岐阜新聞ポッドキャスト▼ききかぢ。報道部、山田俊介です。
営業企画部、山田桃子です。
この番組は、岐阜新聞の社員が岐阜のこと、岐阜じゃないことを本音混じりに語り合い、皆さんに聞きかじっていただくポッドキャストです。
よろしくお願いします。
ということで、以前ね、幸福の日に問う、5月29日に問う、あなた幸せですか?っていうポッドキャスト特別企画をやりますよっていうのをね、第150回の配信でお伝えしたかと思いますが、
その後ちょっとあの、モレラのイベントのお知らせとかもあったり、ちょっといろいろ混ざっちゃって、これ幸福どこ行ったみたいな感じになってたんですけど、
それはそれでやります。モレラはモレラでやりますということで、7月19日が創刊記念日?
はい、145年ですね。
145年ということで、予定通り18日と19日、2日間にわたって幸福の日の特別企画を配信しようと思います。
応募いただいたエピソードで、ポッドキャストで選ばれた方には1000円分のギフトカードをプレゼントしますという風に。
歌っておりましたので。
もちろんお渡ししますよと。
お約束通りということで。
お家に届くのを楽しみにしておいてくださいというところですね。
ということで、改めてちょっと企画趣旨を一応、
時間経っちゃった。
ちょっと時間が経ちましたね。
時間が経ちましたね。
そもそも5月29日のギフ新聞長官で、529幸福という語呂合わせで、
幸福の日に問う、あなたは幸せですか?という生み出しで新聞の特集企画をやらせていただきました。
その趣旨としては、今本当に戦争を体験することもなく、男女平等もすっかり社会に馴染んでき、
過去から今の時代を眺めると、本当に仕事にも困らないし、食べるものにも困らないし、
割と自分の精神も心配せずに豊かな社会になっているんじゃないかなと思っているんですけど、
日本を見渡すということですね。
そうなの。なんだけども、やっぱりいろんな新聞やニュースの報道の中で、
幸福度低いとか、若者の自殺多いとか増えているとか、
独居高齢者も孤立しているとか、なんかちょっと不幸ワードみたいな、
本当にみんな豊かになっているから、みんな幸せになっているんじゃないかなって、
そこ比例しているんじゃないかなってなんとなく思ってたんですけど、
いやこれなんか比例するようなもんじゃないなっていうところから、
やばいな、5月29日、幸福の語呂合わせで企画やるって言ったけど、
幸せな風に持っていけないなってちょっと思ってしまって、
もう読者に聞こうみたいな。あなたは幸せですかって。
最近幸せだと感じたエピソードを募集して、
実際みんなどう幸福感っていうか幸せみたいなところを受け取って、
響くらしいのかなっていうのを自分がわからないから聞こうみたいな、
そういったところの企画ですね。
私と山田俊介だけでは心もとないので。
ゲストとして、岐阜大学地域科学部教授の南出吉祥さんにゲストとしてお登場いただいて、
いただいたメッセージを読み上げ、ご紹介しながら、
3人でこのメッセージを元に背景事情として見えてくることであったりだとか、
幸せって何なんだろうねっていうのを一緒に考えていき、
皆さんと一緒にどうやって幸せって探していくといいんだろうねみたいなことを考えられるといいのかなということで、
そうなんですよね。
3人でお話ししてまいりましたが。
南出先生はご専攻が教育学、学校専門なんですが、
その教育学をベースにしながら社会の中で人が育つってどういうことだろうみたいなところを専門的に持っている方でした。
そこからそういう若者の自立であったりだとか、
社会活動として困りごとを抱えている方の居場所づくりに取り組んでみえたりだとか、
若者支援だったりとかっていうところを専門にされている方で、
今回のテーマともかなり重なってくる部分の多い方なんじゃないかなということで、
今回一緒に語っていただくことになりまして、
そういった社会に散らばっている課題に対してどんな眼差しを向けていくかみたいなところを自然に置きつつ、
皆さんにも一緒になって考えていただける配信会になるといいのかなと思っております。
ちょっといつもの雑談と違って教養的な要素が。
教養番組っぽくね、急に。
しかしどうしたみたいな感じに。
新聞社っぽい。
やっと本来の話になってきているということになるかもしれないですね。
そういうの目指したいじゃないですか。
雑談もいいですし。
ということで早速聞いていただきたいと思います。
幸せとはということで。
あなた今幸せですかっていう紙面がバンと5月29日に出まして、
そこから時間もずいぶん経ちましたが、
いろいろまとまってメッセージもいただいたということで、
そのいただいたメッセージに沿いながら、
ちょっと幸せについて南先生交えて考えていきたいなと思うんですが、
集まったメッセージも本当それぞれで興味深く読ませていただいたんですけども、
今日はその中で5つピックアップさせていただきまして、
漠然としたっていうとちょっとあれかもしれないですけど、
ライトなありふれた幸せを綴っていただいたものもあれば、
結構その社会っていうかね、
社会課題みたいなものが背景にあって、
ちょっとその幸せなんだけど、
ちょっとその幸せも感じにくくなっているところも人によってはあるのかなみたいな、
そういった現状を感じさせるようなメッセージまで、
絞りに絞って5つ、もっといろいろ本当はお伝えしたかったんですが、
今回ちょっと5つに厳選して、
結構年代も別々で、
バラけましたね、
ということでご紹介していきたいと思いますが、
まず最初のメッセージ、63歳女性の方、心肺症花咲ばあさんからです。
同年代の子と比べておしゃべりが少なく、
発達についてちょっと心配もしていた4歳の女の子。
最近急によく話すようになりました。
具体的におしゃべりしてくれるまでに口が達者になりました。
一緒に行こうと興味がある姿や、
初めて食べたビワを前にも食べたことがあると美味しそうに食べている
可愛い孫の姿で癒されて幸せを感じています。
ハートマーク。
何気ない日常の幸せというかね、
お孫さんのことって多分気になってしょうがないと思うんですよね、日々ね。
自分でも心配症っておっしゃってますからね。
もしかしたら心配症、
花咲ばあさんが本当にこう、
発達障害じゃないかもしれないけど、
発達障害かもって勝手に思い込んでいたこともあるかもしれないですよね。
そうなんですよね。
花咲ばあさんは孫さんが、
もしかしたらちょっと発達障害の疑いもあるのかなというような、
そんな心配もされているということでね、
お寄せいただいていたんですけど。
でもなんか私の、
今娘が小学校4年生なので、
本当に、
2歳とか3歳とか、
地域で、
子どもの発育がうまくいっているかみたいな検診みたいなのがあるんですよ。
定期的に。
その後とかに近所のママたちで、
どうやったこうやったみたいな話に一旦なるんですよね。
その時に大抵、
本当に5人に1人ぐらい、
うちの子ちょっと、
グレーかもみたいな話題になるんですよね。
いつも、
そうなんだとか聞き流していましたけど、
グレーとか発達障害とかって、
私が小学生の時は本当に、
普通にいたクラスに。
でも今結構、
分かれる教育の場で、
クラスも分かれるし、
別の支援の仕方をする方向に、
社会がなっているのか。
まず、
発達障害かどうかっていうのは、
もしくは、ここ数年で一気に広まっていったってのがあるんですけど、
昔からでもやっぱり、
発達の遅れとか、
言葉を話す話さないとかっていうのは、
明らかに個人差はあるはずなんだけど、
いろんなところで、
周りと比較してしまうっていうのが、
すごく出てくるところで、
それで不安に思っちゃうっていうのは、
この方だけじゃなく、
多くの人が考えているところ、
感じやすいところですよね。
親だと、めっちゃ心配で、
育休中の時とかって結構時間あるじゃないですか。
自分と子供を、
さらに周りの近所とかっていう情報源になるので、
ネットで、
子供喋らない、
何それとかって、
検索したりとか、
そこから、
出てくるものを信じていって、
余計に不安になったり、
病院とか連れて行っているわけじゃないのに、
自分の中で確定しちゃう。
うちの子は、こうだ、みたいな。
はては、でもやめた方がいいんだろうなって思うんですよね。
わかんないじゃないですか。
たまたま出てきたもの、
そういうのが、さも正解のようになっちゃうんですけど、
ただ、それぐらい不安になるときってあって、
不安を解消するためのツールがすぐそばにあってしまうっていうかね、
それが結構、スマホがある今とかつてとで、
違う部分なのかなと思いますし。
ネットは結構やっぱり大きくて、
かつても今も比べちゃうっていうのは起きてるんだけど、
かつてであればまだ出会える他者、比べる他者ってある程度固定されたのが、
ネットはもう世界中に広がっちゃってるので、
どこまでもそこで比べちゃう、目に入っちゃうっていうのが大きい気がします。
ただ、このコメントで面白かったのは、
比べちゃって不安になって心配になるんだけど、
幸福を感じているところって比べてないんですよね。
確かに。
幸せだと感じるってやっぱり個別具体な話だし、
目の前のその子とのやり取りっていうところで感じられるもので、
他の子よりなんとかっていうのは多分、幸福に感じるところは意識が入ってないんですよね。
確かに。他の子となんとかは心配するところだけども、
なりやすいですよね。
幸せと感じてるところは全然違いますね。
その人だけの、急によく話してくれる。
他の子より早いから幸せって多分なんないんですよね。
確かに。
若干優越感はあるかもしれないですけど、幸せではない気がしますよね。
確かに。
安心感とかとは結びついてくるかもしれないですけど、
その幸せっていう尺度とはまた違うところにある気がしますよね。
比較で感じる優越感って、今度は逆に追い越されるかもしれないっていう不安が伴いかねないんですよね。
なるほど。危ういものなんだ。
だけど個別部隊のここでのエフィスほどっていうのが変えられるものではない。
近づけないっていうところに幸せが感じられてるんだろうなっていう気がしますね。
確かに。
マウント取ることは別に幸せなわけじゃないってことですね。
本当ですね。
再現がなくなっていきますよね。
確かに。なんか余計辛くなりそう。
でもそう思うとちょっといいですね。花咲バーソン。
なんかちょっと嬉しい。
一つキーポイントがいただきたいですね。
こういう人の具体的なプチ幸せ聞くとなんかちょっとほんわかしますね。
それも要因で、子育て場面でも他の子に比べて何かできたら褒めるっていうのは励ましとしてはいいんだけど、
それが子供にとってその場面では嬉しいんだけど、逆にそれが続くっちゃうと他の子に勝ってないと褒められないってなって。
不安を指を越しかねないっていうことなんですよね。
確かに。ちょっといろいろ反省するところが個人的に出てきそうで、ちょっとそれ後ほど聞こうかな。
学校とかクラスとかでなるとされる空間というか。
そういうのを要求してますからね。
そうですよね。誰々ちゃんはできたとか誰々くんはできてないとか。
自分は今この辺りだとかっていう。子供も自分で、小学生ともなるとランク付けというか、自分がどの辺りにいるかみたいな。やってる気がするんですよね。
結構子供の遊びとかでも、ちっちゃい頃とかは本当にただ一緒に何かやってるのが楽しかったのか、だんだん勝ち負け的な。
勝ったから嬉しくなるっていうのは、それが成長発達にもあるんだけど、社会の空調っていうのも結構大きい気がする。
そうですよね。そうなんだよな。
なんかちょっと親としては、そういう発言がちょこちょこって出てくると、逆に私はあんまり比べないようにしてたんですけど、
そんなやっても意味ないよみたいなことは言ったりしても、あんまり子供にとってはそういうの刺さらないというか。
今のところクラスが世界の全てみたいになっているので、わからんですね。
でもそれが社会性を身につけるみたいな成長の過程。
とも言えますね。
とも言える。
社会そのものが壊れている社会に適応していくって結構しんどいしね。
しんどいしんどい。
難しさがありますよね。
教育の場所って本当に大事ですよね。
でも大事なんですけど、近所が先生の人が多くて言われたのが、
ママさんお家で怒ってくださいねって。
学校では生徒が怒ったりとかあまりしなくなっているのでって言われました。
すごくちょっと表面的すぎますね。
なんかいろいろ今、学校とかで指導するとかっていうのをしない先生が増えているみたいなことを言われましたね。
それ気をつけないと、ただの責任回避というか、そういうことで使われることもあったりするので注意が必要で。
暴力はダメ、それはもう明らかなんですけど。
しかることと暴力ってイコールではないし、その育ちを育むっていう意味でダメな部分を指摘するっていうのは必要な教育の働きかけでもあるっていう。
結構さっきの幸せの話と同じですけど、教育とか人と人との関わりって個別具体的な文脈とかそういうことがあって初めて成り立っているので。
教室場面での教師と生徒のやりとりって、そこの発言だけを切り取っても多分意味がなくて、それまでの関係性があるからこういう言葉が出てきて、それで意味を出すっていう部分があるので。
メディアとかそういう記者会見とかでそうはしてるんですけど、部分だけを切り取っても実はずれてしまうことがあって。
でもそれ多くないですか?部分だけ切り取ったやつだけで翻弄される私たちっていうか。
直感的に反応しやすくなるからなんじゃないですかね。前段とか経緯、文脈があると考えないといけなくなるじゃないですか。
それ取っ払っておいしいとこだけ食べてた方が結構満足度が高いんだとか。
でもそれあんまり良くない社会作る要因にもなって。
切り取られてる側からしたらたまったもんじゃないみたいな話もいっぱいあるはずで。
特に人の育ちに関わる教育場面っていうのは、そういうの、その難しさも含めて関わっていくものでもあるので、叱らなければOK、正解っていうものでもないはずですよね。
学校の先生になる子たちも結構今若い子たちがどんどん学校の先生になってきてる中で、自分もあまり叱られてないとかっていう背景もあったり。
学校の先生の中で若い先生をどう指導していこうかみたいなところで悩んでるおばちゃん先生との会話の中でそういう話があったってなりますよね。
教師の中で出てくるのは、子どもとの関係っていうのは難しさも含めて何とかやってるんだけど、やっぱりさっきの保護者との対話とか、あるいは同僚とか上司からの言われることとか。
早期に離脱していく教員の多くはやっぱりそっちですよね。
他の仕事に比べても養成課程もしっかりしてるから、なんとなく教師ではつけないんですよね。
だから思いがあるんだけど、思いと現実のギャップだったりとか、いろんなことが重なって。
親御さんが結構前に前に来るようになったみたいなのがあるんですかね。
モンスターペアレンスとかって言うワードって何年前から出てきたのかあるんですけど。
結構20年とか経ってる言葉ですよね。
私が小学生の時はまずなかった。
47歳小学生の時はなかった。40年前もなくて、だからやっぱり10年、20年くらい前かな。
親同士の共同というか、愚痴を語れる場とか。
モンスターペアレンスの多くはやっぱりその裏には親に対する責任。
子供が何かしでかしたらそれは親が悪い、親の助けがなってないとか、そういう圧力がついていて。
それが子供が何かしたっていう時に責められてるんじゃないかっていうことの裏返しで、子供のためにと思って要求をして、それがずれてしまう。
他方でモンスターペアレンスって言葉も学校側の過剰反応って部分もあるんですよね。
理不尽な要求ってパターンも多いんだけど、それをまあまあとはいってもねって言ってゆっくり聞ける余裕が学校現場にあれば
問題になってなかったんだけど、学校現場も本当にいろいろあれやらなきゃ、これやらなきゃっていうのが置いて建てられて、人も減らされてっていう中で
理不尽な要求ってくると、もうそれで潰れていくっていう。教員同士の支え合いも弱くなってきてるとか。
多分いろんなのが重なってスケープゴートをモンスターペアレンスとって分かりやすいワードで出してるだけで、
その後ろには社会の親責任の圧力と教育現場の教師の多忙化とかがいろいろ重なって起きてる現象で、
モンスターペアレンスをやっつければOKとかそんな単純な話じゃないよっていうのは、さっきの分かりやすさみたいな話からは見落とされがちな。
お互いいたわり合いたいですね。数が少なくなっている先生たちのことも親もいたわりたいし、
友働きで余裕ない親のことも先生からもいたわってほしいというか、みんな余裕ないんだなあ。
それぞれそうなっているには理由があったり背景に基づく事情があったりなんでしょうけど、
なかなかそこに目を向ける余裕がそれぞれになくなってしまっているっていうところで、
衝突がより起きやすい状況になっちゃってるんじゃないかなっていうのは結構、
新聞記者もやっぱり人と人との間に割って入っていくところがある仕事なので、
結構そういう人間関係の衝突、関係の中での衝突とかをじっと見ていると、
何がこれ元でこうやって衝突しちゃってるのかなっていうことを辿っていくと、
やっぱり相手の立場に立って物が考えられていないっていうところが、
結構きっかけになってしまっていることってあるんだろうなというのは思ったりすることありますね。
逆にそれができるようになれば、お互いウィンウィンだし、
ウィンウィンということは幸せにつながっていくとなんじゃないかなとかっていうのはね、
結構考えたりはするんですけどね。
さて次のメッセージいってみましょうか。
今度は親さんからのメッセージですね。
七つ星さん、42歳女性の方です。
朝子供たちに行ってらっしゃいと送り出す瞬間が私の幸せです。
小さかった娘はもう6年生。
送り出すのに機嫌を取ったり突き沿ったり、顔色や表情を見てきました。
最近なんだか調子が良さそうで、送り出す際に手をそっと触り、
曲がり角で振り返ってニコッとはにかみます。
ジバッと幸福感で満たされ、涙目になりながら出勤しています。
この瞬間はずっと続くものではないなと思いつつ、
今の大切な私の幸せ時間です。
6年生ともなると、だんだん終わりも意識しているというかね。
見送ったり、行ってらっしゃいって前向きな気持ちで送り出せるのも
終わりが近づいているのかもしれないなっていう。
このエピソードで私もじわってくる。
読み上げながらね。
かといって私がそういうように娘を送り出しているかとはちょっと違うけど。
行ってらっしゃい、行ってらっしゃいみたいな感じで。
一生学4年生の子供がやっていますけれど、ちょっとまだそういう余裕がないですね。
余裕がないけども、でもじわっとくるな。
例えばかつてはだから行きたくないっていうのを何とか期限取って行こうよとか
いろいろ格闘していってるんですよね、これ多分。
本当だ、確かに。
突き沿ったりとかね。
大変な6年間、6年目に至るまでの。
顔色や表情を見てきましたって書いてますもんね。
毎日毎日細かな娘さんの表情とか言葉とかを伺いつつ
そこに沿うような形で送り出してきた。
お母さんの努力も見えますね。
幸せとか不幸福って、いいことっていう風に見られてるんですけど
たぶん毎日いいことだけだったらここに幸せ感じてない気がする。
確かに。
しんどいこともいろいろあったけど、今振り返ると
それも含めて幸せだったのかなっていう風に振り返られてるのかなって気がしますよね。
幸せって対比によって即対的に感じられるものっていう側面もありますよね。
毎日普通に何事もなくいってらっしゃいで終わってたら
当たり前すぎて幸せと感じないみたいな。
起伏があるからこそみたいなところがあるんでしょうね。
確かに。
ちょっとあれ違うかもしれないですけど、
休みの日になったらめっちゃ幸せだったでしょ。
普段もうハードワークで。
でもその逆がね。
この休みになったら映画をまず見て、ネットフリックスでこれ見てみたいな。
そういうの。
そういう、もう全然ちょっとなんか
慌ただしそうなんですけど。
そうですね。
でもそうか、対比も大事なんかな。
さっきの花崎さんの方でもそうですよね。
心配してたのがそうじゃなくてっていうことがあるので。
やっぱり幸福って感覚的なものでもあるので、
その前がしんどいとそれに比例して感じやすくなるっていうのはありますよね。
ただずっと続くものじゃないって、
ちゃんとそれを今から予見してるっていうのもすごいですよね。
有限性みたいなところに目が向いているっていうのがね。
これなかなか実は実感しづらいことって言いますよね。
幸せだとそれが続いて欲しいっていうふうにやっぱり思うから。
でもそれが逆に束縛になったりするようになったりするので。
確かに。続くもんだと勝手に思っちゃってますね。
親の側は親として変わらないけど、
子供の側はどんどん成長していって若者になって変わっていくっていうのは
変化は明らかに子供の方が早いので。
でもね、こうやって日々の何気ない日常の中で幸せが探せるっていうのも
この時代だからこそ大事な要素なのかなと。
幸せだと、もちろん社会的に分かりやすいものとか。
子供が賞を取ったじゃないけど、できるようになったとか。
なりがちだけど、ささいの日常をうまくキャッチできてるっていうこと自体がすごいなと思いますね。
確かに。
でも、それでいくと人間もいつかは死ぬじゃないですか。
そういう有限のものだって分かって、生きることに対してどう向き合うかみたいな。
そこで、もしかしたら幸せと思えることが増えるかもしれない。あるかもしれないですよね。
確かに人は死ぬっていうね。
それを見ないようにしがちっていうのもあるんですけど、
その現実っていうのを踏まえるからこそ逆に今が貴重なものっていうふうに見えてくるのもありそうですね。
逆に不老不死とかになってしまうとそういう幸せって感じづらくなるかもしれないですよね。
だから子育ての喜びとかそういうのもずっと子供が子供のままだったら
多分感じづらいっていうのはあるかもしれないなと思いますね。
確かに。
それって言ってしまえば当たり前のことではあるんですけど、
当たり前のことになかなか目を向けづらくなってる。
そんな時代になってないかなって思ったりしませんか。
先ほど南田先生おっしゃっていただいてた、比べてしまうってあったりだとか、
あとSNSもそうですよね。
ややもすればそれぞれのアカウントの幸せ疲労回みたいな感じに、
それをみんなで品評し合ってるみたいなところがちょっとあるのかなと思うんですけど、
それってやっぱちょっと疲れるなって思うこともあるでしょうし、
また一定の基準みたいなものがやっぱりあるというか、
あんまり当たり前すぎることってSNSで映えなかったりするんじゃないかなとか。
幸せ品評会みたいになると、人の基準の幸せに自分を持ってあげなきゃいけない。
それしんどいな。
その時点で幸せじゃない。
入っていけないとかもあるじゃないですか。
どうしてもそれが普通なんだなって思うと、
自分はそこからちょっとはみ出ちゃってるのかもしれないって苦しくなったりとか。
入りたいって思うんですかね。思うのか。
そういう不幸せもあるんじゃないかなと。
現代ならではの不幸せってあるのかなと思うんですけど。
入りたいっていう欲求で入ってるというよりは、
入ってなきゃいけないみたいな。
その普通の枠から落とされないみたいな。
焦燥感はより強まってるような感じがする。
なんか私の中で、
今の若い子の方がみんな違ってみんないいみたいな。
多様性とか個人の個性みたいな。
そういうのが良しとされて、
教育とかも含めて良しとされてきてる社会の中にいるんじゃないの?って勝手に思ってたんですけど。
本当に多様でいいって社会になってるかというと、
実際には微妙で。
そこはちゃんと。
現実の社会は。
って言ってんのに、そうじゃないじゃんみたいな。
ここの道を外さなければ多様であっていいよねみたいな。
暗黙の前提があるんじゃないかという風潮を感じ取ってるような気がしますね。
なるほど。
周りから浮かなければ多様であっていいとか。
そうか。
自分の世代で行くと20年前とか高校生の時に流行ってる。
みんなが子ギャルみたいな制服が流行ってる時に、
古着着たらあえて個性的でいいじゃんみたいな。
人と違うことをするのが先進的だったり、
いいっていうか魅力的みたいに捉えられてた昔があったんですけど。
そういうのともまた違うんですよね。
SNSはやっぱり。
SNSもそうだけど、社会そのものがかなり変わってきてるっていうのがあって。
今言ったようなのは90年代に教育も含めてですけど、
個性っていうのを強く打ち出してきた風潮が。
まさにその世代です。
それっていうのは80年代までの日本型企業社会というか、
均質に労働力を育てて高めていこうっていう時代の終焉っていうのがたくさんあっていて。
工場労働、均質な労働力の時代は終わって、
むしろアイディアとかそういうのが必要だっていう時代になったからこそそういう風潮になっていって、
それが文化レベルでももてはやされたっていう時代と重なってきて。
ちょうどサブカルチャーみたいな言葉とか。
一気に広がって。
そうです、一気に広がって。
確かに。
だから個性っていうのが他と違うっていうのが価値を持った時代なんですけど、
そこがもう一順してくると今度は違う、違わないというよりはそれがイケてればかどうか。
周りからちゃんとそれが認められるかどうか。
なるほど。
外れてても周りから評価されるならOKみたいな。
そういう形になってくるので、
周りから外れる、違うことをするっていうのはそれだけ強くないとできない。
だから外れて楽しくやってる人っていうのは強い人みたいな感じがする。
外れても生きていける強さを持ってないとそっちにはいかないみたいな。
しかも外れるの度合いも今の外れるっていうのと、
私が高校生ぐらいの時の外れるの度合いが違うんでしょうね。
外れても生きていけるっていう度合いがあるかないかとか。
そういうのが大きい気がしますね。
なるほど。
昔の外れるだと、みんなが小ギャルの格好してた時に古着着るぐらいの外れるっていう度合いですけど、
多分今のこの外れるって古着着るぐらいじゃ外れるの中には入ってなくて、
もっとすごいことで外れとかないと世間的に外れるの中に値しないとか。
そういう基準も変わってそうですよね。
今の昔と。
そういう同質性みたいなものがいって求められすぎていて、
そういう苦しさもこの現代ってあるんじゃないかなっていうのは思ったりするんですけどね。
先ほどSNSで、かつてはリアルで逃げてる中での冴え。
このクラスメイトと違う自分みたいな。
この中でどうみたいな。
それがSNSの界隈でもフラット化していくっていうのは空間的にも日本全国世界中でもあるし、
さらには時間も超えちゃうんですよね。
SNSの投稿って今日の投稿と1週間前の投稿と1年前の投稿が同時に流れてくる世界なんで、
比べる対象がもう同世代ですらなくなる。
なるほど。この世界の横軸でも時間という縦軸でももう比べれちゃう。
これは同じ比較でも全然レベルが違ってきますよね。
その中で個性なんて出せない。もう埋没しちゃえっていうか、もうして当然やわみたいな。
私も周りからずれてても、もっとずれてる人がいくらでも出てくるので、
個性なんてもう怖くて言えない。
言えない。
私個性的って言われるんですみたいなこと言えない。
普通やんみたいになっちゃうよね。
しんどい。
しかも他者から見てどうみたいなところに自分の幸せとかそういうのを考え出しちゃうと、
SNSで比べちゃうと一生幸せだって思えないんじゃないっていう。
この質問とかでも、あなたは幸せですかっていうのでこういうエピソードですけど、
あなたは幸せだと見られてますかっていうとまただいぶ違う。
本当だ。
でも幸せだと見られてるとかどうでもよくないみたいな。
っていう私の個人は思っちゃいますけど。
今はそうじゃないのかもしれない。
どうしてもどう見られるかっていうのをすごく意識しすぎるぐらいしてるのが、
このSNS前世の時代なのかもしれないですね。
リア充アピールみたいな。
リア充って言葉流行った時期ありましたけどね。
流行った。
意味わからなかったけど。
リアルが充実してるみたいなやつですよね。
リアルじゃない充実って何なんだっていう。
逆にわからない。
世代ギャップが激しくて。
それだけでしんどいから裏赤で口だけ吐くアカウントとかあったり。
裏赤。
裏赤ね。
分かってるんで分かってなかったです。
アカウント2つ持ってて表の顔と裏の顔があるってことですね。
そうですね。
怖い。
鍵つけちゃったりとかね。鍵赤で。
自分が吐き出すためだけの場所にするとか。
近所の人とか親に吐き出したら別にアカウント作らず。
そういうのじゃない。
言えないんでしょうね。
吐き出したこともみんなに知ってもらいたいのかな。
本当に信頼してる相手にだけ鍵赤を教えて入ってきてもらって
共有するみたいなことをしたりしてる人もいるでしょうし。
誰にも知らせてない人が多いですよね。
そうですね。
日記みたいなもんですか。
そういう人の方が多いくらいかもしれないですね。
ちょっと思い苦しくなってきたので、メッセージを幸せなやつにしましょうかね。
やっぱり行きづらいなってなってきたので。
うさこさん、50歳女性の方です。
高校生の息子2人、娘1人のお弁当を作ってきました。
早朝のお弁当作りはなるべく下ごしらえを前の日の夜に終わらせても
なかなかの手間のかかるものでした。
息子2人が大学進学で家を出て、今では娘のお弁当だけ。
娘のお弁当は男の子に比べて彩りに気を使うけれど、
ほんの小さなお弁当箱におかずを詰めていくのは
男の子のそれとは比べ物にならないくらいあっという間乗って仕事になりました。
ゴールデンウィークに家族の行事があり、2人の息子たちも家に戻りました。
一度に食事の量が増え、準備するおかずもがっつり男飯。
私も張り切って彼らの好物を作ることに腕を震いました。
私の得意料理、牛すじの味噌煮込みを作った時、
関東と関西に進学、それぞれ進学した息子たちが言いました。
ああ、うまい。これが食べたかったんだ。
私の幸せは家族にうまいと言われた時だと心から感じました。
ここでも対比というか、お弁当を頑張って作ってきたというところの上での幸せみたいなのが少しありつつ。
この先、SNSとか、私たちの比較とか、そういうのがかなりそんなことよりもっていう強さがありますよね。
うさこさん何歳くらいですか?
50歳の方ですね。
はい、ほぼ私と同じくらいです。
同世代ということで。
娘さんの弁当は色取りとか気を使うというのがかわいいですね。
あんまり茶色くなっちゃったりするんですかね。
唐揚げなんとかなんとかじゃなくて、ピンクとか黄色とか。
茶色がおいしいんですよね、揚げ物関係はね。
この前段で聞いて、息子たちが帰ってきて牛筋の味噌煮込み食べて、うまいうまいって言うとめっちゃお腹空いてきますもん。
牛筋の味噌煮込みめっちゃおいしいんだろうなと思って。
食べていきたいですよね。
そうですよね、ほんとに。
これも世間一般に久々に帰ってくるとごちそうを用意したいって思い出したけど、見た目わかりやすいごちそうじゃなくて本当にたぶん子どもたちが好きなもの。
見た目は地味だけど実は手間かかるし、っていうのが面白いなって思いましたね。
確かに。簡単に寿司場でお寿司とってとかじゃなくて、ちゃんと作る。
でもやっぱり時間かかっても食べさせたかったんでしょうね。
牛筋の味噌煮込み、息子たちが嬉しそうに頬張る様子が浮かぶ。
すごい情景が浮かぶなと思いながら。
でもこのうさこさんが作ってる時もそれ浮かんでるんだよ、きっと。
この大変だったな、でも楽しかったな、嬉しかったなとかね、そういうことですよね。
じんわりするわ、これも。
いやだから。
でもそうだね。
あるんですよ、この時代も。
時代はSNS全盛だけれども、別に人の幸せがうんさん無償してるわけじゃなくって。
それぞれ。
そうだわ。たぶんこの息子も牛筋の味噌煮込み食べて実家でちょっとぷち幸せ感じてる。
だと思いますね。
嬉しいですよね。
嬉しい。これやっぱりうさこさんが息子とか娘に親としての愛情ももちろんですけど、やっぱり人のことを考えるっていう。
さっき言ったシュンスケも相手の立場になるみたいな。
人のことを考えて相手の立場になって、こうしたら喜んでもらえるんだろうなみたいな。
ちゃんと想像して牛筋の味噌煮込みっていう。
ところが幸せを作ってるところもあるのかなって思いますね。
人に喜んでもらうってことは大事やな。
そう思いますけどね。
いいね。
より見込んでると、たぶん三人組ってことは大変だったのが、二人が出てくると寂しさをその時は感じた気がするでしょうね。
それがまた違う形で消化されていくみたいな。
確かに。
二人分作ってたのを逆に彩りに置き換えてるかもしれないですね。
確かに。
お弁当の彩りに。
海苔はさみで切ってかわいくしたりとか。
手間のかけ方が違うかも。
今度娘さんの弁当がなくなった時が次の契機というか。
そうですね。何するんだろう。
幸せを探すんですね。
それもうさこさんだったら相手のためになることになるかもしれないですね。
やっぱり旦那さんのためなのか。
そこで家庭から地域に目を向ける方とかもいらっしゃるかもしれないですし。
ボランティア始めたりとか。
ボランティア、子供食堂やってみようかなとかね。
この場合は家族にという話ですけど、具体的な他者に気を向けて思いを馳せるっていうのって。
かつては別に家族だけじゃなくて、いろんなところに実はあった親戚とか近所付き合いとか。
というのがどんどん個別化されていって、忙しさも含めて分断されていって。
逆に家族だけになってしまうという振動さも場合によったら出てきがち。
その反動として子供食堂とか地域の活動がまた広がっていったというのもある気がしますね。
結果それが地域に還元されていけば、それはプラスの動きで捉えられるなと思いますよね。
確かに。でもうさこさんとか、誰かのために何かできる人ってちょっと心に余裕があるのかなって。
余裕があるからそういう活動ができるというよりは、やってるから余裕が生まれるという感じに近いような気がしますね。
よくそういう社会活動って、そんな活動できる余裕があっていいよねって言われがちなんだけど、
余裕がある人がやってるというわけでも実はなかったですね。
へー、そっか。
実際にそうやって活動していくことで、さっき言った具体的に気遣う他社が出てたり、
それに励まされて生活に針が出て生き生きとしている。
だから余裕があるように見えるっていう。そっちのサイクルのほうが強い気がしますね。
これもやっぱり何か関係性というか、余裕があるにしてもそれだけでは難しいので、
その周りに火をつけてもらうみたいな何かきっかけが関係性の中で得られるっていうところが大きいという。
余裕って物理的あるいは時間的なものだけでは実は測れないところがあって、
この幸せと同じですけど、時間はないけど精神的にすごくゆとりがある人がやっぱりいて、
時間だけはたくさんあるけど余裕がないって追い立てられてる人もいたりするし、
その辺がやっぱり具体的な他社と向き合えている人と、
SNSとか抽象的な他社というか世間とかと比べちゃうのとの差になってくるんじゃないかなって気がしますね。
世間一般だとどうしても何やっててももっとたくさんやってる人がいるから再現がなくて、
もっと頑張らなきゃいけないんじゃないかと追い立てられてると余裕がないってなるんだけど、
この辺のためにとか具体的になってくるとより限定的にやれる範囲でやる。
ちょっと反省します。余裕がないからっていうのをいい言い訳にしてた気がする私。
子供に対してもこの間遊んでくれないっていう。
ママは約束を守らないっていうクレームが入りまして。
時間をまず守らない。何時に帰ってくるって言って何時に帰ってこない。
せめて1時間以内にはメールでちゃんと何時に何で遅くなるかを説明してほしい。
ごもっともじゃない?しかも1時間も余裕持ってくれてる。すぐにメール返せなくて。
救済に言われました。
グーノネも出ませんね。
グーノネもね。すいません。本当誠に申し訳ない。
ピカチャ人形で日曜日遊ぶって約束したけど、
ガーデニングだとかちょっと買い物行ってくると言ってすぐ帰ってこず、結局遊んでくれなかった。
遊ぶって約束したのに。
先まで予定を組んで遊ぶってすごいですね。
うちの子は遊びたいって言われるじゃないですか。
その時に言い訳なんですけど、子供と遊ぶことよりも優先したいことがあったりするわけですよ。
先に風呂入れてほしいとか。宿題はもう終わってるんですけど。
自分がこの料理したいとかっていうのがあるので、
ピカチャンで遊ぶの今週日曜日で遊ぼうとか土曜日にしようとかって。
そしたらもう3時間くらい5時間くらいずっと遊べるよとか言って。
リップサービスっていうかその場所で言っちゃってるんですよね。
それを結べばしっかり覚えてるんですよ。記憶してて。
そこであれ今日ピカチャン人形で3時間も5時間でも遊べるって言ってたのに、
あいつちっとも買い物から帰ってこないなってなるわけですよ。で怒られる。
それはなんか自分に余裕がないから仕事忙しかったりとか、
家でやることいっぱい週末だと溜まっててやらなきゃいけないとかって。
余裕ないからごめんねみたいな感じで言ってたんですけど、
ちょっと今の先生の発言聞いて、余裕がないからっていうのは時間的にとか
物理的な問題だけじゃなくて、ちゃんと向き合うっていう。
ちょっと子供から逃げてたなって今ちょっと一瞬思いましたね。
いやでも結構なんでもそうかなと思ったんですよ。
時間がないから本が読めないとかって結構言い訳にしがち。
時間がないことをしがちですけど、結構本当に読まないといけないぞ、
これ読まないと仕事にならないぞっていう時ってスッと読めちゃったりするじゃないですか。
なんかやっぱりいろんな繋がりの中で、関係の中で、要件要件の中で
本気度を高めるみたいなね、そういうところもあるのかなと。
次からちょっと余裕がないからって言いそうになった時に、
その余裕って何ですかって自問自答するようにしよう。
もうヒュッと自分に戻すみたいなね。
待って待って今余裕ないからって言いそうになったけど、その余裕って何ですかと思って。
あと結構時間って誰にも平等に進むのは済むんですけど、
その体感は結構違うっていうのがありますよね。
だからさっきのお子さんがすごいなと思ったのが、
日曜日までのスパンっていうのをちゃんと待てるっていうこと自体が。
例えば20歳の人にとっての1時間と5歳にとっての1時間って全然違う。
それまで生きてる。
自分の人生の何分の1って考えたら、子供ってすごいやっぱり短い。
だから年が取れば取るほど年月が経つのが早くなるっていうのは、
それも自分のこれまで生きてた人生の割合で考えれば、
完全には自然な流れなので、
その認識ギャップが大人と子供のディスコミュニケーションになるっていうのは結構ある。
同じように考えてた。
あっという間に週末来るよって考えてた。
我慢させてる。ちょっとまた反省する。
楽しみ度合いが全然違うんだと思うんですよね。
この時間はギガチャンギアで遊べるんだって。
その楽しみ楽しみっていうのがループしてることもあるかもしれないでしょうし。
ちょっと待ってねーのちょっとってどれくらいなのかとか。
それは本当そうですね。
わかりやすく言えば大人と子供だけど、
たぶん同年代でもその感覚でそれまで生きてきた経験によっても違ってくるし。
確かに。
会社とかでも後輩の子に指示するじゃないですか。
これやっといてねって。
あれ?上がってこないな。
それのミスマッチが起こった時に、
その後ぐらいからいつまでにやったらいいですかって聞かれるようになりました。
そんなのすぐじゃね?とか勝手にそんなのすぐでしょって思っちゃったんですけど。
やっぱり人によって違うんだ。
さあそんなわけで3人の方のメッセージ紹介してしゃべってまいりましたが。