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episode.86 シネマ203 高水美佐さん 中編
2026-09-23 1:08:58

episode.86 シネマ203 高水美佐さん 中編

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今週のゲストはシネマ203の高水美佐さんです。


本町文化堂の嶋田さんと収録に参加してくれています!


どうぞお聴きください💁‍♂️


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上京編/田舎の日曜日/アメリカ留学/上田の人生ワースト映画/カメラアシスタント/フランス映画社へ/配給の仕事


番組のオープニングとエンディングの楽曲はお寿司のともみさん @osushinotomomi のアワーヤングです。


楽曲が気になった方はお寿司のともみさんの通販サイト、Spotifyをチェックしてみてください。

本町文化堂ではお寿司のともみさんのCDも購入できます。


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サマリー

高水美佐さんが、和歌山から国際基督教大学へ上京し、言語学を学びながら映画館に通った大学時代を振り返る。テレビで見たベルトラン・タヴェルニエ監督の『田舎の日曜日』や、中学生の頃に衝撃を受けた『戦場のメリークリスマス』を挙げ、映画が自分の人生や文化的な地図を広げた経験を語る。就職活動では映画の仕事を探すためカリフォルニア大学アーバイン校で映画を学び、日本映画の英語字幕や、シネコンによって作品同士の系譜が見えにくくなる感覚について話す。帰国後はテレビ朝日系列の報道制作会社でカメラアシスタントを務め、台湾やインドの取材を経験した。映画の仕事を諦めかけた時、取材先で出会った橘隆さんの言葉をきっかけに、フランス映画社へ再び入社を求める決意を固める。フランス映画社では海外映画の買い付け、字幕、宣伝、劇場営業など、少人数で配給に必要な仕事を幅広く担った。配給会社の仕事は映画祭などで権利を買い、字幕や予告編、プレス資料を準備し、劇場公開後はテレビ・ビデオ・配信へ展開することだと説明される。後半では、フランス映画社が意図せずミニシアター文化の中心になった経緯や、『ベルリン・天使の詩』『恋する惑星』『アメリ』などが時代のファッションや音楽と結びついて流行した背景も語られる。

ICUでの上京と映画館通い
大学編ですか?
大学編ですか?
上京編です。
上京編ですか?
高水美佐、上京編。
青春の本っぽいね。
大学はどこに行くんですか?
大学は、来てくれでいいんですけど、
私、国際キリスト教大学っていうところに行きまして、
来てくれにも何も聞かなくていいやん。
全然知らなかったんやけど、
君、英語が好きみたいやから、
こういう学校もあるよって高校の先生に教えられて、
入ってそのまま受けて、受かったんで行ったっていう。
どういう学校?
何学科?
あそこね、学部は1個しかなくて。
国際キリスト教大学って、いわゆるICU?
ICUです。
後続の方が行く大学ですか?
行きそうらしいね。
ちょっとこじんまりした、アメリカンな大学だったんで。
小室啓さんの卒業大学ですね。
そうです。
ということはもちろん、かこさまのですね。
まこさまか。
僕の大学選びの選択肢に1ミリも入ってきてなかったんですけど、
超かしこ大学ってことですか?
いや、どうなんやろね。
でも入試は面白かったですね。
どういう?
何ていうかね、分量がすごいんよ。
問題はそんな難しいとかじゃないんやけど、
別に普通に高校で勉強してたらできるやろうねっていうやつが、
とにかく死ぬほどあるんよね、試験時間で。
だから入試で見直しする時間がなかったっていう体験は初めてやったかな。
実際ICUってほとんど東京の人行くのは地方から?
地方からもね、割と新学校から来てる人もいるし、
しかもあんまり大きい大学じゃないから、1学年500人とかやから。
で、1学部の?
1学部で4学科に分かれてて、当時はね。
私は言語学科って、何も分からずに英語の勉強できんのかなみたいな。
何も分からずに。
英語の勉強はしたかったって感じですか?
英語はね、そう字幕、
映画をね、私多分ね、観客で見てた時期っていうのがどっかで終わってるんですよ。
自分の意思として?
いつかはでも自分はこの業界に入るなっていうのを中高ぐらいから思ってて。
多分ね、そういう視点で見てしまってたよね。
おこがましかも。
車に構えたよね。
そうそう。
車に構えたティーンエイジャーよね。
そうそう。
それでハリウッド映画しか見てなかったわけなんやけれども、
なんか字幕のことはすごく意識してたし、
中学で英語の勉強を始まる教科書買ってもらった時すごく嬉しかったのを覚えてるね。
これで私トム・クルーズが何てよく分かるようになると思ってたから。
でも本当にそうだけどね。
まあね。
本当にそうだと思うけどね。
すごいワクワクした記憶がありますけど。
とにかくね、わけのわからん人らが全国から集まってる大学やったんですよ。
全国と言わず、世界中からっていうか。
その大学9月入学もあったんで、
英語をしゃべる人たちは9月の英語の入試で入ってきて、
我々日本語の入試で入った者は入ってから英語の授業も受けられるように英語の特訓を受けてから授業に入るんですけど、
そうそう。それがすごく面白かったかな。
その時なんか英語学んで、具体的にその映画のどの部分の仕事したいとか。
いや、英語の仕事したいなんて思ってない。
映画なんてそんなね、遊びじゃないですか。
でもいつかは入ると思ってたんでしょ?
いや、そんなこと全く思ってなかった、本当に。
だけど偉そうな目で見てた。
制作者側目線を内在化してるけど、別に職業にしようとまでは思ってなかった。
職業っていうのは全く思いついてなかったけれども、
単に観客ですって感じじゃなくて、その映画というものにすごい参加してる。
映画の世界に参加してる気持ちで見てたなって思いますね。
あほやかい。
そう、それでとにかく大学の授業がびっくりするくらい面白くて。
すごいってもうね。
具体的にどういう授業があったんですか?
具体的な授業は全く覚えてないんですけど。
楽しかった記憶だけ。
そう、とにかく予習・復習が大変だっていうことと、
もう世の中にこんなことを考えてる人たちがいるんやなとか、
女の子はこんな考え方があるんやなっていう入門編を全て教わったみたいな感じの授業で、
とにかくスピードと分量がすごかったんですよ。
で、一番衝撃を受けたのは同級生。
同い年の18歳の子がね、こんなことまでこんな風に考えてなあかんのかっていうことに驚いて、
それが都会の子やからなのか、新学校の子やからなのかわからないけれども、
和歌山でそういう議論を人とするっていう機会が全くなかったから。
どういうことですか?
もう何も覚えてないけれども、
例えば車のナンバーを1日100個見たとして、
あなたの誕生日と同じ数字の並び、
私だったら1001っていうナンバープレートを見かけたとしたら、
その数字は他のナンバープレートと比べて珍しいかどうかっていう議論とか、
それ数学の授業なんだけどね。
まあそういう教養教育の授業みたいなのを、
その先生が教団に立ったら、
日本のその部門の研究者が受講に来るみたいな授業をいっぱい受けて、
なんていうか、すごく活性化させられた。
というかね、考えたいことっていつまでも考えてていいんやなとかね、
もう刺激まみれで、
本当に天に向かってて、これが人生かって叫びたいような気持ちになって、
で、よく映画館に行ってましたね。
よく映画館に行ってたんや。
もう夢、パラダイスでしたね。
だって、和歌山には1軒もなかったけれども、
映画雑誌、私たちの世代には情報誌ピアっていうのがバイブルだったんだけど、
街巡りをできるような雑誌なんですよ。
関東は映画の記事だったけど、東京に数十館ある劇場が、
向こう1ヶ月で上映する作品が何時からなのか、どこなのかっていう地図付き、電話番号付きで全部書いてくれてて、
それが音楽ライブについても、演劇についても、スポーツについても後半は載ってて、
それ1冊でこの1ヶ月の暮らし方決めるみたいな、
みんなそれは蛍光ペン持ちながら読む情報誌なんですよ。
映画館どれくらい通ってたの?大学の時。
週1以上ではある?
週1以上はもちろん、学校のすぐ近くに名画座っていうタイプの映画館があって、
それは映画館で、だいたいロードショー公開っていう第一公開が終わって、
オフルになった映画を何本いくら、その時3本800円だったけど、学生はね。
で、見せてくれる映画館があったんで、大洲康二郎特集とウディアレン特集がすごく多かったんで、
その度にちょっと今日は授業をスキップしようかなみたいな感じで行ったりしたこともありましたね。
とにかく当時はね、携帯電話もなかったし、言ったら留守番電話がなかったから、
自分の時間って有り余るほどだったよね。
インターネットもなかったし。
外に行かない限り何も向こうから入ってこない状態やもんね。
来ない来ない、テレビの情報、テレビとラジオと実際に誰かに、
あるいは出かけた先で何かに出会ったり、雑誌はめちゃめちゃみんな読んでたと思うけどね。
みんな諸市だったから、東京の人たちはね。
あそこにこういうものがあるよとかね。
『田舎の日曜日』と映画の個人的な体験
大学生活も楽しいし、映画もいっぱい見れて最高って感じかも。
大学時代に東京に行って、和歌山にないミニシアターがあって、
そこで印象に残った作品はありますか?
好きな劇場とかはあったけれども、
衝撃を受けたのは、東京で引っ越してから荷物をほどいて、
初めての下宿でね、行った時にテレビつけて、
その時もこんなちっちゃいブランカンのテレビだったけれども、
こんな映画があるんやなって、手を止めて釘付けになった映画があって、
それはベルトランタベルニエっていうフランスの監督の
田舎の日曜日っていう映画だったんですけど、
あれにはすごく影響を受けた。
その田舎の日曜日っていうぐらいのタイトルやから、
都会でバリバリ働いてる女の子が、
両親が住んでる田舎に帰省しないといけない休みで、
普段から近所に住んでる弟一家もそこに来るっていう映画なんだけれども、
私は東京に行った時点で、東京に一時的に来ましたっていうんじゃなくて、
東京に移住したと思ってたから、そのまま東京で暮らすんだって、
新しい人生が始まったって理解してたから、
その映画を見ながら、和歌山に帰りたいって気持ちはこれっぽっちもないけれども、
こういうふうになっていくんやなということと、
映画自体の素晴らしさに打たれた。
田舎の日曜日。
1984年かな?
84年ですか?
4年か5年かね。
今でもこれ便利な時代で、
そうなんですね。
YouTubextで配信されております。
そうですか、みなさま。ぜひぜひ。よかったら貯めるんでね。
1984年ですね。ベッドラン・ラベルニエ監督の。
そうです。振り返ればこれが後に入社することになるフランス映画社の背景作品の一本ではあるんですけど、
ミニシアターに出かける前にそういう洗礼を受けていたかなっていう。
テレビでやったのも時代よね。
そうそう。テレビで深夜にやってましたね。
映画館としてはだんだん自分の好みが固まってきますから、初めてミニシアターに行くからね。
まだミニシアターとは呼ばれてもなかったし、
まだバック・トゥ・ザ・フューチャーも2と3ができてなかった頃やから。
そういうメジャー作品と、それから昔の映画を描けてくれる名画座と、
そしてその単館系の映画館、後にミニシアターと呼ばれるようになる小さめの劇場にも出かけていって、
だんだんやっぱりミニシアター系の作品の方が好きやなっていうことに目覚めていく。
どこが、何ですか、そのメジャーな作品とミニシアター系の違いって言うんですかね。
よりミニシアター系の方が好きになったのは何が?
ミニシアター系だから好きなわけではないんですよ。
ミニシアターで要は、
ミニシアターでかかってるっていうことは、
それほど一般の人からとっつきやすいわけではない映画なんですよね。
ミニシアターでかかってる映画の中でも、特にこの辺が好きやっていうのがあって。
みんなを相手にしてるんじゃなくて、映画自体が、
ハマる人からしたら、世間の9割が面白くないと思って、
ちょっとこれ退屈よね、とか難しいよね、とかノリ違うよね、とか思っても、
1割のハマる人にハマってしまったら、
これは自分のための映画だなっていう愛着を持てるっていうのはあると思う。
それです、じゃあ。
でもそういう感じだと思う。
あんまり友達がいないのが普通の状態で、
大学に行って初めて友達っていうのができたんですよ。
こんな感じで友達ってできるんかっていう感じでね。
そっちが充実してたっていうこともあり、
懐かしいですね、今顔を思い浮かべるとね。
もう誰一人日本にいないけどね。
だから映画館に行って、別にその話を誰にしたいってわけでもなくて、
すごく感動してるなとかね、みんなつまらなそうやなっていうのはなんとなく空気でわかるから、
その中でもあの人があんな風に感動してるなとか、
あるいは雑誌でこの人もこれが好きだったって言ってるなっていうね。
直接その人と知り合いになりたいとかではなくて、
自分以外にも一人でそれを好きやと思ってる人がいっぱいいるっていう気持ちが好きやったかな。
あと当たり前けど、つまらん映画も山ほど見てるもんね。
つまらん映画もそう。
10年に1回ぐらいしか人生観が変わるような映画ってないんですよ。
今私57歳やからまだ5本ぐらいしかないんですけれど、
その一歩に当たったときは、
あれもこれも時間を返せみたいなくだらない映画でも、
見た映画全てに感謝する気持ちになる。
それを見てないとこれがすごいってことがわからないからね、みたいな感覚ですね、今もね。
その10年に1本全部気になりますね。
そうだよね。
言える?後で。
まあ思い出してみようかな。
できる?
一番嫌がるやん、いつもそんな。
そうそう、できないんやけど、でもやっぱり時代の流れと合致してね、
それが私の好みであったとか、
そうそう、自分の年とか状況とかとパチッとあってね。
人生を変えた『戦場のメリークリスマス』
まだ出てきてない?5本は。キングコーンが入ってない?
キングコーン入らない、そんなの。
ひっかけやから。
ヒッチコックも入らない、だって自分の時代の映画じゃないから。
じゃあまだ18までは人生変わってないんやね、まだ。
18歳まではないね。
とどってから変わる5本が出てくる。
でもね、和歌山で1つ人生変わったのは、戦場のメリークリスマス。
そう?
うん、戦メリー。
どっかで高校生って言ってしまったけど、調べたら中学生やったみたいなんだけどね。
やっぱりね、もうあんな徹底的にわけがわからない映画っていうのは初めて見たんですよ。
徹底的にわけがわからないのに、もう1回見たいっていう不思議な感覚。
だからわかるから楽しいって言うんじゃないっていうことを初めて気づいた映画かな。
しかもスター監督、スター俳優、レジャー俳優やもんね、戦メリーは。
そうそう。大島凪さんっていうね、日本で撮ってるけど世界的な監督と、主演が地区でやってて。
坂本隆一とビートたけしの映画デビュー作なのかな、あれね。
私のデビュー作だよね。
さらにデビッド・ボーイがね。
デビッド・ボーイが出てて、で、私はデビッド・ボーイ目当てで行くわけ。洋画にしか興味がなくなったからね。
それで、なんじゃこりゃってなって。
初めて2回映画、見た映画ですね。あれは10年に1本に入るな。
面白い。
中古とか和歌山時代は、映画館は逃避の場所というか、現実忘れられてみたいな。
忘れたい現実がそんなにあったわけじゃないかもしれないけど、人間関係と自分が異常じゃないかということには悩んでいたけど、
それを別の視点、その悩みに別の視点からヒントくれるみたいな時間だったかな。
本読むとか映画を見るって。
大学行ったらリアルも充実してるわけじゃないですか。
けど相変わらず映画はずっと好きで、通っててっていう。
ただ好きでしたね、別に。仕事とか求めてなかったし。
はい、なるほど。何かの機能があるから好きとかじゃなくて、ただ映画っていうものが。
そう、何かもう見入られてしまってたんでしょうね。他に今からっていうのもね。
周りの同級生とかも同じくらい好きだった?高生さんはやっぱりその周りからしてもまた映画館行ってるの?みたいなぐらいの。
いや、そんなこと言う人はそもそもいなかったし、1人ね、大分出身の、私の人生にとって本当に大切な友人がいて、
彼女がお兄さんの影響で、音楽にも映画にもすごい精通してたよね。
ミュージックマガジンを読んでますとか、ドライヤーを見たことあります。
彼女、その時は見てなかったかもしれないけれども、ゴダールのキチガイピエロが好きや、みたいな感じの。
ゴダールの映画が好きや、みたいな感じの人がいて、大分進んでるなと思ったりしましたね。羨ましかった。
で、そういう詳しい人と話をするたびに、その文化格差のあった和歌山で生まれたこと、不公平やと思うように、東京に生まれただけで楽視して見上げてみたいな気持ちはあったかな。
アメリカ留学と映画文化の見え方
在学中にアメリカの映画学科に留学っていうことなのですか?
それは親福おばなしその2ですから。
これはどういうタイミングで?
いやいや、これは就職活動のタイミングで。
親福おばなしその1は何だった?
その1は、子育てしにくかったと思うんで、18歳まで。
それはすごい親福おばなし。
長い。
ベーシックな。
こじらせてたと思うんで。
で、親福おばなしその2が就活してるときに、何やりたいってやりたいことなんか全くなかったんで、考えてるうちに辞めずに続けてきたのが、映画見るっていうことしかないっていうことに気づいて、
それでちょっと、この私がアメリカに留学してないってのはおかしいやろみたいな気持ちになって、ちょっと親に頭を下げて行かせてもらったんですよ。
映画の勉強をしてないからね。
映画学科、日本の映画学科とか調べても作りたいわけでもないし、と思って、どうせだったらと思って。
映画学科行って、研究のほうに行こうとしたのか?
研究のほうには全く興味がなくて、映画の仕事って何があるか全然わからないんですよ。
映画作るってどういうことなのか、映画評論を書きたいのか、他にどんな仕事があるのか全くわからんから、
ちょっと映画学科でいろんなことをやってみて、自分がやりたいことを探す意味をくださいみたいな感じかな。
それで行ってみたのが、91年か。
どこに行ったの?
それかカリフォルニアに行ってしまったんですよ。
UCLAは留学生を受け付けてないからって言われたんで、
UCっていうカリフォルニア州立大学のアーバインっていう、端っく住み子の田舎にある大学にフィルムスタジオがあったんで入れてもらって、
東京ってほんまに映画の先進地やったんやなって痛感するわけ。
映画学科で教えてるのこんなもんかよみたいなね。
日本で映画を、東京で映画を見て映画雑誌読んでた方がよっぽど詳しいみたいな感覚になって。
実際90年代って東京が世界で一番映画見れる場所やった可能性があるよね。
そうなの、そうなんですよ。
アメリカ人ってアメリカの映画しか見なかったりするもんね。
そうなの、ジム・ジャムシって誰?みたいな状態だったから、映画学科でね。西海岸やったから。
カリフォルニアやったらニューヨークとかの、そういうちょっとスノップな映画は見ない?
見ないない、ないと思う。
だから勉強になったのは2つだけで、大学で勉強になったのは、その中にね、日本映画を比較するっていう授業をアメリカ人がやってて、
みぞぐちと黒沢とオズを英語字幕で見るっていう授業やったんですよね。
で、その英語字幕を見た時に、黒沢明は英語字幕でもニュアンスというか映画の内容が伝わるけれども、
みぞぐちになるとちょっと難しくて、オズになるとさっぱり伝わらないんやなっていうことを、一応言語学科やったしね。
言葉の基本的なものが翻訳不可能っていうことよね。
そう、だって日本語でも何言ってるっていうことなのかを探りたくなる映画じゃない?オズの映画ってね。
だから、字幕にはずっと興味があって、戸田夏子さん憧れの人みたいな時代も長かったから、
あーって、その字幕を通じて映画監督ごとに世界に通じる通じないの壁があるなって知ったのは面白い授業だったっていうのが一つ。
で、もう一つはね、経緯的なこととして、その大学の近くの映画館がもう死に込んだったんですよ。日本にまだなかったんだけど。
なにこれ、ビルの中にスクリーンが10個あって、山盛りのポップコーンを食べて、なにこれって。
その映画館に通ううちに、これは今私がいいなと思って映画ファンを寝こそぎなくしてしまうシステムやなってすごい危機感を覚えたんですよ。
どういうことですか?
やっぱり、系統だって映画を追いかけるとか、俳優でも監督でもプロデューサーでもいいんですけど、そういう見方ができなくなるシステムやなってアメリカで思った。
だから大学生で、私寮に住んでたから、アメリカ人ってね、やっぱり金曜夜とか土曜夜に大勢で映画見に行くの習慣なんですよね、日本と違ってね。
だから大学生なんかは、大学生めちゃめちゃ勉強するしね、今の大学生と似てて。金曜の夜に今日何見に行こうかってそこまで行って、じゃあこれにしようかって決めるみたいな映画鑑賞で。
私は物足りなくなって、車で1時間のLAでちょっとアート映画を見てたんだけれども、死ね込んだやつやばいなみたいなね、やばいって言葉は当時なかったけど、こんなことになっていくんだったら、今何か手を打っておかないと大変なことになるなと思いながら帰ってきたっていうのが勉強になりましたね。
ウルトラ極論やけど、例えばやったら帝国座やったら、毎年ジブリやってますと。だから何回も望んでなくても毎年ジブリを見るわけよ。そしたら宮崎駿を意図せず見てて、前作こんなやったから、今作ちょっと絵が変わってる。
絵は変わってない、でもなんかノリ変わってるよねとか、そういうのが大抵だって見れてしまったよね。例えばトラさんはずっと見てるとか。だったのが死ね込んに行ったら、そんな関係なく昨日見てる映画と先週見た映画の中に繋がりがもうなくなっちゃうっていう、ありすぎるし選択肢が。
はいはいはい。じゃあその時その時の流行ってるものしか見れなくなるみたいな感じですか?
そうそう、流行ってるものの中でも系統があったのが、もう広がりすぎてるから、昨日はヒップホップで一番流行ってる曲聴いて、今日はロックで一番流行ってる曲聴いてるみたいな、極端な例えやけど。でも地元にはヒップホップしかなかったから、意図せずずっとヒップホップの歴史聴いてましたみたいなのがなくなっちゃうっていう。
楽しみってあるじゃないですか、食べ物にしても、ファッションにしても。一本の映画楽しかったっていうと、その2時間の楽しみやけれども、それ以外の自分なりに吸収した知識とか、自分の好みがわかっているってことがあれば、見た2時間の前も後も楽しいからね、ってわかります?
そんな感じはあるような気がするな。だからやっぱりカルチャーっていうのは、誰かが作ってくれたマップとか年表を見て、それを暗記したら自分が楽しくなるっていうのとは違って、自分がその時々で体験したものが自分を起点にくもののように広がっていくものができてからが、やっぱり趣味として楽しいなっていう感覚はあるんですけどね。
なんとなくね、その網に映画しかかかってない時期もあるだろうし、音楽もかかってたり、全く関係ないあそこで買ったボールペンみたいなのがそこと近いところにかかっていったり、自分なりのマップができていったらより楽しいかなっていうのが80年代、90年代やったかなと思いますね。
今サブスクで言われてることが、実はそのシネコンでもレベルが違うってなったってことだよね。何でも選べすぎるっていう。選べちゃえるみたいな。
しかももう今みたいに、みんなが楽しみにしてるこれ一本みたいなのがなければね、今何流行ってるのかさっぱりわからないんだよね。
ちいかわよ。
ちいかわ、そうね。でもまあもともとちいかわブームみたいなのよりも小さい映画が好きだった、身としてはね。
小さくて可愛い映画がね、好きだった。身としてはね。
ちいかわファンか、ちいかわファンとしては。そう、今そういう。
にもるさんって小さくて可愛い映画館やから、もうちいかわって言うとこはないけど。
ここはないけど、割とイカツイからね。
ちいかわも多分イカツイからね。
そりゃね。
ちいかわもどこあるからね。
いやでもね、お客さんが言ってたは、映画ファンにこそ見てほしいですね。
ちいかわね。
そうなんやね。
なるほど。
そういうなんか、自分と似た人とだけ話してるとつまんなくなる点があるんですよ。
どっちかって言うと、自分の知らんことをしてて、話面白い人に会いたいしね。
だから映画以外の専門の人が来てくれるのは本当に嬉しいですね。
ここでじゃあちょっとしらいし君の人生で一番好きな映画を挟んでみましょうか。
しらさんの人生で一番好きな映画は?
全く思い浮かばないですね。
最近ちいかわ一応見ましたよ。
ちいかわ見てる早。
でも人生で一番じゃなかったんや。
ちいかわ面白かったわ、私もちょっと見たいなと思ってまだ見てないから。
見てみて。
一応原作も追ってるので。
追ってるというか、ツイッターやってたら。
ちいかわファンとしてやってるんで、どうでしたか映画は。
面白かったですね。
上田さんは人生で一番好きな映画は?
ほんま映画見ないんですよ。
子供の頃とかも見てないですか。
子供の頃もあんまり、日曜日の昼やってたジャッキーチェンの映画みたいな。
よくやってましたよね。
やつで敵の、違う敵じゃない仲間の一人がチッパーみたいな機械でバラバラにされて。
ゴミ袋に入れて送られてくるっていうシーンを見て、こえーってなって。
それがジャッキーじゃないんじゃない?
ジャッキーじゃないんかな。
ダイハード2、チッパーじゃないな。
調べて。
ちょっと探させます。
専門家たちが。
うちの島だり。
探させますわ。
それ見ていいね。
怖いね。
すごいなんか。
新宿、最近じゃない?
めっちゃ子供の時です。
それって何年ぐらい前?
子供の時。
なんか私、ジャッキーチェンのめちゃめちゃ怖い映画。
30年前とか。
30年も前か。
それは違うな、じゃあ。
それよりちょっと前。
ありますわ、あれやわ。
全然メジャーや。
レッドフロンクスやわ。
おいおい。
そうですか。
レッドフロンクスにそんなシーンありますか?
そんな調べれるんすね。
すごい。
お任せください。友の会長ですから。
ジャッキー映画。
ジャッキー映画です。
ジャッキーがアメリカに行ってからの作品ですね。
それ見て。
仲間で敵がね。
敵がそうなの?
敵が。
一瞬サモハンが鳴ったんかなと思ったら。
大きな袋が必要やね。
ご飯食べながら見てて。
えー、怖いわ。
吐いちゃったんすよ。
トラウマ、トラウマ。
それは良いトラウマなんじゃない?
良いトラウマですかね。
人生変わった映画やわ。
確かに。
それ以来、テレビでやってる映画とかめっちゃ怖くなって。
逆に言ったら、映画って危ないものなのよ、本当はね。
怖いものでもあるわけやもん。
ただ、そういうシーンの映画って、
レッド・ブロンクスもさ、一時期めちゃくちゃ金曜労働賞でやってたしさ。
大丈夫やった。
今はだからもう絶対流れやもんね、そんなシーンが。
あったとしてもカットされるやろうしね。
でも聞いただけで嫌やわ。
それは辛いね。
それ何年の映画やったんすか?
レッド・ブロンクスはでも90年代やと思うんやけどね。
ジャッキーがアメリカに行って、第一作目かな。
小学校ぐらいかな。
95年なんで。
95年ってことは11歳。
テレビでかかってたからその翌年とか、もうちょっと。
もう私働いてたけどね。
怖いね、映画ってね。
ジブリは好きですね。
ファミリーで子供の時からずっと、
ジブリの新作は見に行くみたいな。
なるほどね。
ちなみにレッド・ブロンクスも今、ユーネクストで配信されておりますので。
これちょっと見よう、久しぶりに。
見たはず。
気になるでしょ、何回も見てるはず。
ジャッキー好きやもんね。
めちゃくちゃ好きとか詳しくないけど、好きは好き作品としては。
すごいな、どう検索したんかめっちゃ気になるんですけど。
今?
この情報だけで。
映画ファンね、映画の間に入るかもね。
映画ファンのやら方がすごい。
あれ、どこの原始まで行ってましたっけ?
今アメリカでシネコを見て、
これは自分の進みたい映画の方向じゃないよねって。
やばいねっていう気持ちで帰ってきた。
報道制作会社でのカメラアシスタント
アメリカは留学はどれくらいの期間行ってたんですか?
1年だから、就職活動に帰ってこなかったから、
9ヶ月くらいで切り上げて帰ってきたのかな。
大学3年の時に行ったって感じなんですか?
4年になってから行ったんやったかな。
5年行かせてもらったんですよ、大学にね。
それで夏に帰ってきて、就活が終わっててっていう、
氷河式に入れ替わった初年度になってしまったんですよ。
前の年あったらよかったんだけれど。
そこから就職活動が始まるんですか?
そうです、はい。
洪水さんの映画バトルロワイヤル時代やね。
バトルロワイヤル期が。
最初逃げるとこからですけどね、逃げ惑うとこから。
まずはどういうところに。
ちょっと休憩挟んでもらっていいですか?
休憩挟んでください。
すみましょう。
こんなダラダラ喋っててみんな興味あるかな。
めっちゃ面白いですけどね。
山田さんの今のレッドブロンクス怖い話はめっちゃいい映画来そうだよと思う。
気ぃ付けなあかんよ。
映画はそうあるべきよ。
人にトラウマを与えるべきものやと思うから。
映画館ってね、怖いもの見たさで行くからね。
だってね、今はシネコの影響で綺麗なきらびやかな場所と思ってるかもしれんけど、
基本的に古くて暗くて危ない場所やからね。
昔はそういうこと、痴漢とかが出たりとか。
そうそうそう。
そうよ、いかがわしい。
だからうちの両親とかが、この映画館ってどんな映画館って思ってるような映画館ちゃうと思うよって見に来た時に、
言われたよ、こんな薄暗い、こんな小さいところで映画見たい人おるんかって言われたけど、
映画館好きの父親は、この入り口がね、わかりにくくてね、入りづらいのは正しいぞって言われた。
何も正しくないって言うな別に。
いやでも言ってた、映画館なんていうのはね、人生から逃避したくて行くとこやからね、入るとこ見られたくない。
あー確かに確かに。
だから人に見られたくなくて、滅多に人に見つからない。
で、2回目以降はね、自分は知ってるなと思ってくるからね。
この入り口は正しいぞって言われた。
確かに。
203まさにそれになってるような。
そうそう、だから父親の影響でずっとなってるよね。
おーいい話。
いい話かな。
今のはいい話。
勇気ある人しか入ってこれないっていうのは良いと思ってるからね。
そりゃこうも話そうかな。
島田さんはどっから映画好きになったんですか?
私どっからなんやろう、覚えてない。
小学校ぐらいで私も一人っ子で、私は一人っ子で、で友達がそんなに多くないから、
本を読んだり映画を見たりして別の世界があるだろうというのが、ここじゃないどこかに連れて行ってくれる。
確かに、上手いこと言うわもう。
そのふうに言いたかったな。
場所ですよね。
あと映画は座ってるだけで進んでくれるからいいじゃん。
努力がいらないっていうね。
確かにね。
2時間見ちゃえば2時間分違う世界を見てしまえるから、それは未だに良いと思ってるよ。
そうやね、割と広がるしね、2時間以上の広がりはある。
今日一日何もしてないなと思うけど、一本映画見たら何回ってことになるかなみたいな。
24とかを一気見するとさ、今やと何なんかわからんけど、ちょっと人間失格感が出るよね、すごい。
やっちゃったからね、自分の人生は何も進んでないのにみたいな。
そう、24を見てもったみたいになるから。
それはそれでいいんやけどね。
いやーあれはほんと腰も痛いしね、後悔したよ。
見た?
見た。仕事してたからね、あれの関西宣伝してたから。
人より早く見えるの嬉しかったですよ。待ちきれないよ、次みたいになってたから。
面白いな。
映画ね。
はいちゃん後半見てください。
後半と言いますか、就職期。
就職期、はい。
ですね。まずはどんなところに就職するんですか?
フランス映画社への入社
まずはね、第一志望から受けるのが筋と思ったんで、東京に行ってからの自分が見た映画の中で、このフランス映画社っていう会社が配給してた作品が好きやなということに気づいて、そこに連絡してみたんですよ。
募集とかしてたわけじゃなくて。
映画業界って募集ないのよね。
当時はインターネットもなかったですし、1993年の話。
それでなんか業界ガイドみたいに会社の電話番号帳みたいなの売ってるから、マスコミ電話帳かな。
それで調べて電話するんだけど、今募集してませんと言われて。
2年間テレビ局の下請けの制作会社に入って、テレビ朝日系列の報道の部門で働くわけです。
ニュースステーションみたいな。
ニュースステーションの制作部。
すごい。
そこで亀足やから、カメラアシスタントなんで、音声と照明をニュースの現場で担当するっていう、肉体労働。
肉体労働。どんなことしてたんですか?
だから六本木で火事あったから行ってくれって。朝ね、カメラマンとセットにされるんですよ。
今日香水のカメラマンだれだれやからって。カメラマンに今日女子香水ですからみたいになって。
その日、そのチームが使うカメラ機材のチェックをして準備しておいて。
ニュースの晩の時は、六本木で火事あったから行けって言われて、その機材を準備して、車に積んでカメラマンと一緒に。
そこを取材してきて、編集マンにテープ渡すっていう。
何分のところに何のゲーム入ってますとかってキャプション書いて。
それが夕方のニュースで流れて、解散みたいな仕事。
中にはね、その頃まだまだ景気が良かったんで、93年って。
海外出張とか1ヶ月の特集番組の助手とかにもよくつけてもらって。
そこに行く?タイとか行く?
その時に海外はね、私2カ所行って、1個目は台湾。これはね、なんと放射線の義務人生の取材やったんですよ。
と言いますと、台湾のすごく有名なアート系の映画監督。
アート系じゃないけども、くくりで言うとミニシアターを代表する監督。
義務人生が公開された後に、あの映画で取り上げられてた人間国宝の人形師がいるんですよ。
その人にインタビューするっていう取材に行ったり、つけてもらって。
2回目は、これちょっと人生の転機になったんですけど、インドのゴアに正月1週間行くっていう取材につけてもらって。
それはね、橘隆さんっていう方がいらっしゃるんですけど、島田さんからの解説が後からあると思いますが。
すごくいろんなことに詳しいおじさん。
ロキド事件を取材したのが一番売れた本屋とはおっしゃってたけど、彼がね、いろんなマニアなんですよ。
彼がミイラのマニアでもあって、インドのゴアの教会にフランシスコ・ザビエルのミイラが安置されてて、
10年に1回だけ、それが一般公開される年にあたってて、それを見に行くっていうのに密着した取材につけてもらって。
橘隆さんと一緒に行ったの?
1週間ね。
橘隆さん、私、よく知らなくて恥ずかしいことに。
それで話し合いで、橘隆さんしかいないみたいな、1週間で。
わりと贅沢で、「いや、コウさん、なんでこんな仕事してんの?」みたいになって。
やつ実はね、映画仕事がしたかったんですけど、空きがなくてって言われて。
その時に言ったら、「それって本気で入りたいと思ってたの?」って言われて、橘さんから。
本気出してなかったかもしれないと思って。
それが心に残ったっていうのはすごくありました。
本気で入れてって言ってなかったかもしれないって。
すぐ諦めたことを反省し。
それで帰ってきてから阪神大震災があって。
その3月にオウムサレン事件があって。
テレビの仕事ってそこそこ合ってるなっていうかね。
特にカメラマンのアシスタントやったら、深く考えなくてもその場で取材したものを編集に渡すってところまでの仕事やってた。
面白いなと思ってたところで、2年経ってたんで、
カメラマンになるかディレクターになるか選べって言われたんで。
ここで選んでしまったら映画の仕事できないなと思って、
その場でじゃあ辞めますって言ってしまったんですよ。
本当に申し訳ない話なんやけど。
それで辞めましたってフランス映画社に言いに行ったら、その場で入れてくれた。
秋が出てて。
その間も制作会社で働いてる間もフランス映画社って。
1ヶ月に1回は電話してた。秋出ましたかって言って。失礼な話でしょ。
で、義務人生の取材行ったから手紙書いたりとか。
一方的に連絡はしてたけど、ずっと断られ続けてて。
当時フランス映画社って何人ぐらいで回してたの?
4人かな。3人かな。
映画会議会社って小さいんですよ。信じられないけど。
フランス映画社を知らない人のために言っておくと、本当に日本のミニシアターブームというか文化を作ったのは、
フランス映画社。
フランス映画社がヨーロッパから、ヨーロッパアメリカも含めて、マイナーな映画、マイナーな監督、
またその日本の大手の映画家で描けようと思っても、
そんなムメない人は描けれませんよっていうような映画を買い付けてきて、
日本で公開して、それでめちゃくちゃ流行らした。
ジム・ジャームスを発掘したのも、日本ではフランス映画社よね。
一応配給したのはそうですね。
テオ・アンデロプロスという理事社の素晴らしい監督がいるんだけど、
日本でもすごくヒットしたんだけど、ダビデリの記録とか、
それもフランス映画社がなかったら、おそらく日本には入ってきてない。
映画配給会社の仕組みと宣伝実務
じゃあそんなところに入社できてっていう。
そうなんですよ。押しかけてね。
ひょっとしたら世界で一番の映画配給会社だった可能性もあるよ。
80年代の終わりから。
それはあるかもしれない。
そんな会社なのに、そういう少人数で回してるんですね。
だからめちゃくちゃモーカルわけではないもんね、映画って。
そう。だいたい赤字になるから。
配給会社ってどういう仕事?
そこですよね。
配給会社っていうのは、海外の映画を日本で配給する権利を買って、
日本にある劇場に下ろすっていうのが仕事です。
例えばで言うと、カンヌ映画祭とかベルリン映画祭とかって聞いたことあると思うんですけど、
ああいうところで出来上がった新作を買い付けて、あれってマーケットなんですよ。
カンヌ映画祭っていうのは、日本のアカデミー賞とかだったら、
日本とかもアメリカでも、公開したやつで一番面白かった映画決めましょうみたいな、
カンヌとかベルリンとか、あの辺の映画祭っていうのは、
映画作った時にみんな新しい映画を持ち込んで、そこで上映して、
そこに世界中の配給会社の人が来てて、
この映画めっちゃヤバい、よし日本で公開しようとか、
展示会みたいな。
そうそう、展示会。
展示会なんだけど、一応その中では作品賞とかは決めるっていう。
あれがコンペティション部門って言って、一等賞を競う部門があるんやけど、
その裏では、コンペに選ばれなかったけど今年できた映画、来年撮る映画、
まだ開発中のこの監督の新作みたいな、何万本もの映画が取り消されてるんですよ。
コンペに入ってしまうと値段が上がるし、賞を取ってしまうとまた値段が上がるんで、
どんだけ早く安く手を打つかっていうセリですね。
そうやって映画が買い付けられてて、今はいろんな別の買い方もあると思うけど、当時はね。
それで輸入して、それって判件なんで、何年間これで商売していいっていう権利だけの値段なんですよね。
あとは日本で劇場公開するためのプリントを取り寄せて、日本語字幕を入れる、
タイトルをつける、こういうチラシとか予告編を作る、噂を広めてもらうためにマスコミの人に見てもらうための試写会をする。
それから各劇場に来年の正月映画これどうですかって営業するみたいなことを経て、ようやく公開。
私たちに届く。
その後、大体は劇場公開券だけじゃなくてオールライツって何してもいい権利を買うんで、その後にテレビで放映する権利を売る。
DVDを販売する、それから今は配信もしたりして、収益をその買い付け値段より儲けてみんなで食べてる仕事です。
買い付け権利買うのっていくらぐらいするんですか?
いやもう本当にピンキリやし、今ちょっと相場わからないけど、バブルの時代はね日本はすごい札束で映画を買ってたんで、ものすごい買い付け値が上がってたのが、今はもう個人のレベルで買えるぐらいまで下がっているとは聞きますけどね。
何年単位で買うかにもよるでしょうし。
一回こっちに上映で買おうと思ったら買える時もあるんですね。
今はそうなってるね。
なるほど。
そうなんですよ、そういう仕組みでそっちの方の仕事をしてた。
じゃあもうその全ての仕事を少人数の会社なんで全部やるみたいな。
そうそう、もちろん発注するんですよ。
英語ストレジアタムパラダイスだったら戸田夏子さんに頼むとか、予告編は予告編会社に頼むとか、チラシはデザイナーにもちろん入ってもらって作るとか。
そこ入って香水さんはまず何から?
新聞の切り抜きからです。
新聞の切り抜き?
新聞を読んで今度の映画に関係ありそうなこと、映画について書かれている記事、誰が書いているかとか。
どういうことですか?
いや、だってその映画を見てもらうと思ったら、その当時は大マスコミが必要だったから、今そのマスコミで世の中を動かしているっていうのは変やけれども、世の中に影響を与えているのは誰か。
この映画のことを気に入って書いてくれる人は誰かっていう日々の調査が欠かせないですよね。
メイは雑誌じゃなくて新聞やった?
雑誌ももちろんクリッピングしてたけど、新聞毎日来るからね、仕事量として多かったですよね。
その新聞に映画のことなんか書かれてますっけ?
毎週、今もだけど、金曜の夕刊は映画票が出る日なんですよ。
昔は朝日新聞にいい映画票が出たら、朝から晩まで満席になるみたいな影響力がやっぱりあった。
なるほど、それを全市チェックして。
今こんな映画流行ってるぞとか、この監督のインタビュー載ってるぞとか、来日してるぞとか。
全然関係なくても、この新しいコラムニストは感覚が似てるんじゃないかとか。
今後インフルエンサーになってくれそうな才能を持っているライターとか書き手を探す。
新しい映画見せたらいいじゃんみたいな。
見てもらいたいなとかね。
こういう学者がいて、この部門に詳しい人はここにいるとかいうのを、インターネットのない世界で常に自分の中でストックしていく仕事。
聞いたことない国の映画を配給するんや、キルギスの映画をやるってなったら、
キルギス研究してる学校の先生のところに行って、パンフレットに国の説明書いてくださいとか含めてもあるもんね。
もう一つ言うと、パンフレットは劇場の仕事やったから。
ああ、当時はそうか。
だからプレス資料っていうものを作るんですよ。
しばさんこれ絶対。
これが私が今後、映画の仕事の方々に残したいと思っている重要な資料なんですけど。
シンプルめ、ハルハートリがある。
そうそう、公開する映画について、マスコミに試写を見てもらうときに、
この映画はこんな映画ですっていうデータと、ここが重要なんだけど、データと。
概要あらすじ、監督のインタビュー。
ストーリーも、今みたいにビデオがあるわけでもないから、試写でね、疲れてて寝てしまう人もいるからね。
一箇所ぐらい寝てしまっても、どんな筋あったかわかるように、
ストーリーは書けって言われて、ストーリーを書いたりね。
特に新人の、今まで日本で公開されたことがない監督を紹介するときに、
どんだけ準備をしてたかっていうようなことを。
だからあらすじとは言いながら、一応最初から最後まで全部説明した。
さらにそこで海外の他の国でどんな評判ですかとか。
これを作ってたってことですか?
そうそう、これを作る仕事が一番時間がかかりましたね。
私は個人的には字幕を入れる仕事が一番好きだったんだけど。
これは本当に素晴らしい。
これは貴重な知能ですね。
そうなんですよ。
これ定型だったんで、その会社はね。
今はもうきらびらやかな、ここに並んでいるカラーのプレスなんかは、
もうおしゃれじゃんって紹介してもらえるように、
プレスにお金をかけてた時代の名残ですね。
フランス映画社は多分最後まで、このスタイルで必要なデータが必ずある。
例えばこの映画は何分なんかとか、スクリーンサイズはいくつだったのか、
縦横の比率があるんですよ、映画にもいろんな種類のね。
ちなみに91年、ルノワールの黄金の馬車ってこれ初公開?劇場。
どうやろう。
リバイバルだったらそう書いてると思うけどね、イントロダクションに。
初公開だった可能性が。
どうだろう。
すごい。これが貴重な知能です。
ちゃんと当時からハルハートリーやってたんだね。
そうそう、この時初めてで、この頃私、就職は就活してた頃です。
アメリカで見たところやったから、話が外れたというか、偉そうに喋ってましたね。
あとはもう怖くて目も見られなくなるんですけど。
89年のジャームシュのコーヒー&シガレット2って何これ?
これはね、だから何かに添えて上映してたのよ。
1本ずつ作ってたからね、彼は。
まあハップの短編があったからね。
そうそうそうそう。
短編を新作に合わせてくっつけてやってたんやけど、いつか全部集まったから1本になったよね。
途中まではこうやって、できた順にやってたよ。
何かの映画撮った時にそのキャストと作ってたからね。
大本の場所はBAUシリーズ100回記念じゃないですか。
本当ですね。これでも番号途中で間違ってるからね。
BAUシリーズ実はダブってるやつもあるんだよね。
この頃はでもね、さっき言ったニューシネマパラダイスみたいに、
1本の映画を200人とか数百人の小さな劇場で何ヶ月もかけてたんで、その最低単位が確か3、4ヶ月やったんですよ。
だから1回風切りがあると次の映画がかかるまでに半年ぐらい余裕があったんで、年間準備する作品数ってどんなに多くても2本か3本やったんですよ。
ミニシアターブームとフランス映画社
フランス映画社が配給する作品が?
そのぐらいで、フランス映画社は特殊事情があって、独立系の工業会社じゃなくて東方シネマズが初めて作ったミニシアター、シャンテシネっていうところで、
その頃はシャンテシネのシネ2っていう4階にあるところはフランス映画社専用ということで自分の配給作品を順番にかけさせてもらってた時代だったんで、
だから1本開けたら次の映画の準備十分できるっていうか。
今は配給会社毎月というより毎週のように初日があるからものすごい仕事量だと思います。
それでかけてみたら入らんかったからって2週で打ち切られたりね。
でも準備は同じだけかかるよね。
だからそれを私としては配給側の事情の方がよくわかるから、それに対して劇場も考えなあかんのちゃうかっていう、わりと怒りとともにニーマルさんが始まってるっていうのはある。
ちなみにその1995年の仕事始めたぐらいの映画業界の状況っていうか。
もう右肩上がりで、表面上はね。
だってもうバブル終わってたから、いつからカーブが下がるのかぐらいの時代やったと思います。
私猫もないしね。
ミニシアターブームもあったよ。
あったあった。
でもブーム自体はね、そう、頂点ぐらいか、もう終わってたかな。
95年やから本当に恋する惑星がめちゃくちゃ減ってる時期やから。
あの頃はもう何かが終わった感はあったな。
そうなんですね。
ミニシアターブームはどういう感じに?
ミニシアターブームはね、まず一つ、これ全国で初めて言われるかもしれないけれども、
フランス映画社はミニシアターを目指したことはなかったってことですね。
行きがかり上そうなってますけれども、
あの会社はあくまで一般の映画館でこういう映画を描けたいと進んだ会社なんですよ。
だから、最初はね、岩波ホールって潰れてしまった劇場についても、
あれ元々映画館じゃなくて多目的ホールっていうか芝居小屋だったところで、
結局もう既存の映画館がそんな映画描けられないっていうのを、
じゃあここで。
一般受けしないってことね。
そうそうそうそう。
でも儲からなくてもいいものっていう岩波書店が作ったホールやったから、
そこで映画でも描けてあげるよみたいになってきた。
フランス映画社の出発点もどこの映画館も見向きがしてくれない時に、
新宿文化やったかな、アンダーグラウンドな小劇場がその上映を引き受けてくれたってところから始まってて、
それが既存の映画館よりも商売になるようなサイクルに入ったところで、
ネシアターっていうのもいろんな人が作ってるんですけれど、
セゾングループっていう西部なんですけどね、
ツツミさんっていう人が企業目線なんて税金対策って言ってしまっていいのかな、
企業の本来の事業で儲かったら文化的に自分たちの儲けを文化的には価値として返すってすごく、
もう私たちがその恩恵を一番受けた世代の最後かなと思うんだけれど、
ミニシアターを作ったり、本屋を作ったり、
もうありとあらゆる文化にお金を投入して超一流のものを見せてくれた人たちなんですけど、
その人たちが2番目に作ったとこやったかな、
それこそシネビバン六本木っていうウェイブっていうビルやったね、
ロフトの始まりみたいなウェイブっていう文化ビルの1階に作った劇場に、
次はフランス映画社が確か読んでもらって、そこのコケラ落としで5ドルやったかな、
お上映してそこをシネビバンでやって、
次は東宝でシャンテシネっていう初めてのミニシアターができた時に読んでもらって、
そこ全続の劇場でやってきたっていう流れがありました。
実はミニシアターブームはフランス映画社関係ないと言えば関係ない。
でもブームは絶対にあったよ。
ブームはあったけどね。
観客目線で言うとね、工場で言うと。
やっぱりマニアックな映画とかアート映画を見に行くのが、
おしゃれ。
おしゃれでかっこいいっていう。
おしゃれでかっこよかった。
だから本当に劇場に行列ができて、
すごかった。
それが何年ぐらいの出来事?
80年代の終わりぐらいに、
シネマスクラ東急っていう劇場ができてから、
これはヘラルド系の始まりですけど、そこぐらいからなんじゃないかな。
何本か爆発的なヒットがあるわけじゃない?
ニューシネマパラダイスがあったり、恋する惑星があったり、最後はアメリがあったりとか。
アメリは本当終わりの方やったから、
ニューシネマパラダイスまでミニシアターの興行記録を持ってたのは、
それこそシャンテシネって東宝芸の劇場でかかったベルリン天使の歌っていう、
ビム・ベンダースの作品なんですよ。
それは会社の先輩に聞いたら、もう泣かず飛ばずでしんどかったけれども、
カンヌの期間中に、5月ぐらいかなに、天星人号に乗ったんやって。
そしたらそれで爆発的に伸びて、それ以外に理由思い当たらないんやって言ってたわけ。
その時はベルリン天使の歌のパンフレットを見えるように小脇に抱えてる男が、
かっぽするっていうのが流行ったと。
で、彼いわく、映画っていうのはちょっとわからないやとヒットって繋がらないけど、
徹底的にわからないと流行るんやのって教わったことがあります。
ベルリン天使の歌も今だったら流行るかって言われると難しいもんね。
地味な、すごい素晴らしい映画だけど、あと今モノクロだし。
そうなんよね。難しいね。
スーツを着た天使たちが地上に降りてくるんだけど、
その天使たちはみんな真っ黒の服みたいなスーツを着てて、図書館にいるっていうね。
訳わかんないよね、そんな言われたってね。
その天使が人間の女の子に恋をするんだけど、
天使をやめて自分も人間になるか、みたいな話。
なるほど。
分かりにくく描いてます。
分かりにくく、さらに。
いやー、なんか雰囲気なんよね。
私たちも雰囲気と、あとね、かっこいい人たちが集まってるなっていう吸引力がすごくありました。
時代時代のミニシアターの流行りは、たぶんその時のオシャレが絶対反映されてるからさ。
例えば、恋する惑星とかだったら、ちょうど日本人がみんなアジアに目向けた時代だったし、
香港ってすごいきらびやかだし、ファッションもちょっと日本と違ってオシャレだし、
手持ちのカメラでもバンバン歳を動くみたいなスタイリッシュだったし、
それがゼロになったらアメリとかはさ、ヨーロッパブームみたいなのあったじゃん。
そうだったかな。
中東系のちょっとキッチュなデザインがかっこいいとか、
そこでクリームブリュレ。
そうね。
あれ、クリームブリュレかな。
ブリュレ、そうです。
アメリが食べてたお菓子とか。
お菓子とかファッションとか音楽とか全部含めた上で、
オシャレなカルチャーの中にミニシアターがあったっていう。
そうね。
確かにオシャレなイメージですね。
オシャレなイメージですか。
大学の時に単管系の映画見に行くって言ったら、
オシャレなことしてんなって感じ。
そうですよね。
それは行動としてもオシャレもあったけど、
実際中で描かれてるものもすごくオシャレで、
タイムリーだった時代的にっていう。
なんか若い人出てきたなみたいな感じだったかな。
アジアの映画とか、
割と一段下に見てたみたいな感覚やったから、
アジア映画ってちょっと稚拙なんじゃないかっていうかね、
まだそんなに進歩してないんじゃないかっていう。
若い人でオシャレってイメージがなかったところに、
そこでいきなりフェイボーンが出てきて、
あの曲が大ヒットするっていうね。
どの曲?
これはラジオで流せない。
私が歌ってもたぶん伝わらないから、
Spotifyで夢の中の人っていうね、
検索してみてください。
聞いたことあると思う。
絶対あるよ。
え、パッと聞けない今フェイボーンが。
全然聞けない。
マジで?
マジか。
じゃあ後でちょっと勝手に終わった後。
そうそうそういう中で、
だんだん厳しくなっていく感じですかね。
11年間の少人数チームでの仕事
じゃあ香水さんその働き始めてた時は、
なんかオシャレな会社に入れたなみたいな。
オシャレっていう意識は全くないです。
ちなみに労働環境はどうだった?
労働環境?
こんなんよ。
こんなん。
この今収録させてもらってる雑多なオフィスの中で、
休みとかはあったの?
休みはもちろんある。
あ、今みたいにね忙しくなかったから。
携帯がないのとメールがない。
だから仕事に追われることは全くなくて、
お疲れ様でしたって出て行ったら自分の時間だったし。
そんな事務所の泊まり込みで、
まるごと閉めて言われてるからなく。
全くない。
余裕もある文化的生活ができてた。
余裕あったし、若かったから、
35の時に私は東京離れたんですけど、
それまではね、徹夜なんかいくらでも平気。
それが仕事じゃなくて自分の時間でできてた?
あ、もちろんもちろん。
だから2晩ぐらいは朝まで遊んでも、
シャワー浴びて行こうかみたいな感じだったし。
どういう遊び方してたんですか?
あんまり私遊ぶ方じゃなかったですけど、
イエローとかを中心に、
クラブ文化の始まった頃やったから、
音楽聴きに行ったりはよくしてたから。
すごい、イケてる東京生活。
イケてる東京生活を見なければと思ってた。
私がイケてたことは一度もないです。
仕事として、青山福センターで朝まで本眺めて、
インスピレーションを得ようとするとか、
私の中では本屋っていうのはやっぱりあれが衝撃的な体験やったから、
六本木にあった青山福センターですね。
青山本眺じゃなくて。
本屋もまだイケてるカルチャースポットではあったんよね?
カルチャースポットっていう感じはなくて、
その世界の人でしか入ってはならないような、
生意気っぽい感じはあった。
香水さんその時どういう意識で働いてたっていうか、
会社でめっちゃ頑張って、
ゆくゆく4人やったらまた社長になるんじゃない?って思ってた。
そんなことも考えられない。
仕事についてはよくわからないですけれども、
私なんかじゃ口を聞いてもらえないっていうような人たちの間で、
自分にできることなんかあるんかって思ってた11年でした。
あまりにすごい人って軽々しく挨拶もできないよね。
映画監督とかそういう人ですか?
監督をはじめとして、
記者なり批評家なり編集者なり、
あそこの会社でやりとりがあった方々っていうのは、
あったこともないような圧倒的な凄さで、
自分だけが間違いやなっていう感覚でお茶だしてましたね。
会社のチームの構成はどういう感じだったんですか?社長がいて。
社長がいて、本当は社長の柴田駿さんという方と、
パートナーの川北和子さんという両輪で回ってた会社なんですけれども、
ピアノレッスンっていう大きな映画のタイミングあたりで、
パートナーの川北さんが休止してしまったんですよね。
柴田さんのカタリン創業になって、しばらく経った時だったんで、
あとは劇場営業をする先輩がいて、
映画館に映画をこれをいつか上げてくれって交渉する人が一人と、
もう一人は経理面を見ていて、
テレビとビデオのセールスをしている人が一人いて、
あと宣伝している人が一人いて、以上かな。
で、社長。
なるほど。洪水さんはその中でどういう仕事をしていくんですか?
主には宣伝の雑用係からですかね。
支社の準備をするとか、調べ物をするとか、
何してたんやろうね。
とにかく徹底的にしごかれて、何もできるようにならなかったっていう。
最初何年勤めてたの?
11年。
11年。その間、新人とか入ってきた?
入ってこない。
じゃあそのチームで。
最後の社員ですかね。
すごい、フランス映画社、最後の社員まで。
あとに、年若い人とか外部の宣伝マンに作品ごとに来てもらうとかはありましたけれど。
11年間ずっと宣伝のサポートみたいな仕事をしてたんですか?
いや、もう何でもやりましたよ。
誰々に原稿を持っていけとか、デザイナーからデータをもらってこいて、
当時インターネットないですからね。
だから何もかもありました。
映画の配給に必要な裏方を現場仕事として全て一通り経験、ずっと回ってたんですか?
そうですね、デッチボーコっていうんですかね。
という感じだったと思いますね。
なるほど。
唯一役に立ったことは、倉庫の整理とかがあるからね。
資料整理したりしてたから。
忘れてた作品、今度上映する離れ離れに行って映画をやる時とかに、
いや、倉庫にあれ、予告ありましたとかね。
そういうことがわかるようになってたぐらいですかね、役に立ったのはね。
01:08:58

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