はじめに:放送の趣旨とテーマ提起
よいしょー。はい、どうももしもーし。もしもーしで始まります。
ただいま時間は夜の23時なんですけども、こんな時間にもかかわらずスタイルをとっていこうかなと思ってます。
僕のこのスタイルの趣旨は、考え事を話すっていうね。考え事を垂れ流すっていう趣旨で話すんだけど、
考え事の鉄は熱いうちに打てじゃないんですけど、話したいときに流したほうがいいかなと思うので、
今も話してみようかなと思うことがあったので、話していこうかなと思います。
今日のテーマっていうのが、行き過ぎた自責思考とか自己犠牲とかそういうネガティブ思考、ネガティブ反省って、
そもそも誰のためになってるみたいな。どういう目的とか意味があるのかなっていうことについて、
自分が考えたので、そういうことについて話そうかなと思った。
結論:行き過ぎた自責・自己犠牲は自己満足
先にも結論から、誰のためでもなくねっていう、そういう思考に行き着いたんですよね。
そういう思考をしたというか、僕がそういう内省をしたんですよ。
結論として言っちゃうと、自己満じゃね?ってなっちゃったんですよ。
今、行き過ぎた自責とか自己犠牲的な考え方って、あれ?って思って、
これぶっちゃけ自己満じゃない?ってなったんですよ。言っちゃうとね。
なんだったら、自分すらもグサグサさしてるわけじゃないですか。そういう思考ってね。
自己満足の満足でもないよねっていう。
その自己満足っていう満足ってポジティブ感情のはずなのに、
これポジティブ感情ですらないっていう、よくわかんないやつだなっていう考え方に至ったんですよね。
言ってしまうとね。
自己認識とテーマへのアプローチ
まず前提として、このスタイル聞いてる人はわりと僕の身近な人が聞いてくれてる気がするんですけど、
改まって言うと、僕はちょっと自分に厳しめの人なのかなというふうに思ってて。
自己認識としてはね。これはまあ別に、もしかしたら客観的に言ったら、いやそんなことないだろうみたいな。
まあまあよって思う人いるかもしれないけど。
自己認識としては、ちょっと自分に厳しめの人で、今回のテーマで言うと自己犠牲とか自己否定みたいなことをしがちっていうか、そういう傾向があるかなっていう。
自己認識としては僕はそういう印象を抱いてて。
そんな僕が、そんな僕がっていうことでもないかもしれないんだけど。
そんな僕が、昨日今日とかで考えてたことが、行き過ぎた自己犠牲とか自己否定みたいな、ネガティブ思考みたいなものを考えてたんですよ。
最終的にたどり着いたのが、意味なくねっていう。
意味なくねっていうか、誰のためなんだろうなっていう考えに至ったんですよ、最終が。
他者の視点と自己犠牲の関係性
まず、これ自己否定とか自己犠牲的なのを考えをする人って、
ニアリーイコールで多分他人の視点とかを考えるのが上手な人なのかな。
他人を考えちゃう人。
他人の視点とか、他人からの印象とかを考えちゃう人なんじゃないかなっていうふうにこれは思ってて。
だから、自分よりも他者のニーズとか、他者の気持ちとかを優先しちゃうから自分を苦しめるんじゃないのっていうふうに思ってるから、
ごめん、これ僕が。僕がにしよう。
僕はわりと他人の視点とかをつい想像しちゃうんだよね。考えちゃう。想像しちゃうんですよ。
今度は自分目線の話なんだけど、自分にとっての誰か大切な人がいるとするじゃないですか。
これは別に恋人だろうと、家族だろうと、友人だろうと仲間だろうと、誰でもオッケーなんだけど、自分にとってイメージしやすい人でいいと思うんですけど。
これは一人称自分ですよ。
自分にとって、そういう人が超自適志向で、自分ぐっさぐさの状態だったとして、どう思うかって言ったら、見てらんねえなって感覚になるんですよね、僕の場合は。
僕はたぶんそうなる気がしたんですよ。
すごい自分と仲いい人が、するときはあるかもしれないんだけど、すごい自分ぐっさぐさしてたら、少なくともそれを望みはしないなって思ったんですね。
ってことは、あれこれ逆もまたしかりじゃね?っていうところで最終的に行き着いたんですよ。
わりと自責しがちな僕なんですけど。
要は、僕目線は、自分の仲いい人とかがぐっさぐさしてるのって喜ばしくないなと。
するっちゃいけないとは言わないよ。いろいろ言い切ってたらそういうことあると思うんだけど。
少なくともその事象自体を喜ばしいと思うか思わないかっていう話で言えば、喜ばしくはないよねっていうのは自分で思って。
実はその上で、自分もそういう目で見られてるんじゃないの?って思ったんだよね。
自分が誰か、友人とか仲間とか家族とか大切な人のことを思って、その日に笑っていてほしいだとか、
少なくとも行き過ぎた時世紀とか、自分ぐさぐさ状態にはなってほしくないって、
自分がそれを思うんだったら、相手もまたその目を自分に向けてるよねってことが言えてしまうなと思ったんだよ。
そういう考えに至った。
自己犠牲の無意味さと他者からの視点
だからもうこれが結論でしかない。
行き過ぎたような事跡とか事故否定で喜ぶ人は誰?って考えたときに、
自分の仲いい人はまず喜ばないよねって考えて、加えてそれは自分自身っていうのも一定苦しいわけで、
あれっていうことでやるメリットは一体どこにあるんだっていう話に最後帰着しちゃったんだよね、自分の中でね。
仮に事故否定とか事跡みたいなムーブを望んでくるやつがいたら、
そういうやつは自分にとっての霧の人というか、はっきり言いますがクズじゃないですか。
自分の今、不幸を望んでくるやつってことですよね。
それを僕が苦しむのを見て、それを甲斐というか、甲斐不甲斐の甲斐だと感じる人がいたら、
そいつは、要はろくでもないやつって捉えることができるので、捨ておけばいいなって考えに至って、
自分、要は大事な人っていうのは自分がそうなることを望まないよね、みたいな考えに至って、
じゃあ、行き過ぎた事故否定、事跡っていうのは、
まじで自己満以外の何者でもないのにもかかわらず、満足はしないっていうね。
自分、傷つけてるからね。満足はしないっていう概念だなっていうふうに思えたんですよ。
それでも自責してしまう理由
ただ、そうは言ってもさ、するときはあるじゃんっていうのは、ぶっちゃけこれもわかる。
そもそも、「メリットないじゃん」、「やる意味ないじゃん」って言われたとって、
やるじゃん。やるじゃん、正直。これに関してはやるのよ。
ここまで話したときに、「わかってないねえ」って思った人いるかもしれない。
そんなこと言われたときに、「やるもんはやんのさ」って話になる人いると思うんだけど、
これなんでなるかっていうと、あくまで僕の話でね。
僕がなんでこうなるかっていうと、
自分以外に攻めれる相手がいないからだと思うんだよね。
当たれないというか。からこうなっちゃうんだと僕は思ってる。
少なくとも僕はそう思う。
こういうような自責とか、自己犠牲的な考えが強い人って、
たぶん一点真面目な人なのかと思うんですよ。
たぶん真面目な人で、他者の期待に応えたりとか、
そういうことしがちな人。
ってなったときに何か起こっちゃったときに、
周りを傷つけられないんだよね、たぶんね。
周りに当たるとか、周りを頼るとか。
たぶんこういうムーブが、理由わかんない。
もしかしたら家庭環境とかいろいろあるかもしれないけど、
苦手なんじゃないかなって思うんですよね。
だから本当は、なりふり構わず周りに当たりたいっていうのを
潜在的に思ったとしても、それがやっぱりできない。
ってなって、行き場を失ったものが、最後は自分を刺すっていう。
そういう推察だね、僕の。
そういうふうになってるんじゃないかなって思ってるんだよね。
自責思考からの脱却策(模索)
ここまで語っといてさ、
じゃあさ、そういう家中の人はどうすんのよっていう話ではあるんだけど、
これはね、ぶっちゃけわからん、僕は。
これさ、もしその家中の人が、今なおその状態の人が聞いたときに、
ごめん、ごめん、ほんとにごめん。
そうなんだけどどうしたらいいんですかって言われても、
僕困ってて、いやぶっちゃけわからんのよね、解決策みたいな。
具体的にこうしたらいいっていう解決策が、
僕正直ぶっちゃけわからなくて、それは考えたんだけど。
僕はちなみに、これ自己犠牲云々とかじゃなくて、
どっちかっていうと鬱的な話、鬱とかメンタル状況みたいな話なんだけど、
メンタル状況みたいなのがマジでやばかった。
僕はちなみにね、何もしないをすべきだと思ってるんだよ、僕は。
もう自分の生きてるその状態から、
もうなんちゃらねばとかなんちゃらすべきみたいなのを排除して、
してもいいし、しなくてもいいしぐらいのマインドでやっていくみたいな。
のが僕は多分、これしかないと思ってる。
そのときにねばべきとかやってたらマジで苦しいから。
ほんとに今よくさ、しんどかったら散歩行けよーとか温泉行けよーとか言うやついるけどさ、
あれはね、僕ちょっとまたハズレだと思って。
行けないのよ、そういう状況の人って。
だから、散歩行くべきとか温泉行くべきみたいなのはやめたほうがいいと思って、
行ってもいいかなーぐらいで行くのがマジでいいと思ってる、僕は。
行ってもいいかなーみたいな。
いや行くのだるいわーだったら散歩も温泉もそういうの行かんでもいいと思うよな。
無理だもんだって。行けないもん。申し訳ないけど。
温泉行けよーとか散歩行けよーはね、あれは僕ぶっちゃけ鬱にわかだと思ってる。
あのアドバイス言うやつは。
ごめんこれは僕の持論だね、正直。
この話は僕も全然精神科の先生とかじゃないから、
本当に専門的な見解じゃないんで、あくまでなんでもない僕の意見なんだけど。
でもこれやっていいかもなーみたいなものがポッてるときにちょいちょい手を出してみるぐらいが、
うーんしかないんじゃないかなって思ってるんだよね。
自責ってマジどうしたらいいんだろうね本当に。
自己肯定感の源泉としての他者視点
いやー、これ僕の場合なんだけど。
今は全然安定してる。精神的にご機嫌側だと思うんだけど。
僕の場合はね、最近表現として合ってるかわかんないんだけど、
自分、愛されてるかもなーみたいなことにちょっとずつ気づいてきたような感覚が。
これかなり仮説的なんですけど。
愛されてるって言うとちょっと大げさに聞こえるかなと思うんで、
こういうことだよって話なんですけど、
要は、自分を見てくれてる人がいるかみたいな感じ。
愛されまでいくとちょっと重たい感じがするけど、
要は、自分を見てくれてるなーっていう感覚だったり、
この人たぶん僕を気にかけてくれてるんだよなーみたいな感覚だったり、
あとは、発信とか追ってくれてるなーみたいな感覚。
よくしてくれてる人みたいな感じ。
っていうのが、なんとなく一定数は居るなーみたいなことに気づいてきたんですよね、最近。
漠然と。感覚的でし、自分自身まんまに言ってるわけじゃなくて、
仮説的に言ってます。
これ言ってるんだね。
要は、気にかけてくれてる人とか見てくれてる人みたいな存在が、
角に僕自身を攻め立ててる状態というか、
角に沈みまくってる状態みたいなのを見て、
やっぱり喜ばしいとは思わないよなーみたいな、
そっちサイドの目線を考えちゃったんだよね、僕は。
自分自身がどうかじゃなくて、
自分を見てくれてる人がどうかっていう目線を考えちゃったんですよ。
だからそういう要は、自分の頭の中で浮かぶような丸々そのためにとか、
仲良い人のためにみたいな、
そういう気にかけてくれてる人、見てくれてる人目線で、
自分ぐさぐさの思考っていうのは要注意なんじゃないのっていう、
そういうことを思いました。
まとめと今後の課題
とさっていう話だね、今日の話は。
見てくれてるその人のことを思うのだったら、
過ぎたネガティブシンプルっていうものの必要性はないかもねっていうことを思えた。
他者視点から考えて、それはぐさぐさだよねってちょっと思ったので、
そんな話を今日はスタイルでしました。
でも、その過虫からのこれっていう抜け出し方は僕は正直わかんない。
これは悲しくも厳しいこと言うかもしれないけど、
実際時間が一定解決することとかもあったりするから。
知りたいんだよね。むしろその過虫にいる人って、
どうやったら救い出してあげられるんだろうなって思うし、
自分がまたそういうところに行ったとき、
また落ち込んだりとか傷ついたりとかグーッと下がったときに、
これが特効薬ですっていうアクションを知りたいまであるんだけど、
それは正直やっぱわからないから、
日々そうならないように気をつけるというか、
日々自分のご機嫌を丁寧に丁寧に調整していくのが。
気持ち的にはそうなった人を救いたいっていう気持ちはあるんだけど、
やっぱり特効薬はわかんない、正直僕は。
だし自分がそうなったときの特効薬もわかんない、僕は。
っていうのが正直な話なんだよね。
今日の話は、一応本題の話で言うと、
行き過ぎた自責とか自己犠牲っていうのは自己満だと思えたし、
自己満のしかも満足でもないよねっていう話を頭で考えたんで、
それをこのスタイルに残しましたと。
そんな話だね。
はい。
ごめんなさい、解決策教えろよって思った人は、
わからん、ごめん、それはぶっちゃけ僕もわからんですとしか言えないんで、
また、ごめん、わからん、わからんです、はい、わからん、申し訳ない。
けど知りたさはあるから。
知りたいし、救いたさは一応あるんだよね。
そんな感じで今日は、ちょっと締まらない感じかもしれないですけど、
こんな感じでスタイルは終わります。
そんなことを思いましたとさっていうお話でした。
はい、ではでは。ありがとうございました。