医局の外で会いましょう
こんにちは、ベトナム在住の内科勤務医、同志科ドクター、アイジュです。そして、
人生は命を懸けた思い出づくり、パーソナルドクター及び産業医として働くゆーです。
この番組は、いつのキャリアって何だろう、人生をもっと豊かにするには、
そんなテーマを軸に、お金や家族、そして生き様について、
自由気ままに本音で語り合う、雑談型フォトキャストです。
ゆーさん的に、幸せって何?
すみません、哲学というか、めちゃめちゃ子供みたいな質問しちゃうけど、
幸せって何?って言われたら、何て答えるんですか?
いやー、そうですよね。でも、僕もだから、
実際に言葉で出すとしたらどういうもんだろうなっていうのは考えてるんですけど、
でも、やっぱり明らかにそこの幸せというか、
人生観が変わったのは、やっぱり退局前、後とかそこらへんのところで、
でもやっぱり人生考え直す時ですよね。
退局するって考え直した時に、自分の幸せ、
今後幸せになるためにはどういう道を歩んだらいいんだろう?
と思ったところからが、やっぱり変わる。
そこから大きく変わってる気がするんですよね。
逆にその前の、例えば若い頃とか、研修院のこととか、結婚する時とかは、
どういうふうに思ってたんですか?
純粋に、要は今の、意思っていう、何ですか、働き方?
仕事のやりがいはすごいあるし、
そこに対して、自分も楽しくやれてたので、
そこのところをひとまず、極めるっていうのもおかしいですけど、
突き詰める形ですよね。
ただ、そこにはある程度、自分には惹かれたレールがあったので、
その上を、惹かれたレールの上を歩みながら、
自分は医療っていうものに関わっていくんだろうな、ぐらいにしか思えてはなくて、
ただ、若干そこの惹かれたレールに対しての魅力っていうところで言うと、
自分はすごい強い魅力を感じてたわけではないんですよ。
ああ、そういうことなんですね。
そうなんですよ。
なので、こういう道惹かれてて、一般的にはこういう道歩むよね。
でも、面白そうかな、どうかな、みたいな。
あんまり面白そうにも見えないよなっていうふうに思いつつも、
ただ、そこにはロールモデルがなかったんですよ。
そのレール以外の。
惹かれたレールがあって、そこに対する魅力をあまり感じなかった。
ただ、それ以外のロールモデルだったりだとか、
そういった方が実際に他にいたのかって言われると、いなかったんですよね。
まあ、その時は魅力に感じる方がいらっしゃらなかったってことですか。
おっしゃる通り。
でも、いなかったし、自分でじゃあ他の道を探しにも行こうとしてなかったですね、今考えると。
要は外にわざわざ、医局の中にどういう人がいるかなっていうのは見てたけど、
その外とか他の医局とか、じゃあ日本の医師でどういった人がいるのかなっていう、
そういうそこまで視野を広げてみるってことは正直してなくて、
そこまでの余裕がなかったっていうのもあるかもしれないですけど、
もう目の前の医療で自分の提供する医療の質を上げることにもう注力してたって感じですね。
まあ、余裕もなかったし、別にその時楽しかったし、
自分の成長も感じられてたら、まあ幸せってなんだろうって考えないかもしれないですよね。
別にそれで、要は自分が不幸って思ってなかったんです。
それ大事ですよね。
そう、充実感あったから、それで別に、それって一種の幸せだと思うし、
それで満足してた部分ではあったんですよね。
大きなきっかけになったのは大局って言ってましたけど、
大局の前に、やっぱり大局の原因となったんじゃないけど、
きっかけとなったのはお子さんというか家族ですよね。
やっぱりそう、子どもが生まれる。
結局子どもが生まれて、その時も医局に当然入ってるし、
その時は一時、僕は大学院生も掛け持ちでやったりしてたので、忙しいわ忙しくて。
で、その中でやっぱり自分のすごい記憶に残ってるのが、
まあこれ日中だったんで、もう目の前で見れなかったのはやむを得ないんですけど、
子どもがやっぱりちゃんと立った瞬間ですね。
ちゃんと一歩歩いた、立ったみたいなのがLINEで送られてきたんですよ。
で、立ったっていうのが分かって、そこに対して当然すごいなと思ったんですけど、
今の生活を続けてたら、子どものそういう成長の何かイベントが起こった時に、
自分はそれを多分こういう形でしか確認できないかもしれないなと思ったんですよね。
子どもと過ごす時間が当時もすごい、要は少なかったので、
じゃあそれを全部ある意味、妻に撮影してもらったものを確認するっていう形。
で、自分の目の前ではそういうのはあまり、要は見ることができないかもしれないっていうのを思っちゃったんですよ、自分で。
それって、なんかまあ、いち父親としていいのかなって。
せっかく子どもができて成長、スクスクと成長する過程を楽しめてないなっていうふうにそこで思っちゃったんですよね。
なので、そっから一気に仕事、メインのところからやっぱり過程じゃないですけど、
じゃあ自分の人生っていうものを考え直すきっかけにはなって、そっから軸が変わりましたよね。
やっぱり子どもでかいですね。
いやー、インパクト大きかったですね。子どもいなかったら今の働き方とかも絶対してないと思うので。
まあね、それはそうですよね。
結婚した時にはあんまりそれを思わなかったですかね。大人同士だから。
そうですね。別にそこで結婚したから自分の生活を、要は変えないといけないとかはあんまり考えてなくて、
むしろ妻ももともと医療従事者なので、それでいうと状況わかってるので、そこに対して文句言われることもなかったし、
ある意味それ当たり前だよねーの感覚でいてよかったので。
確かにね、先生たちはねーって言われておりますよね。
そんな感じです。
そこでだからプライオリティが仕事から家庭っていうところに自分の中で変わったので、
そこで家庭での時間を設けるっていうところ。
仕事だけのある意味幸せじゃ自分の中では物足りないと思ったところ。
で、結局家庭とか子供とかそっちの方といかに過ごす時間を増やしたとか、出かけるところを増やしていろんな思い出作るとか、
そっちの方に考えが移っていったので、そうなるともうじゃあ働き方を変えないといけないよねっていうところに徐々に変わっていく感じでしたね。
お医者さんの幸せというか人生の幸せというか、なんかそういうのって意識したことあります?
医者として本望だとかよくあるじゃないですか。
そうなんですよね。だから僕もでも働いてこの医局員の時から、じゃあ医者の最終的な幸せというか、
じゃあ目指すべき幸せって何なんだろうっていうのは正直考えてきたことないなと思っちゃって。
なるほどなるほど。そこに行き着かれたんですね。
なかったっすね、正直なことに。
いや、愛寺さんありました。
医者としての幸せというか。
僕幸せって何なのっていうのは、もう間違いなくもうまたお前またそこかと思うかもしれないですけど、
18歳の時の世界一周です。あそこで。
その時点から入ってるんですね。
もちろん多分漠然と考えてたのはあるんじゃないですかね。
さっき優さんがほら、ドクターやってやり始めた時にスキルアップしていく自分。
幸せを感じるって、それはもちろん僕も。
それはやっぱできるように、できなかったことができるようになったのは主義的に面白いっていうのもあるし、
診断できなかったことが診断できるようになったこと、それは面白いし、
わからなかったことを知識として身につける、教養として身につける、経験として身につけるってやっぱ医者としては、
楽しいって言ったら患者さんからするとちょっと語弊があるのかもしれないけど、
我々医者の中では別にやっぱ臨床楽しいなっていうのは普通に言う言葉だし、
全然感じる言葉だと思うんですけど。
ちょっとまじで哲学じゃないけど、僕の理論で言っていいですか。
もちろんもちろん。
僕はね、もう人生の幸せは、たぶん根底にあるのは、子供の頃から家族が仲良かったっていうのはあって、
僕が母親っ子っていうのもあったし、ありましたけれども、
家族がすごい大事っていうか、家族がすごい幸せなんだろうなと思ってたんですよ、なんとなく漠然と。
なるほど。
で、それはもちろん、中学生、高校生とか別にね、親父と仲良くないとか、
そういう時にはそんな風には思わなかったんだけど、
僕がね、世界、18歳で世界へ飛び出した時に、人生の幸せの根本は、人との繋がりだと思ったんですよ。
人とというか、繋がりかな。
はい。
人とか、文化とか。
前もお話したかもしれないんですけど、
僕、18歳っていう若さで世界一周した時に、
やっぱね、何がインパクトがあったかって、見るもの全てが新しかったんですよね。
はい。
その時にね。
で、自分の知らない世界もそうだし、外国にはその時も行ったことあったんで、英語圏とかね。
非英語圏とか、英語も全く通じないみたいな世界とか、いうのを見た時には全く新しいわけですよ。
全然話に聞いたことと違うっていうか、
全然本で見たことと違うなとか、全然違うっていうのを最初はめちゃくちゃ思ってたんですよ。
僕、今度の旧正月のお休みに、オマーンっていう国に行くって話したと思うんですけど、
はい、オマーン。
で、中東、中近東って僕はもう何カ国も行ったことあるんですけど、
最初エジプトに行った時にね。
エジプト。
アフガン侵攻、2001年9月にアメリカがアフガニスタンに、
アメリカだけじゃないですけども、多国籍軍みたいな感じでしたよね。
が、アフガニスタンに911の報復じゃないけど、あれにしてちょっと侵攻し始めたじゃないですか。
で、その後に、その直後から1年ぐらいの時に僕行ってるんですよ、エジプトにね。
やっぱあの頃って、めちゃめちゃ中東って危険だったっていうイメージだったんですよ。
まあ確かに。
超危ないって思ってませんでした?
ニュースで、要はもうああいう事件があったわけじゃないですか。
いややばい、テロリストが多いとか、イメージとしてはやっぱそういうイメージですよね。
アッラーはやべえみたいなね。
やばいと思いました。
極端なことをやるっていうような印象を持ってました。
なるほど、確かに。
日本って、かなり親米な国なんですよね。
そう、確かに確かに。
もちろん、アメリカ文化っていうのは、ステアキのハリウッドを代表として、音楽もそうですし、別にローカルななんつーのハワイアンみたいな、ああいう文化もアメリカの文化だろうけども、アメリカの文化っていうのは、アメリカの文化で世界的に、長傍じゃないけど羨ましいというか、憧れの対象でありながら、あいつらは結局世界中を荒らしているんだっていう感覚が結構強いんですよね。
日本は、やっぱり米国に負けたっていうのが一つあるのと、日本人の精神的なものとして、その後アメリカに引っ張っててもらったって考えてらっしゃる方も多かったんだと思うので、僕自身も母がアメリカ育ちだったのもあって、アメリカに対するイメージっていうのはむしろ結構良かったんですけど、世界中を行ってみて、びっくりするぐらい親米がないっていうことに気がついて。
そうなんですね。
親米な国っていうか、アメリカをすごくよく言う国っていうのは珍しかったですね。当時は特に。ヨーロッパ社会でも、なんとか、いやいやいや、あんなテロをされたのも、あいつらにも問題があるだろっていう感覚があったし、政府としてはね、言ってないと思いますよ、そういうことは。
でもやっぱ、実際に話してバーとかで飲んだりすると、もう全然みんなボロクソ言ってきたりとか。特にやっぱジョージ・W・ブッシュの頃のアメリカはかなり反発が強かったと思うので、勝手にイラク攻撃しようとしちゃったりとかね。だから結構ヨーロッパ社会はやっぱ反米が強かったのと、アラブはもうボロクソ言ってんじゃないですか。
なんでそんなキリスト教かイスラム教といじめるんだみたいになって。でも実際に、普通にイスラム教徒とキリスト教徒とかって、割と共存してるスペースとかもあるんですよ、アラブの国に行くと。
そうなんですね。 全然聞いてた話と違うなっていうふうに思って。やっぱそれはめちゃくちゃインパクトが強かった。それは実際に本当だったかどうかわかんないですよ。僕はやっぱその時の自分の今まで生きてきて聞いてきた、あるいは思ってきた感想として、
アメリカに対して親しみもあったし、アメリカに対する憧れ、バスケットボールとかやってたものもあったしね。マイケル・ジョーダンとかの世代を知ってる世代なので僕とかも。もちろんスポーツとかでそういうのもそうだったし。サッカーJリーグが始まった頃とか子供の頃にありましたけども、やっぱり野球のほうが人気がありますしね、日本は。だからアメリカ文化の影響っていうのかなり強い。
第2外国語も英語なんだけど、世界を見てみるとそんなことはないっていうことを。それはアラブの例は一例ですけれどもね。っていうことを知って、やっぱこの目で見てみないとダメなんだなってめっちゃ思ったんですよ。
そういうことですね、なるほどなるほど。それを感じた上で、世界中その他も放浪して、回っていた時にこの文化とこの文化って似てるなとか、隣の国の文化ってやっぱ似てるなって思うこととか、そういうのがね、だんだん繋がるようになってくるんですよ。
たとえばですけど、日本人に日本と韓国って似てるよって言うと、は?って思うと思うんですよ、8割くらいの。いやまあまあ確かに。うんうんうん。だけど世界の中から見ればめちゃくちゃ似てるんですよ。あーなるほど。言語的にも似てるし、まあ顔はまあね、特に今も半分一緒みたいになってるんですけど、し、やっぱ共通の言語って共通の言葉も多いし、言い方に反発があるかもしれないけども植民地だったっていうこともあって、
共有する言葉とかもあるし、多いし、で今でも一緒の言葉ってあるじゃないですか、カバンとかね、30分なんとかって全く日本語と一緒だったりとか、三角関係とかね、結構似てる言葉があったり、あとは語順が一緒なんでね、やっぱ日本人が最も学びやすい外国語の一つが韓国語と言われてますけども、まあまあ異常にそうなんだろうなと思いますし、でもちろん、中国ともやっぱり共通点はあるんですよ、漢字使ってますしね。
そうでしょうね。
そうやって、やっぱ世界から見ればアジアはアジアで似てんだなとか、逆にやっぱり南米とスペインは繋がってんだなとか。
南米とスペインですか。
南米っていうのは基本的に旧スペイン料なので、あとはブラジルの旧ポルトガル料もありますけれども、やっぱり繋がってんですよ、それ言葉だけじゃなくて。
文化的なところも。
そう、やっぱりスペイン人たちが持ち込んだものっていうのをうまく利用したりとか、でも山奥とか行くとやっぱ白人たちとは一緒にならなかった、婚結にはならなかった方々っていうのも結構たくさん住んでる地域とかも南米にはあったりするので、
繋がってて繋がってないとか、でも地は繋がってないんだけど文化的に繋がってんだとか、逆を言えば南米からヨーロッパに持ち込まれたものなんていっぱいあるわけでしょ、トマトとかじゃがいもとかさ、我々が今日常生活でよく食べるものなんて南米からもたらされてるものがたくさんあるわけじゃないですか。
そういうなんかいろんな意味での文化っていうのは世界中違う割に、違うことは違うけれども繋がってるものも多いなと思ったんですよ。
なるほど。
で、一番ね、僕が世界一周した時のその世界の繋がりっていう時に出す例があるんですけど、我々お茶って言うじゃないですか、お茶ね、グリーンキーのお茶ね。
うん、はいはい。
あれ英語でティーって言うじゃないですか。
そうですね、ティーですね。
中国語で何て言うか知ってます?
知らないです、聞いたことないです。
インドでチャイ、トルコとかまで行くとチャイ、エジプトまで行くとシャイ。
で、これなんでなってるかっていうとシルクロード通ってるからなんですよ。
で、シルクロードのチャっていう言葉が、中国のチャっていう言葉が生まってるんですよ。
だからどっかの途中まで行くとチャ、あるいはチャイみたいなすごくチャに聞こえるなっていうところになって、
あるところまで進むとチャイって明らかにイが強くなったり、トルコまで行くとチャイになるんですよね。
チャイとかチャイとか。ちょっとごめんなさい、僕あんまり言語の専門家じゃないから忘れちゃったけど。
で、エジプト行くとシャイになるんですよ。たぶんチャがなんか生まれたんでしょうね。
じゃあなんでイギリスがティーっていうか知ってます?英語がティーっていうか。
え、全然わかんない。
それ面白いんですけど、ティーって福建省だか関東省だかの鉛なんですよ。
香港とかからちょっと周辺とか北とかのところかな。
要は当時の中国っていうものの貿易とか貢献の中心地みたいなところですね。
で、そこが紅茶のことを鉛でティーって言ったんですよ。ティーって。ティーだからテーって言うんですよ。
それがシルクローゾじゃなくて大航海時代だったんで、海を得てヨーロッパにもたらされるんですよ。
なるほど。直接ってことですね。
そう、海でぶっちぎるんで、ヨーロッパはそのまま関東だか福建だかの鉛であるティーがそのまま入るんです。
だからティーも茶も同じものから出てきてるはずなのに、言語のもたらされ方が違うんですよ。
なるほど。海渡るかシルクロードたどっていくか。
ティーからティーに近いようなことから来てるティーとかテとか、ラテン語系はテっていうことが多いかな。
スペイン語もテなので、ティーとかテーってその外からの発音に来てるっていう言葉たちは、ヨーロッパ言語たちはティーとかテーとか発音するんですよ。
なるほど、そうなんだ。
で、これ考えると世界って繋がってない?
面白いですね。もたらされ方っていうのの違いでそういうのが出てくるんだな。
で、僕はそれ世界中放浪して、やっぱり人と人は分かり得ない文化の差はあるかもしれないけど、その分かり合えたら幸せなんだろうなと思ったんです。
で、分かり合うのってかなり難しいんですよ。やっぱり。意味わかんない文化って世の中にありますから。
僕、普通にゴキブリ食べる部族がいるって時には俺仲良くなれないなと思ったもん。
だからそういうさ、ぶっ飛んでるのもそうだけど、彼らからすると別にぶっ飛んでるわけじゃないしね。