、
そこから入っていったという、
南まで迂回されたという考え方と、
あるいはこの先に杉塚公民館などがあるんですが、
その辺から左に真っ直ぐ東に折れて、
そして太宰府の城門、
街並みの南の口を通って、
いわゆる一番ショートカットと言いますが、
一番近いところを通って、
そのまま羅城門に入っていったんじゃないか、
2つ考え方があるんですけれども、
今日はこの先杉塚から東に折れて、
太宰府の街並みの南に沿って行くルートで、
今日は歩いていきたいと思います。
少し短いルートになるんですね。
あまり回らない。
今回は街並みに沿った、
短い距離の方をご紹介していきたいと思います。
じゃあそちらの方に伺います。
この高速道路の隣に神社が出てまいります。
津川さんと今高速道路の側を通っている道を下ってきましたけども、
実はこのすぐそばに古代にまつわる、
ちょっと珍しい神社がありますので、
かつての杉塚地区の宇治神様なんですけども、
ちょっと寄り道ばかりで恐縮ですけども、
高速道路でちょっとくぐってまいりますと神社が見えてきますので、
そちらの方に伺います。
県道31号線から津川市に向かって左の方にずっと入ってきて、
高速道路にぶつかりますけども、
その高速道路の下を今くぐって歩いているところです。
ちょうど高速道路をくぐりまして、
少し何メートルか行きますと、
ちょうど真正面に鳥居と神社が見えてまいりましたけども、
こちらがハニヤス神社なんですけども、
こちらの神社は大変珍しいことに、
実は境内に古墳がそのまま残っているというところなので、
古代は歩くがテーマですので、
ぜひこちらの神社も少しメインルートから何十メートルか先ですので、
ぜひお立ち寄りいただければと思います。
神社に古墳が残っているのは珍しいですね。
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今その鳥居をくぐろうとしています。
正面にやや古い本堂がありますね。
鳥居をくぐってまいりますと、
正面に神社の拝殿が見えてまいります。
もともと杉塚村の宇治神様として、
ハニヤス神は土の神様です。
やはり農業を他方の守り神として祀っていらっしゃったと思うんですけども、
このハニヤス神社さん、お参りしていただいて、
ぜひお参りされた後、
その拝殿の後ろ側に回っていただければと思います。
後ろに回る、ちょっと後ろに回ってみましょう。
拝殿の後ろに少しこんぼりとした丘が見えてくるんですけども、
さらにこれを右の奥手の方に回り込んでいただくと。
ちょっと小高い丘。
3メートルぐらいの高さですかね。
看板が出てますね。
その当時、ハニヤス神社にある古墳なので、
ハニヤス神社古墳と呼ばれると思います。
本当に拝殿のすぐ後ろに残っておりまして、
現地には解説版も立っておりますけども、
古墳時代後期の小型の塩墳と推定されているものでございます。
塩墳ですね。
内部の方が前室・後室2つに分かれていまして、
伏式・横穴式・石室古墳という、
専門用語ではそういうふうに呼ぶんですけども、
まさに古墳時代後期の古墳がそのまま残っておりまして、
古代寒道が通っていた時代より前の古墳のものですけども、
そのままダザイフに近い場所に残っていまして、
残念ながら出土品とか、服装品とは確認されていないので、
詳しくはわからないんですけども、
このダザイフ周辺の地域の歴史を知るえれば一つ欠かせない古墳ということなので、
ぜひ神社の参拝と合わせてご覧になっていただければと思います。
これは大変珍しいですね。
神社の本殿の後ろの方が古墳になっていますね。
こちらは多分自分との方が閉め縄が飾られています。
ここが石室への入り口ということで、きちっとお祭りされています。
石室の入り口に竹を四角に組んで、
閉め縄なんかも飾ってありますね。
お祭りがしてあるということですね。
今、穴は見えませんけどね。
ちょっと今、草に覆われてしまっていますけども、石組みなんかは奥に見えています。
ぜひ杉塚地区の古墳に訪れていただければと思います。
神社の裏の方に回っていただくと、
こんもりした細かい岩があります。
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それが塩墳ということですね。
珍しいですね。
神社の境内にそのまま大切に保管されているということで、
杉塚地区の古い歴史が伺えるところなんですけども、
さらに杉塚地区のもう一つ古いお寺の跡もありますので、
また少し神道の跡に戻りまして、
そちらの方に訪ねてみたいと思います。
お寺の方に参ります。
古代神道を歩いていますが、
県道31号線の杉塚という交差点から左折しまして、
しばらく行ってさらに左折。
高速道路の方へ歩きました。
すると高速道路の少し手前に古代神道の跡がありました。
さらに歩いて高速道路の下をくぐったところに神社がありました。
ハニヤス神社と言いました。
古墳がそのまま神社になっていました。
この後は近くにある寺院の跡を訪ね、
さらに羅城門があったのではないかと言われている場所へ向かいます。
ご案内は、古都太宰府保存協会学芸員の田中健一さんでした。
来週もこの続きを歩きます。
ここで古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
宮間市には日本で現在ここにしか残っていないという特別な舞があるんです。
それが紅若舞。漢字で書くと幸せに若いに舞うと書くんですが。
聞いたことのある名前ですね。紅若舞。
戦国時代ものが好きな方は詳しいかも。
中世から近世にかけて武家たちに愛された芸能なんですよ。
あの織田信長が桶狭間の戦いに出る前に
あつ森というのを舞ったというエピソードで、人間50年というのですね。
紅若舞ですね。
そうなんですよ。
これもともとは福井県で生まれた舞なんですが、
今はこの宮間市にしか残っていない。
毎年1月20日に宮間市の大江天満神社に奉納されております。
早速どんなものなのかちょっと聞いてもらいましょう。
舞としては能と歌舞伎のちょうど間ぐらいなんですよね。
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物語にずっとこうやって節がついていくんですが、
小族は長袴に絵星をつけてます。
後ろでつづみが叩かれてますが、打たれてますが、
つづみは紙芯をつけるというスタイルで。
動きとしてはですね、割と地味なんですよね。
前後にこう動いていく擦り足で。
舞台の中を斜めにこう通ったりもするんですが、
この歌う時のスタイルが両腕を水平に広げて、
やや上半身を前に傾けてずっと歌ってるんですよね。
本当に面白い。
そして意外にも能ほど重たくなく、
歌舞伎ほど派手派手しくなくて。
中身も、今これ聞いてもらってるのがあたかなんですが、
弁慶と義経の物語だったりとか、松森の平家物語だとか、
いわゆる群起物に節がついてる。
この辺りがやっぱり武家に愛された理由なのかな、
なんて思ってたんですが。
さあさあ、この江若舞なんですが、
どうしてこの宮山市の応援地区だけに残ったのか。
江若舞保存会会長で、第31代家元の松尾正晴清嗣さんに
伺ってみたら、こんな答えが返ってきました。
ここで、お宮さんの行事としてっていうのが一つあるんでですね、
以前からの柳川城の鎧開きっていうのがあって、
その時に江若舞をここで舞ったっていうのがあるんで、
そういう行事としてずっと伝わってきてるから、
なくならなかったんじゃないかなって。
でも、江戸時代には地区ごと地区あちこちに、
もちろん江若舞広がってたんですが、
この応援にだけ残った何か地域的な、
そして人物的な特徴があるのかなと聞いたら、
こんな答えが返ってきました。
よそに目を向けないっていうか、
一途に守ってきたっていうのがあるんじゃないかなと。
他の文化がなかなか入ってこなかったっていうこともあるそうなんですよね。
もっと面白いのが歌舞伎とかいろいろその当時あったと思うんですけども、
そっちに行かないで江若舞をせねえかっていうのがあって、
ずっと続けてきたんじゃないかなと。
なるほど。
そうなんです。
これからも続けていくために、
大江地区の小学校5年生になった段階で、
地区の男子がこの江若舞を習うんですね。
今回の1月20日にも奉納しますが、
こんな感じで小学生が頑張ってます。
江若舞に御覧なって、
淡路を通せられ、
その身、今の淡路島。
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いいでしょ。
声出てますね。
そうなんですよ。
腕がね、水平に保ってないとか、
気が遠くなるとか言いながらも、
でもやっぱり自分のお兄ちゃんもお父さんもやってきたから、
僕もやるとかですね。
他の地区の子どもにはできないことだから、
ちょっと嬉しいっていう、そんな声も聞けました。
子どもたちも含め、江若舞、
1月20日お昼12時から、
三山市の大江天満神社でお披露目です。
中嶋理恵さんでした。
番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と、
番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの古代の福岡を歩く
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この番組は三山市の企画協賛、
餃子の山端、道の駅村方の提供でお送りいたしました。
ご案内は高田修大でした。
バッテン少女隊のバッテンラジオ隊
バッテン少女隊の春野きぃなと
青井リルマです。
RKBラジオでお送りしているガールズパンツ
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