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2020-04-21

第172回「子どもへの体罰について」

子供への体罰について、北川はどんなアプローチを考えているでしょうか。

新企画「瞑想の基本と実践」音声プログラムがリリースされました。不安や恐れ、苦しみのさなかにある方、安らかな毎日を送りたい方に向けて北川八郎が音声でしっかりナビゲートします。
http://bit.ly/2T38kkj
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ご感想、ご質問はこちらまでお寄せください。
kitagawa@kiqtas.jp

イベント・講演会情報は北川八郎HPまで
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【リスナーの皆様へ大切なお知らせ】
番組継続のために、サポーターを募集させていただくことになりました。
サポーターの皆様には毎月、「北川八郎の特別講話」を音声でお届けいたします。
下記に募集詳細や経緯、私たちの思いを記載いたしました。
リスナーの皆様のお力をお借りできましたら幸いです。
http://bit.ly/kitapod
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北川八郎 人生を変える出会い
の音声をとってきました。そもそも、瞑想とは何か、なぜ必要なのかから、具体的な方法、最適なタイミングや頻度に至るまで、瞑想の基礎知識とポイントを、まず先生にお話を伺っています。
そしてその後、先生自ら5つの瞑想の導入をいただいています。緑色、ピンク色、黄金、金色とピンク色、そして金色と緑の瞑想ということで、それぞれ先生に導入をしていただいていますので、
こちらホームページの方にも記載がありますので、
ぜひチェックしてみていただければと思います。
それでは本日の番組をお聞きください。
こんにちは、早川洋平です。
北川八郎 人生を変える出会い、今回も公開収録でお届けします。
北川先生、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
さあ、今回もリスナーの方から質問をいただいています。
先生、読みますね。
子どもへの体罰について。
この4月から、親による体罰禁止についての法が適用されますが、
先生はこのことについて、
どんなふうに思いますか。
悲惨な虐待事件に反応しての法整備ですが、
私は虐待の根源は、
格差社会や個人主義など国が押し詰めた政策のしわ寄せだと思い、
対処療法をしても、
事件は陰湿な方向にいきそうで、
解決にはならないと思います。
ですが、これからの個人の時代へ突入する流れを止めることはできず、
私は、成果主義は必要な考え方でもあると思います。
ともすると、
賃金格差や、
教養の格差は広がっていくばかり、
時代が変わっていく中、
体罰についてどんなふうに捉えていますか。
ということですね。
これはあれですね。
法でですね、
親による体罰禁止を持った改正児童虐待防止法と、
改正児童福祉法が成立してるんですね。
そのことを受けてのご質問だと思います。
2020年4月、この4月から適用ということです。
知りませんでしたね。
知ってました?
いや、知らなかったです。
法律になったんです。
法律?
はい。
皆さん、どう思いますかね。
こんな虐待事件。
なんかやっぱり、
ちょっとこう最近は、
度が過ぎてますね。
その虐待の度。
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そうですね。
虐待の時点で度が過ぎてますけど。
痛みっていう、
私たちの時代は、
痛みはこう殴る、蹴るとか、
喧嘩するっていうのがよくあったんですけど、
心の痛みっていうのはあまりなかったんですね。
今はこう、心をねじれさせるっていうから、
肉体の痛みは治療すると治ってたんですけども、
心の痛みっていうのは、なかなか治療が難しいなっていう時代に入ったような感じがします。
この成果主義っていうのは、やっぱり私自身は、
それはあまりこう、
推し進めたくないなと思ってるんですね。
もっと広範囲な、
いろんな人間って能力があって、成果が出ないような、
幅広い、
なんか、生き方もある。
成果、数字とか、
色とか形に現れないっていう、
なんか、社会生活もあるので、
なんか、
成果主義には行かないでほしいなと思いますね。
それと、
どうですかね。
虐待の根源は、
各社社会や個人主義など国が推し進めたっていうふうには、
私は思わないんですね。
なんかこれはもう、
資本主義の流れだと思うんですよ。
整えることができない。
流れ。
うん。国が推し進めたのではなくて、
まあ、
いろんな、ヨーロッパも日本もそうなんですけど、
やはりこう、
この国を良くしたい、
人を幸せにしたいっていう、
ものがあるから、
その国からみんなが、みんなが逃げ出さないのであって、
その根本には、そのやり方は間違ってるかも分からないけれども、
政治家というか、国を動かそうとする人たちの大部分の力は、
なんかこの国で、
みんなを幸せにしたいと思って、
こういろんなことやってると思うんですけども、
まあ、国が大きくなったり、
社会の形が変わってきたり、
ヨーロッパやアメリカのこう、なんて言いますかね、
採用、私たちの採植民族と飼料、肉食民族の、本本的な、
採用、私たちの採植民族と飼料、肉食民族の、本本的な、
採用、私たちの採植民族と飼料、肉食民族の、本本的な、
本本的な違いとか考え方とか言う ようなものが入ってきて、
変わってきたと思うんですね。
何が正しくて何が悪いってのはまだ混沌の、
まだ進化の途中のような感じがしますからね。
だから全てが政策のしわ寄せだと、
私は大きく
見てそう思ってないんですよね。
やっぱりこう、私もそうだったんですけど、
子どもに対してこうすればいいって、
20代生まれた30代の頃はやってって、
まあそれが
20代生まれた30代の頃はやってて、
子どもを苦しめたんだなという
後で分かると言いますかね
その時は気づかなくて
子どものためにやってたら
子どもを苦しめてたんだなというのが
今50代60代70代になって
気がついてくるように
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対処療法をしてしまいますね
でも
こういったように
いろんな施策では
人間は変わらないような感じがするんですね
法律とか
中国がやっている監視体制とか
もちろん犯罪はいるかもわからないけど
いつも監視されていると
身を取れなくなって
自由な発想ができないから
その社会は縮んでしまいますよね
歪みが必ず出そうですね
縮みと歪みと隠れて
するようになるから
私はやっぱりお釈迦様が言っているように
イデオロギーとか
社会性では
人間は幸せにならないというのが
そっちを
本当だなと思うんですね
第三の愛
人間愛と言いますかね
ヒューマニズムとか
人を嫌わない心とかいうものに
自分はどれだけ
気づいてそれを
押し寄せ進められるかということが
その
うちの方向に
向かう方がいいと思うんですね
不思議ですよね
先生さっきこの
大罰についてどんなふうに捉えていますか
というこのご質問のときに冒頭にね
大罰というと
いわゆるフィジカルとか体の話じゃないですか
物理的な
でも先生そのとき最初に
いわゆる心なのか
そうじゃないのかってお話をされていて
何が伺いたいかというと
誤解を恐れずに
僕なんかの頃も
僕中学ぐらいの時も
なんかちょっと
なんか悪いことしたりしたら
先生に殴られたりとかあったんですけど
全然別にそれが問題になることもなかったし
殴られた僕も反省して終わりだったんですけど
まあそれもある意味
大罰かどうか分からないですけど
まあ先生が殴ったら今大変じゃないですか
そうですね
だから何が違うというか
そしてそういうものじゃないですよね
最近
僕らの中学高校はやっぱ
小学校の時はあんまり経験ないんですけども
中学高校の時は
結構先生が殴ったり
ここでこうやってたと
たくさんあったんですけど
それは私たちが行き過ぎたときに
こう戦われるとか殴られることが
あってそこにこう
善意の判断の基準みたいなのがあったんですね
だからだんだんだんだん世の中がずれてきて
なんかそこに感情が入ったと言いますか
陰湿な感情が入って
それが殴ったりした時に
なんか相手の人間性を否定するような
叱り方とかいうものを否定か
人々が両方が嫌がるようになってきたんじゃないですから
あの頃はまだ
そうじゃなくて
ジャスティスって言いますかね
正義の基準っていうものが
はっきりしてたんですよね
それが異常にねじれてきて
曖昧になってきたということと
多様化してきたから
どこまでがやっていい
09:00
どこまで悪いのか
分からなくなってきたのではないかな
もっと単純な昔の時代の
大罰で立ち直ったのいっぱいいますからね
でもちょっと複雑な社会になってきて
あと
戻りできないなと思います
さっきもね先生おっしゃってました
ほんとなんかその昔って言っても
そんな50年も60年前じゃなくて
ちょっと前ですよね
僕が言うのも変です
僕中学ぐらいの時までは
ちょうどまだ普通だったので
なんか25年ぐらいなんですかね
この
私としては人間に目覚める
目覚める人たちを増やしていきたい
っていうのが
もうあの今の仕事
仕事って私の使命と言いますかね
でまあねあの早川さんと
吉村さんとか皆さんと一緒に
なんか私たちは人間愛と
ヒューマニティに生きるっていうことを
広めていかんといかない時代と思ってますね
そこには生活主義は必要ないんではないかな
っていう人間愛の方の方が大事やな
でちょっとだけ話すと
なんかこうじゃあどうしたらいいのかって言うと
やっぱ自分自身に誇りを持って
凛として構えると言いますかね
この生き方は決して
世の中に不幸をもたらさないっていうものを
身につけた時
私たちは自信を持って凛と構えることができると思うんですよね
この間ちょっとある時期に出会ったんですよね
ある人と私と彼がコーヒー飲んでると
いきなり若い人が男性が来て
早くそこどいてくれって言って
いきなりこう喫茶店でどかされて
なんかなんでどかないといけないのって言ったら
今混んでるから
あんたたちは長話してて
いつまでも席をこうなんて言いますか
占有してるから
どいてくれどいてくれって言ってきたんですよ
でその時にこう
返す言葉はなかったんですよね
なんかこう自分がこう善意の人っていうかね
戦わない争わない傷つけない
飽きそうはないっていうことを言ってきたもんですから
なんか私はなんとなく
なんか戦うのをやめてしまったと言いますかね
そういうことがすごい理不尽だったので
いきなりなんか混んでるからどいてくれって
いっぱい人がいるのに
私とその人のところに来てよ
どけどけっていう
若い強そうな人じゃないんですけどね
なんとなくねじれたような感じの人だったんですけども
私はこうその時にもう
争うのをやめようっていう
その人と一緒に逃げてしまったんですね
後ですごく自分なんかが
これはおかしいって思い始めたんですね
でこの事件は何で
何を意味してるんだろうって
ずっと考えてたんですね
で最近思ったことは
結果として同じなんですけど
なんか凛として構える
こう逃げる善人になってしまったかなと思うんですね
逃げる善人って言いますかね
12:01
逃げる善人
そう善意に生きようとして
戦わない争わないっていつもこうなってますか
相手のために何か譲る人間って言いますかね
なってたなあっていう感じは
平和主義って言う言葉も
ありますけどね
そうですね
なんかそこが私間違ってたなあっていう感じが
最近するんですね
こう争わない戦わない傷つけない
ということをみんなに言ってきたんですけども
これが生きすぎると
自分自身がこういつも逃げてたなあって
言うんですね
つまり相手の望みに合わせようとばっかりから
譲ってしまうって言いますかね
大事なことを言わないで逃げてしまってたんですね
大事なことを言わないで逃げてしまってたんですね
大事なことを言わないで逃げてしまってたんですね
そうすると何か自分で判断できなくなっているって言いますか
そういう平和が生じてたなあ
だからそれからやっぱり毅然として言うべきときは
言ってよかったなあって思うんですね
私たちはちゃんとお金払って
今この椅子を使っているから
あなたが待つべきではないかっていうように
言えばよかったんですけども
なんとなくこう相手に譲ってしまって
争わない傷つけない
喧嘩しないっていうふうに
日本人全体が逃げる前に
今そういうふうに言っているんですけども
その一端になったような感じがして
自分自身がちょっとみじめな感じがしました
時間が経って
このことを自分は経験するために
この人が私に言ってきたんだなと
つくづく思ったんですね
早川さんどう思いますかね
いやでもすごい分かりますね
僕も極端な人間なので100ゼロしかできないんで
本当に切れちゃいそうなのが自分で怖いので
僕のことよく知っている人いるんですけども
そういう人いるんでそんなことないって言われちゃうかもしれないですけど
基本的には僕もなんかあったら争いを避けて
あいよいよみたいに言っちゃうんですけど
スイジねいつもついに
争い事が逃げようとする
ずっとやってきて
それがいいと思ってきたんですけども
そうするとみじめな善人って言いますかね
だから皆さんにも
あまりみじめな善人にならないほうがいい
きちんと
毅然と言うのを戦ってほしい
自分が毅然として背を
背筋を伸ばしていると
きっと相手が怯むと言いますかね
あることを思い出したんですね
それは警備のする人
警備する人なんて言いますかね
総合警備
カードマン
いいですか英語にしただけですけど
なんかありますよね今警備会社
それは具体名ですね
会社の具体名
いいんですけどね
警備会社の人にあるとき聞いて
今面白いことありますよ
って言うんですよね
それは何かと言ったら
自分たち
警備員で警備しているときにですね
暴力団みたいな
強盗みたいな人が出てきて
体の強い人が来て戦おうとして
こちらの警備する人間が
背が小さくて気弱な人間なんだけれども
正義は自分の方にある
あなたが悪いのだと
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毅然と立ち会った時には
どちらが負けるかって言ったら
やっぱり大きくて
自分の中にちょっとした
それになっていません
歪みと言いますか
自分の方が悪いんだって思いがあった
人間の方が負けるって言うんですよ
偽善として
自分の中にある正義というものを持っている方が
体が弱くても
喧嘩する経験もなくても
そういうものが
偽善としたものがある方が勝つんですよ
だから相手が暴力団であろうと
相手の中に
ちょっと卑屈さがあると
そこで負けてしまう
っていうのを
聞いたことあるんですけども
私その時に自分の中に
ちょっと握る前に
人間になりすぎていったな
いつも争わないから
相手のことに同調するから
逃げてしまうっていうのがあった
ちょっとそのことを体験するために
それをしたなと思うんですね
だからみんなには善意で過ごしなさい
でも毅然と生きていこうってことを
突き込まないといけないなって思いました
特にその
どうですかね
なかなか難しいですよね
特に優しいというか
あまり争うこと立てないで生きてきた
良いか悪いか分かんないですけど
人からすると
なんか僕が極端かもしれないですけど
僕の場合もしそういう
今日の話聞くまでだと
やっぱりなんかもう我慢するかも
なんか切れちゃって
時制が利かなくなるんじゃないかぐらいの
そしてどこまでが善意なのか
そうじゃないのかって
自分で難しいですよ
小さなことでやっぱ
それを体験していく必要があるなと思うんですね
この子との子育ても同じなんだけど
いつも争うことから逃げてしまうっていう
今日本人
日本全体がそんな風になってるような
国としてですね
日本人全体も
なんかいつも争うことから逃げるという
国民になってしまってる感じがしますね
もう少し武士の時代まで戻るとは言いませんけども
毅然として誇りを持ってもいいと思うようになりましたね
この間の事件を体験して
自分の中にある卑屈さが
逃げる善意の人になって
ちょっと今反省してますね
と言って戦えとは言わないんですけれども
難しいんですけどもね
ちょっとそうですね
気づきはありますよね
いろいろああいう出来事っていいですね
人と一つがある意味を持って
後で分かってくるっていうか
その時は何だろうと
自分の中にそういった
嫌なものは何だろうと思ってたんですけども
時間が経ってきて
自分は逃げる善意の人になってたなっていうかね
いつも何か争いごとから逃げてたなっていうふうに思いました
さあこの番組では
引き続き皆様からのご質問ご感想を募集しております
18:00
詳しくは北川八郎ホームページ
もしくはメールアドレス
北川atmarkkiktas.jp
北川atmarkkiqtas.jpまでお寄せください
さあ5回にわたってお届けしてきました
公開収録ですが
皆様いかがでしたでしょうか
また先生ね
あの第3回第4回
機会があればお届けしていきたいと思いますので
引き続きよろしくお願いします
北川先生皆様どうもありがとうございました
北川先生どうもありがとうございました

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