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古代の福岡を歩くシーズン7遥かな昔 海の道からそして陸路を通じて福岡には様々な文化が入ってきました
その足跡を訪ねる 古代の福岡を歩くシーズン7
この番組は 宮山市の企画協賛
餃子の山端 道の駅室方の提供でお送りいたします
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こんばんは、坂田周大です。 シーズン7では宮山市の神戸市のある場所からスタートしました
神戸市や山城もこの番組ではいくつかご紹介してきました 今週はその神戸市系の山城、筑紫野市の阿志岐山城をご紹介します
この山城は筑紫野市にある宮地岳というそれほど高くない山の山腹にあります 一体どうやって作られているのか詳しくご紹介していきます
お話を筑紫野市歴史博物館館長の小賀野明さんに阿志岐山城のパネル写真を見ながら伺っていきます
阿志岐山城というふうに書いてありますが これ山城というのと山城という言い方がありますよね
これどちらが正しいんですかね 基本的にはあの
意味としては山城という言い方の方が意味は通じるんですけれども 考古学の世界ではあの山城という言い方で一応呼ぶ
習わしというかそういう形なので 阿志岐山城跡というふうに
お読みでですね読んでいます そうですね
じゃあ大体どちらでも そうですねあの中世の山にあるお城があの中世の山城という言い方をするので
そこを分けて使っているというようなこともありますし あとあの特に韓国のお城がですね
韓国語で山村と言っておりますからそれにある程度音が近いようなことで使っているということですよね
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なるほど
番組では山城山城というふうな言い方をしていたので 私はちょっと両方とも使いながら
そうですね意味が通じれば問題はないと思います
でこの阿志岐山城ですけれども これはいつ頃できたというふうに思われるんですか
基本的にはですね
日本書紀とか職日本記という書物にですね 出てくるようなお城っていうのは
663年西暦663年に白月の絵の戦いという朝鮮半島で大敗を起死するんですけれども
その時に例えば水木跡であるとか大野城跡 黄城跡を築くということが記録として出てくるんですが
阿志岐山城をはじめとするいわゆる神戸石系の山城に関しては 正確な年代というのは実はわからないんですね
ただそういった7世紀の国土防衛のですね 流れの中で作られたお城であろうということではありますので
おむね7世紀のものというふうに理解してよろしいかと思います
今ちょっと話が出てきましたけれども 神戸石系山城 それともう一つあるんですか
今申しました日本書紀だとか文献資料に出てくるお城をですね
もともとは朝鮮式の山城という呼び方をしていました
一方でそれに対して神戸石系といっているものがですね 今ではお城というふうな認識なんですけれども
もともと神域 神を守るような 例えば久留米の甲羅山神戸石なんて有名なんですけれども
そういったものの二つがあるということで 最終的に神戸石も古代山城の一群ということにはなったんですけど
今はですね あまりその両方の区別をつけずに
ですから古代山城というような言い方で くくっているというような状況ですね
あまり区別はないということですね
そうですね 構造上の違いだとか 細かい部分を言いますと違いがやっぱりあるんですけれども
古代山城お城の一つのグループということで包括されてますよね
そしてこの圧敷山城 あとですけれども これは蓄城の宮次竹というね
そうですね
そんなに高くない山ですよね
そうですね
中腹ぐらいですか あるのは
だいたい宮次竹というのが蓄城の城の東の方にありまして
太宰府成長跡からすると5キロぐらいになるんでしょうかね 距離になりますが
標高338メートルぐらいのですね そんなに高い山ではないんですよ
そこの山頂部分を含みまして 西側から北側にかけての山腹といいますか
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この部分に石でを並べた石類とか土を積み上げた土類がお城の上域を作っているということですね
山に向かって左側ということになりますね
そうですね ですから太宰府の方面を向いているということになるかと思います
なるほど
その山城の方ですけれども どういった高さと言いますか
340メートルぐらいのどの辺にあるんですか
山頂部分は土類は人工的に作られていなくて 自然の山の尾根を利用しているような形なので
お城の形としてはこの字型と言いますか 山の尾根をつなぎながら
谷を越えるところは石を積み上げて石類で塞ぐんですけれども
それでおおむね西側から北側にこの字型にお城の定格線を作っているという感じになりますね
そうですか。要するに土類と石類を使ってお城の上壁と言いますか そういうものを作っていると。
それ全体的に見るとどのぐらいあるんですか
距離ですか
距離は
足利山城の場合は総延長が約1.3キロから4キロぐらい長さですね。
そしてその中で土類と石類の部分というのも また別に分けて考えることはできるんですか
そうですね。基本的には尾根の部分は下の方に石を積みまして その上に土類を乗せるというやり方をしています。
谷筋の場合は谷を塞ぐために非常に大きな霧石を使っているんですけれども 石でもって谷を塞ぐということになりますね。
そうなりますと谷筋ですから水が流れますので 水門というような出口を作ってみたりとか
あるいは石と石の間の目地を水が自然に流れていくような構造になっていたりとかという形で 連続したお城の上域を作っていると。
ということですね。
この城壁といいますか土類の目的ですけれども、 どういう目的で作ったと思われますか。
これは難しい問題なんですよ。
基本的にはお城ですので、朝鮮半島と韓国なんかのお城も同じなんですけれども、 防御のために作っている施設のはずなんですね。
ですからお城の中に守るべきものがあって、 そしてそれを囲むことによって守るという本来の軍事的な目的がことになるんですけれども、
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古代山城の場合、特に神戸石系の山城については、 お城の中に例えば建物の跡があったりとか平らな場所があって人がそこに集まっているとか、
そういう守るべき主体がよくわからないんですね。
ですから第一義的にはお城なんで、 防御のために大掛かりな城壁を築いているんですけれども、
本質的に意味がなかなか難しい、異論の分かれるところですよね。
何のために作ったのかというとよくわからないという。
そうですね。
まず最初に考えられるのは663年の白月の絵の戦いということですよね。
それから他にも何かこのために作ったんじゃないかという用途というのは考えられるんですか。
古代山城の場合ですね、その後の時代もずっと利用されていくケースがあるんですね。
それともう一つはそもそも古古学の場合は、
出て発掘して出土してくる遺物土器だとか、そういったもので年代を判断していくんですけれども、
そういうものは非常に少ないんですね。
ですから白村皇の戦い以降、663年以降のどういう歴史的なタイミングで、
こういったお城が作られたり利用されたりというのは非常に難しいところなんですね。
ただ、職人本義という文献資料がありまして、
その中には7世紀の後半、終わり頃にお城の修復をしたというような記事がありますので、
その後もずっと管理されていて、
お城を何らかの事情で修復をして使っていくというような形になるんだと思いますね。
西明天皇もそのときに太宰府近辺までやってきますよね。
その西明天皇のお宮を守るために実は作ったんだという説もあると聞きましたが、どうなんでしょうか。
そうですね、そういった説もございます。
西明天皇は石の層の作り、石類とか非常に大好きな方で、
飛鳥の方とかもそういったものが残っているんですけれども、
確かに西明天皇が九州に来られたときにというような研究があることも事実。
ただそれが言われている朝倉の宮ですね、
朝倉の幸原の広庭の宮というのがどこなのかという話が、
朝倉地方だというのが定説ではあったんですけれども、
最近そうでもない説もあったりしますので、
一番実はそこを確信の部分でですね、
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太宰府の竹志の地とか太宰府市のある八世紀に入って、
太宰府の都市が置かれる範囲の周辺には大野城跡、木井城跡、水木跡があって、
足木山城跡があるという構図なんですけれども、
そこの守るべき主体がですね、朝倉の宮がどこにあったのかというのは非常に問題になると思われますね。
ああそうですね、未だにちょっとわかりませんよね。
今夜は竹志の市にある神戸石家の山城、足木山城について、
竹志の市歴史博物館館長の小賀野昭さんに伺っています。
では話を続けます。
それから、今ちょっと出てきた防御ラインですね。
ラジオという言い方がありますよね。
ラジオも太宰府近辺にはあったのではなかろうかというようなことが言われますが、
その一つとしても候補になるんですか。
これもですね、すごく難しいところで、これは議論がかなり分かれるところではあるんですけれども、
ラジオというものは要するに都市空間を囲む城壁ですね。
ですから中国大陸の古代の都市なんかは、
周辺を城壁で囲んで人々がその中に入って住んでいるというようなことになりますので、
囲むということがまず第一なんですね。
ところが我が国の日本の場合はですね、天武天皇の時代に、
人心の乱で活躍しますけれども、
何羽にラジオを築くという大阪のその一文が文献資料に出てくるだけで、
実際ラジオというものは見つかってないんですね、どこにも。
なので、都でも実は日本の場合は囲みを作らないという、
基本的には外敵が攻めてきませんので、囲みを作らない。
じゃあそれが果たして太宰府にあるのかどうかというところですね。
非常に議論が分かれると思います。
ただ一方で、この空間を、太宰府のある空間を平面的に見ますと、
お城が非常に囲んでいるように見えますので、
そういったラジオがあったかどうかという議論は別としてもですね、
何かそういう意味を持った場所、中心領域というか太宰府を見守るような場所に、
お城が置かれているということは、古代の空間としての意味があるんじゃないかと思いますね。
なかなか難しいもんですね。
難しいですね。何様も広いものですから、
今おっしゃいましたラジオというものも、あるかないかは別ですよ。
だけど、もしそれを外周でつないでいくと50キロ以上の距離になりますし、
周りをぐるっと測っていくと、非常に大きな範囲になるので、
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果たしてこれがそういった外周を囲むような土類が本当にあったのかどうかというのは、
これはまた難しい問題ですよね。
難しいですね。
そうですね。行政も分かれておりますから、
太宰府市だけじゃないですね、南側、近所は佐賀県側にも入りますので、
太宰府も入っているし、小野寺も入っているし、いろいろ分かれますね。
逆に言うとそういったものをテーマにして、共同して研究をしていくような、
太宰府の発掘が始まって50年を超えましたけれども、
今後の100年を目指して、より広い視点で太宰府を見て、
さらには例えば海外の韓国のお城だとか土壌だとか、
そういったものとの比較研究というのがさらに進めていく必要があると思いますね。
私も非常に興味があるんですけれども、ラジオにつきましてはね、
ラジオ門というのがこの辺にあったのではないかという場所はわかるんですけれども、
ちょっと発掘ができないような場所なので、よくわからないということもありますしね。
そうですね。
ちょうど非常に興味を持っているんですけれどもね。
そうですね。
ラジオ門というのは、太宰府、都にもありますけれども、
太宰府の場合はあったかどうかということはまだわからないですね。
ただ、例えば太宰府の城防跡という五番の目状の都市区画が都のような形で置かれていて、
地方の役所でそういう城防という五番の目を持っているのは太宰府だけなんですよ。
そうなりますと、太宰府にも南側の南大門ですから、
ラジオ門があったのではないかという話になるんですね。
ちょうど太宰府城防跡の南側は畜死の地域に入っていまして、
その南側に向かって太宰府城長跡から須作王寺という大通りが南北に伸びているんです。
幅が36メートルと言われていますので、
都の奈良の平城峡の約2分の1なんですけれども、すぐ今の二日市の方に伸びている。
そこの南端の一番南の端のところに、例えば小和座の地名で鬼坂井という地名があったりとか、
鬼の境、坂井と書くんですね、ということがあったりとかして、
ラジオ門の鬼の伝説なんてありますよね。
そういったようなことから推測すると、門があったんじゃないかということなんですね。
これが今の畜死の地の二日市のあたりに想定はされているんですけれども、
なかなかそれがあったかどうかはわからない。
非常に興味のある話ですね。
そして、この山城奴隷ですけれども、どうやって作ったかというパネルがここにありまして、
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このパネルを私が見ながら皆様にわかりやすく説明していこうと思います。
まず最初、第一工程というのがここにありまして、
まず斜面を削るところからですね。
そうですね、普通の山は緩やかな寒斜面というか、斜面になっているので、
そのままそこに土を積んだり石を乗せたりすると、滑って落ちてしまうんですね。
ですから、ここの山だけではなくて、大体この畜死の地もそうですし、
福岡の山というのは河口岩の岩盤であるとか、それが風化するとマサ土という砂けの土に変わるんですけれども、
その地盤を段々というか階段状にステップを作って削り出すということがまず先に。
これが一番大事なところです。
いくら立派な土類を積み上げても、基礎の段々をきちんと削っていないと力がかかり具合が、
それと水が流れますので、浸透した水がですね、それでやはり滑り起こして崩れてしまうということなので、
実はこの積むよりも削ることの方が重要だというふうに考えていますね。
なるほど。
削った部分を平らにしていくんですね。
そうですね。
そこに石なんかを、小石とかね、敷いていくんですね。
そうです。第二段階としては、土類をいきなり積むのではなくて、
やはり裾の下のところに、段々に切ったところの一番端の裾に石を積みます。
足木山城跡の最大の石の特徴は、一番下の第一段階に積む石のことを基底石と、
基本の木に底と書いて基底石というふうに呼んでいるんですけれども、
これを据えているということが特徴で、
この基底石というのは、実はその上に石が一段ないし二段乗るんですが、
その石の面よりも谷側に少し張り出す、飛び出したような形になっているんですね。
言ってみれば横に並べるのではなくて、縦の奥に。
そうですね。これは他の古代山城にはない特徴でして、
どういった技術なのかというのはちょっと系譜がわかりかねますけれども、
この絵を見ていただくと、土類に対して縦に長いくさびみたいな形で入っているので、
おそらくこれは想像ですけれども、一つのくさびを打ち込むような形で基礎をつくっておいて、
その上に石を、さらに四角い霧石を乗せていくということで、
たぶん滑りをこれで止めているんだと思いますね。
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さらには石を積んだ内側に、土木の用語ではグリーシという、
グリーシ。グリーシって書いていますね。
グリーシというふうに言うんですけれども、
これは要するに人の頭ぐらいとか石をですね、これは割石ですね。
これをたくさん詰め込んでいるというような構造を持っているんですね。
これは水抜きの意味もあるんですか。
意味というか水抜きだと思います。
水抜き。
水抜きのためにこういうことをして、裏側に土を詰めてしまうと目詰まりを起こしますので、
隙間を開けた状態で水を抜いているんだと思いますね。
よく考えていますね。
そうですね。上に高さを数メートル積みますので、
荷重も相当かかりますから、そういった意味では、
我が国、日本においては、高温、たう、雨がたくさん降りますので、
水のケアというのは土木の構造物にとっては大変重要なことですよね。
足利山城の土類の作り方、なかなか複雑に作ってあります。
来週もこの続きをお送りいたします。
お話を、蓄志野市歴史博物館館長の小賀野明さんに伺いました。
古代の福岡を歩くリポーターの中島理恵さんです。
こんばんは。
蓄志野市にお出かけしたら、ぜひとも足を運んでほしい場所の一つご紹介します。
二日市八幡宮神社さんです。
JRの二日市駅のすぐ近くなので、JR列車に乗ってても、
それから真横に県道が通っている、沖縄道通っているところなんで、
竹の高いクスヌキとかイチョウの木が見えるという。
あ、あそこねって今思い渡っている人がたくさんいるという、そういう神社なんですが、
この二日市八幡宮の御祭神は、大神殿の神宮皇、玉緩姫の御事なんですね。
この二日市八幡宮の御祭神、梅野博光さんにお話を伺ってきました。
この二日市八幡宮、御宮の歴史としては1400年余りだろうということなんですけれども、
実はですね、御神木がイチョウの木でして、このイチョウの木が本当に大きくて、
少し弱ってまた新しい木がイチョウの木って生まれから生えてきますんで、
なんとなく幹回り全体で軽く8メートルぐらい集まっているのかなぐらいの、大変立派なイチョウの木なんですね。
写真を今見てますが立派ですね。樹勢が素晴らしい。
実はこのイチョウの木が御神木なんですけれども、災難少女、災難を消し去る、消し取るという霊言があると言われるものでして、
なぜかというと、時は戦国時代までいきます。
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島津勢が大友勢に攻めてきた頃、1586年のことなんですが、島津義司さんの率いる薩摩勢が、
堂々と大友勢、高橋上雲が守る岩屋城を攻め落としにやってまいりました。
攻め落とされちゃうんです。その返りに、実はこの二日市八幡宮のイチョウを切り倒そうと、薩摩の軍勢がドーンとやってきたわけなんですよね。
その時に近くの総財門さんというところの奥さんと山田さん家のおばあちゃんが駆けつけて、
おばあちゃんが、「ここはうちの宇治神様の神木じゃー!こんなことしてたらすぐに罰が当たるぞー!」と言いまして、
そのままおばあちゃん、このイチョウの木にガッと抱きついて、
この木を切るんだったら、まずこのババアを切り倒さい!それからこの木を切ればよい!と言い放ったところ、
あまりの勢いにKOされていたのかどうかはわかりませんが、切り倒そうとしていた薩摩の軍勢、その勢いに負けて斧を捨てて立ち去ったと言われています。
へー、そうやって残ったわけですね。
だから、おばあちゃんを守った勢いもあるし、木を守った勢いもあるし、両方があるんですが、実はこの斧跡が今でもイチョウの木に残っているとか残っていないとか。
斧の打ち込まれた跡が。
どこですかー!って軍士さんにお伺いしたら、ふーって言われて探してみてくださいっておっしゃるんですよ。
目を凝らしたいんですが、ひょっとしたらこれって私が勝手に想像したくなるような縦筋。
しかし、なんかこれ木にそのままあるには珍しい穴ぽこだよなっていうのが見えたので、私の中ではあれが斧跡となっています。
斧を探してみるといいかもしれませんね。
うまい!そんな答えが返ってくるとはびっくりしました。
このイチョウの木のお祭りが毎年11月の第3日曜日にあっていますので、実は今日なんですよ。
お昼間からずっと夕方までお祭りしてたんですが、お祭りの日だけにイチョウが綺麗な色になるわけではないので、実は境内の中に10本イチョウがありまして、
この母神木のイチョウ以外にも順々に色づいていくので、だいたい毎年12月ぐらいまで色入ってますかねーって軍士さんおっしゃるんですよ。
すごいのが、ここ境内の中がイチョウだらけだから、本当に黄色の絨毯状態になるらしくなるらしいですねって軍士さんに聞いたら、
ニコットは絨毯状態になったまま置いておきますっておっしゃるんです。
お天気次第なのでわからないんですが、よっぽど歩きにくかったり汚くならない限りはそのまま絨毯にしておいて、皆さんにしばらく楽しんでいただけるようにっておっしゃるんですよね。
秋のお散歩どころにぴったりなんですが、実はこの二日市八幡宮、お守りも模様家の袋がありますよね。
にイチョウの葉っぱがデザインされているの。発色あったりとか。あと絵馬もイチョウの葉っぱの形してるんですよ。
そうなんですね。珍しいですね。
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こういった意味でもイチョウ好きの人にもちょっとチェックしていただきたいそんな神社なんですが、
ふと思ったんですよ。私もずっと畜死の市調べてて、なんか神社の数がすごく多いんですよ。
そうですか。
うかがったら確かに50近くある。
そんなに。
近隣の春日とか大野城で12,3ずつぐらいだそうなので、かなり多くて、実はこの二日市八幡宮の梅の宮司も13社兼務宮司してらっしゃるというぐらいなので、神社探しの旅も畜死の市は楽しいです。
中島理恵さんでした。
番組からのお知らせです。
ホームページのご案内です。
これまでの放送内容と番組を1回目からじっくり楽しむことができます。
RKBラジオのホームページの古代の福岡を歩くシーズン7のバナーをクリックしてください。
またラジオクラウドという無料アプリをダウンロードすればスマートフォンやタブレットでもお楽しみいただけます。
この番組は宮司の福岡宮さん、餃子の山八、道の駅室方の提供でお送りいたしました。
ご案内は坂田周代でした。
地下鉄祇園駅から徒歩2分、RKBスタービル博多祇園スタジオは、ポッドキャストなどの音声コンテンツの収録から動画のライブ配信まで、さまざまなニーズにお答えできるレンタルスタジオです。
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