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#158 「岐阜空襲を伝えたい」。93歳の初証言▼戦後81年。きょうだいと懸命に逃げた真夜中の記憶▲
2026-07-12 44:41

#158 「岐阜空襲を伝えたい」。93歳の初証言▼戦後81年。きょうだいと懸命に逃げた真夜中の記憶▲

「あの日のことを語りたい」。岐阜新聞本社へ電話を寄せたのは、12歳の頃に岐阜空襲を経験した書家・安藤秀川さん(93)。記者が自宅を訪ねると、きょうだいと共に命懸けで逃げた真夜中の記憶について語り始めた。

※このエピソードには、戦争体験の証言として、ご遺体や空襲被害に関する内容が含まれます。

【聞き手】山田俊介(報道部)

【関連記事】◆ぎふ戦後81年 岐阜空襲伝えねば 安藤秀川さん、初めて証言 焼夷弾の雨、きょうだい連れ南へ(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/736202

◆【岐阜空襲81年】焼夷弾の落下音、泣き叫ぶ声…点字手記が伝える恐怖の一夜(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/736350

◆岐阜空襲から81年、平和の尊さかみしめる 岐阜市で「平和の鐘」式典(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/736580

◆岐阜空襲81年 900の灯籠 平和祈る(→https://www.gifu-np.co.jp/articles/-/736707

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感想

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岐阜新聞ポッドキャスト▼ききかぢ、報道部山田俊介です。
今回の日曜日の配信は、岐阜空襲についてテーマにしてみたいと思います。
先日、7月9日の岐阜空襲の日に合わせて、記事にしたインタビューの様子をお届けしようかなと思います。
太平洋戦争をまって終戦まであと1ヶ月余りとなった1945年の夏に、岐阜空襲は起きました。
ちょうどアメリカ軍が日本各地の都市に、焼夷弾による空襲を行っていた時期でして、岐阜市というのもその対象になったんですね。
7月9日午後11時台にB-29による攻撃が始まるんですね。
木造家屋が立ち並ぶ市街地では火災が急速に広がって、一夜にして市街地の大部分が消失しています。
およそ900人の方が犠牲となって、多くの人が住まいや日常を失ったということがあったんですね。
今回お話を伺った安藤周船さんは、その岐阜空襲を体験された方です。
本年93歳ということで、このポッドキャスト2年以上続けてきているんですけど、90代の方の肉声をお届けするというのは今回が初めてなんじゃないかなと思います。
これまで安藤さんは大概的に戦争体験を語ることというのがなかったそうなんですが、
ご自身もお年を取ってこられている中で、来年まではもう待てないかもしれない。
今まさに岐阜空襲について話がしたくなったということで、岐阜新聞の本社に連絡をくださって、
今回初めてその経験を証言してくださいました。
ぜひ聞いていただきたいと思います。
安藤さんよろしくお願いいたします。
岐阜空襲から81年が今年で経過するということですけれど、
どうですかね、当時のことを振り返られた時にまず思い起こすことといいますか、
まずその当日7月9日の夜のことだったと思いますけど、その時はどちらに見えたんですか。
まずはね、岐阜駅の裏側、400メートルぐらいのところにカノーテンマンゴがあって、
その町内で実家があるんです。そこで職業は線職業、染物。
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で祖父は日本画の絵描きで全国をあちこち遊歴をして古典などをして成形を立てておった。
で自分の家にも画室を設けて、画号は桃城、稲の城とか、稲のお城の城、桃城、安藤桃城という画号で生涯絵を描いて亡くなった。
でその祖父がですね、岐阜の空襲の20日前に三重県の四日市へ、その頃は陰境をしておった。
一人住まいで。で食料が乏しい時期だから、私の父が食料を持って訪れたら、運悪くその時に大空襲にあった。
で祖父は足に大火傷をして、何とか岐阜へ戻ってくることができる状態で、
父としては子どもたち3人がまともな避難の仕方では命を落とすのではないかという自分の経験を元に、毎晩こうなる警戒警報、空襲警報。
警戒警報が鳴ると自分の家からこの近くまで400メートルがありますからね、まず夜逃げるんですね。
でそれを5回ぐらい20日間の間にやっとったら、ついに本番が来たわけです。
でその逃げるというのは、私が12歳で5年生の弟と小学2年生の妹、その2人の兄弟を連れて逃げなさいということ。
私たちは長男ですから非常に責任が重い。
で当日岐阜駅の辺にまず焼夷弾が落ちた、その瞬間から自分の避難生活は始まる。
でまずどちらの方に逃げたかというと、赤鍋方面。
南の方へ逃げられる。
宇浦の方ですね。宇浦赤鍋方面へまず逃げた。
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で子供が3人ですからね、まだ小さいですから、夜11時から始まった空襲は非常に逃げるのに困難を期待した。
子供3人ですから、もし離れたらお互いに命を落とすんじゃないか。
で上からは焼夷弾が追ってくる音が常に聞こえる。ザーッという音。
自分の方に追ってくるような気がしてしょうがない。
その音がすると道端に伏せる。
あ、音がすると道端に伏せるんですね。
でその時には防空頭巾を厚いけど被っておって、それから小さな布団を持たされと。
布団を持たされるんですね。
まあちょっと自分の体を、要するに頭を守るような布団を。
そして逃げて歩いたんやけど、しまえねえ。みんなどっか行ってもらって逃げて歩く間に。
履物も全部無くなって裸足になってもらって。
ああでももうそのぐらい。
逃げるんですよ。
逃げるのに必死でっていうことですね。
そして自分が真夜中ですからね。真っ暗ですから。
10日間制で周囲には街灯も家の明かりもないの。
真っ暗の中、3人で。
ただ恐れるのは周囲が全部燃え広がって。
つまり言うと、赤の海にここに私たちがいた時は
サバの方、それからヤナイズ、ギナンチョウ、カサマツホウ、全部火の海なんですよ。
すぐ近くではない。500メーターとか600メーターぐらい燃えてるんです。
どちらへ自分が、岐阜はもちろん燃えてるんだから、どこへ逃げたらいいかってことやね。
確かに岐阜駅に落ちたのと、ここに逃げ始めていて
南へ南へ赤鍋方面に行ってるわけですけど、周りにある街も遠くに赤い火が見えるわけですか。
どんどんどんどん燃えてくるんで、自分としてはせっかくは逃げたけど
あとどちら方面へ兄弟3人が逃げたら助かるのかなということを考えて行動したら
カサマツ方面だけちょっと燃えてない区域が見えたんですよ。
火が上がっていないのでちょっと暗くなっているという感じですかね。
それがカサマツかどうかは知らなかった。自分がどこにいるかわからない。
もうあちこちに逃げてあると思うんで。
ひとまず南へ向かっているっていうことが大体わかってる。
牛首の方が燃えていることは大分かりですから。
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赤々としたのでわかるんで。
振り返ったりとかしてました?
振り返る余裕はない。上から追ってくるもんね。そればっかりで。
上からもですし後ろも追ってくる。
もう最後逃げて、ちょっと見たら暗いところに鉄橋が見えるんですよ。
あれこれカサマツへ逃げてきたんやな。
あのカサマツの鉄橋が見えた。
それでどちらへ逃げたかわかった。
それまでは東か西か、もうあちこちに逃げると思う。全然わからない。
それから七八国の川、田植え時期、水が入っている田んぼのね。
これから小さい川は水がまんまんと流れている。
そこを逃げるんやから、ひょっと川に溺れてしまうということも考えられるんで。
妹は二年生って言ったら本当に小さいんでね。
その妹のことを一番かわいながら。
妹は選手リレーをやるようなスポーツが得意な妹や。
それが普通のおとなしい妹やったら、そこで命を落としとったかもわからん。
連れて歩いても。
三人とも何らかの支障を受け足したと思うけど、三人がこぞって逃げれたんで。
じゃあ最後まで誰かがはぐれたりとかということはなく逃げ続けることができたということですね。
その間に起こったことはね、一番大掛かりに避難してくれそうとあったのは、
女子師範学校が、今の付属のところにあったんですよ。
そこの女子師範学校がちょうど今の高校2、3年の若い女性ですので、
我々にとっては相当なお姉さんなんです。
もう悲鳴が聞こえてさ、非常に心強いことが心強かった。
あ、そうですよね。そこに人がいるということもわかるわけですかね。
あとは無口やし、おじいちゃんおばあちゃん、子供が全然走らないの、我々のような。
先、避難をさせるということはまずないんで。
大人ばっかりですから、その中で若い集団が悲鳴を上げて騒ぐんで、
心強くそちらの方を逃げて歩いて。
最後はやっぱりちょっとしたドブ川で、お年寄りの人が車を引いて、
上車なりに川へはまって、悲鳴をあげながら助けてくれという声をあげても、
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こちらとしては踏む気さえできへん。
他人のことで、我々3人だけが頑張らないかと思うんで。
それを3時間、11時から2時まで。
3時間。
そして、一応鉄器が去って音がしないんで、これで空襲は終わったなというふうに、
我々子どもでも感じたわけね。
さあ、今度は田んぼの中にいるんだけど、当て道で寝るわけにいかんし、
どっかで寝ることがないかもんで、
まず考えたのが、そこに堺川という川が流れておったんよね。
川辺りのとこまで行って、考えたわけですけど、
そうしたら、ちょっと離れたところに笠松へ行く道路があった。
今でもあるんですが、城東通りの延長で笠松へ遊ばれたの。
あの道がわずか近くに見えた。
そこら辺で話し声が少々聞こえるもんで、
ここら辺には避難している人がいるなと思って行ったら、
その道路と川との間に空間があるんですね。
やっぱり大きい道路だから、川は下の方に流れるんで、
そこに、だって子供の背が届くか届かないくらいの空間があって、
しかし草ぼぼうですよ。今のようにきれいにしたらしい。
そこに大人が横たわっている人があった。病人なんやね。
30人くらいいたんだけど、2人ばかりの病人を連れながらのそこで避難をしていた。
我々3人がそこに近づくんで、こんなグループって夜中に見たことないというもんで、
そのおばさん連中はこっちを越えていて、3人を大事に引き入れてくれて、
その橋がなかったら、もうどうなっていたかなと思うと、運がよかったと思って。
その橋の下に横たわって草むらやね。裸足やし、衣類がずぶ濡れて汚れてるし、
非常に苦しい中だけど、ただ子供が逃げて歩いて、くたくたでもうへばって寝てしまって、
妹は弟はもう早々に寝て、しかし私としてはこのままここにおっていいか、
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いろいろ迷いながら寝ずにいたんですね。そうしたらこういうことが起こった。
国道ですから愛知県側と通じているわけやね、笠松の橋を渡って。
消防自動車が来るんですよ、サイレン鳴らして。
まず1台通り過ぎたので、こんな時に消防自動車がどっち行くんだろうと思ったら、
牛のほうに向いて行くから、牛の消化に来た。
最初1台だけだと思ったら、5、6分たつと1台ずつぐらいずつどんどんどんどん来る。
これはちょっと数えないかなと思って、非常に自分としては心強く思った。
こんな大変な時にはね、たすけに消防自動車が愛知県側から県側へ来るということは、
これはすごいことやなと思って。
やっぱり念のために病院で数えて、27台まで俺数えた。
27台でも通っていったのは近くと思う。
28時間の間で必ず通った。そこで寝たかったよね。
その後はどのくらい通っていったか分からんけど、
少なくともその間隔から言ったら、やっぱり40台近くが27まで数えとったんやで。
40か50か知らんけど、向こうへ行ったなと思って。
日本もすごい国やなと思って、本当に心強く思った。
そして朝はね、4時半ごろに明るくなりますからね。
疲れとったんで、やっぱり7時ごろだったと思うけど、
目が覚めて、次の行動に移るわけやけど、
裸足でそのアソファルトの道を、
加納小学校は我々が通った学校だから、
そちらの方へ向けて行けば自分の家の方へ近づくということで、
ぶらぶら歩いて行ったんですよ。
歩いて来たり来たり戻って行ったわけですね。
裸足で行ったんで、哀れな学校やったと思うんですよ。
そして運動場を通り過ぎようと思った時に、
びっくりしたのは、加納小学校の隣に女子師範学校があって、
校舎で言うと、3校舎の2階段で6教室ぐらいのある長い建物が、
18:01
全火に一斉に火の手が上がるような燃え方。
箸っぽから燃えてるような、わーって燃えてるところへちょうど行ったんですよ。
それは時間的に見ても、7時とか6時、何時か分かって、
時計持ってないから分からんけど、明るいんでね、火もちょっと差してるし、
その光景って、すごいことやなと思って。
実際はそれの何千倍でも燃えてるけど、実際燃えて近くで見たのは、それが。
一番強烈な記憶が残っているのが、女子師範学校の全体の火事。
自分の小学校は4校舎あったけど、燃えてなかった。幸いにして。
それから学校を出て、家の方へ行くためには約1000mあるんですよ。
小学校へは1000mぐらいの距離で通ってたんで、自分の家の方へ行こうと思って、
小学校の前を通ったら、前に小さい公園があって、焚き出しをやってるんやね。
その頃は組織がしっかりしとって、国防婦人会っていうのがあって、
忙しいお母さん方が、おにぎりを作ってくれたんです。
そのおにぎりをもらって、本当に助かって。
その時に、あなたたちは何三人で、逃げようって言われたから、
今、東京に逃げたんや。今、家に戻るとこやった。
そしたら、後ろの方におったお母さんが、あなたのお母さん、お父さんが、
心配しとったよって言われて、生きてるなって。そこで初めて分かったわけよ。
カノーの町っていうのは割と小さいし、僕の店はそうやって消化やったんで、
いろんなお得意さんがあって、割と有名な店ではあったんや。
いろんな人が知っておってくれて、心配してみえたんで、
早速家の方へ行きなさいって言って、家の方へ行ったわけ。
どういう状態かっていうと、自分の家は町内で一番背の高い2階建てやと思って、
まだ10年くらい前に建てたような家で、祖父の画室も立派なのが作ってあった。
骨董品なんかが階段なんかに飾ってある家だった。その家がちょうどこのくらい高さになる。
燃えてる。木は全部燃えますから。残ってるのは焼けた瓦と、
それからこういう建物は土壁や、その焼けた土の高さがこれだけ。
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何にもない木っていうのは全く燃えてる。樹木も全部燃えてる。
そういう光景というのは、もう稲歯神社の辺までザーッと可能から。
僕は可能に立ってみてね。
大体2キロくらい先に丸仏百貨店がその頃一番高い建物だった。
多分5階建てくらいだったと思うけど、コンクリートの形だけが残っておった。
それが見えた。こちらから。
今言ったら絶対何も見えないけど、そのくらい。
それで東の方は梅林高架の一部まで燃えて、北の方は稲歯神社の辺まで燃えて、
それから西の方は大体マサゴ町通りまでぐらいは燃えてたと思う。
駅の裏の方へずっと続いて燃えてきて、可能はここら辺は残ったんですよ。
可能西小学校あたり。
この西小学校も残りましたから、そのちょっと向こうまでも燃えてる。
今度はおにぎりを食べても、その頃は麦のご飯しか食べてない生活なんで、
初めて久しぶりに白米のおにぎりは、ただ海苔も巻いてない梅干しだけ入ってるおにぎりやけど、
本当に美味しかったと思う。ホッとした。
そういう経験は今人たちは生きてないじゃないんだ。
それから自分の家の方へ来たら焼け跡があると。このくらいに自分の家もなってるし、町内中みんなこんな風に。
今安藤さん、ソファーに腰掛けてお話になってくださってるんですけど、
だいたいその膝くらいの高さくらいまでしかもうお家が残っていないというような形になるわけですね。
そこはやっぱり庭木もどこでもあったんだけど、全部燃えて、燃え尽きて。
もう本当にその土壁だったものの残骸が、今のその膝の高さくらいまで積もってるっていうのが一帯広がっているというような。
普通の火災やと、まあその頃でも、普通の火災だと柱とか壁が残って屋根柄がちょっと残ったくらいの焼け跡だったんだけど、全部燃え尽きてそうなる。
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そういう光景は今見ようと思っても見れんね。その焼け方っていうのは。
今は特に鉄骨でとか、鉄筋とか、木造にしてもちゃんと鉄骨を作ったりしてあるし、金属製の板が張り付けられたりして、
もう残骸がさ、かじっても窓の辺が黒くないんで、屋根が抜けとるくらいの光景ないけど、あたっては全く違うんだよ、全部。
全部ですもんね。
2キロ先まで丸見えない。
そうですね。今お話ししてくださったいろんな地名が出てきましたけど、かなり広範囲ですよね。南から北まで。見渡せてしまうくらい、もうその高さに。
岐阜駅はちょうど400メートルくらいのところですからね、見るとホームがちょっと高いんで、ここよりはこのくらいホームがあって、駅舎は全部燃えてる。木造やからそうなる。
たとえ柱でも残っとるかなと思ってこうやって見ても何も残ってない。きれいなもん。
そういった大変な思いをされた。歩き続け、ガラガラ逃げ回り、何とか命を繋いで、朝を迎えて、その後ご両親と再会することができて。
それからその状態の時に各所に遺体が散らばってる。
どういう状況かというと、だいたい50件か60件くらいの境内に1体くらい焼け跡にね、死体が横たわってるんですよ。
死体は普通で言うと、見えない地下のほうに埋もれてるのは普通なんやけど、この上にゾンビ浴衣を乗っとるんですよ。
その膝の高さくらいまでなったところに?
上に、油があるんで木よりは燃えにくいか何かで上に乗る。
そんで死体があることが分かるんですよ。
その死体はここから燃えにくくて胴体と太いところだけ。性別は分からん。
黒焦げになっているということ?
黒焦げ、炭のよう。
それがね、あちこちになって。
それからね、一番僕はショックを受けたのは、16銀行って言って分かります?
あの広い交差点の真ん中に親子連れの遺体があったんですよ。
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これは父親と小学生、男の子だったけど。
小学生くらいの体だったんだろうなという。
3年生くらいの子で、名前が高木と書いてあった。
名札が見えていた。
靴が燃えてなかった。道端やもんで。靴のところにちょっと名前が小さく出てるんで。
その近所の子やろうと思うんです、そこは。
まず、そこから100メーターか200メーターくらい離れた、どっかの高木さんだと思うんだけど。
半焼けのような感じですから、体は老人形みたいになって、実にかわいそうな。
普通の黒子犬の遺体というのは、みんな同じように見えるけど、その親子の遺体だけは今でも忘れんけど、本当にかわいそうなね。
逃げている途中だったということですね。
逃げている途中で、力尽きて。
それが一番ショックな症状で。
まだね、毎日親戚に泊まってたんやけど、僕が注意してやったけど、家に戻って焼け跡の整理をせないといけないもんで。
こっちに来るんですよ。街中をどんどん歩くんだけど、みんな焼け跡屋はね、もう2日目くらいでも遺体がいろんなところから掘り出されて、悲しんでいる光景もあったけど。
今回お電話くださったのが、岐阜空襲の前日にあたるわけですけど、今回こうして会社の方に電話してみようと思われたのは何だったんですか?
これはね、もう今朝の新聞見とっても、僕より5、6歳の人が聞いた話しか、遅かったとか、そんな話しか載せないんで、これはもう少し詳しいことを伝えないといかない。
どこの新聞社の見とんでもそうです。まず訪ねたのが、僕の90代の人に訪ねてないみんな。みんな80代半ばまでくらいの人。いないと思うんだよ、我々のようにしゃべるのが、世間にね。
30:02
なんとしても岐阜新聞社の話ですよ。
そういう形で、戦時中のお話をどこかでされたことってありますか?
全然ない。戦時中のことは一切。そういう機会なかった。
今回それを話してみようかなって思われたのは?
そう思ったのは、ここ、要するに2、3年、記事を見とって、こんな記事ばっかり、今年は誰かね、90代の人に話すかなと思ったけど、どれ見ても聞いた話ばっかりで、こんなことではいかんと思って、もうちょっと真実を語らなあかんと思って、
今日もずいぶん考えてさ、朝起きて日にちは迫ったけど、一旦こう話してみよう。もしまた来年もこうやって元気やったら、やっぱりまだいろいろ話すことがたくさんあるんで、時間をかけてもうちょっと早めにね。
本当にありがたいお電話で、やっぱり何か話したいっていう思いが、7月8日、明日が9日ですけど、このタイミングで湧いてこられたんだろうなって思ったんです。
そういう電話が本社にありましたっていうのを私伝え聞いて、8月にまた改めてと思ったんですけど、やっぱり今日思い立って話したくなった、今日の午後なら時間取れますっておっしゃっていただいたことを大事にしたいなって思ったんです。
僕は明日一日学校授業に行くし、学校では話すよ、生徒には。全国から来てるもんで、岐阜ではこういうことがあったって。岐阜女子大学でね。みんな学生のときは、はーんって聞いてるけど。
これからね、このこの間火曜日、あ、昨日やね。バスに小学生がね、長森南の小学生が市役所のところで降りたから、市役所の見学に行ったんやろうと思うけど、乗り込んでくるんやね。
で、だいたい5、6年の子に見えるで、お、君たち何年生?言ったら、6年生です。で、身長どのくらいある?言ってたら、155センチくらいあります。ちょっと大柄な子やなと思って。で、その子たちにちょっと話すんや。君たちと同じ年代のときに、このバスの通る道は全部焼け野原やったんだぞって言って。
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それすごい苦手やったんやで。小学校の先生に話を少し聞かないかんなって言って。小学校の先生そばにおったけど、どうされたか知らんけど。
小学生の子はどんな反応をしてました?
あ、そうですか。
大きく膨らんできているというところがあるのかなと思うんですけど、安藤さんご自身として、そのあたりの危機感みたいなものって感じてみえますか?
その国の子供というのは大変な思いをしているけど、日本人はそれを十分理解できるかなということは考えるね。我々はかわいそうな経験をしているんで。
街中もビルが乱立して、5階建て以上や10階建て以上の建物がわーっと並んどって、そこに砲弾を撃ち込まれるような戦いでしょ。無人機で。
全く想像できないような我々が戦争にあった頃と比べると。
戦争の仕掛け方というか戦い方も変わってきてしまっているという中で。
まだまだこれから数年で特に何やら変わるような気がしている。
そういった中でどうしても遠い国のことというか、自分ごととして捉えにくいところが日本に暮らしているとあるのかなとは思うんですが、
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ただやはり先ほどおっしゃったようにかわいそうということを直接経験されている世代というのが世代として思われることとしては、
ちゃんとその経験をした国だからこそ伝えられることがあるんじゃないかというところがあるのかなと思うんですけど。
こんな狭い岐阜市の真ん中で900人の人が亡くなったというようなこと、普通で言ったら信じられないと思うわ。
普通で言ったら、アクティブジーの方の記念館があるでしょう。
そうですね。岐阜駅の東側に。
障害学習センターの奥。
2階のところの奥ですよね。
あそこに焼夷弾の実物とこれから焼夷爆弾の実物が置いてあるね。
俺こんなの初めて見て、あれは今ちょうど時期だからみんな見に行かれると思うけど、ちょっと端っぽすぎるんで。
そうですね。結構奥なんですよね。
障害を受けるとわからない。
そうですね。あれもう本当に入口近くに奥にこういうのありますっていう案外奥だけでも違うのかなっていうのはありますよね。
確かに近づいていくと廊下の壁にパネルが写真が飾ってあったりするんですけど。
結構近づいていかないとそこの資料室があるということに気づかなかったりする。
あんだけいろいろあれば参考になると思う。
そうですね。やっぱりそういった実物であったりとか何か当時を伝える写真であったりですとか。
またそこに加えていろいろな証言というのを、今回こうやって安藤さんがお話ししてくださったこともそうなんですけど、
いろんな形で次の世代に伝えていかないといけないというのは、私たち報道機関に勤めるものとしてもすごく感じているところなんです。
年々伝えていかなければというところのハードルが上がってきてしまっているなというのは痛感しているところでして。
最近の報道を聞くときに、体験者が高齢化してなかなか真実を伝えにくい時代になったということを感じたので、
徳島電車のほより僕が連絡したわけで、これがみんなが語れる人がいっぱいいるときは私のターンがそんなところに出かけてもっていうふうにずっと考えていたんですよ。
これはいかんと思ったのは本当に今年で、そこにもてて自分の体もだんだん衰えてくるんで、来年再来年ということは考えてはいかんと思って、それを身近なところに連絡をしたわけで。
39:21
当時の苦しかったところを語るにしては、もっともっと時間が必要である。
すべての面でね。
ということで安藤周船さんへのインタビューの模様をお届けしました。
インタビューの途中でもお話ししましたが、今回の取材は安藤さんご本人からリフ新聞社にお電話をいただいたことがきっかけになったんですね。
寄附集、あの日について話をしたくなったというその一言から始まった取材だったんですね。
これまでずっと話してこなかったことを誰かに伝えたいと思ったと。
そういう時にその人の近くにいられるメディアがあるっていうことって大事だなというのを改めて感じた次第です。
今年も8月がやってきますが、実は私あんまりその戦争体験者の取材ってこれまでそこまで多くしてきたわけではなかったんですね。
むしろその記者という仕事をしている人の中ではかなり少ない方なんじゃないかなと思ってます。
あんまりその社内的にも平和報道の取材班とかに加わったりする機会がなかったんですよね。
なので8月が来るたびに自分は戦争体験されてる方に全然寄り添えてないんじゃないかなとかね、そういう非懸命みたいなものを感じてきました。
その気持ちが大きく動いたのが、ちょっと我慢というか耐えきれなくなったっていうふうにも言えるかもしれませんが、
去年の1580年っていう節目を前にした夏だったんですよね。
このポッドキャストでも肉声をお届けした日本被弾協の木戸須恵一さんへのインタビューさせていただきましたが、
そういった少しずつですけど、戦争ですとか平和をめぐる取材というのに関わるように私もなっていったんですね。
そして今回、安藤さんから話したくなったという思いを受け止める機会をいただきました。
これはもう平和報道ですとか、そういうジャンルに関係なくだと思うんですけど、
42:01
何か伝えたいなと思った人のそばにいられる記者でありたいなというのは改めて思いました。
それでその思いを記事だとか、今回の音声でもですとか、いろんな形で発信する。
一人でも多くの人に読んでもらったりだとか、聞いていただいたりだとか、
その思いに触れていただくためにはどうすればいいのか、そのことも併せて考え続けていきたいなというふうに思っているんですね。
なんでかというと、やっぱり情報があふれすぎている時代じゃないですか。
やっぱりいろんな思いを持ってその声を伝えても、その一人一人の声ってどうしても埋もれがちになってしまうというか、
他のいろんな情報の中で届かなくなってしまっているという側面があるんじゃないかなと思ったんですよね。
情報があふれすぎているこの時代だからこそ、一人一人の声が埋もれないためにどうするか。
今まさに地方紙にも求められていることなんじゃないかなと、そんなことを思ったりもいたします。
安藤さん貴重なお話を聞かせていただき、本当にありがとうございました。
そしてお聞きいただいた皆さんもありがとうございました。
さてラストにお知らせです。
来週7月19日はギフ新聞感謝祭ということで、
本須市の商業施設モレラギフで創刊145年のギフ新聞が皆さんに感謝を伝えるイベントを開催します。
モレラギフ1階のホワイトプラザで週日何回やってます。
キキカジのトークライブもね、2時45分から20分間クイズ王選手権の予選と決勝の合間にね、
トークライブ、私山田俊介やらせていただきますのでね、
またちょっと、そして皆さんとお会いできるいい機会でもありますのでね、
ぜひお時間ある方は遊びに来てみてください。
ということで今日はここまでです。
ここまでのお相手はギフ新聞社報道部の山田俊介でした。
そしてまた。
44:41

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