kisenalpスライディングクラブの白石です。
有田市でみかんやってます。ARCの上田です。
この番組は、和歌山で活躍するゲストの方にインタビューしていく番組です。
kisenradio第84回です。
本日は、和歌山県海南市にある、黒岩正和事務所で収録しています。
本日のゲストは、写真家の黒岩正和さんです。
NORMの坂上さんにも収録に参加していただいています。
黒岩さんの生まれから現在に至るまでのルーツや現在のこと、これから計画していることについてお聞きしていきます。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ではまず、白石くんから黒岩さんのプロフィールのご紹介をよろしくお願いします。
はい、黒岩正和さんは1982年生まれ、和歌山県出身。
大学卒業後、写真家の溝渕博士のアシスタントと経て独立。
18歳から野宿で東南アジア各国を放浪。
その後、山岳少数民族の風習撮影のため、中国雲南省に長期にわたり滞在。
21歳より、日本の島の暮らし・祭祀を撮影。
2025年、写真集「百頭百歳」を発売。
2026年現在、一般人が立ち入り可能な日本の友人島全島を撮影し、
放投回数延べ1600以上、400以上の島の祭りを訪れています。
というわけで、間違いなさそうでしょうか。
はい、一応。
すごいプロフィール。
そして今日は、坂上さんに参加していただいているのは、
黒岩さんが8月に坂上さんの運営するギャラリーノルムで、
黒岩正和写真展リチュアル・オブ・ザ・ソウルを開催されるということで、
その写真展の告知も兼ねて、今回黒岩さんに出演してもらっているんですけども、
今回のこの写真展はどういう内容ですか。
えーと、黒岩くん、どっからとお話しましょう。
ノルムでやるのは初めてですか。
実はノルムの一番最初の展示の人なんですよ。
ノルムオープンして1週間後に、黒岩くんと絵描きの正達の2人展したのが、
そもそもの始まりの展示であって、
それ以来9年ぶりくらいの展示になるんですけど、
その時初めて黒岩くんの存在を知って、
写真を見たり、どういう活動をしているのか知ったんですけど、
結構衝撃があって、自分にとって。
勝手にクレイジージャーニーって呼んでるんですけど、
すごいなこの人と思って、
写真家とかカメラマンみたいな仕事をしている人って、
いろんなタイプの人がいてると思うんですけど、
なんかすごいジャーナリズム性を感じるというか、
ただ写真を撮ってるだけじゃなくて、
何かを伝えようというところがすごく僕は強く感じて、
黒岩くんの写真には、写真というか活動に。
やっぱり普通に生活、僕らが生活してて見れないものとか、
知ることのできなかったようなことを、
写真とか文章で伝えてくれる仕事をしている人で、
そんな世界があったとはって、すごい。
その時は衝撃だったんですよ。
そこから8年9年経って、
当時も島行ってたんですよね。
100島、200島ぐらい行ってたんですか。
いや、その時300島ぐらい行ってたんですよ。
その時に話聞いてて、島の祭りの写真とかを撮ってあって、
去年ですか、この写真集。
写真集去年ですよ、2025年です。
去年写真集を出されたタイミングで、
東京とか大阪で写真展したんですよね。
その時に地元和歌山でもやれたらみたいな話をお互いして、
今回ようやく実現できるんですけど。
展示物としては島の祭りの写真とか、
あと海外の少数民族の写真とかも撮ってるんで、
その写真の展示とかをして、
写真集の販売もさせていただいたり、
もう一個ね、離島飯っていう、
各島のご飯を紹介している本も最近出たんですけど、
その本も紹介させていただく予定になってます。
その展示期間中にトークイベントもあるということで。
予定していて、今回このキセンラジオさんにすごくお世話になっているというか、
事前に収録もさせていただいて、
黒岩くんにはラジオ出てほしいなと思ってたんですよ、自分も。
すごい、あんまりハードル上がりますね。
ハードルが低い方が僕はありがたい。
僕から見てすごい面白い人生を歩んでいるなと思ったんで、
その話聞きたかったですし、
今回こういうタイミングをいただいてすごくありがたく思ってますけど、
最終日の1日前、8月8日にトークイベントも行うんですけど、
その時もキセンラジオさんにお世話になって、公開収録という形を取らせてもらって、
あと、君野にあるもみの木食堂さんにも加わっていただいて、
もみの木食堂さんのご飯を食べながらトークを聞くみたいなイベントになればなと思っています。
それも島ご飯を再現というか、島のご飯を作ってもらう。
それを食べながら黒岩くんの話を聞くというイベント内容になっています。
皆さん今回のキセンラジオを聞いて、ぜひ写真展に足を運んでいただいて、
トークイベントも参加していただければという感じで。
黒岩さんのプロフィール先ほど白石くんから紹介してもらったんですけども、
坂込さんも言ったみたいに、マジでクレイジージャーニーの人やみたいな感じなんですけど。
そう言ってもらうとハードルが上がるんですけど。
ちなみにクレイジージャーニーから声がかかったり。
ハローはまだないです。いつか掛かれば出たいなと思いますけど、全然。
掛かってもおかしくないというか。
ぐらいのレベルのこと言ってますよね。
日本の有人島全島を撮影と報道ということなんですけど、これはどういうことというか。
まず無人島を入れると日本に島って6000以上あるんですよ。
その中で人が住んでる島が420ぐらい。
その年々の国勢状態で変わるんですけど、大体416から420ぐらいの間ぐらいなんですけど。
その中で伊予島と南鳥島って、有人島にはなるんですけど、一般の人が行けないというか。
自衛隊とか気象庁の職員さんが住んでて、有人島扱いになるけど、異例災害の時しか伊予島は行けない。
南鳥島は普通に行けないとかっていうルールがあるので、そこら辺は抜いた一般人が報道可能な島、大体414ぐらいを全部訪れたという形ですね。
すんごいっすね。
あとまた四季ごとに行ったり祭りごとに行くので、延べで行くと1600超えてるっていう状態が今の状態ですね。
行くのは全部撮影のために行くって感じですか?
最初はもう本当に100島行こうみたいな、野宿で100島回ろうみたいなとこが始まったんですけど、
100島超えたあたりで島の祭りと出会って、そっからはもう島の祭りの時期に合わせたり、
祭りの時が晴れの日やったら普通の日常も撮っとかないといけないからって言って晴れの日に、普通の状態の時にも行ったりしてるので、
その結果報道回数がどんどん増えていくみたいな感じですね。
中学を経て進学はどこに?
紅葉。紅葉高校に行って。
運動だけじゃなくて、勉強も結構できた感じですか?
どうなんですかね。歴史とかは大好きだったんですけど、紅葉入ってからの3年間は常に舌を、
毎回進級テストを受けさされるみたいな、追試を受けさされて、
ギリギリ進級みたいなやつを3年やってという形なんで、
勉強そんなに得意だった気はしてないんですけど、
やっぱり高校生活が一番楽しかったですね。
バイトを2泊くれて。
いつか海外行きたいと思ってたので、海外行くお金も貯めたいし、
早いうちから、紅葉バイト禁止なんですけど、
本当に高1から3つぐらい駆け持ちしてやってましたね。
何やってたんですか、バイト。
コンビニの早朝と、回転寿司屋。
その時、もう今なくなったんですけど、スッシー君っていう回転寿司屋があって。
ありましたね。
あれのオープニングから。
え、あの、黄身似てない行くまでの。
あ、そうです。黄身似てないとこにあったやつですね。
あそこにいました。
よく行ってたよ。
あそこで軍艦握ってましたよ。
絶対じゃん。
握ってたやつ食べてるわ。
握ってました。
高校生の時もね。
高校生の時ずっと。
ミング取り始めの時とか、車で行ってたもん。
あ、じゃあ多分。
かぶってましたね。
スッシー君ってどうやって。
長田ピンポンっていうインターホンの受付やってました。
はーいって。
そうなんよ。
あと清掃とかやって、だから3つぐらいを掛け持ちしながら。
2つの時もあれば、1つになった時もありながら、早々高3までずっとバイトはやってましたね。
え、じゃあもう大学行って海外行くために、もうずっと溜めとこうみたいな感じで。
そこまではっきりと具体的にないんですけど、大学行ったら何かしら、日本も出たいとか、はちゃけたいっていうのがすごくあったので、そのための資金をとりあえず溜めとこうみたいな感じで。
もちろん部活もせず。
部活は1年の時だけやったんですけど、やっぱりその生活が両立できなくて。
中学校の時は強いチームにいたから、部活も楽しかったんですけど、やっぱり自分のやりたい、熱中した欲と実際のチーム状況とかが合わずに全然出なくなって、バイトの方が楽しくなってきてみたいな。
で、バイトの方に熱中していった。幽霊部員みたいな感じで最後までいましたけど。
一応在籍は。
在籍はしました。
全然出てなかったと思いますね。
なるほど。高校の時、他に出来事とか何かありました?
高校の時、だけどそれこそ高2ぐらいで、もう本当に芸大、勉強が全然できなかったので芸大へ行こうって決めて。
それは何でまた?
本当にくだらない。テレビに影響されすぎなんですけど。
まずはゲームのシムシティっていうゲームがあったんですけど、街を作るみたいなゲームで、それに憧れて都市計画みたいな建築系の学科に行って、芸大行けたらなって最初思って、アトリエの見学とか行った時に、
アトリエの先生に、僕手先あんまり器用じゃないんですよ。だから、倉井君はそういうふうに向かないと思うって結構バッサリ切られて。
で、どっちかっていうと、そういう広告とかの方が向いてると思うみたいなことを言われたので、それをすぐ真に受けて。
当時モーニング娘。が流行ってたので、広告業界とか行けばそういう人と出会えるかもしれないっていうのを朝朝から考えて、デザインとか広告の方にキュッと方向転換して。
で、高3はずっとアトリエ行きながらバイトしながらみたいな感じをやって、芸大の方に受験しに行くっていう形になります。
で、大学はどこに行くんですか。
大学は京都の聖火大学っていう大学なんですけど、当時本命のとこは違う大学だったんですけど、全部滑って、そこだけ受かったっていう形で。
そこで受かったので、一番倍率が高かったんですけど、その時26倍とかぐらいの倍率だって、なんでそこだけ受かったってみんなに言われながら、そこに行きました。
聖火大学って芸大なんですか。
人文学部と芸術学部みたいなやつが分かれてて、芸術学部の方は芸大ですね。
なるほど。何かというか。
デザイン学部、デザイン学科、VCD専攻っていう、本当に何をやるんやっていう感じのやつなんですけど、広告とかグラフィックデザインとかをやる学科の方に行きましたね。
なるほど。大学生活はどうでした。
いやもうすぐ海外に行ったので、最初の夏休みは4月、5月、6月まで大学は行ったんですけど、7月からもう海外に行ってるので、最初の3ヶ月の思い出はあんまりないです。
すごいですね。有言実行というか、もう貯めてたお金で海外に。
今日貯めたお金もほぼ使ってなくて、サル岩石みたいなやつをやりたいのでヒッチハイクで行きたいから、とりあえず飛行機のチケット代と1万円だけ持って韓国に行きましたね。
1万円でなんとか。予定は3ヶ月か4ヶ月ぐらいユーラシアをぐるってして行くっていう予定だったんですけど。
1万円で行こうと。
バカだったんですよ。本当にバカだったんですよ。今思えば海外よく行くじゃないですか。よくやったなって思って。
料費の飛行機代とは別には1万円しか持っていかなかったです。
で、もう韓国着いた段階で7000円ぐらいになって。
電車に乗らなきゃいけないから。
交通費?
交通費。
それも入れてなかった?
入れてなかった。
7000円で行けるかなと思って。
まずどこから行くんですか?
まず上海に入って、そこからヒッチハイクでベトナム抜けて、ベトナムで終わってます。
実際ヒッチハイクして、7000円で行けたってことですか?
どこまで話かわからないですけど、最後は物売りしてます。お金を集めてます、現地で。
現地に来てる日本人の方に。その時僕顔ボコボコにされてたんで。
どういうことですか?
はしょったんですけど。
いろいろあって、その顔がボコボコになってたんで。
日本語で話しかけると、日本人の人が、どうしたんその顔ってなって。
物取りにあって、殴られて、こうなったんですって言って。
すごい。
7000円しかないのにさらに取られて。
その時に取られてはないんですよ。実際は取られてないけど、顔がかわいそうすぎて、みんな1000円、2000円を同情してくれるっていう状態で。
逆に最後の方はちょっと裕福になってましたね。
それでも最終の旅でしょ。
最終の旅です。
結構なかなか壮絶なことが起こってるじゃないですか。そこででも嫌になったりしなかったんですね。
憧れてたものにやっと慣れたっていう喜びの方が強くて。
結局警察に捕まったり、いろいろやってるんですよ。
何をやってるんですか?
3ヶ月行くって言ったのに、1ヶ月半くらいで帰ってるんですけど。
その1ヶ月半の間に、ホテル泊まれないじゃないですか。7000円しかないので。
基本的に野宿をして、野宿の中で拾われて、現地の人の家にもしばらく1週間とか泊まったり、2週間泊まったりっていうのを繰り返しながら、ちょっとずつ進んでいった結果、ビザが切れて。ベトナムで。
ビザを持ってない状態でいたので、警察に捕まったタイミングで不法滞在になる。
プラス、入ったらあかんとこで野宿をしてて、捕まってしまって、帰らされるっていう状態になってますね。
あんまり細かに言わんほうがいいんですか?
いや別に、全然そこは事故だと思ってる。
僕が面白かったのは、目覚めたら銃口を向けられてたんですよ。
当時なんで、今から25年ぐらい前って、まだカンボジアのポルポト派が壊滅した後ぐらいすぐで、カンボジアから流れてきてる患者だったんですよ、ベトナムに。ポルポトの残党みたいなやつ。
ベトナムは結構、ホーチミン自体が盗みの街って言われるぐらい治安が悪い時代だった。
でも、警察が普通に銃持ってるんですよ。社会主義国なんで。
寝たらダメな国立公園みたいなところの、雨を、スコールを避けれるところで寝てたら、国立公園が閉まる時間の時に見つけられずに、夜の見回りの時に発見されて、変なやつがおると連絡されて警察が来たんですけど。
僕、熟睡してたんですよ。熟睡しててパンパンと起こされた時には、もう銃口が2つ空いている状態で、起きろと。
起きろって言われたけど、寝袋の中に入った状態だから何言ってるかわからないし、寝ぼけながらキョトンとしてたら、ここを持たれて、寝袋のまま引っ張られていって。
ミノムシみたいな感じで寝袋ごと連れて行かれました。
鉄橋清掃班。
一緒に来たいとの旅費を外務省が立て替えてくれるので、外務省に僕は返金をしないといけないっていう、よくわからないシステムなんですよ。
今もあるのかな、そのやり方みたいな形のやり方で、とりあえず旅費を返済しました。
それって、返されたら罰的なものはあるんですか?
ありますね。1年間渡航禁止です。
なるほど。
で、未だにベトナムはノービザで入れないです。
へえ。
多分みなさん15日以内とかやったらノービザで行けるんですけど。
いわゆる簡単に言ったらブラックリストみたいな。
多分入ってるなと思うんですけど、ノービザで行こうとしたら止められます。
時効とかないんですね。
いや、今のところまだ、最近わからないですけど、ちょっと前まで全然まだビザはいりますね、僕は。
なので、みなさんはノービザで行ける中、一人だけビザ取っとかないと入れないので、めちゃくちゃ面倒くさいですね。
なるほど。そっからはそのライフワークの島も行きつつ、カメラマンも本格的に目指し出してみたいな。
カメラマン本格的に目指したのは卒業ギリギリぐらいで、それまでは課題とか島を行くことに楽しさを覚えたので、卒業制作も島でやろうと思って、100島の島の卒業制作の本みたいなやつを作ったりしてたんですよ。
そういうのをやりつつ、もう卒業しないといけないってなったタイミングで、どうしようってなった時に、就活もしてなかったので、本屋さんでバーッと本見ながら、この人の本面白いなって思った人にとりあえずアポイント取るっていう。
アシスタント募集してないですかみたいなやつをメールとかハガキとかで送る。最後のプロフィールページにホームページとか載ってたらそこから問い合わせますし、昔なんか住所とか載ってる本とかもあったんですよ、写真家の。そういうもらえたら住所をハガキ送ってとかやって、探し出したのがカメラマン目指そうかなって思った時ですね。
そして、写真家のみぞぶちひろしさんのアシスタントに。
言葉をいただけない。撮ってるものは面白いけど、アシスタントとしてうちスタジオやしな、みたいなスタイリッシュなカメラマンにはマッチしなかった。知り合いの紹介もあって、あと僕もこの人面白いなって思ってた方がみぞぶちさんの方で、一回会ってみたらっていうので会って、4年生の最後2月3月くらいから2,3回アシスタントに連れてっていってもらって、
卒業したタイミングで完全にアシスタントとして事務所にお世話になるっていう形になりました。
えー、みぞぶちさんはどういう仕事をされてたんですか?
岡田 海外も撮ってるし、島も撮ってたので、どれか1個だけとか広告だけとかっていうのはちょっと僕向かないなと思ってたので、ちょうどよかったというか、向こうも最後のアシスタントとして雇ってくれてましたね。
えー、結構お年の方だったんですね。 岡田 僕がいたときで官歴とかになったんで、今はもう70後半で、この前もありましたけど、もうすぐ80になると思います。
現役で? 岡田 現役です、現役です。
すごい。 岡田 もう印税で食べて張ります。
すごい。そういうレベルの人。
岡田 本、だから20冊ぐらい渡して張るんで。
あ、じゃあ物書きっていうか、文章も?
岡田 文章はそんな書かないですけど、写真集っていう形で。
へー。
岡田 よかったなと思うのは、いまだにそれは守ってるんですけど、師匠が言ってた言葉で、どれか1個だけをテーマにはするなよって言われて、島だけとか少数民族だけとかにはするなよって言われて。
僕もそうだけど、3つぐらい分けてると、例えばどれかがうまくいかなくなった時に他の方を取ろうっていう気になれるかなって言われて、確かになって思ってそれを実践してたんですけど、それがやっぱりコロナの時にすごくそれを実感して。
カメラマン辞めたいなって思うような仕事がなくなったり、撮影にも行けないみたいな時に、師匠のああいうことが今役に立ったなって感じたのはコロナの時にすごく感じたので。
やってる時は本当に大変な仕事なんで、今のブラックの状態よりももっとひどいような状態で働いてたので。
当時、アシスタント自体。
岡田 アシスタント時は。
アシスタントってどういう仕事するんですか。
岡田 僕は本当に写真、カメラ撮らせてもらわなかったですね。ずっと荷物持ちと運転手と、暴力もある、喧嘩とかもあるし、あんまりどこまで言えるかわからないけど。
いわゆる昔の昭和がたきの。
岡田 よく話してて気が合うのは、落語家さんの弟子さんとか、すごい有名なお寿司屋さんの弟子さんとかは、同じような環境ですね。この時代の話があります。
岡田 お給与としてもらったら、いろいろ引っかかる金額しかもらえないので、お小遣いとしてもらってました。毎日働いて30日働いてるんですけど、給与として出したら駄目な額しかならないので、お小遣いっていう名目にしてやってましたね。
技術的なことを教わるというよりは、見て学んでみたいな。
岡田 カメラマンとして、僕の師匠は結構写真家としてやってたので、写真家としての動きみたいなやつは見て学ぶみたいな感じでしたね。
写真家としての動きっていうのは、仕事の撮り方とかそういうことですか?
岡田 広告じゃなくて、自分が先に撮ってそれを売るっていうスタイルなんで、依頼があって、クライアントワークではなくて、自分がテーマとしているものを先に撮っておいて、それを本にしたり、カレンダーに使用してもらったりとかっていうので、売れる写真とはこういうものなんだよっていうスタイルを。
岡田 自分がいいと思ってもカレンダーにならなかったらダメだよとか、例えば顔がはっきり写ってる方がいいけど著作権の問題とかあるから、後姿も絶対押さえておかないといけないよとかっていう感じとかをやられてましたね。
岡田 後は山の頂上で雲を舞ったりとか、その当時まだフィルムだったので、テントの中で師匠はコーヒー飲みながら、本読みながら、僕は外でこういう感じの雲が来たら起こしてって言われて、その雲を24時間ずっと待ってるとか。
岡田 今そのやってる時は本当に周りの華やかな芸大出て、グラフィックデザイナーですごかったり、イラストで本出してたりとかっていう中で、何やってるんだろうと思ってましたけど、今思えばすごく意味あったなと思いますね。
岡田 その時はもう本当に泣きそうになってましたけど、大学まで出てなんでこんなことやってるのかと思ってましたけど、やっぱり雲を舞ってる時間とか、思い通りにならない自然を相手にするとかっていうのは、今自分がテーマとしている島とかの人と向き合う時にすごく役立ってるとは思いますね。
アシスタント期はどれくらい続くんですか?
岡田 それはもう最初に僕言われたんですけど、2年以内に辞めたらクズで、5年以上やったらセンスがないって言われたんですよ、師匠に。
おおー。
岡田 うそうそう。
かっけえ。
面白いことは。
岡田 でもそれを言われたから、もう3年。最初やった時に決めてました。3年で辞めようと思ってて、辞める半年くらい前に、今年の3月で独立しようと思うんですけどって言った時に、師匠が嬉しそうに、やっといいよって言ってくれたから、すごく嬉しかったですね。
どこかで向こうも待ってたみたいな。2年過ぎて、根性だしじゃないなって思ってくれてる。今日いつまでやるんだろうって向こうも思ってる中、2年半くらいの時に、アタハンとして辞めたいんですって言った時に、ちょっと嬉しそうな顔をされたのが一生的でした。
え、けどリアルにその期間ってお小遣いしかもらってないわけなんで、生活とかってどうしてたんですか?
僕、家賃8000円のとこ住んでました。山上で外国人の方がいっぱい住んでるようなとこで、風呂トイレとか全部共同で、荷物だけ置いてて、基本的に師匠も出張多いので、一緒に山の上行ってテントを履くとか、ビジネスホテル泊まってとかが多い人だったので、家は本当に荷物だけ置いておくみたいな感じと、あとご飯は全部食べさせてくれてましたね。
なるほど。
ご飯の心配は全然してなかったですね。お昼とかも全部出してくれるので、その辺は本当に宿がそれで、あと払わないといけない税金系のやつと携帯代、その3つで全部で3万円以内でっていう感じぐらいですね。
アシストさんだって他にもおったんですか?
僕の前に何人かいます。で、僕の後はもう入れてないです。時代的に多分もうできなくなって。
いや、その一時代一人だけ。
そうですね。だから被ることはないですね。だからその師匠のアシストさんと。
1対1?
そうです。ずっと1対1。
もう100%来ますね。
もう100%来ます。
いろんなものはね。
なんかあの経験って、島に行って酔っ払ったおっちゃんの相手してる時とかに、役立ってると思いますね。
それはすごいな。
なるほど。
師匠も今、蔵親君のやってる活動とか見てるわけでしょ?何か言ってくれたりするんですか?
めちゃくちゃ褒めてくれます。やっぱりやってる時めちゃくちゃ嫌やったんですよ。僕も嫌いやし。
僕も多分圧がすごかったし、いろんなバチ雑言もあったんですけど、独立してからめちゃくちゃ仲良くなりました。
独立してカメラマンとして対等に見れるようになってから、相談事とかあったりとか、今度本なかなか出せないんですよとか話した時とか、いろんな対等な話してくれるので、
年に何回も挨拶に行きますし、いまだにお年玉くれます。そういう制度というか。
師匠より現役でやってるから、多分やってると思ってるけど、お年玉としてくれますね。そういう関係性なので、今時ではないですね。古い都定制度というか関係性ですね。
なるほど。25歳で独立?
そう、25歳で独立ですね。
独立してどういう動き方をしていったんですか?
独立して最初は仕事なんてないので、京都にいたので、料理の本とかを。
ガイドブック的な?
料理の1日7件取材するとか、ラーメン特集とかを最初ずっとやってて、なのでアシスタントの時までお金なかったので、体重全然増えなかったんですけど、独立してから一気に40キロくらい太った。
体に悪い太り方というか。京都、ちょこちょこネットの方に移動してたんですけど、まだ雑誌が元気な時くらいに独立させてもらったので、桜とか紅葉の時期には京都は絶対特集される。
桜紅葉プラス飲食店とかの特集記事が絶対雑誌に出るみたいなやつがあったんで、年2回の大きな出版社が毎年動いてくれるので、そういうのを仕事にまずやって、料理の撮影をずっとやってましたね、基本的には。
でも一番最初仕事もらう時はどうしたの?営業回ったり?
営業回りました。
出版社とかに?
出版社とかに営業回りましたね。料理の撮影なんてしたことないのに。
できます?みたいな。
まず出版社と仕事をしたいっていう欲があったので、やっぱり島とか海外とか、出版社と繋がりたいっていうのがあったので、基本的には出版社に営業をかけてると、「料理撮れるの?」みたいな話になって、「頑張ります!」みたいな話から始まって。
だから独立してから10年、今もまだやってますけど、10年ぐらいはほぼ料理の仕事でなんとか体を大きくしていただいて。急に太ったから、周りがびっくりするぐらい太りましたね。
じゃあその仕事で生活をしつつ、島にも再び行くようになってたんですか?
月1回は絶対行ってましたし、次行けるときは2回ぐらい行ってたので、周りのカメラマンからはなんでそんな趣味に時間使うんやみたいな感じの、そういった機材をいいやつ買ったりとか、料理もっと上手になる勉強した方がいいよみたいなことをよく言われたんですけど、
もう本当に1日空きがあったら、前の日の晩にも出て島に行くみたいなやつをずっとやり続けてましたね。なので島に行くっていうことを貯金みたいな感じで自分の中でやってるって感じでしたね。
すごいですね。そこまで惹かれてるっていうのが。
惹かれてたのもあるんですけど、正直その師匠が自分のテーマ、その師匠もずっと食べられた時は他の、例えばブライダー撮ったりいろんな仕事やったと思うんですけど、ずっと撮り続けたことで30年前のギオンの写真を持ってるっていうだけで仕事が来たりするんですよ。
そういうのを見てたので、やり続けることがいつか自分には帰ってくるんだろうなって思って、島の依頼とかその時全くないんですけど、料理の撮影の合間にも島行ってみたいな感じで、海外ももうちょっと3日くらい空いてたら海外行ってみたいな感じのやつをずっとやってましたね。
なるほど。それは一旦途中で形にしようとか、そういうのはなく、とりあえず取りためてみたいな。
岡田 形になればいいなと思ってたんですけど、本当に生活がギリギリだったのだと思いますね。本当に生きるためにみたいな形でやってましたね。その当時とか結婚とかも意識したと思うので、そういうのでどうにか相手の親御さんに不安感を与えないためにカメラマンとして食べてますみたいな感じの状態に行くのに、
25からもう3、4年くらいはもう本当に馬車馬のごとく働いてた感じですね。
え、奥様とはいつぐらいに出会ってるんですか?
岡田 奥様とは大学の時に出会ってます。都市が一個下なので、3年生の時に向こう一流か一浪かなんで、学年としては2個違います。3年の時に1年生で入ってきたという形です。
後輩ですね。
岡田 後輩です。
え、だから後輩、ものすごい立場が。
岡田 そうですね。だから最初は立場は先輩相手だった感じでしたけど、今は対等です。仲良くやらせてもらってます。
なるほど。その生活がずっと続いて、その間はずっと京都拠点みたいな。
岡田 そうですね。なのでそこからずっと京都で、28の時に結婚したかな。結婚して、京都でずっとカメラマンやってますね。
大学1年からずっと京都。
岡田 僕ですか。はい、僕大学1年からずっと京都で、仕事もやっぱり京都の方が春とか秋に周期的に来るので、安定してきたクライアントも全部、東京のクライアントやけど京都の仕事を振ってくれるっていうので、京都でやったら多分食べていけるよなっていうのはどっかで30くらいの時には思ってたんだと思います。
なんか仕事としてやっていけるようになったターニングポイントというか、そんなもなくひたすらやってていつの間にかっていう感じですか。
岡田 そうですね。なんけどやっぱり島の仕事が30超えてからちょこちょこ来だした時に、あれ?やっていけるかもってふと思った気がしますね。