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和歌山市のアウトドアショップ、kisenlandトレイルの白石です。
有田市のコーヒーショップ、ARCの上田です。
この番組は、和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第56回です。
本日は、和歌山市木見寺にある、喫茶ベベで収録しています。
本日のゲストは、オディウル・草壁さんの気になる人、
ジャンクラフト代表、The Echoesの寺下一松さんです。
寺下さんの生まれから現在に至るまでのルーツや、
現在のこと、これから計画していることについてお聞きしていきます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
では、まずは寺下さんから自己紹介してもらってもいいですか。
造形団体ジャンクラフト代表、DJ The Echoesの寺下一松と言います。
生まれが1976年、昭和51年6月8日、今年48になる年になります。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
まず、前回ゲストのオディウル・草壁さんの気になる人ということで、
今回ご出演いただいているんですけども、草壁さんとはどういうご関係ですかね。
草壁君とは、自分が20、30になってなかったかな、25、6の時に、
その時はもう本当にDJっていうものにすごく傾倒していまして、
ダンスミュージックですかね。
ジャンルで言うとテクノとかハウスとか、そういうクラブの音楽にすごく傾倒していまして、
その頃バーテンをしながら毎週一つの場所でDJするっていう形をとってたんですけども、
そこにお客さんとして来られてた、後に隣に服屋さんをされる方がいたんですけども、
そこに来たお客さんの一人であって、すごく物腰も柔らかいし、
後にジャンクラフトっていうのをスタートするにあたって、すごく力になってくれた人物ではありますね。
なるほど。そこで出会って、そこからもずっとお付き合いは続いてみたいな。
そうですね、彼も東京行ってたりとか、いいぐらいの距離感でつかず離れずっていう風な感じで、
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年は三つ下でちょうど弟と同じ年になるのかな、なんですけども、すごくいい距離感で、
何か仕掛けるっていうと、東京から駆けつけてくれたりとか、
それぐらいすごくお世話になってるっていう言い方もあれなんですけども、
すごく自分の表現することとかに対してすごく理解を示してくれる方なんで、
すごく尊敬もできるところもあるんで、そんな感じですかね。
草壁さんから紹介してもらったときに、収録外の話で、
めっちゃ寺下さんはカルチャーに詳しくて、深くて広い人やみたいなことを言われてたんですけども。
いい感じで言ってくれた。
その辺のどういう感じでいろいろ掘ったりとか、出会ったりとかしていったのかっていう話も聞かせてもらえたらと思うんですけども、
まずはちょっと寺下さんの生まれから教えてもらいたいんですけども、生まれ育ちはどちらに?
今まさにいるこの和歌山市キミー寺という、歴史のある寺の下に生まれて寺下っていうのが、
でもあまりいないんですよ。この地区によくある名前とか地名に対してっていうのはあるじゃないですか。
なぜかここら辺に照らしたっていうのが、うちと親戚ぐらいで、
キミー寺で生まれ、もともとこういう商売をやってるところに生まれたって感じですかね。
生まれたときからこのキッサベベは営業されてたんですか?
もともとうちは寺下商店という親親だったんですよ。
それがちょうど、
もともと親親でしたね。生まれたときは親親だったのかな。
すごく小さいときにこのお店がオープンしたと思うんですけども。
物心ついた頃にはもう喫茶店だったっていう。
そうですね。そんな感じですね。
古いアルバムとかを見ると、自分の幼少期、生まれてすぐぐらいのときはまだこの親親の写真とかもあったっていう感じですかね。
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記憶の中ではもう喫茶店に生まれたっていう記憶ですけども。
寺下さん、子供のときってこのキミー寺周辺はどんな感じだったんですかね。
もっと商店が多いというか、
商店街っていう感じでもないんですけども、
やっぱりお寺の下で、やっぱりもともと栄えた場所ではあると思うんで。
例えばこの近くに銭湯が何軒もあったりとか。
本当に小さいときっていうのは今みたいに、もちろんコンビニなんかもほとんど見たこともなかったし、
スーパーマーケットっていうのが増えてき始めたのかなっていうぐらいの時期だったので、
米屋さんあり、酒屋さんあり、屋親さんあり、魚屋肉屋っていう専門店が何軒も。
隣が肉屋さんだったんです。
この前が書店、本屋さん。文房具も置いてるような本屋さん。
時計屋、散髪屋。
この前の道もどちらかというと商店街。
ここで屋親をやってたって感じ。
子供のとき寺下さん、どんな人やったとかって覚えてますか?
平均的な子供っていう感じが自分の中でしっくりくる感じなんですよ。
特別やんちゃでもないし、特別静かな方でもないし、
っていうのが自分の小学校あたり、途中ぐらいまではそういう感じかな。
自然の近くに生まれたもんで、山で遊んだりとか、そういうことはしてましたけども。
そのときに何して遊んでたとか、どんなこと好きやったとかって覚えてますかね?
ものすごく小さいときは山にカブトムシとかクワガタとか獲りに行ったりとか。
自分はおばあちゃん子だったんで、
おばあちゃんと遊ぶことがすごく好きでしたね。
古いことを教えてもらえるというか。
お手玉やったり、あやとりやったり、折り紙やったり。
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まだまだ時代的にはそういうものが普通に、
今みたいにテレビゲームとかもほとんどなかった時代ですし、
っていう感じですかね。本当に小さいときはそんな感じですね。
じゃあお父さんお母さんは喫茶店の商売とかしてるし、おばあちゃんに遊んでもらって育ったみたいな。
そうですね。
小学校とか行ったら、クラスではどんな立ち位置の子やったんですか?
小学校もさっき言ったように、小学校、高学年ぐらいまでは本当にもう、
勉強が特にできるわけでもないし、でも特別できないわけでもなく、
スポーツもまあ平均よりちょっと落ちるかなぐらい。
そんな感じなんで、別にクラスで特別目立つわけでもなく、
何か静かに過ごすっていう感じの思い出があるんですよ。
それが小学校4年までで、
小学校5年になったときに、それは出会いなんですけども、
担任になった先生が、なぜか僕のことをプッシュするというか、
もっと前に出ていきなさいっていうふうな、これはニュアンスなんですけども、
もっと目立っていきなさいっていう言い方もおかしいんですけども、
なんかすごい背中を押してくれる感じの先生だって。
元々小学校3年4年ぐらいまではすごく静かで、別に、
クラスの中にはやっぱりムードメーカーがいたり、スポーツできる子、
勉強できる子、いろいろ、例えばピアノ弾く女の子いてたりとか、
そういうこととは真逆の静かに過ごしてたのを、
その先生がなぜか背中を押してくれて、
まずはじめはね、今でもそうなんかな。
クラスが30人40人いるのを半分けがあるじゃないですか。
元々班長、リーダーみたいなのをやっぱり決める。
今でもそうなんかな。あるんですけど。
それを初めてやったんですよ。5年の時に。
そういうのをしていきなさいっていうふうな感じで。
あの頃で言ったら日直とかあったじゃないですか。
日直とかもそれなりに普通にしてて、
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それがほんまに一番パッと前に出るタイミングだったんですけど、
たまたま5年ぐらいの時に班長になるみたいな感じで初めてやったんですよ。
そこからもうその次には楽器員もやってみたいな。
それもなぜそこまでの経緯があまりちょっと、
そこまでの経過ちょっとよく覚えてないんですけど、
もう楽器員やって。
でもその5年の後半には小学校の生徒会場をやったんですよ。
そこのその1年の自分の変化というか、
すごく早い短い時間で変化していって、
でもそのまま6年生。
5年の後半に生徒会場になって、
6年は生徒会場そのまま途中までやるのかな、6年生で。
卒業式で何か話したりとか、
月に1回朝礼で何か発表したりとか、
そこがすごくターニングポイントというか、
何かこう人格というか、
そこで何かすごく切り替わった感じがしたんですね。
そんな今まで平均的な子やったのに、
急にそんな押されて嫌やなとか、
そんなのは特になく順応していった感じだったんですかね。
そう、なぜかね、
あれは何かそこら辺のことがあまり自分の中で、
思い出しても思い出せない感じがあるんですけど、
そうですね、何かなぜかその1年ですごく転換したというか。
中学校どこなってももうそのまま結構中心的な存在というか。
っていう感じではないです。
中学の場合ね、
小学校の前半よりはそれなりに目立つでもないんですけど、
それなりにある程度みんなそれなりに友達でというような
友達も多いぐらいかなというぐらいで、
でもまあうちの中学は明和中学校、
3つの小学校から来るんですよ。
君井寺とどこですか?
名草と浜宮と和歌浦ですね。
その3つが来るので。
結構大きい中学校なんですかね。
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そうですね、その頃ものすごく多かったですね。
1年の頃10クラス。
40人ぐらいのクラスが10クラスぐらいかな。
だからもう大きかったと思う。
だから1000人以上いるかな。
中学校生活はどんな感じだったんですか。
中学校はね、まず中学校に上がると、
まず3つの小学校から来るっていうのは、
子供ながらにやっぱりカルチャーショックっていうのがある。
やっぱりその小学校小学校の色というか、
高校の小学校はちょっとこうやなっていう。
ちょっとやっぱり、
やっぱりその地区の、地区というかその地域の色っていうのは、
今それは感じるというか、今わかることなんですけど、
やっぱり和歌浦だと例えば漁師が多いとか、
君井寺は農業が多いとか、
浜宮はその間、どっちかというと農業系かなとか、
そういう感じでちょっと色が違って、
やっぱりそこでこうなんか、
なんていうのかな、
友達の質も変わるというか、
悪いという言い方もおかしいんですけども、
ちょっと和歌浦小学校はちょっと不良っぽいかなとか、
ヤンチャーというか。
そう、ヤンチャーなのかなっていうか。
っていうのを感じながら3年間過ごすんですけど、
クラブとかも、スポーツもそれほど興味もなかったし、
中学校の時はそうですね、そんな感じで、
まあまあごく普通に過ごしてるって感じですかね。
部活音頭とかは矯正ではなかったんですか?
矯正ではなかったんです。
結構矯正やったっていうところが人が多かったんですけど、
面は大丈夫というか。
大丈夫ですね。
帰宅部というのか。
なるほど。
音楽とかものづくりはまだ出会ってない感じですかね。
ただ中学校2年の時に、
それもまた単人になった先生なんですけど、
英語の教科書にジョン・レノンの歌が出てきたんですよ。
教材の中にジョン・レノンの歌詞について出てきて、
勉強はそれほど得意じゃなかったんですけど、
なぜか英語はすごく好きというか、
少し得意というかという感じで、
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その単人の先生もすごくいい感じの先生やったんで、
その先生がジョン・レノン、
ジョン・レノンというのはビートルズっていうバンドの人やったんで、
授業の中でそういうのを。
先生が少し音楽が好きな先生やったんで、
そこからその先生にビートルズのCDを借りるんですよ。
それが最初の音楽。
その頃はレコードがCDになっている時代かな。
ちょうど切り替わる時代。
まだレコードもリリースされているけど、
CDが出てき始めた時代で、
すごく手軽に音楽を楽しめるっていう時代に入ってきて、
レンタルCD屋さん、ビデオ屋さんとかが結構多くて、
そこからまずビートルズっていうものを知って、
その時にいろんな人がビートルズを聴いて衝撃を受けた。
そこまでではなかったんですけど、
なんかこういうの好きやなっていうぐらいの感じで、
行きましたね。
その時一般的にはというか、
周りの子たちはどんなのを聴いてたとか、
どんなのが流行ってたとか覚えてます?
アイドル。アイドルが流行ってたのかな。
ヒカルゲンジとか流行ってたのかな。
劇部レコード大賞とかああいう賞を取るのが。
テレビに出てくるのは田原敏彦とか中森明、小泉京子とかっていう感じでしたね。
中学ではそこまでがっつり音楽にのめり込んでというよりは、
ちょっとなんか触れ始めたみたいな。
そうですね。
で、高校ですか?
そうですね。
高校行く前に中学、後に一緒にバンドとか始める一人が中学一緒で、
あの頃ってやっぱり塾に行くっていうことが、
塾ぐらいしか学校以外の生活の中で。
コミュニティというか。
そうですね。
っていうのがあまりなくて、
塾行くその中でいろいろファッションとか音楽とか、
例えばブームで言うとスケボーなんかがちょっと流行ったんですよ。
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で、ファッション雑誌とかもすごく多かったし、
逆にそこでしかそういう情報とかっていうのはなかったので、
そういうものがちょっと興味持って、
少しその当時だと村栗町なんかでもすごく人多くて、
店もすっごいあったし、
いろんな簡単な都会ですよね。
っていうのがそこにあったんで、
ちょうどアーカイブ聞かせてもらったんですけど、
ダンクの松本君の話の時とかに村栗町の話とか出てきたと思うんですけども、
キリン屋さんっていう、
彼が何か住んでたとかいう話をしてたと思うんですけど、
そこに中学の時に少し通うようになって、
そこから音楽を始めるきっかけになる、
その頃でいうかっこいい先輩みたいなのとすぐに出会うっていう、
それが中学の最後の高校受験もギリギリぐらいの時ですかね。
その時寺下さんから見てどんなお店やったんですか?
そこはね、そこにしかないものがあるっていう感覚ですかね。
見たことないものがあるというか。
そこはもちろんどっちかっていうと、
そういう海外のシーン。
例えば、その頃でいうとイギリスのレイブカルチャーとか、
あとスケートカルチャーとかっていうもののアイテムを
海外から直接買い付けに行って輸入してるっていうふうなお店だったんですよ。
そこで初めてステューシーを見て、
ステューシーはそこにしか、和歌山ももちろんそこにしかなくて、
それに雑誌をあげるとステューシーっていうものがすごく来てるみたいなのと
すごく合致して、そこのお店、そこのオーナーさんもすごく可愛がってくれたんで、
そこによく行くようになって、
そこにいたバイトしてた方が、
とにかくかっこいい、この人かっこいい、こういう人になりたいって子供心に。
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それはファッション的にっていうことですか?
そうですね、ファッション的にもスタイルもいい人やったんで、
その人がすごく好きで、
会いに行く、遊びに行く、いろんなことを教えてもらう、音楽のこととかっていうのが、
高校入って、音楽とかファッションとかそういうものにぐっとのめり込むきっかけになった方ですかね。
ちなみに高校はどこに行くんですか?
高校は和歌山工業高校。
何科ですか?
機械科です。
源二郎さんの後輩ね。
その時、将来何やりたいとかそんなのあって進路を選んだ感じなんですか?
いや全くなかったです、はっきり言って。
行ける高校がそこだったというか。
実はセーリンに行きたかったんですけど、
セーリンの方が女性が多いというか、
浅い考え方で。
極端に女性少ないところに行ったんですね。
そうですね、セーリンの次なら和工っていう感じだったですね。
和工はどんな感じでした?
和工はね、やっぱりさっきも言ったより男ばっかり。
逆に女性ばっかりのクラスもあるんですけど、
機械科はもちろん3年間一人も女性いないというクラスだったんですけど。
その頃ね、ファッション的にアメリカのファッションにすごく興味があって。
そういう、今でいうヴィンテージ古着っていうのが日本でブームになった時代だって。
例えばアメリカのワークブーツとか、ワークウェアのようなものが好きで、
その機械科っていうのもあって、
その友達、その中学、さっき言った友達、後にバンドするって言ってた友達も同じ科に入ったんで。
そういう好きなものが共通する友達が結構和工の中にもいたんで。
結構それは楽しい学校でしたね。
その辺の知識っていうのはどこから仕入れてたんですか?
やっぱりその頃は雑誌と、さっきも触れたような先輩にいろんなことを教えてもらったりするっていうのが一番多かったかな。
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雑誌で言うと当時どんなのがあったんですかね?
ホットドックプレスとか。
今でもあるのかな。
メンズノンのとかも今でもあると思うんですけども、
もっとね、古着ブームやったっていうのもあったんですけども、
例えば古いヴィンテージのジーンズの見分け方とか、
なんかそういう教材みたいなところもあったというか、
その頃ってこうファッション、音楽ファッションカルチャーっていうのがこう、
こういうファッションの人はこういう音楽を聴くっていうのが、
なんていうんかな、それがこうなんかあったんですよね。
僕が結構その頃一番興味を持って飲み込んでいったのがロカビリーっていう、
フィフティーズっていうジャンルだったんですけども、
学校行くときはブーツ履いて、今で言うリリーゼントして行くっていう。
音楽はロカビリーを聴くっていうのがなんか、
自由じゃなかったんやなって今は思うんやけども、
それがまた逆になんかこう、
惹かれるとこであって、
雑誌、先輩にやっぱり教えてもらえることっていうのがすごく多かったのかなと。
なるほど、それから高校生活はどうなっていくんですか?
高校は名羽中学校で一緒やった一人とバンドを始めるきっかけになるんですけども、
和光と、なぜかさっき触れたかっこいい先輩たちのところに、
僕ら和光のチームというか、
そこに西光のチームがいたんですよ。
そこでなんかこうすごく馬があって、
最初はすごく献成するんですけど、
そこでなんかすごく打ち解けたというか、
その先輩を介してそういう感じになったんですけども、
そこで和光と西光のミックスで色々バンドが始まったりとか、
一緒にイベントというか、
大阪のアメリカ村に一緒に買い物に行ったりとか、
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そういうのがすごいバッと。
バイクに行く連中はバイクに行くし、音楽に行く連中、
スケボーとか、そういうのがすごい価格変化を起こして、
そこで僕も高2ぐらいの頃から、
そういうイベントを仕掛けたりとかするきっかけになったというか。
イベントっていうのはどういうイベントだったんですか?
はじめはバンドで、さっき言ったようにロカビリーのバンドを始めるんですけども、
ちょうど自分よりも4つ上ぐらいの先輩。
僕らが15、6の時に20歳前後の人たちがやってるライブに出させてもらう。
出させてもらうにはやっぱりチケットをたくさん売ってくる。
それで成り立つっていう風な。
それは別に強制されたわけじゃないんですけど、
やっぱりそれは今も変わらないんですけど、
やっぱりなんか表現というか、
例えば演者に回る場合はそれを見に来てもらえる人がどれだけいるかっていうところが
僕は自分の中で測るメーターになってるんで、
とにかくチケットを売って。
友達も西高とか別の高校とかそういう高校とか、
友達すごく増えたんで、
例えばイベントに自分らが出演するところに30枚40枚チケットを売ってくると、
先輩にすごく重宝がられるし、
かわいがってもらえるし、
褒めてもらえるというか、
っていうのがそれは頑張った部分もあるんですけども、
自然にその周りの状態がそうだったんで、
すごく求められてる感じもあったんです。
それはみんな協力してチケット売って、
お客さん呼べる。
イベント行くと半分ぐらい自分たちが呼んだお客さんとかいうときが見えてきて、
それは高1、高2ぐらいですね。
早いっすね。
それだったら自分らで、
やっぱり先輩のところに出させてもらうときって自由じゃないし、
あんなこともやりたい、こんなこともやりたい。
その中で、
ライブとかやっていく中で、
先輩とかに大阪とかのイベントとかに連れて行ってもらえる機会があって、
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そこでDJとかっていうものを初めて見たんですけど、
なかなかライブを自分たちでやるっていうのはかなり難しいというか、
やっぱりお店というかそういうライブハウス借りるにはやっぱり資金もいりますし、
そこまでのパワーはなかったんで、
まずDJをやるようなイベントを、
あれはもう高校2、3年のときは休みごとにしてました。
すごいっすね。
ちょっとバイトになったんですよね、それが。
ちょっと利益も出て。
そうっす、ちょっとというかかなり利益出てました。
たまたま安く使える歌詞ホールみたいなのがあって、
そこはもう200人ぐらい入るスペースだったんで、
その頃で言うと1000円とか1500円とか、
これは言っていいかどうかわからないですけど、
お酒とかを売っちゃうんですよ。
それは自分じゃなくて誰かに売ってもらうんですよ。
一応20歳ぐらいの人にお酒を売ってもらうんですよ。
そのお酒の売り上げの中からいくらかイベントに戻してくださいよ、
場所代として戻してくださいよっていう風な形で、
その売る方もちゃんと利益を出るように計算してっていう風にすると、
それなりに安みごとに小遣いになったんですよね。
それそんなに集客、毎回どうやってやってたんですか?
それがね、そういうことってあんまりなくて和歌山には。
そういうファッションとカルチャーみたいなのが、
ちょうど僕ら高校ぐらいの時に雑誌とかもそういうの取り上げたりとかもあったりとかで、
周りに集まってくる人たちがそういうものを求めてたんで、
だから自分の学校でも2、30枚は普通にチケット。
高校でイベントを打つときは自分らでチラシ作って、チラシ巻いて、
画用紙にコピーしたチケットを売るっていう、そういう地道な。
えーすげー。
じゃあ口コミで広がっていったみたいな感じなの?
みたいな感じですね、もちろんね。
休みの旅に、休みの旅って毎週末やってるってことですか?
ごめんなさい、夏休み。
そういう休み、はいはい。
3回あるじゃないですか。
そのごとに、冬はクリスマス的なことをクリスマス的にやったりとか。
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それにしてもすごいですね。
それはほんまに、結構場合によっては10万くらい利益出るとか。
イベントの内容的にはDJしてお酒飲んでみたいな感じですか?
そうですね。
バンドなんかもね、喜ばれる、みんなが喜ばれる。
そこでも自分らがやりたいこととかよりも、
みんなが欲しがるものっていうのをできるだけ早めにキャッチして、
それをするっていう感じをそこで覚えましたね。
そうなんですね、すげー。
それはもうゲストとか言わずに、出演も自分たちで。
自分たちだけでやってましたね。
すごい。
そのカルチャーは、例えばキャッチするっていうのは、
例えば大阪に行ったりとかもあったんですか?
実際そのやってる風景を見に行くというか。
そうですね、そこに行くしかなかったので。
それはもうやっぱり最初は、連れて行ってもらってとか。
そこからだんだん慣れてきて、例えば大阪に。
特に大阪は今でも続けてるんですけど、やっぱりレコードが好きだったんで、今でもそうなんですけど。
レコード屋さんに行くといろんなカルチャーのチラシとか、そこでいろんなことをキャッチできるというか。
今と違ってね、現場に行くっていうのが基本だったんで、怖い思いもしながら。
そこからどうなっていくんですか?
そこから、高校の頃はとにかくそういうイベントとかをできるだけたくさん見たいし、自分たちもしたいしっていう感じですかね。
だからバイトをしても、そのためにバイトしてるっていう感じですかね。
そろそろまた高校卒業とか近づいてきたら、結構将来の進路も考えやがるみたいになってくると思うんですけど、そこから進学ですか就職ですか?
就職ですね。和光へ行ったっていうのも、就職がちょうど時代的にバブルがはじけるという時代の後なんで。
でも自分らが子供の時ってすごく華やかやったっていうのは、今思い出すとすごく感じるんですけど。
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すごく裕福やったというか、言葉で言うとバブリーやったんやなって思い返すと。
だからその後で就職がこれからしんどいよっていう風なのは子供の頃からいろいろ聞かされてたんで。
そうやったら和光でいいかぐらいの感じで、和光から就職に有利ということで、工業高校だとね。就職はしました。
最初はどういうところに行ったんですか?
企業名はあれとしても、農機を作ってるメーカーに行って、割と大きいテレビコマーシャルもしてるようなメーカーに就職して。
営業所は和歌山の営業所に、本社とかじゃなくて和歌山の営業所に就職やったんですけど、研修は関西の大きい研修があって。
そこに一月ぐらい行ったんかな。一応研修もやって、でも半年ぐらいで、結局高校生の楽しいいろんな面白いことを。
一番就職する手前ぐらいが一番これから自由やし、面白いことにアクセル踏んでしまってるんで。就職したことに対して、仕事自体がなかなかうまくいかず、もうすぐ辞めちゃって。
どんなことをしてたんですか?仕事は。
まだね、研修期間ぐらいですかね。見習いというか。
見習いの時点で結構面白くないなみたいな感じだったんですか?
ちょっとね、そこで病気みたいなのもしちゃって、それがきっかけっていうのもあったんですけど、そこからもう辞めちゃって。
今思えたらあんな無責任なことをよく知ってもらえないというのは思うんですけど。若いんでね、18、19とか。
辞めてどうするんですか?
そこから結構なんか、元々高校の時とかもたまにいろいろ欲しいものが、いろんなイベントしたりとか欲しいもの資金がいるっていうことで、高校の時によく土木作業のバイトをよく行ってたんですよ。
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それは日東で、日雇いってやつなんですけど、行くとその当時ね、最初8000円スタート、朝7時ぐらいから夕方5時までで、1万円ぐらい手渡しで帰りにくれるんですよ。終わってからね。
それもあったんで、そこに行きながらブラブラっとはしてましたね。今思ったらブラブラしてたなってバイトしながらとか。
そのブラブラ期はどれくらい続くんですか?
それがね、1年か20歳ぐらいまでブラブラっとしてて、そこから仕事してたらね、音楽も好きやし、いろんな遊びし、面白いこととかも知って、
お酒を提供する場所、バーとか、そういうものに興味を持ち出して、20歳の時に勢いでお店をすることになったんです。
20歳で?
もともとある店を引き継ぐっていう形だったんですけど、それもね、なかなか長くはしなかったですけども、そこでDJのイベントとか、いろいろまた知り合うというか。
お店でイベント?
自分のお店で。自分もDJしたし。その時はバンドよりもどっちかって言ったらDJっていうものにすごくのめり込んでたんで。
その時音楽のジャンル的にはどんなものをやってたんですか?
高校の時はね、とにかくオールジャンルっていうのがベースでした。まださっき言ったようなハウスとかテクノとかそういうものではなくて、高校の時に連れて行ってもらった大きいイベントとかでロンドンナイトっていうのがあったんですよ。
それは今でもずっと続いているイベントなんですけども、イベントというかパーティーっていう表現の方がいいかな。
それに行った時にいろんなジャンルの音楽を回すDJがいて、さっきも言ったようにファッションと音楽、聴く音楽っていう変な縛りというかそういう感じだったんで。
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例えばロカビリーがかかるとお客さんがガラッと変わってロカビリーのチームが中心に来る。パンクがかかるとパンクのチームがバッと入ってパンクが盛り上がる。
でもその弾いてみるとすごく一つになっててすごく盛り上がってるイベント。朝までやってるようなイベント。それを見てなんかDJっていいなっていうのがあって、それが結局一つのこのDJというものに対しての衝撃というか。
20歳当時ぐらいの若山の音楽シーンはどんな感じだったんですかね。
20歳ぐらいの頃はちょうど僕らが始めた頃、高校ぐらいの時は先輩も20歳前後で結構精力的にイベントとかもやってたんですけど
僕が20歳ぐらいになるとその人たちもやっぱり24、5になってくるとやっぱりなかなかね現実的なことを考えてバンドなんかをしなくなる人とか増えてきたりとか。
でもそれを突き通す人はやっぱりもっともっとってなってる人たちは例えばレコードをリリースしたりとか
その当時村栗町にタワーレコードがあったんですよ。
ありましたね。ウィブレイのところに。
ウィブレイのところに。そこにテープをリリースしたりとか、なんかインディーズのコーナーがあってそこにリリースというかチャートとかにも乗れる。
とにかくみんな買うんでそのファンは。インディーズチャートトップになったりとか和歌山の中でのそういうバンドもライブも。
もっと若い頃はなんかこうめちゃくちゃな部分も多くてなんか今思えばようあんなめちゃくちゃなことやってたなっていうことをやったんですけど
だんだん年も重ねるとやっぱりこう筋の通ったこういう人たちバンドもすごく到達されてきて
やっぱりこうレコード出したりとかリリースしたりとか県外へライブしに行ったりとかそういう感じちょっとこう
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それこそまあ世間的にはハイスタとかがメロコアとかが出てきて
ちょっとしたブームになってたかなあんまりそこまではあんまりバンドっていうのはそれほど流行ってはなかったんで
それでまた僕らよりもちょっと上の世代の人たちはバンドブームっていうのを経験してたんで
だから僕らが高校の時にそのついて行ってた人たちっていうのはバンドブームを見てきた人たちだったんで
僕らとはちょっと感覚が違うというかそこで僕らが二十歳ぐらいに出てきたのがもうメロコアっていうブームがあったんで
それはもう大阪のライブハウスとかもよく行ったし
それに伴って和歌山でも昔やってた人がまたバンド始めたりとか
そういう感じはちょっとあったかなって感じですね
なるほどそんな感じだったんですね
その二十歳の時に始めたお店はどれぐらい続くんですかね
あれ一年ぐらいあったかなそんなもんですかね一年ぐらいですかね
ちなみにエリアはどのあたりされてたんですか
アロチの中心ぐらいですね山外の
いい場所で
そうですね家賃も高かったから何もわからず始めちゃったんで
で店閉めてどうするんですか
店閉めてからそこからはもうほんまにDJをやるためにどうしていくかということをまず考える
和歌山にも何軒か小さいお店とかDJブースがあるお店とかあったんで
そういうところでその頃も継続的にイベントに呼んでもらったりとか
自分で仕掛けたりとかもやってたんで
DJを仕事にしたいみたいな感じ
それはありましたね
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だけど