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#64 適正な背負うべき自責について
2026-10-28 13:44

#64 適正な背負うべき自責について

雑談タイム:Appleの新製品発表にワクワク
信田さよ子さん『共依存』 / 「適正な背負うべき自己責任」という言葉 / 過剰な自責は一度ゼロに戻す必要がある / 16歳で父を亡くしてから「自分が悪い」と思ってきた / 兄が亡くなって父の死は自分のせいではないと心底思えた / 兄への後悔と自責はいまも拭えない / 自責は「たった一つの合理性」 / わからなさの中で言葉を見つけていく / 同じ本でも、そのとき必要な言葉に出会う
テキスト版はこちらhttps://note.com/nobody/n/n8c415fb20287
共依存――苦しいけれど、離れられない[新装版] (朝日文庫) | 信田 さよ子
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なぜ人は自分を責めてしまうのか (ちくま新書 1845) | 信田 さよ子
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サマリー

Appleの新製品発表に触れた後、信田さよ子の著書で出会った「適正な、背負うべき自己責任」という言葉について話す。幼少期の混乱の中で「あらゆる出来事が自分の責任」と捉える自責が生まれ、過剰な自責をいったんゼロに戻すことで、自分が背負うべき責任を見直せるという考えを紹介する。話者は、16歳で父を亡くして以来、自分が悪いと思い続けてきたが、兄の死を経験したことで父の死は自分の責任ではないと実感できた一方、兄に対する後悔や自責は今も残っていると語る。自責には、わからない出来事に理由を与え、自分を主体にできる「たった一つの合理性」があるという説明に納得し、言葉を得ることでわからなさの中を少しずつ生きていける感覚を述べる。同じ本でも、読む時期によって必要な言葉との出会い方が変わるという読書体験で締めくくる。

Appleの新製品発表への雑談
喪失感は、突然に。第64回目の配信です。今回は、適正な背負うべき自責について、です。
なんか、このポッドキャストの収録を始める前に、SNS見たら、iMacが新しいのを突然発表とかになって、
昨日iPadを見に発表されたじゃん。何だこのレンジ2みたいな。買わないんですけど、なんかちょっとワクワクしちゃうというか、
ちょっと前に、iPhoneの2つ折りのiPhone Duoが発売さ、受け取りかな?なってて、いいなぁと思いながらね、
高いでしょ。36万円でしたっけ。さすがにちょっとね、買えないなぁ。
Macより高いじゃないですか。高いんですよ。
あと来年、iPhoneが20周年らしいので、その時に記念モデルみたいな。
10が出た時、10周年だったんですけど、その時、確かフェイスIDが初めて搭載されたのかな?
っていうのがあったから、20周年は、どんな新しい機能が出るかな?っていうので、楽しみにしているんですけども、
そんなことは置いといて、本題に入りたいと思います。
信田さよ子の本と適正な自己責任
今回のテーマなんですけども、
たまたま友人から信田紗友子さんの教依存という本を借りて、その中で出てきた言葉なんですけども、
もっと正確に言うと、その人の適正な、背負うべき自己責任が見えてくるっていう言葉があって、
すごいこれだって自分の中に思った言葉で、話の主題はアダルト・チルドレン、ACの方たちのお話なので、
実際自分が当事者なわけではないんですけども、社会構造の中のこの家族というところからの文脈で、
勉強になるからすごく読んだりしていて、ただそれだけじゃなくて、自分が抱えてきたものに関しても、
すごいマッチするような言葉が出てくるので、よく読んでいるんですね。
その適正な、背負うべき自己責任、本の中では自己責任と書いてあるんですけども、
自分の話の中だと自己責任の方が合うので、その言葉にしていますが、本を読みますね。
過剰な自責をゼロに戻す
アダルト・チルドレンは甘えているか。
自己責任の欠如という非難に対して、次のように反論したい。
アダルト・チルドレンが自己責任というふうに非難されているという文脈の中で、前に語られていて、それの反論ということで、
引退時が親から突然の暴力を受けて翻弄されながら、それを全て自分のせいだという認知するこだれている。
わけのわからない痛みや混乱を子供なりに秩序を立てられなければ、子供の世界はカオスとなるだろう。
しかし、カオスの中で生きることができないため、シンプルな秩序を生み出すことになる。
それが全て自分が悪いという子供なりの究極の論理なのである。
この論理で構築できない秩序はない。
あらゆる出来事が自分の責任であり、悪い子だからと認知する習慣は、幼児的万能感の裏返しでもあるが、
それは成人後に持ち越され、過剰な性追い込み、過剰な責任感へとつながっていく。
ACの人たちの生きづらさの大半を占めるのは、このわけもなく過剰なままの自己責任感、自責感なのである。
これから解放されるためには、一旦あなたには何の責任もないとして、イノセンスを承認される必要がある。
100%を超える自責感は、一旦ゼロに戻さなければ、適正に作動しないのだ。
おそらく、生まれて初めてのイノセンスの誤認が、ACという言葉には込められている。
多くの人が惹かれたのは、この点ではなかっただろうか。
しかし、イノセンスはあくまで通過点である。
一旦ゼロになったところから、解放され、深呼吸ができるようになった地点から、その人の適正な、背負うべき自己責任が見えてくるのだ。
極端に触れた針は、一旦対極へと触れる必要がある。
ACの自覚は、このようにして、何が親の責任か、そして何が自分の責任なのかを探るプロセスへと、その人を導いていく、という話。
父の死と兄への後悔
自分のことを思うと、父親が死んだ16歳の時から、自分が悪いと思っていたし、
今はそんなことを全く思わないんだけども、やはり自分ができたんじゃないかとか、生まれてこなければよかったんじゃないかとか、
母親からいろんな嫌なことを言われたこともあったし、そうなってくると、何もできないながらも、自分が悪いっていうふうに、自分の責任だとか、
この文脈とは全然違うのかもしれないけども、その後の生きづらさに関しても、みんなと同じことができないことに関しても、
父親が死んだことが悪いとは一概に言えなくて、
全部自分が、自分の性格だったりとか、ちゃんとできない自分が悪い、みたいなことを過剰にすごい思っていったなーっていうのを、これを読んで思って、
その後に、適正な背負うべきものっていうので、今、そういうことをすごい考えていた時だったんですね。
父親に関しては、兄が亡くなった時に、それと比べて、やっとこう、お父さんの死は私のせいなんかじゃ何一つないみたいな、
16歳の私に何が私のせいだったのだろうかって、本当に迅速思えて、
それまでも、自分のせいじゃないんだろうなって思いながらも、それでもちょっとした引っかかりがあったけども、兄が亡くなった後からは本当に全く思わなくなった。
なぜなら、兄が亡くなったのは、やっぱり自分がこう、ああいうすごいひどいことを言ったとか、態度を取ったとか、もちろんそれが全ての死の原因ではないのもわかってはいるけども、
でも自分がしてしまったことっていうのはもう明らかに、自分の中にはずっと残っているから、ああ、これ、こっちは本当に後悔とか、実績とか、自分が悪かったとかって、こっちだなって、こっちだなってのがおかしい
んだけど、
今でもそれは拭いきれないものであって、これから私が兄が亡くなって、何年経つ?17年だから、来年でもう10年経つのかな。
その10年の中で、まだ10年経ってないけど、9年ぐらいの中で、いろいろ納得してきたこととか、折り合いがつけられたこととかもあるけども、
自責が持つ合理性と言葉の力
この後悔とか、実績のことを思うときにやっぱり激しい、何だろうな、辛さ、涙が襲ってくるものがあるから、これを私はこれからより考えていかなきゃいけないんだなっていうのをずっと思ったし、
今この本を読んだときに、適正にと背負うべき自己責任っていうのって、まさに自分にかえって、兄が亡くなった理由とか原因とか、そういうことではなくて、そこはもう多分おそらくわからない。
そこを問いたいわけでも、たぶんおそらく私はないように、それもなかなか自分勝手な気もしないでもないんだけども、でも、おそらく私が考えていきたいこととか思うのは、この適正に背負うべき自己責任、自責なん
じゃないかなっていうふうに思ったんですよ。
で、ちょっと前にも少しお話ししたことがあるんですけども、これも信田紗友子さんの本で、なぜ人は自分を責めてしまうのかっていう中で、たった一つの合理性っていう言葉で、これもすごい、そっか、自責ってそうか、
自分が主体になれるからなんだ。
父が亡くなったとかっていうのって、兄も亡くなったのも、なんでなんでっていうふうにずっと考え続けてきたわけで、でももちろんわからないわけですよ。
特にお父さんなんて、なんで自分が16の時に死なれなきゃいけなかったのかとか、っていうのも、一緒にまだ生きていけたんじゃないかとか、母と私と兄で家族で話し合うべきことだってできたんじゃないかとか、でも
それでも一人で選んでしまったとか、そういったこともわからないわけですよ。
もちろんその理由はあったのもわかるけども、最終的にどういう判断で決断でそうなったのかとか、そうなった時に、やっぱり全て自分が悪いっていうのは合理性がある。
自分主体で全てをコントロールというか、なんか理由付けができる。他の理由わかんないし、自分が悪いって言えば自分があれしたこれしたになるし。
というのですごい自責の説明としては、この本のこのね、すごいしっくりきたんですよ。とはいえ、わかったところで襲ってくる悲しみだったり、襲ってくる涙みたいな、辛さみたいなのは、決して減るようなことでは
ないけども、
わからなかったことに一つ一つ言葉がついてくるっていうので、なんかこう納得感?納得感?納得?よくわかんないけど。
やっぱりこう、わからなさの中で、わかってくる、わかる、納得できる言葉を私はこう見つけていくことによって、こう一歩一歩、今を生きていけるような感じがしてるんですね。
で、今回この借りた本っていうのは、たまたまのぶたさんの本を結構読んでる人がいて、これ読んだことあります?って言って、これそうよかったですよって言って借りた本だったんですよ。
で、今日依存の本で、今までのぶたさんの本とか結構読んでるから、あまりこう目新しいものというか、話はないんじゃないかなと思いながら読んでたんですよ。
そしたら、こういうふうに、今まで読んだことない言葉で、あったのかわかんないけど、覚えてないだけなのかもしれないけど、今まさにこう、自分にとって必要な言葉があった。
もしかしたらいくつか本持ってるから、同じような言葉が書かれてたかもしれないんだけども、でも本当に面白いのは、その時にやっぱり自分のいろんな感情があって、ぴったし合う言葉っていうのは、同じ本を以前読んで
たからって、その時に引っかかるかどうかっていうのがまた違ったりとかする。
だから同じ本を私、結構何度も読んだりとかするんですけど、そこでやっぱり二度目に、一度目は全く覚えてなかったのに、二度目に、あ、この言葉、こんなのあったっけっていうのは、その時、自分が必要としている言葉
がきっとある、本の中にはあるのかもしれないなというふうに思ってます。
今日はこのあたりで終わりにしたいと思います。またねー。
バイバイ。
13:44

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