冒頭の挨拶とテーマ提起
はい、どうも。もしもし。お疲れ様です、みなさん。 本日は8月5日、水曜日。週の裏返しという曜日でございます。
若干の疲労がたまっております、今日は。
いやー、なんかその、ありますよね。ドッと疲れが来る日というか、なんかこう、なんか元気出ないなぁみたいな日って、みなさん、あると思うんですよ。
えー、僕は、今日がそれです。 今日がそれなのにも関わらず、こうしてスタイルをとっていくというね、うん、そう。
いや、あのー、なんて言うんでしょうね。僕は日々いろんなこと考え事してるんですけど、なるべくその、こう、思考の鮮度みたいなのがやっぱあって、その、鮮度がやっぱいいうちに、
まあこういう媒体にパッキングじゃないけど、こう、入れておきたいというか、あの、まあ閉じ込めておきたいなみたいな、そういうのがあるんで、疲れてるなぁと思いつつも、えー、収録をしていこうと思います。はい。
で、えっと、今日話したいテーマなんですけど、えー、自己理解と自己実現って区切る必要があんのかなっていうテーマについて、ちょっと話していこうかなと思ってます。はい。
自己理解プログラムと筆者の経験
で、えっと、まあ、うーん、詳細?詳細というか、自己理解プログラムとは何ずやみたいな説明はちょっと省こうかな。もう、わかってるでしょ?
もう、あの、皆さん、これを聞いてる人は一定、あの、受講生だったり修行生だったりすると思うので、あの、わざわざ、もう、あの、そこは言いません。もう、あの、はい、あの、調べてください。
ヤギジンペイさんの自己理解プログラム、調べていってください。はい。で、まあ僕はその自己理解プログラムを修行して、えー、1年半ぐらい経つのかな?そろそろ。
まあ、まだ経ってないんだけど、まあ、もちもち1年半ぐらい経つかなと思っていて、で、まあ、えーと、修行してから1年半ぐらい経った僕が、こう、まあ、ちょっと思ったこと、思った内省というか思ったテーマのその一つとして、まあ、その自己理解と自己実現って実は区切んなくてもいいんじゃないかなっていうことを思ったので、今日はそういうちょっとこうテーマについて話していこうかなと思ってます。はい。
自己理解と自己実現を区切らないという結論
で、先に結論を僕もこういうことですって言いたいんだけど、えっと、自己理解には、うーん、どういう順番で言おうかな。
まあ、ちょっとこう、今回多分抽象論がちょっと多くなるかなと思うんだけど、まあ、ちょっとなるべくうまいこと言語化して話せたらなと思うんですけど、まず僕が思ったこととして、自己理解って2つの自己理解があるなって思ったんですよ。
僕が、こう、1年半経って思ったのが、で、それが、まあ、ちょっとこう、記錠というか、記錠っていうか机の上っていうか記錠論の記錠ですね。記錠とか、まあ、内省による自己理解っていうものと、あとは自分が行った行動とか体験っていうものが、えー、まあ、自分に教えてくれる自己理解っていうこの2つの自己理解があるんじゃないかなっていうことを僕は思ったんですね。
で、この校舎の、行動とか体験が教えてくれる自己理解って、これすなわち自己実現じゃねって思ったんですよ。だから、自己理解と自己実現はあえて区切らなくてもいいんじゃないのっていうのが今回話したいの、結論から先に、結論ベースの部分、先に結論から言うとそういうことが言いたくて。
机上の自己理解の限界と弊害(1)
っていうのを踏まえて、えーと、ここでこういう考えに至りましたみたいな話をしていくんですけど、まず僕とか僕らですね、僕らっていうのは自己理解プログラムっていうサービスを受けて修了した人たちですね。受講生、修了生だったりするというわけです。で、そのプログラム上では100日間かけて自分のやりたいことっていうのを探求していく、そういうプログラムだったんですけど。
で、えーと、そのね、なんて言ったらいいんだろう。これは明言はされてないかもしれないんですけど、その、まあ、俗にそのプログラム上の100日間の過程、その自分の深掘りというか、自己の深掘りをしていくフェーズっていうのを自己理解っていうふうに呼んで、その後の修了した後の頑張っていくフェーズみたいなのを自己実現っていうふうに呼ばれているというか。
まあ、これは明言はされてないかもしれないですけど、案にそういうふうな僕が表現として定着しているものというふうに僕は認知してるんですね。そのプログラムで、えーと、まあ、デスクに向かった時期とか、あるいはコーチとやり取りをした時期っていうのを自己理解。そしてその後、じゃあ修了しまして100日間終わりました。さあ頑張ってきてくださいねっていうそこを自己実現って呼んでるんだけど。
僕は1年半終了して1年半経った今は、ここにちょっと意を唱えるって言ったらちょっと敵対っぽくなっちゃうからあれなんだけど、うーん、そうとも言えないというか、こういう考え方もできるんじゃないのっていうことを今日すごい話したくて、その結論はさっき言った通りですね。要は体験とか行動が教えてくれる自己理解っていうものが存在してて、それがほぼほぼニアリークールで自己実現と呼べるんじゃねえかっていうふうに思ったっていうところですね。
で、まず気上の自己理解、その要は頭で考える思考の自己理解ってところに僕はいくつか問題って言い方をしたらあれだけど、限界とか弊害があるんじゃないかなっていうのを思ったんですよ。で、それを今から何個か挙げていくんですけど、まず一つ目はやりたいことの内容を自分が知り得ることしか浮かばないっていうところですね。
結局、過去の自分の深掘りってことは自分が知ってることしか頭に浮かべることができないんですよね。例えば、こんな仕事あんの?みたいな。もちろん調べればあると思うんですけど、それをやっぱり知り得ないとジャンルとかやりたいことって浮かびようがないんですよね。
例えば僕、当時コーチから紹介されてびっくりしたのが、葉っぱを使ったビジネスがある。葉っぱを使ってクラフトみたいなのをする会社さんがあるんだよみたいな話もあるんだけど、それっていうのは、例えば好きなものが葉っぱだったとしても、そういったビジネスの形態とか会社としての実態があるということを認知しない限りは、それをやりたいこととして浮かべることができないんですね。
人は自分の経験とか体験の中のものからしか思考が紡げないから、ということは、この机上の自己理解の限界として、自分の知らない世界のやりたいことを浮かべるということがまずできないよねっていうことがまず問題って言ったらあれだけど、ネックになってくるポイントの1個目。
2個目が、過去の自分の延長しか解答としてできにくいっていうこと。これも今言ったことと近しいことなんですけど、例えばなんだけど、こういったサービスってある、自己理解プログラムに限らずあると思うんですけど、結構、例えば得意なこととかも、過去の経験ベースでこういうことを得意。
机上の自己理解の限界と弊害(2)
得意なことって、やりたいことに勘でくる自分の才能とか行動みたいな概念なんですけど、結局殻を破れないんですよね、そうすると。殻を破れないって、破れなくていいのかもしれないけど、僕がこの1年半くらいで思ったことは、意外とこれって苦手じゃないのかもみたいなのに出会ったことが何回かあって、
過去の自分はこれが得意だったみたいな。苦手意識があるんだけど、やってみたら実は苦手じゃなかった、みたいなことも往々にしてあるんじゃないかなっていう、それを体験として僕は感じて、例えば僕だったら、
いまだにちょっと疑心というか、まだ100の納得感は持ってないんですけど、面接とか面談とか、最近ちょっと自分の転職活動みたいな形でやってるんですけど、ずっと苦手だと思ってたんですよ、自分はね。
だけど、最近やってみたら、まだ母数も少ないんで、全然自分の中で確固たり自信になってるわけじゃないんだけど、意外とまんざらでもないというか、そこそこそつなくこなせてるなって感覚があって、過去の自分ベースで深掘っていくと、これって苦手じゃんみたいな、言い方悪いんですけど食わず嫌いが形成されてる時があるんじゃないかなと思っていて、
そういうものがどうしても深掘りというか、過去をベースとした自己理解にしてしまうと、なかなか新たな自分に出会いにくいというか、固定化されちゃってるっていう問題もあるんじゃないかなと思ったっていうのが2点目。
机上の自己理解の限界と弊害(3)
3つ目が、やりたいことっていうのが、世の中のニーズとマッチするのが分かりづらいっていうところですね。これはすごく世知辛い話というか、夢も希望もない話をすると、これ語尾にだと僕が思ってるってついてるものだと思って聞いてほしいんですけど、
現実的な側面としてお金になるかどうかみたいなものは、自分の外の世界のニーズが決めてることが多いかなと思っていて、結局自分の中だけの、自分の世界だけのやりたいことだと、自分の外側のニーズと需要と供給がマッチするか分からないんです。
自分のやりたいことをそれぞれ求めてくれる人がいて、ここでビジネスとして成り立つっていう場面がすごく多いかなと思っていて。僕は正直、現実的な話をすると、やりたいことと求められることの割合は1対1で釣り合わないと思ってるんですよね。
これなんでかっていうと、例えば汚い絵を出すんですけど、世の中ってバキューメカとかでうんちを、うんちとか言っちゃったごめんなさい、ここであえて綺麗な表現にしてもしゃーないんで率直に言いますけど、とかを要は回収してる人とかっていると思うんですけど、
そういう排泄物とかが好きな人あんまりいないと思うんですよね。他にもすごい大事な仕事ですよね。社会の基盤というかインフラ的な仕事、下水処理場とかもあると思うんですけど、すごく大事な仕事ではあるんですけど、
現状の世の中のニーズ等、こういうことをやりたいっていう煌びやかなことは、僕は1対1で合致しないと思っているので、となった時に1対1で合致しないって考えた時に、おそらくやりたいことをみんながみんな1対1で見出せる社会にはなってないんだという構造になっていると思うんですよね。
ただ、その中でとりわけお金になるか否かっていうのは外の人たちが決める、外の世界というか市場が決めることかなと思っているので、これが結局自分の中の深掘りだけでは分かると言い切れないですよねっていうところがあるかなと思いました。
机上の自己理解の限界と弊害(4)
その次が、ごめんなさい、めちゃくちゃ多いですね。これとこれとこれとこれとこれがあるって話なんですけど、全部で僕何個あげたっけ、1,2,3,4,5、6個あげてるんで、次が4個目なんですけど、次が理想にとらわれすぎてしまう恐れがあるかなっていうところ、これは自分自身も経験したし経験中だと思うんです。
っていうのが、やっぱりやりたいことと現実って意外とギャップがあるかなっていうふうに思っていて、やりたいことが最終目標かもしれないですけど、最初に足をかける場所っていうのは案外そこには行きづらいって実態があるかなっていう感覚が漠然とあって。
具体にしたいんだけど、例えば自分のサービスを作りますって言って動き出したらいいんだけど、実際ニーズの話じゃないですけど、自分のサービス作ったってそれを求めてくれる人がいないとビジネスとしては成り立たないように成立しないよねっていうところがあるんですけど、
でも例えばそれってさっきも言って外の世界、自分のじゃない周りの人がこういうものが欲しいっていうのに合わせたものを提供して、そこでビジネスというかお金になるものかなと思っていて、要は人の欲しいと自分の理想っていうのは一致しないんだけど、その理想にとらわれすぎて完璧主義的になっちゃうというか、ああでもないこうでもないって言って、
全然ステップ上がれてない、現実のステップに全然足がかかってないみたいなのは、ごめんなさい、えやそうなこと言ってて僕も現在進行形で起こっていることかなと思います。こういうことがやりたいんだけどって言うんだけど、実際案外現実的な側面としてはちょっと泥臭いことをやらないといけないっていう実態があったりだとか、一定の修行期間じゃないけど、一定は苦しいものを、認体期間じゃないけど、
理想とは外れるニーズを満たすっていう行為をしてあげないといけないっていうそういうフェーズ感があるんだけど、そことのギャップに苦しむみたいな場面もあるんじゃないかなっていうのが4つ目。
机上の自己理解の限界と弊害(5)
5つ目は、たった一つの正解っていうものに固執しすぎるっていう可能性があるよねっていうのが思ったんですよね。自己理解プログラム上で出した答えっていうのは、仮説なんですね。これは明言されてたはずです。あくまで仮説ですっていう話ですね。
仮説ですって言うと、なんや嘘かいなってなるんですけど、別にそうは言ってなくて、いろんな組み合わせがあるんですよね。例えば、こういう人を満たすためにこういったジャンルをこういう行動によって作っていきましょうっていう組み合わせがあるんですけど、それはあくまで複数の中の1答えでしかないんですよね。
なんだけど、1個それが決まったからって言って、それだけを追い続けなきゃいけないみたいな、そういう苦しみを抱える人もいるんじゃないかなって思っていて。これも例えば具体にするとどういうことかっていうと、
僕だったら、みんな好きなものいっぱいあると思うんですよ。好きなジャンルとか業界みたいな。1個じゃないと思うんですよ。1個これだけっていう人はあんまりないと思っていて。僕の場合、例えば何が好きかっていうと、人の才能とか、ストレングスフェイの資質も好きだし、全然ジャンル変わってくるんですけど、ゲームのことも好きだし、生物とか生き物のことだって好きですし、
あと他にも問題意識みたいな点で言うと、政治とか選挙に出す社会情勢みたいな、こういうものにも興味があったりするんですよね。ただその中で、例えば僕は一番最初出だしはストレングスフェイの資質っていうのをやりたいことの一部として据えて出たんだけど、それだけを目標達成として求めなきゃいけないみたいな感じで、
分かります?それって選択肢の候補の1個なんですよね。仮説の1個。やりたいこととしてこういうことをやっていこうっていうふうに据えた1個でしかなくて、他の宅だって未来の分岐としては存在したはずなんですよ。
これは今のは僕の例なんですけど、他にも例えば何でしょうか。例えばじゃあボードゲームが好きで、服が好きで、化粧が好きで、あと何でしょう、乗り物が好きで、旅行が好きでみたいなのが同じ人が今5つぐらい持ってるとしたときに、これって決めたものを完成しなきゃいけないみたいな、これを追い続けなきゃいけないみたいな、私はもう○○の人ですみたいな感じで、
その正解というか、1仮説に固執しすぎてしまう可能性っていうのがあるよねみたいな。これもネックなポイントかなっていうふうには思いました。変えてもいいですからね。これも明言されてた。別に変えてもいいからねっていうのは言われてたと思うんで、
そこにちょっとこう、これはだから別にプログラムの問題とかって言ってるわけではないんだけど、そういうふうな抱え込みをする人もいることにはいるんじゃないっていうそういう話ですね。別に誰が悪いとかどこが悪いみたいな話ではなくて、事実としてそういう問題を抱えるっていう側面はあるかないかであればありますよねっていう話を言いました。
机上の自己理解の限界と弊害(6)
最後に6つ目、ネックになるところの6つ目として、自己理解が終わったっていうふうにすごい錯覚しやすいかなっていうのは思いました。これは僕が冒頭で言って、理解と実現は区切らなくていいんじゃないかって言ってるけど、ここが僕は肝かなと思っていて、理解実現っていうふうに分けちゃうと、理解が終わったから後は叶えるだけみたいな感じに思っちゃうかもしれないんですけど、
実際はもっとレイヤーとしてそうになっていると僕は思っていて、思ったって話ですね。
終わらないんですよね、多分自己理解っていうのは。人生かけて多分終わるものがなくて、ただ行動として要はアカデミックな自己理解の後に行動っていうフェーズをくっつけたほうが、多分すごく説明というかアクションプランとしては明瞭で分かりやすいかなっていうのはあると思うんですけど、
これがあることによって何て言ったらいい例が出せないな。例えばですけど、小学校って6年間ありますよね。小学校6年間終わったら次何が始まるかって言ったら中学校が始まるじゃないですか。
で、中学校始まってから小学校の勉強ってあえて戻らないと思うんですよ。正直6年間義務教育として、私は学習しました、勉強しました、バシッてやった時に、中学校3年のフェーズになった時にあれ小学校の時何やってたっけって、すごい復習好きな人というか勉強熱心な人は戻るかもしれないですけど、正直もう小学校6年間終わってるんだからいいじゃんって言って次に進む人が多いと思うんですよ。
でもこういう錯覚を招いてしまうんじゃないかなってことを僕は思ったんですね。その自己理解っていうのはあくまで義務教育的なベースとしてカチッと決まってるものじゃなくて、本当に正解が一位に定まらないものと思うんですよ。仮説の一個としてこれを据えましょうかっていう仮説として存在してて、実際にはさっきの小学校中学校の例だと、一旦小学校に戻って行動フェーズするんです。
行動フェーズとしては理解のフェーズしてみる、行動のフェーズしてみるみたいな感じで行ったり来たりというか層にして進んでいくのがすごく多分理想の動きだと思うんですけど、この自己理解実現っていうフェーズで分けちゃうと理解はもう終わってるんだからみたいな感じでちょっと錯覚しやすいんじゃないかなと思ったんですね。
でも僕はやっぱり今になって思うのは、自己理解は終わってない。終わってない、終わらないだと思います。すいません、ワンピースの黒ひげみたいなこと言いますけど、海賊の夢は終わらねえみたいなこと言いますけど、終わってないと思います。全然。全然終わってない。
行動による自己理解の利点(1)
ここまでが頭の自己理解のネックになるポイントとしてこういうものがあるかなっていう話をしたんですけど、次に実現の行動の自己理解の話ですね。行動の自己理解はすごい端的に言うと何がいいかっていうと、情報量が多いっていうところだと思うんですよね。
本当に言わず百聞は一見にしかずって言葉があると思うんですけど、味わうっていうプロセスがもたらす情報量って悔しいんですけど多いんですよ。悔しい話なんですけど、この悔しいっていうのは僕も結構頭でっかち人間なんで、頭で解決をしたくなることがすごく多いんですね、日常の中で。
頭で考えて、百発百中の答えを一個取り決めて、それを完成するみたいな方がすごい楽だし気持ちいいし、それで生きていきたいなって思うんですけど、悔しい話なんですけど、やっぱり無理なんですよね。体験しないといけない時というか、体験っていうものがもたらす情報がすごい多いっていう僕は現実というか実態があると思っていて。
本当に自分の興味関心があるものとかやりたいことっていうのをデスク上の起承論として考えていくのと実践に移すのとでは納得度合いがすごく違うんですよね。違うと思いますこれはこれに関しては。
悔しいけどね。本当は頭で全部分かりたいって思うんだけど、なかなか体験をしないことには分かりきらないものが現実としてはあって、それをすごい感じたんですよね。
行動による自己理解の利点(2)
例えばどういうところでそれを感じたかっていうと、僕の場合その自己理解プログラムが終わってから1年半経ってるんですけど、やっぱり好きと得意の納得度合いっていうのが上がったんですよね。
好きっていうのは自分の興味関心のある分野みたいなことにはなるんですけど、日頃自分の興味関心のある分野って人と比較することがないと思うんですよ。
これが好きでみたいな。だし結構そういうのって当たり前化しちゃってるかなと思うんですね。僕はそれを身に染みて感じたんですよ。自分事として。
僕はさっき言ったものたちってすごい好きなんですよね。人の特性とか人の内面もすごい興味があるし、生き物のこともすごく興味があるし、ゲームのことだってすごく好きだし、
社会上で政治とか選挙とかこういうのにも問題意識があるなと思ってるんだけど、前までの僕ってこういうものって知ってて普通だと思ってたんですよ。みんなの前提知識としてみんなが普通に知ってるものだというふうに思ってたんだけど、
そろそろって話かもしれないんですけど、人と会話してみると温度感が全然違うんですよね。本当に逆もまた近いです。人がすごい熱烈に興味とか関心とか問題意識を持っているものに対して、僕はみじんも興味がなかったりするっていうことがまたあるんですけど、
本当にその人の温度感みたいなのは全然違ったりするんですよ。それってやっぱり一人デスクの上でカタカタしてるだけじゃわからないんですよね。人とやっぱり話してみたり、討論してみたりだとか、あとは一緒にどっか行ってみるとか体験をしてみる、味わってみる。
例えば僕の場合、生き物のことで一緒に水族館に行くとかってなった時に、自分があまりにも生き物のことを知ってるし、知りたいし、ワクワクするし、話してても楽しいし、でもかたやそれに全然何がみたいなポカンってしてる人がいるってなった時に、これは自分が突出してるんだなってそういう体験で知れたりするんです。
行動による自己理解の利点(3)
これが一人デスクの上でカタカタしてるだけだとわかりえなかったりするんですよね。他にも例えば得意なこと、自分の才能とか自分の長所だったりするんですけど、これも当たり前だと思ってるんですよね。やっぱり自分にとってはごくごく普通のことだと思ってるんですよ。
僕だったら、例えば今こうやってめちゃくちゃ寝たことをこうやってこう、理路整然と話すみたいなことが多分僕は強かったり、あとはそもそもいろんなそういう知的なって言ったらあれですけど、そういう雑多な生き物についての知識、知見だったりだとか、そういう例えば人の特徴についてのことだって、もっとザックバラに豆知識とか雑学レベルのことを収集したりするのが僕はかなり得意な人ではあるんですけど、
それをまず得意だという前提が存在しないんですよね。一人だと。それも何で気づくかっていうと、え、なんで知らないの?みたいな。ごめんなさい、言い方悪いんですけど、なんで知らないの?なんでこの理路整然と話せないの?みたいな。
人とやっぱり会話したり触れ合ったり、これ別に悪い意味じゃなくていい意味で比べてみたりすることによって、これは自分がこの部分で突出してるんじゃなくて、分かったりするんですよね。それが一人固執だと分からないんですよ、それを。分かるかもしれないけど予想の影響出ないというか。
僕もそういうのを何回も言われたんですよ。さっきの例えば話じゃないんですけど、なんでも知ってますね、みたいな。何知らないんですか?みたいな言われたりして、ごめんなさい、自分語りというか自画自賛な話になるんですけど、結構言われることが多くて、
てことはこれだけ言われるんだったら、これは自分の個性というか長所なんだなってそこで腹落ちというか納得をしていくわけなんですよね。だからそういう体験がもたらしてくれる納得度とか情報量って濃いんですよ。
なんかこれ悔しいんですけど、重ね重ね悔しいんですけど、僕は頭で解決したい人なので悔しいんですけど、事実としてはどうしても濃いっていうところがあって、だから体験とか行動もまた自己理解なんですよ。自分ってこういう人間なんだ、こういう特徴があって、こういう個性があって、こういう才能があって。
行動による自己理解と自己実現の統合
で、こういうものが好きなんだ、こういうジャンルが好きで、こういうのに関心があってっていうのが体験から自己理解が進んでるかなって思ってるんですね。で、じゃあこの体験をしてるっていうこれは何?ってなったときにこれニアリーイコールで自己実現じゃね?って思えたんですよ。
ぶっちゃけ。だってそうじゃないですか。実際、例えば水族館に行くっていう体験をしてるのって、自己実現を何て定義するかによると思うんですよ。そのマネタイズしてるのが自己理解だって定義するんだったら、それには該当しないかもしれないですけど、ちなみに僕はマネタイズしてるのが自己理解だとは思ってないんで。
僕の定義的には自己実現を別にマネタイズとすごいイコールじゃないと思ってるんで、僕は一定その自分のやりたいことを見出すような形の行動をしているっていうところが僕は自己実現かなというふうにそういう解釈でいるので、
ってなったときにこの行動とか経験の自己理解ってほぼニアリーイコールで自己実現じゃね?って思っちゃったんですよね。っていうのが今日の話のまとめですかね。
自己理解と自己実現の循環的な進め方
だから正直アカデミックな自己理解と自己実現って区切った方がロードマップとしては定義はしやすいんだと思うんですよ。理解して行動してくださいってした方がロードマップとしては定義しやすいんだと思うんだけど、ただ実際は僕はそんなにきれいに分からないと思います。
行動とかニアリーイコールの自己実現が進むと自己理解も進んでいる。本当に理解と行動っていうのを繰り返し循環して進めていくっていうのが僕は正解っていうのも変な形なんだけど、っていうものかなと思っていて。
これ多分自己理解プログラム側もそれを望んでるというか、そういう形にしたいのかなっていうのは漠然と僕も思ってます。別に100日間で理解が終わりだよって明言してるわけではないんだけど、とはいえ僕はなんとなくSNSとか見てると、一旦理解100日間で線引きしてあと実現オンリーだよっていうのが案に間違った形で定着してるんじゃないかなと客観的に見てます。
これはごめんなさい、僕の感想です。それってあなたの感想ですよねって言われたら、はい私の感想ですって答えるんですけど、実際には理解と行動っていうのを繰り返して繰り返して繰り返していって進めるのが理想形態だと思います。
だから100日間のプログラムっていうのは一度仮説を立てるっていうそのまま練習っていうぐらいのが実態には近いのかなっていうそんな感じですかね。
結論の再確認とまとめ
機上の自己理解オンリーにすると、僕が途中並べた6つぐらいのデメリットまで言うとちょっとあれなんですけど、問題というかちょっとネックなポイントっていうのが多分発生すると思っていて、それと比べて行動とか体験の自己理解の方が間違いなく濃い、情報量として濃いものだから、
だからそういうのもあって行動と理解っていうのを繰り返して進んでいくのがいいし、理解と実現って僕はあえてそこに一本線を引かなくても、間に一本線を引かなくても、そもそも実現のやってることもそれって理解じゃねっていうのを率直に思ってますね。
今の現時点をもっては。また僕のこの考えも結構グルグルグルグルしてたら変わるかもしれないですけど。っていうのが僕が今日話したかったことですかね。
はい。ちょっと今日かなり厚く長々と話しましたね。すごい弾丸トークでしたね。ダーって喋ってました。珍しいですね。僕がこんなに喋るなんて。
僕よくね、伝え太ると休んだりしてるんですけど、今日はちなみにこれ一発撮りで、途中一切休みも入れずずっと30分喋りっぱなしでした。
それくらいちょっとねりねりできてた。そんな内容だったのかなと思います。
はい。今日はそんな話でしたね。もう一回再まとめというか再計、再まとめすると、自分はまず自己理解っていうものは、その机上のアカデミックな自己理解と
行動とか体験っていうものが教えてくれる自己理解の2つがあるよねって思ったってところと、校舎の方の自己理解はニアリーイコールで自己実現って言えそうだよねって
いうふうに思った。ってことは自己理解と自己実現は1本別に線を引かなくてもいいんじゃないっていうのを思ったってことですね。で、線を引いちゃうと、
1個ネックになるポイントというか弊害として、僕が途中で出した小学校中学校の例じゃないけど、その理解に立ち返るみたいなことがちょっと
幼いって言ったらあれやけど、そのもう理解終わってるんだからみたいな感じでちょっとこう悪い意味で線を引いちゃう
人も出てくるんじゃないかなって思ったんで、もう椅子のことを理解実現って、別に便利上分けるのが全然アイだと思うんですけど、頭の中では本当に
一緒くたというかミルフィーユぐらいにして考えてた方が自分のためになるんじゃないかなっていうふうに思ったってそんな話でしたね。
エンディング
てなわけで、今日はそんなスタイル終わろうと思います。夜遅くなんで、僕も疲れてますし、寝ようかなと思います。
もし面白かったらいいねとコメントしてもらえると励みになるというか、モチベがモチモチするので嬉しいです。
あとは、これ何本目だっけ?18本目だっけ?もし面白かったら前のスタイルとか遡って聞いてもらえると僕も嬉しいかなと思ってます。
では今日のスタイルはこれで終わります。ありがとうございました。
3、2、1、はい。