岐阜新聞ポッドキャスト▼ききかぢ、報道部山田俊介です。 生活文化部の田代理香です。生活文化部の大賀幸子です。
性能詩者の船橋康明です。報道部の堀桜です。 この番組は、岐阜新聞の社員が紙面には載らない▲のこと、▲じゃないことを本音混ぜに語り合い、皆さんに聞きかじっていただくポッドキャストです。
よろしくお願いしまーす。 お願いしまーす。 今日、多いな。
多い。 5人に集まっちゃいましたけど。
多分ね、各最多。 4人まではね、結構あったんですよね。
最近、営業さんから機材を1匹借り受けることができるようになって、 最多で4人までいけるようになって、5人だとどうなるんかなっていうのをちょっといろいろ悩んだ結果、
前使ってた1対1でインタビューとか撮れるやつ、もう組み合わせると最多6人までいけるということになって、なのでマックス6までいけると、今日も5人で撮れるということですね。
はい、なので本質はどうなのかよくわかんないですけど、5人で撮ってまいりましょうということですけど、
お盆に、なんでこんなに5人で集まれちゃうのかなっていう。 休み撮れてますか?みなさんね、大丈夫ですか?
なんとなくでも、ちょっと周りは休みな感じがあって。 そうですね。全然車もポロないですね、ギフシなら。
なんか人少なくない?少ないですよね。 イベントがすごく減って。 減ってるよね。
日常、結構ちょっと長めに書かないとまずいから。 確かにね、ちょっとそういう懐事情みたいなのもね、あったりは書き込めるっていうことですね。
まあね、みなさんどこへお出かけなんでしょうかっていう感じですけど、うちらも休めないんじゃないかという気持ちもないですけど、日々の使命はあるので、ということでね。
今日はちょっとね、空いた時間をそれぞれ見つけてもらいながら、5人で揃って撮っていきますが、今日のテーマは戦後81年ということですね。
去年は戦後80年だったので、結構各社ね、いろんな議事出して、その節目ということで、節目を機に初めて語ったみたいな方もいたりだとか、
多角的にいろんなことを講じてましたけど、81年ということで、ここからじゃあ何伝えていくのかっていうのが結構ね、難しくなっていくのかなっていうのが、
直接その戦争、第二次大戦、太平洋戦争を経験されている方っていうのが、どんどん減ってしまうというところで、
じゃあこの悲惨な戦争という戦いというのを、これからどう伝えていったら、語り継いでいったらいいかということで、
その伝えてになっている人、語り目になっている人、それを取りまとめている団体とかも結構ね、いろいろ悩んでいるところなのかなと思うんですけど、
その伝えるっていう部分で、何かちょっとね、一緒にお手伝いというか、一緒になって伝える側に寄り添っていけるような形をね、見つけていきたいなということで、
岐阜新聞ではじゃあ今年、この夏、戦後81年を機にどんなことを書いているのかっていうのをね、お伝えしていけるといいのかなということで、
今回その紹介する記事を取材した記者も交えながらお伝えしていこうかなと思っているんですが、
まず最初にですね、ご紹介する記事が、長崎原爆の体内被爆者の証言を伝えた記事ですね。
それを取材したのが、女性の記者からはるばる来た船橋さんなんですが、簡単にどんな記事とかっていうのは。
そうですね、現在の岐阜県原爆被害者の会、技法会って名前なんですが、そこの副会長の宇田茂樹さんという方に、
自身の普段の活動ですとか、それからかつての人生の経験ですとか、そういったところを語っていただいたという記事で、
結構記者として取材していて印象に残ったのは、記事の中でも入っているんですが、おばから聞いた戦争体験の話とか、
なかなか重たい話で、こういう話を僕がちゃんと今聞けているということ自体に、すごいありがたさというか、
いきなり連絡してお願いして、時間を作ってもらったんですが、すごくこういろいろ詳しいことを話してくださる。
ちょっとこれは面白いで聞かないとなって、最終的に3日通ったんです。
3日通った。
最初1日目で1時間取材して記事を書こうと思ってたんですが、ちょっとその後の取材とかがある中で言ったときに、
ちょっとこう自分の中でこれを心の中に焦りがある中で取材したくないなと思って、予定がない日に改めてまた1日それを、
1日、もちろん丸1日かけたわけではないですが、時間をもって言うもってお話を聞かせてもらって、
それから最後にもう1回確認を取りに行って、それで何度も何度も家に押しかけても嫌な顔せずに帰ってくださって、本当にありがたかったです。
よかったね。
なかなかそうなんですよね。結構時間もかかることが、割とこの平和関係の取材ってあるかなっていう、
その取材あるあるでもあるのかなとは思うんですけど、やっぱり伝えたいことがどんどんご本人からすると溜まっていくんじゃないかなっていうのが、
確かにその経験したことっていうのは変わらないけれど、その後その経験した人を取り巻く世界の状況っていうのはどんどん変わっていくわけで、
なかなかその直接あの戦争を経験された方々が、思うようにはその世界が進んでいっていないっていうところの危機感を結構感じてるんじゃないかなっていうのは、
直接聞くことでより感じるところなのかなと思ったりはしますよね。
宇田さんは今80歳で、お母さんが原爆投下時に偶然長崎市を離れていたために無事ではあったんだけれども、ご自宅は消失していると。
もう完全に焼けてなくなってしまった。
放射能の影響を恐れて家族で後藤の方に、後藤列島へ移住をされたということですね。
結構その宇田さんご自身もその体内被爆者、自分がその体内被爆者であることっていうのを後から知っていったりだとか。
小学生になってから国の調査みたいなのを知ったらしいんですけど、
少なくとも本当に赤ちゃんの時とかは熱を出すなとかいろいろあったらしいんですが、ある程度成長すると少なくとも本人の感覚としては被爆したみたいなのはなくなっているわけなんです。
元気に普通に生きていって、なんですけどその中でも被爆したという恐ろしさは自分につきまとるというか、
体に何か異常とかあった時とかにこれ被爆したせいじゃないかっていうのが起きるのが本当ですね。
実際その膝にちょっとある程度年をいってから改めて何かあったりしたとか、あとは健康診断で何か。
もちろん被爆が原因になっていることは単元で言えないんですが、何か引っかかったりとかして細かい体の不調が被爆のせいじゃないかというのも嫌なことだという。
一つ一つその事象がね、その被爆、体内被爆というところでひんまづいているんじゃないかって不安が結構ついてまわっているということですね。
そうですね。就職する時とかにこの宇田さんはお父さんから将来ね、原爆の影響というのが体に現れる恐れがあるよというふうな心配する言葉をかけられたりだとか、
結構その被爆の深刻さっていうのを年を重ねるごとにより強く感じていくことになるわけですね。
いろんな保険がある会社に入りなさいというふうに言われたらしいですね。
あの時の宇田さんってだから、すごく自分自身の感覚で健康体なんですよ。何か特に異常があるわけでもない。
なんですけど父親からいつそういうのが出てもおかしくないから、ちゃんと保険がある会社に入りなさいってすごく念のうされたそうです。
すごくそれが怖かったというか、そういうふうにおっしゃられていて、なかなかある意味背負ってそういう原爆の影響で生きてきたんだろうなと思うと、なかなか記者としては感じるようになりました。
実際に長崎には行かれたことがあるとか、そういう話はされていましたか。
もともとおばが長崎市に昔に住んでいて、そこに行ったりとかしたということで。
ただこの人がおっしゃっていたのは、長崎市自体で成長して生活していたわけではないので、当時の街並みですとかそういったことはやっぱり話せないんです。
もちろん生まれてもいなかったわけだから原爆が落ちたというような状況ですとか、そういったところに少し老い目というか、他の被爆者の方とは違うみたいなのを感じらっしゃったみたいなんですが、それを変えるきっかけになったのがこの50代のひだしゅん太郎さんでした。
このひださん、記事の中では触れられなかったんですが、中津川に何か繋がりがあるという。
名前は。
一族のルーツみたいなのがある。
昔、当社の新聞でやりさせていただいたこともあったかな。
なんでこの50代の時に思ったんでしょうね。
もちろんひださんとの出会いというのは大きかったとは思うんですけど、それまではあえて自分が何かを語るという責任を感じていらっしゃったわけではなかったんですけど、どういうタイミングだったんですかね。
積極的に話すという側ではなかったみたいで、会うまでは。
大きな本人の中で、人に話すというのにモチーフになった。
人にこういう体験を話さないとってなったのは、ひださんとの出会いと、話しに行った時のお子さん、子どもたちの反応。
すごく目の色を変えて真剣に聞いてくれる。
大垣市内の子どもがたくさんいる学童施設みたいなところに行った時に、
最初子どもたちがすごいふざけて騒いでいて、話しても聞いてくれるかなって心配だったらしいんですが、話すとすごい真剣に聞いてくれて、
その時に、あ、これだけちゃんと聞いてくれるんだったら、ちゃんとすっかり話さないと。
始末者としての、あたることによって受け継げるものというか、平和の社会に貢献できるみたいな考えがあった。
そうやって受け手のリアクションから、だんだんと自分の中に育っていった感覚だったんでしょうね。
今は、また講演活動をしながら、放射能の影響というのを伝えるために、
長崎の爆心地近くの稲の子孫である被爆稲を2015年から育てて展示をしているというような活動をしている。
本格的に育て出したのが2015年というわけですね。
被爆稲というのは放射能の影響で、実が入っていない殻も実が半分ぐらいを占めて住むという。
わかりやすく被爆の影響を示せるものとして、お考えになって育てられているそうです。
その実の入っている方は食べられるんですか?
まあ、体に害があったりするものではないので、普通のお米として食べることはできる。
明確な育て子孫として、今までの影響を残し続けている。
お米ってだって1年サイクルですから、80年経っているわけですよね、子孫でいうと。
それでもやっぱり影響が残っているんですね。
その妄想を引き継ぎ続けて育っている。
いろんな形で被爆の影響ということだったりとか、ご自身の経験というのを伝えている方なんですが、
そういった語り継ごうという催しもこの8月がいろんなところで行われていますが、
その一つ記事をまたご紹介すると、
戦争体験を語り継ぐ夕べというのが理不しない、
メディアコスモスでこの間ありまして、私と堀さんと取材してきましたけれど、
ここでも登壇された方の一人で木戸末一さん、86歳が登壇されていて、
私、去年あのインタビューをみんなでインタビューしていただいて、取材者の一人でしたけれど、
とりあえずお元気そうで、
ちょっと体はだいぶ弱ってしまっているんだみたいなことを本人もおっしゃっていましたけど、
口のほうは元気だからみたいなことで、滑り出しから絶好調で。
ドキドキしちゃいますけどね。
元気、元気。
木戸さんのお話は、去年インタビューの模様は録音、収録をさせていただいて、
ポッドキャストでも配信をしているので、また聞いていただけるといいのかなと思っておりますが、
木戸さんもいろんなことをお話になる中で印象的だったのは、
語り継ぐことっていうそのものが欲視力の一つだというふうに思っているということで、
86歳でなかなかどこかへ出かけるということ自体が、
結構ご本人にとっては不可能かかることなのかなと思うんですけど、
それでもやっぱりこういう場に出ていって、
皆さんの前でこういった経験について話すっていうことは、
それだけご自身が二度とこういうことを起こさせないための欲視力になりたいんだっていう
強い思い出を持ってやっているということで、
気持ちの強さを改めて直接お話を伺って感じたところでしたね。
木戸さんだけじゃなくて結構いろんな方が登壇されていまして、
この日はマンモ開拓の関係だとかで登壇されていた方がいましたけど、
まずはその旧黒川村から旧満州へのマンモ開拓に参加した安江貴久美さん、
今の鴨群白川町、黒川という地域の方ですが91歳が、
この敗戦後の現地であった過酷な体験を伝えたりですとか、
あとはその黒川分村遺族会長の藤井博之さんと奥様の弓子さんも一緒に登壇されているということで、
黒川分村遺族会だったりとか、黒川開拓団のことは奥様さんが繰り返し繰り返し伝えておられていますけど。
去年の今頃もちょうどドキュメンタリー映画の黒川の女たちが話題をさらっている時期で、
去年のキネマ旬報ベスト10の文化映画部門で第2位を取られています。
という中で、その時にもいろいろ話した気がするんですけど、
若い記者にもぜひ関わって取材してほしいなと思ったところで、
堀さんが取材に行ってもらえて、という感じですよね。
はい。初めて語り部さんとして大勢のうちの一人として話を聞いたことは、我が学生のうちにあったんですけど、
1対1で取材にさせてもらったっていうのが初めてだったので、やっぱり全然違うっていうか、
何だろう、さっき舟橋さん3回通ったとかいう話もありましたけど、
やっぱりこの関係じゃないと話せないこととか、1対1じゃないと言いづらいこともあるんだろうなとか、
いろいろ思って、この満州の開拓で、最初は万歳とか言って送り出されたっていう話を聞いたんですけど、
引き上げてきて、戻ってきたらもう家もないし、どうやって暮らしていったらいいのみたいな話とか聞いて、
やっぱり大きな組織によって動かされて、個人が誰への思いをするっていうのが戦争の構造だよなというのを改めて感じました。
本当にそうだよね。万毛開拓っていうのはそれが本当に何層にも低いにも渡って起きてるっていうか、
国策として大方針があって、その下に都道府県ごとの計画方針があって、各市町村ごとにも計画があって、
その開拓団の中でも大きな力と個人との関係性があってっていうのが、
特にこの黒川開拓団を考える上ではそれをすごく意識させられるなって思いますね。
恥ずかしながら小岡さんの記事とか読むまで全然こういうことがあったことは知らなくて、
もちろん万毛開拓というので日本人が向こうにいっていろいろやったってことは知ってたんですが、
そういった引き上げの時にあった、これだけ大きなことがあって、
地元であったというのは全然知らなくて、平和学習とかでいろいろ学んでると思ってたんですが、
知らないことって全然まだまだいっぱいあるんだなと思って、去年改めてすごく強く感じたことを覚えています。
特に性暴力ってなると、学校だと性教育の歯止め規定があるからなかなか言及ができないんだよね。
小学生はちょっとまだ発達段階的に厳しいっていうのもあるんだと思うんだけど、
でも県外の高校では実際に教えていたりすることもあって、
ただ多分岐阜県内ではまだそういう事例はないのかなと思うんですけど、
そのあたりもどうやって子どもたちに伝えていくかっていうのも、
それこそ本当に伝えていくというテーマとして、今後考えていく必要があるなというのは思いますね。
去年の映画ももちろん一つの手ですけど。
確かに一定の制約というか、ちょっと伝えるのが難しい要件というのが絡んでくる場合があるわけですけど、
ただ過剰にタブー視してしまうというところもあるかもしれないし、
タブー視されているという雰囲気が本人の口を閉ざさせてしまうみたいなところもあるかもしれないし、
そこの距離感を詰めていくというか、
ちゃんとその事実が世の中に伝わっていくようにするための一助にマスコミがこながっていけるという部分もあるかもしれないですし、
いろんな形でその当事者との関係づくりをしていきながら、
なかなか話しづらかったことを何らかの機会、節目を捉えて伝えてもらえるようにする、
お手伝いをするだったりとかっていうことなのかなと思ったりはするんですけどね。
なかなかそうなんですよね。
いろんな場に出て行って話をする機会が作られていくのはそうなんですけど、
そこで全部が語れるかというとそうでもなかったり、
本当はここを語りたいみたいな部分を新聞学校、広報支援というかちょっと補足していくというようなことも
メディアの役割なのかなと思ったりがあったり。
あとはこの方もマンモ開拓の関係ですけれども、
北村英美さんという92歳の池田町にお住まいの方ですが、
この方は体調不良当日、体調不良のために出席がかなわなかったということなんですが、
代わりにご長男の秋代さん、65歳の方が登壇されて、
長野県から九万州に渡って、
敗戦後の逃避行の中で妹さんを亡くされたという、
その生き上げの経験というのを、そのお母様の経験を伝えるというような一幕もあったりはしたんですけど、
私結構そこでも印象的だなと思ったのは、
開拓に携わった人というのは、
断罪してもらって送り出されているわけですけど、
この県内の人からすると侵略者なんだと。
戦争ってどうしてもちょっと被害の側面が語られがちだけれど、
加害の側の側面というのもちゃんと伝えていかないといけないんじゃないかということをおっしゃって、
そこがすごく印象に残りましたね。
黒川の女たちも加害の側面を伝えるというところでは、
データとしてあったのかなと思うんですけど。
その被害と加害の構造もすごく多層的なんですよね。
いわゆる黒川の女たちと呼ばれている、15歳から20歳前後の未婚の女性たちは、
生態に関しては被害者なわけなんですけども、
やっぱりその敗戦前にそこに、なぜそもそも当来省という地に入ったかというと、
そこに実際に住んでいた方の土地や家を奪ってそこに住まわっているので、
加害者である側面もある。
そこがやっぱりこの満州の歴史を語りづらくしているところだというところは、
北村恵美さんと秋夫さんがよくお話しされたりとか、
ボランティアで参加されている長野県あちむらの
マンモー開拓平和記念館の寺沢館長もおっしゃっていることですね。
安江さんの話を聞いている中でも、
お父さんが先に専権体として行って、
家を作ってそこに自分たちが住んだという話も聞いたんですけど、
詳しくお父さんから先権体としての話を聞いたことがないというふうに言っていて、
やっぱりやってしまったことって語りたくないというか、
記録としてやっぱり残りづらいところってあるようなと思うんです。
当時はポジティブな感情とともにあった体験だと思うんです。
土地を手に入れたとか、これ育ててうまくいったみたいな。
多分だからそういう被害に遭った人たちみたいな視点から話し直そうとするのが、
もちろん頭ではそういう人がいるというのが分かっていても、
自分の中に難しさはあるかもしれません。
だからマンモー開拓平和記念館は、
みんなが安心して話せる場所にしたいということは、
事務局長の三沢さんもおっしゃっていて、
ここは別に誰かを騒ぐという場所ではないんだと。
誰もが旧満州のことを考えて、
マンモー開拓のことを考え、体験を話せる場にするというのを
すごく大事にしていらっしゃいます。
そうなんですよね。
このテーマとか経験によっては、
なかなか簡単に語るということがしづらいんだよという話だって、
やっぱりいろいろあるんだとは思うんですけど、
心理的に安心感を持って話ができる場を作っていくというのが、
すごく大事なんだろうなというのがね、
とはいえ、本当にその経験を直接当事者が伝えるというところの
ギリギリの時期というのが来てしまっているなというのも同時に思うところで、
被爆者が話していくと、被爆者なき時代が来るというふうに
言われたりもしますけど、
ここからじゃあどうやって伝えていくんだろう、
つないでいくんだろうというのは、
伝えるという仕事をしている私たちも悩んでしまう部分というかね、
なかなか特に今、自分に関係があることじゃないと
関心を持たれづらいみたいなこともあったりするわけで、
どうしてもストレスに伝わらないみたいなところもあったりするんですよね。
どれだけ書いても伝えても届くところ、届かないところ、
その届かないところの割合がどんどん今広がっちゃってるんじゃないかなというのを
すごく思ってるんですよね。
昔こんなことがあったんだよね、流されてもちょっと困る。
そう、そうだと思う。
後ろに色々引き継いでいくというのが、
うださんたちが活動でおっしゃられていたのが、
長崎とか広島の悲惨な写真って結構今ではあって、
うださんたちはそれをパネルという形で会場で展示しているんですが、
学校側からそれらを出さないでくれって言われることが結構増えています。
なんか見て子どもたちが嫌がる。
だから載せるな、使わないでやってくれって言われることが結構。
個人的には本当にあった。
それが実際に起きたことだから、ある程度は出していった方がいい。
それを見て、じゃあこれを繰り返さないようにしようってところまで
思い足れない人が結構今はいるのかなというか。
ショッキングだったことが過去にあったで終わってもあれではあるというか。
なんかその難しさを感じました。
見せたくないからっていう風で一律見られないようにしてしまうっていうのが
果たしてどうなのかということで。
全く伝えるっていうことそのものがタブーになってしまうのは、
この戦争の経験を繋いでいくためにはどうなのかということですよね。
ある程度一律ではなくて、確かにそういうものを見てきすることで受ける。
精神面でのショックっていうのはある程度考慮しなきゃいけないのかもしれないけれども、
そこはある程度選べるようにするだとか、
伝える側にとっていろんな価値判断が求められはしているので、
いろんな形でどう伝えていくかっていうのが今まさに問われているのが、
戦後80年というのを終えて81年、82年と重なっていく、
今の時期のこの課題なのかなというのは取材してみても思いますし、
いろんな人の記事を読んでも感じるところですし、
今のSNSの状況なんかを見ててもちょっと考え込んでしまうところだなっていう。
なかなか普段こういう対話の機会も、