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ネギ
やっぱり海に入ってるシーンもすごく多くて、
ジーソンがダイビングが好きで、
自分は海の王みたいな。
カジ
海の王だって言ってたね。
ネギ
だからもう泳ぐのが、小学校の時も川入って泳いだりとかしてたし、
で、他のダイビング仲間のろう者と海の中で自由に会話するようなシーンが出たりとかして。
カジ
あったー。めっちゃよかったあれ。
ネギ
で、なんかさ、ソフィーはさ、人工内耳が入っていて、
あまり激しい運動とか、そういうことはよくない、できないっていう風に言われているからダイビングができないと。
実際できないかどうかっていうのはまたいろいろあるみたいなんだけど、
シュノーケリングで私はいいからみたいな感じだったりするじゃん。
私はなんかその、個人的にシュノーケリングってあんまりいい思い出なくて、
カジ
そうなんだ。
ネギ
スイミングスクールでシュノーケリングをつけたんだけど、
なんかそれこそなんかやっぱり限界あるっていうか、
息はできるんだけど、それ以上もぐれないじゃない?
で、なんかその、ただ水中見てる、ただ水中見てるしかないっていうか、
それでこう、あっ見えたみたいな感じで、
普段泳いでるような勢いで、そのもぐろうとしちゃうと、すごいひどい仕打ちにあうじゃない?
だって、息するためのチューブに水が入ってくるっていう。
カジ
思いっきり入ってくるもんね。
ネギ
そう。だから、ただその水飲んじゃうとかいうのに、ものすごいつらいことになるわけですよ。
で、もう強制終了をさせられるっていうか、ちょっとでも一線を越えると。
カジ
一線を越えるとね。
ネギ
そう、線を越えると、はい、もうこれ以上ダメって言ったでしょみたいな風に言われてる感じがして、
不便じゃんってなったんですよ。
なんか、それこそ器具つけたのに不便みたいな感じ。
この映画で人工内耳だけで過ごしたソフィーっていうのは、ちょっとそういう感じだったのかなとも思う。
そのシュノーケリングでいいって言って、
でも、結果的にはさ、ソフィーは海に入ってくわけじゃん。
カジ
入っていくね。
ネギ
シュノーケリングもつけずにっていうのを考えると、やっぱり結構限界感じてたじゃない、この映画の中でのソフィーは。
その聞こえることへの限界とか、その人工内耳が壊れて、より聞こえなくなってとか、
会社に入っても本格的な業務は任せてもらわなくて、マスコットみたいに扱われてる。
だから、聞こえる人のように振る舞ってても、結局どこにも行けないみたいな。
で、それと対比するように、ダイビングで水中にいるろう者は、すごい自由に見える。
仲間がたくさんいて、手話で自由にしゃべって、
スーツ姿で歩いてるソフィーと比べると、重力からも、海の上の常識から解き放たれてるような感じ。
それを見てしまったからには、そこまで行きたくなるのは、当然かなっていう感じがして、
だから、ソフィーは結局、人工内耳を外したのかどうかわからないけど、
手話っていう言語を獲得して、そちらの世界に行くっていうか、
手話を自分の話し方として生きていくっていう方向に行くわけじゃない。
だから、そこが結構海の中と地上みたいなのが、境目になってるなっていう感じがするし、
ネギ
ジーソンの話で言うと、海の王って言ってるのは、たぶんそういう自由さもあると思うんだよね。
地上で、この口話を求められることにすごく不自由を感じてた中で、
海の中では自由だみたいな、海の中だったら何でもできるみたいな感覚だったんだと思う。
だけど、ジーソンがダイビングの資格を取ろうと、講座を受けて途中でさ、
カジ
途中で。
ネギ
なんだっけ、通訳者がいないと、これからの講座を受けられませんみたいな。
カジ
修了書は出せるけど、試験が受けられないんだったっけな。
ネギ
だから、結局ダイビングのインストラクターにはなれないってことなんだよね。
この過程を終了しましたってことは出せても、っていうのを言われるみたいなのも、
海を泳ぐための資格なのに、地上の人たちに阻まれるみたいな。
もちろん、社会的には音声も手話も、どっちも平等な言語だと思うんだけど、
この中で、海の中が手話の世界で、地上が音声の世界だとすれば、
上の人たちが、勝手なルールを押し付けてるように見える、海の王に対して。
カジ
確かにそうかもしれない。
あれ、海じゃなくても、他のところとかでも同じ構造になるところってあるのかな、とかっていうのを考えていて。
ネギ
宇宙とか?
カジ
ああ、宇宙とかね。確かに宇宙はそうかもしれない。
だって宇宙服着てるときにね、ひょっとしたらめちゃめちゃ喋れたりとかもできるかもしれないし。
ネギ
でも、音声で喋ってるイメージもあるけど、確かにどうなんだろうね。
なんか特別なジェスチャーとかもありそうだよね。
カジ
ありそうな感じがしますけどね。
ネギ
サインとか。
なんか恋愛要素ちょっと入ってきたなって思って。
カジ
あ、ちょっと入ってた。そうそう、ちょっと入ってた。
ネギ
まあ、でもちょうどいいのかなって思いつつ、
え、なんか恋愛関係になんの、この二人もみたいな。
最初、アランとソフィーがね、距離を近くなってて。
カジ
そう、アンバサダーでね。
ネギ
そう、二人ともアンバサダーでってとこあるけど、
そこからさ、ジーソンとソフィーみたいになってきてさ、え?みたいな。
カジ
そっちみたいな。
ネギ
あ、やっぱでも距離が近くなるってそういうことなのかと思いながら。
でもね、アランとジーソンの友情みたいなとこは揺るがないっていうか、
それは、アランが手話をしゃべり続けるってこととも同じなんだと思うんだけど、
カジ
恋愛要素。
まあまあ、青春、若い三人が、
それぞれの進路とか、自分の喋る言語とかに迷って進んでいくっていう、
ある種の王道な展開だから、
確かに一番見せたいところは、
自分の話し方についてどう選択していくか、
聞こえ方にも多様性があってっていうテーマがメインではあるんだけども、
でも、青春映画としても見れるっていうか、見たいと思うときに、
強い感じの恋愛要素じゃなかったんだよね。
結局、結論的には、はっきりとくっついたっていう感じじゃなかった方が終わり方じゃないですか。
だから、これからもこの三人ではいるんだろうなっていうのをなんとなくわかったけども、
最終的に、どっちに転ぶんだろうっていう。
ネギ
でも、三人仲良し組でカップル一個できちゃうとさ、結構気まずそうだけどね。
なんか、そこをさ、すごい心配な気持ちになってた。
カジ
そう、あれはね。
ネギ
アランみたいな、大丈夫かみたいな。笑えるかみたいな、いつもニコニコだけど。
カジ
めちゃめちゃね、アランは好青年キャラクターというか、優等生タイプというか、いいキャラクター。
ジーソンは結構やんちゃなタイプみたいな。
で、その二人の間で揺れ動くソフィー。
ネギ
全然タイプ違いますけど、みたいな。
ソフィー、あなたどっちが。笑
アランもね、なんでもうまくやってるような感じじゃない?
なんか、職場でも撮影とかデザインとか、割となんでも器用にできて。
で、みんなによく思われてるみたいな感じだけど、こんな愛されキャラなんだけど、
結局なんか一人には、これも王道の話だけど、一人には通じないみたいな。
カジ
なんか、歩道橋のところで喧嘩して、ちょっと独占欲みたいな。
自分と同じような立場でいてほしいみたいな、こっちの世界でみたいな。
そこで必死に止めるけども、ちょっと離れ、気持ち離れてってしまうみたいなのも、
分かってて、見てて、アランみたいな。
ネギ
恋愛あんのかよとか言いながら、割と恋愛楽しんでるっていう。
カジ
そうそう、ちゃんと楽しんでた。楽しんでた。結構楽しんでいた。
僕がそこの恋愛要素が出てきた中で、ちょっと気になってたのは、
死者が絶対出ないでほしいと思ってて。
誰かが死ぬとか、そういう展開に、絶対持ってってほしくねえなと思って。
それをずっと途中から祈っていた。死者が出ないでほしい、この映画にはと思って。
ネギ
でもさ、ソフィーがさ、海入っていくとこはさ、死ぬの?って。
カジ
そうそう、そこでドキドキしてたんだよ。
なんか、死をきっかけにしてどうこう、みたいな展開に出てほしくなかったので、
途中から恋愛が入ってきて、どっちを心配するようになっていた。王道だから。あまりにも。
カジ
ちょっとキャストの紹介もしていきますか。
ネギ
ちょっとこれも公式サイトから読み上げますね。
ソフィーには、ラジオDJ出身のジョン・シュイン。
パンサーちゃんの取材家、What ifの作詞も担当し、今回の演技で第61回金馬奨の最優秀女優賞を受賞。
ジーソンには、若手演技派で、ユーチューバーでもあるネオ・ヤウ。
1年間に及ぶ猛特訓に挑み、手話を体得した。
アランには、中等度難聴で、実生活でも口話と手話を使う演技未経験のマルコン・を大抜擢。
また、少年時代のジーソンとアランを演じた2人。
中等度難聴のネイザン・チェン、CODAであるジェシー・ウォンの生き生きとした演技からも目が離せない。
となってますね。
だから今回は3人のろう・難聴者のキャラクターがいて、
必ずしも当事者だけではないというキャスティングにはなってる。
今ね、日本の映画だと、『僕の生きてるふたつの世界』とか、『みんなおしゃべり!』とか、
あとはドラマだと、NHKのデフ ヴォイスとか、
そのあたりはね、ろう・難聴者の登場人物が全員当事者っていうようなキャスティングになってきてますけど、
まあね、香港の状況っていうかがわからないから、
そこはあるべき姿としては多分世界共通というか、だけどそれぞれ状況があるのかなとは。
カジ
今回その映画を見て、キャスト情報っていうのはまず見ずに入ったんですよね。
で、それこそジソン役のネオ・ヤウさんの演技を見ていて、
最初本当にろう者の方が演じられてるのかなみたいな手話の表現とか、
喋り方とかが本当に、自分も結構手話サークルで結構ろう者の方と喋るけども、
ろう者の方の喋り方とか、雰囲気とか、指先の細かいところの表現とかを普段から喋ってるような雰囲気の演技で、
当事者の方から見たら全然演技だよって言うかもしれないですけども、
もしかしたら当事者の方なのかなって思わせるぐらいの演技で。
ネギ
あと、ジソンとアランの小学生時代の演じてる子たちが、CODAの男の子と中等度難聴の男の子。
でね、なんかやっぱ、あの二人が喋ってるシーンが一番楽しそうっていうか、
カジ
あー楽しそう楽しそう楽しそうだった。
ネギ
そう、でも監督も、だからいいとかじゃないんだけど、
なんか最初から当事者キャスティング諦めてた人ではないみたいで、
当事者がやるべきだって思ったけど、
結構これ繊細な演技必要、だから演技経験者がいいなと思って、
ネオ・ヤウに厳しい課題を課して、そこからなんかいろんなところからアランを紹介してもらったりとか、
演技未経験だけど、監督のポケットマネーで演技の講座を受けさせたみたいなこととか。
結局、ろう・難聴者の人たちが演劇を学ぶ場があるかって言われたら、
たぶんすごくないじゃないですか。
デフアクターズスクールとか、その当事者の人が中心になって、
そういう場を作り始めてはいるけど、
なんか演技経験がないから無理とかよく言うけど、
それはさ、経験積めるところがあるんですか?みたいな。
カジ
ですよね。そこですよね。
ネギ
だから映画に出る前に、じゃあちっちゃい舞台とかで研鑽を積むみたいなことも、
より難しいわけじゃないですか。
本当の舞台に立たないと研鑽ってできないじゃないですか。
だからやっぱりこういうところからキャリアを始めていくっていうのが大事なのかなとは思いましたね。
カジ
それこそ本当に演技経験、未経験でとか、
それでやっぱり自分の出自とか属性に応じて、
同じ土台で学ぶ機会がないっていうのが、
すごく選択肢を狭められてしまうっていうのが。
なんか感じたなあ、そういうのは。
ネギ
ろうのさ、人たちの親は9割以上は聞こえる人たちだっていう話があるじゃないですか。
聞こえない子供の9割以上は聞こえる人から生まれるっていう。
だからやっぱりソフィーみたいな環境の人のほうが圧倒的に多いんだよね。
カジ
ソフィーのお母さんは聴者だもんね。
聞こえてる人だったね。
ネギ
聴者だから、ジーソンはデフファミリーだよね。
その妹もお母さんお父さんもろう者だったと思うんだけど、
で、手話でしゃべるし、最初のソフィーとのぶつかったシーンというか、
自分はろうであることを誇りに思うってはっきりと言っていて、
そういうアイデンティティを持っているんだけど、
結局やっぱり聞こえる人、聴者が親だとさ、そっちが当たり前だと思ってるから、
聞こえることが当たり前だし、聞こえるほうがいいし、聞こえる社会なんだからみたいな、
って思ってるから、我が子にもってなっちゃう。
カジ
聞こえないことが不幸ではないはず。
でも、聞こえる社会っていうのが、やっぱり前提で頭にあるから、
それが本当に本人にとって幸せかどうかっていうのがわからなくて、
あなたはこうしなさいっていうふうになってしまうっていう現実が、
やっぱりソフィーの家族関係で結構詳しく描かれてましたね。
ネギ
確かにソフィーのお母さんは結構もう、私たちはそういうふうにやってきたでしょうみたいな、
自分もソフィーも同じ気持ち、同じ方向を見てるみたいなふうな感じで話しかけてくるんだよね。
それがすごい、いやだなと思っちゃいはするんだけど、
ソフィーのお母さんの個人の思想かっていうと、そうでもないっていうか、
社会全体にある考え方だし、あの人がいけないっていうとも簡単に言えないっていうか、
いろいろ人口内耳のこととか調べてたらさ、
子供が生まれて、それで聞こえないってことがわかると、
そのときに、最初説明するのはお医者さんなわけだよね。
だけど、そのお医者さんからの説明を、
じゃあソフィーのお母さんはどう受けたのかなっていうのが結構気になるところではあって、
なんか日本の話を聞いていると、
やっぱり最初に人口内耳の説明をされるみたいな。
で、手話の説明をしてくれる先生としてくれない先生がいるみたいで、
なんかそういう、平等にあるべきじゃん。
手話を使うかとか、人口内耳を使うかとか、
それをどっちもやっていこうっていうことなのか、
それはその親の前にさ、平等に差し出されるべきじゃないで、
ちゃんと知識を、その情報を持って、
その人が良いと思う選択とか、
本当は子供が判断できればいいんだけど、
なかなかその人口内耳の手術をする年齢のこととか、
でもやっぱり本人の意思っていう、どう生きていきたいか、
どう話していきたいか、どう生きていきたいかっていうのを、
やっぱり本人に判断させるべきだっていうような考え方とか、
あとやっぱり手術のリスクっていうのもあるから、
そこをどう考えるかみたいな、
すごく難しい判断の前に親は立たされると思うから、
本当に簡単には言えないんだけど、
なんか平等に提示されるべきものが、
なんかそうじゃないくなって、
曲がった情報になってるっていうことがある。
だからソフィーのお母さんも、
どういう、なんかね、どんなふうに考えてたのかなって。
カジ
やっぱり、なんていうのかな、ずっと当たり前とか普通とか、
よくこの映画で出てきたなと思ったんですけど、
普通と切り分けられてしまうことのすごい恐怖みたいなところが、
やっぱり、なんていうのかな、
親が聴者で、ソフィーみたいに子どもが、
何かしらの耳の聞こえづらさを持っているっていう家庭に対しては、
普通から離れるっていうことに対しての、
社会一般で言う普通ね、
聴者世界から離れることに対しての恐怖みたいなことが、
やっぱり感じられてて、じゃないはずなのにね、本来は。
だからそこに対してもしっかりそこはやっぱり、
正しい知識を持って、どんな選択肢をその子が選んでも大丈夫、
っていうふうな社会になったら一番いいんだけどね。
ネギ
そうだね、だから平等っていう意味で言うと、
やっぱり人工内耳アンバサダーって、
何?っていうのはちょっと思ったかな。
カジ
はいはいはい。