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#7「アフリカの子供は…」理論について抱く違和感
2026-05-10 28:03

#7「アフリカの子供は…」理論について抱く違和感


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サマリー

このエピソードでは、話し手が「アフリカの子どもは〜」という論調、すなわち「世界には貧困や飢餓に苦しむ人がいるのだから、日本に生まれて生きているあなたは幸せだ」という考え方に対して抱く強い違和感について語っています。話し手は、この種の比較は根拠と結論が結びついておらず、論理破綻していると指摘します。現代人が抱える悩みと、貧困や飢餓に苦しむ人々の状況は全く異なるものであり、安易に比較して幸福論を語るべきではないと主張します。また、戦争の時代と比較する論調にも同様の違和感を表明し、過去の不幸な例を引き合いに出して現在の幸福を語ることは、悩んでいる人にとって救いにならないと訴えます。 さらに、話し手は「自分より辛い人がいるから泣き言を言ってはいけない」という風潮にも疑問を呈します。この考え方を肯定すると、世界一不幸な人でなければ文句を言えなくなるという不条理を指摘し、他者の不幸を引き合いに出して自分の不幸を矮小化すべきではないと述べます。一方で、人生は解釈のゲームであり、都合の良い解釈を積み重ねることが幸せに生きるコツかもしれないという自己反論も提示します。しかし、最終的には、落ち込んでいる人に「もっと大変な人がいる」と言うのは効果がなく、むしろカチンとくる場合もあるため、そのような言葉かけはやめるべきだと強く訴えています。

「アフリカの子どもは〜」論への違和感
もしもーし。こんばんはー。
めちゃめちゃスタイルを撮るのもたぶん久しぶり。たぶん1ヶ月、2ヶ月ぐらいになるかなと思います。
また、今日もちょっとね、一発撮りなんですよ。これも完全に。
だから、もしかしたら途中こうなんか無言エリアとかがあるかもしれないし、話すやつがちょっと噂しくなってるかもしれないんですけど、
ちょっと温かい目で見てほしいですね。
時刻が今日曜日の夜のもうすぐ11時ぐらいになるんですけど、
ちょっと今日、なんだろう、触発されたことというか、
これちょっと音声で話したいと思うみたいなことがあったので、
ちょっとそれを話していこうかなと思うんですけど、
きっかけが僕のXの方なんですけど、
ちょっと気になるポストがあって、僕引用もさせてもらったんですけど、
今日話したいテーマなんですけど、
よく今日言われがちなフレーズで、
世界には食べ物に困ってる人もいるんだから、
それと比べたら今この日本に生まれて生きてることが幸せだよねみたいな、
こういう胸の発信というか文言ってあると思うんですけど、
これについての持論じゃないけど、
すっげー話したいって思ったんで、今ちょっとこうやってスタイルを取ってるって感じなんですけど、
まず最初に自分の立場というか、どういう立場なんですかっていうところなんですけど、
まず僕この論調が好きではないんですよ。
まず最初に自分のスタンスを明らかにしてから話を進めたいんですけど、
まず僕は、よく言われがちなこの、
今この日本に生きてることが奇跡だとか、
さっき言ったようなお腹を空かせてる何々がだからあなたは幸せなんだよとか、
あなたは恵まれてるんだよみたいな、
っていうこの論調があまり好きではないんですよ。
で、僕は今日そういった人のポストを見かけして、
Xので引用もさせてもらったんですけど、
こういうこと結構前々から思ってて、
これなんだよねみたいな、分かる、これなのよっていうのを自分の中で共感というか、
本当にそれなっていうのがすごい思ったし、
ちょっと気持ちに火付いちゃったから、
こうやって今音声でもう撮ってるって感じなんですけど、
僕はこれを勝手に頭の中で言うんですけど、
アフリカの子どもは理論っていう風に僕は勝手に名付けてるんですよ、
こういう論調のことを。
これ勝手に名付けてます。
どういうことかっていうと、
ごめんなさい、これアフリカの人はごめんなさい、
アフリカの人とかあるいはアフリカ出身の方にはちょっとこう、
悪い感じで聞こえちゃうかもしれないですけど、
よく貧困とかで言われがちなのがアフリカの子どもはみたいなイメージがあるので、
ちょっと差別的になっちゃって申し訳ないんですけど、
自分はこれをアフリカの子どもは理論というのを名付けてます。
申し訳ないです。
これ僕の中でどこかに発表してるわけではなくて、
僕の中で名付けてます。
で、さっきの要は、
世界には貧困とか飢餓に苦しむ人がいますよねっていう、
要は対象としてアフリカの子どもってそうだよねみたいな、
言われがちなイメージがあるんで、
ちょっと申し訳ないんだけど、
自分の中ではちょっとそういう風に名付けさせてもらったんです。
僕がなんでこのアフリカの子どもは理論があまり好きではないかっていうと、
なんて言ったらいいんですかね。
論理破綻してるなっていう風に思ってるんですよ、ずっと。
ずっと論理破綻してるよなっていう風に思っていて。
で、この論理破綻してるってどういうことかっていうと、
本来何か物事を言っていくときって根拠があって、
その根拠ゆえにこうであるっていう結論に結びつけてあげるのが、
一番スマートというか美しい形だなっていう風に思ってるんですけど、
僕はこの世の中には貧困とか飢餓に苦しむ人がいて、
それと比べたら今生きる日本人で生まれたってことは、
幸せであるとか奇跡であるっていうのは、
僕はこれ根拠と結論があんま結びついてないなっていうことを
僕は常々思ってるんですよ。
これってどういうことかっていうと、
要は幸せであるとか、
あなたはマシなんだよっていうことを言いたいがための
引き合いとして僕は無理やりこういうものを
根拠づけしてるようにしか見えないなっていう風に思ってて、
まず現代人が抱える葛藤とか苦悩と、
貧困とか飢餓について悩む人たちって、
全然違う存在じゃないですか。
別の場所で生まれた違う存在なわけですよね。
で、抱えてる苦悩とか葛藤の種類も違うわけですよ。
ってなった時に、なんでそこを比較するっていうのが
僕は率直に思っちゃうんですよね。
違う存在の違う悩み、違う苦悩だと。
比較論の不適切さと例示
先に注釈を入れ忘れたんですけど、
いわゆる貧困とか飢餓とか紛争とかについては、
関心を寄せるべきだと思ってます。これは前提として。
そういった問題を軽んじるつもりは僕は一切なくて、
事実としてそういう問題に関心を寄せたり、
重んじるっていうことは大事だと思ってるんですけど、
それを引き合いに出して、
今を生きる現代人の幸福論を語るのは
僕は違うと思ってるって話をしたくて。
なんでかっていうと、違う存在だからっていう。
そもそも比べる対象でもないし、
引き合いに出すべきものでもないと僕は思ってて、
なんでその例を取り上げてくるんだっていうのが、
僕はあまりにも疑問として立つんですよ。
すごいなんか、ここまで話してきて、
すごい意気通った感じで話してるかも。
でもね、実際たぶんちょっとね、
たぶんちょっとメラッとはしてるんですよね。
なんかやだなーって思えたから、
たぶんこうやって音声収録までしてるんですけど。
例えば極端な例を出しますけど、
さっきのアフリカの子供とか貧困とか、
気が悩むものを例として出して、
だからあなたは報われている。
あなたは幸せである。
今を生きる日本人として生まれたことは奇跡だ。
っていう根拠、結論があるじゃないですか。
例えばですけど、
じゃああなたはブクブクと太った、
富裕層の子供としては生まれなかった。
だからあなたは不幸である。
っていう例も出せるわけじゃないですか。
これは例が違うんですよね、さっきの場合と。
さっきは貧困とか気が悩む、苦しむ人がいる。
だからあなたはそれと比べて幸福であるって述べてて、
僕が今出した例っていうのは、
自分より幸福側に値する例を出して、
だからあなたは不幸だって言ってるんですよね。
これと僕はやり口一緒だと思うんですよ。
何が言いたいかっていうと、
これってあなたはマシだよねとか、
あなたは報われてるでしょっていうことを
言いたいがための例をでっち上げてるんだと思ってるんですよ。
僕は正直。
それがすごくなんだか僕は論理破綻してるように見える。
仕方がないなってずっと前から思っていて。
本当に重ね重ね言いますけど、
貧困とか奮闘問題を軽んじるつもりはないんですよ。
ないんだけど、
幸福論を語るときの例として挙げるのは不適切じゃないのか
っていう話をしたいんですよ、僕は。
本当にそれを思ってるんですよ。
なぜなら違う時間、違う場所とかで生まれた違う存在だから、
その苦悩とか葛藤の比べようがないと思っていて、
それをあえて無理やり僕は結びつけて、
幸福論の根拠の引き合いとして出されている
風にしか思えなく仕方がないんですよ。
例えばすっごい変な話ですけど、
人って不幸だよね。
人間って不幸だよね。
だって、
シシモイだって生えてこないんだもん。
それと比べて、
例えばプラナリアっていう生き物は
シシモイでも生えてくる。
プラナリアって生き物がいるんですけど、
プラナリアっていう生き物は、
シシはないんですけど、
切っても再生するんですよね。
めちゃくちゃ切っても。
再生するというか、
切ったやつが新しいプラナリアになるんですよね。
生き物がいるんですけど。
そういう超再生を起こす生き物が仮にいると思っていてほしいんですけど、
人類って不幸だよね。
だって切っても、
シシ切断しても再生しないんだから、
プラナリアと比べて不幸じゃんって言ってるのと、
一緒だと思うんですよ。
僕は例として。
他にも例えばクマムシっていう生き物がいるんですけど、
クマムシってすごい温度耐性があるんですよね。
高温とか低温に耐える。
でもそれと比べて人間はそんな高温に耐えれないし、
低温にも耐えれないし、
人間って不幸だよね。
その最終的にやっぱ結論が、
幸福だって言いたいがために、
僕はアフリカの子どもは理論を言ってるようにしか思えなくて、
あまり。
なんでわざわざその例を出してくるんだろうかって、
すごい思っちゃうんですよ。
似たような例でも、
よく戦争の時代はとかって言われたりすることもあるじゃないですか。
僕これもすごく違和感を感じるんですよ。
これも言いたいのは、
戦争を過論じるつもりは一切僕にはないんですよ。
戦争を過論じたいわけじゃないし、
時代背景とか、
確かに亡くなった人とかっていうのは、
重きを置いて考えなきゃいけないし、
尊ばなきゃいけなかったり、
一定の尊敬の目指しを持たなきゃいけないとかっていうのはもちろんあるし、
あるいは時代背景だったり、
歴史っていうものから学びを得るべきだろうっていう思想は僕も持ってるんですけど、
よく言われるのが、
かつて戦争の時代は若くして亡くなる人がいてとか、
あるいは配給とかも、
食べ物配給とかもすごい貧相だったというか貧しかったから、
それと比べたら今食べれて生きていけてるから、
あなたって幸せじゃないですか、
みたいな風に言われたりするじゃないですか。
なんでわざわざ、
例えば日本だったら80年前とかの歴史をわざわざピックアップして
そう言ってるんだろうなって思っちゃう。
例えばそれってバブルの時代引っ張り出してきて、
バブルの時代っていうのはこんなにウハウハだったんだよって。
それと比べたら今は君の人生なんで、
もうなんか不幸だよねとも言えてしまうんですよ。
根拠ありき結論の順番だったらそうなるじゃないですか。
でもこれってあなたは幸福である、
あなたは報われている、
あなたは今生きていることが奇跡であるということを言いたいがために、
あえて不幸であろうという例を持ってきてるだけに過ぎないと思ってください。
だってバブルの時代だって過去だし、
戦争の時代だって過去じゃないですか。
もっと究極の話をしたら、
何億年前っていう時代だって過去の話なんです。
例えばもしかしたらプランクトンだった頃の僕らは幸せかもしれないんですよ。
プランクトンの頃ってそういう悩みとかまず多分なかっただろうから、
今を生きる人類って幸せだよねとも僕は言えてしまうと思っていて、
だからその幸福論の根拠のこじつけというかベッチ上げとして、
僕はその要は貧困とか飢餓とかの例を出したり、
あれは過去ですよね。
戦争の時代はとかを持ってこられるということに対して、
かなり違和感を実は前々から感じてて、
っていう話を言いたかったからこうやって音声で録ってるんですけど。
そういう言葉って申し訳ない人にあんまり救いにならないと思います。
悩んでる本人にとっては。
ここから気持ちの話なんですけど、
多分そういう言葉をかける対象って、
たぶん現在で葛藤とか苦悩とか悩みとか何かを抱えてる人だとは思うんですよ。
そういう人に対してでもさ、食べれてさ、生きててさ、
昔はさ、こうだってさ、
例えばアフリカとかの国には、
貧困問題とか紛争とかである国があるんだからさって言っても、
僕正直刺さらないと思いますよ。申し訳ないんですけど。
これは刺さらないと思う。
重ね重ねですけど、
そういう問題に目を向けるべきである、
関心を寄せるべきであるっていう理屈はもちろん、
僕も重々承知だなとは思ってるんですけど、
それはね、比較対象にならないですね。
もちろんあえて苦しみの代償っていう風な言い方をするとあれですけど、
あえて比べるならば、
それはもちろん、
あげてもらった例の方が苦しいだろうということはわかるんですけど、
あえて不幸な例というか苦しい例を、
あえて出して引き合いにしたり比較するのって何なのかなって思っちゃうんですよね。
ちょっと違う切り口で話をするんですけど、
「自分より辛い人がいる」論への反論
例えば僕前職で、
ちょっと仕事しんどくって、
でも自分よりもっと残業してるやつとかいたんですよね。
自分よりずっと残業してる人とかがいて、
ってなった時に、
泣き言言えないなみたいな感覚が漠然だったんですよ。
何でかって言うと、自分よりもっと働いてるやつがいて、
自分が何時間ってやったら、
それよりもより多く残業してるやつがいて、
なった時に泣き言言えんよなみたいな感覚があったんですよ。
ここからちょっとそれを抽象的に抽出するんですけど、
なんとなく自分よりしんどい人がいたら、
泣き言とか文句って言いづらいみたいな風潮ってあると思うんですけど、
僕、この理屈を正しいにしちゃいけないと思ってるんですよね。
これはなぜかというと、
その理屈を正しいものにしてしまうと、
世界一不幸な人にならない限り、
文句や泣き言の一つも言えなくなるからなんです。
何でかって言うと、例えばさっき残業の例だったら、
例えば自分が50時間残業してるときに、
じゃあ同じ会社に100時間残業、
100時間ってやばいですね、いろいろ超えてるんですけど、
例として出すんですけど、100時間残業してるやつがいました。
ってなった時に、
じゃあ自分は文句も泣き言も苦しいの一つも言えないよね、
っていう例だったんですね。
じゃあ今度100時間自分が残業したとして、
でも例えば会社の外とかのとんでもないぶらってる世界を見たときに、
200時間残業してるやつがもしかしたらいいかもしれないじゃないですか。
そしたらまた、
じゃあ自分200時間残業しなかったら苦しいつらいの一言も言えないんですか、
みたいな話をして出すと、
それって世界一残業する人にならなかったら、
泣き言や文句を言えないことになっちゃうじゃないですか。
僕は往々にしてこれがいろんな苦しみ事とか苦悩について言えると思っていて、
だから自分より辛い人、しんどい人、苦しい人がいるから、
自分が辛くないのは僕は理由にはならないと思うんですよ。
理由にしちゃいけないと思うんですよ。
なんで理由にしちゃいけないかっていうと、
それを言ってしまったら、だって悲しすぎません?
世界一の不幸とか世界一の努力家とか世界一の苦労人にならない限り、
文句や泣き言の一つも言えない世界になるわけです。
だからマイナスな例とか苦しい例とかネガティブな例を引き合いに出して、
だから苦しくないでしょ。マシでしょ。幸せでしょ。
っていう理屈は僕は成り立たせてはいけないと思ってるんですよ。
そんな世界悲しいじゃないですか。
世界一不幸なやつ、霊長類。
最ネガティブにならない限り文句の一つも言えない世界になったら苦しいじゃないですか。
だから僕はさっきの貧困とか戦争の例もそれと一緒だと思っていて、
マイナスとかネガティブとか不幸、
実際そういう問題を抱えたら不幸かわからないですけど、
例を持ち出してきて、だから大丈夫でしょっていうのは、
僕はちょっといただけないなという気がしてならないんですよ。
そんなの関係なく、違う苦しみ、違う葛藤、
違う苦悩、違う時代、違う場所で
生まれた違う存在が抱える違う苦しみなんだから、
それを比較してマシでしょ、幸せでしょとは、
僕は言えないと考えている。
好きではないですね、その論調は。
っていうことを、今日その一つのポストから
めちゃめちゃ思ったので、こうやって言葉にしてます。
たぶん若干行き止まってるんでしょうね。
今ここまで僕スタイフのあれ見てますけど、
これ一人ですからね、一人でしかも台本を見ずに
一発の上で撮ってるんですけど、
現時点で18分30秒喋ってるんで、
一人でこれだけ喋れるってことは、
たぶん何かこう、ちょっとしたムカつきみたいなものが
きっとあるんでしょうね、おそらくなんですけどね。
これを聞いた人に言っておきたいのが、
僕そんなに血の気の多い人間ではないので、
あんまり怖い人だとは思わないで欲しいかなっていうのを
ちょっと一個注釈として入れておきます。
あとここまでちょっと散々バーって語っといてたんですけど、
人生は解釈芸であるという自己反論
一応自分に対しての反論も考えたんですよ。
僕たまにこうやるんですけど、
とはいえその自分の意見って本当かみたいな、
これってすごくうがった考え方をしてないかな
みたいなことを考えたので、
最後に自分についての反論的な話をするんですけど、
ここまで言っちゃいますけど、
自分が悪いな、食べ物に困る人とか、
貧困問題と比べてマシだよねとか、
戦争の時代と比べたら今生きてることが
すごい素晴らしいことなんだよって
意見に対しての反対的な自分の考え方の話をしているんですけど、
とはいえなんですけど、
これは自分もうまくないんですけど、
人生って多分解釈芸なんですよ。
おそらくなんですけど。
おそらくなんですけどっていうのは
僕が解釈がうまくないからなんですけど、
解釈芸ってどういうことかっていうと、
どう言ったらいいんですかね。
幸せに生きるコツってね、
都合良い解釈をしまくっていくことだと思うんですよ、おそらく。
自責強い人とかネガティブ志向になりやすい人って、
そもそもあんまり自分に都合の良い解釈をする癖がついてない人だと思うんですよね。
都合の良いって言い方をするとちょっと聞こえが悪くなるかもしれないですけど、
人間って何て言ったらいいんですかね。
出来事に対して解釈をつけるんですよね。
出来事って何かっていうと、
これは自分の外の世界で起きていることです。
現実に起きていることですよね。
それをどう解釈するかとか、
どんな意味付けをするかとか、
それによってどんな感情になるかみたいなものっていうのは、
自分の内側で起こっていることなんですよ。
これをABC理論とかって言ったはずです。
実際あります。
あとABCDEみたいなのがあったかな。
ABC理論みたいな何かの頭文字があるんですよ。
なんだったっけな。
BはBeliefだった気がする。
信念のBだった気がする。
Cなんだったっけな。
忘れた。忘れたんですけど、
要は起こった出来事に対してどういう風に感じ取るかとか、
どんな意味付けをするかとかっていうので、
グルグル仕込んだりか気持ちよくいられるかみたいなのが変わってくるよみたいなのがあるんですけど、
散々そんなデッチャゲアロンってさっき言ってたんですけど、
デッチャゲアロンって要はこじつけアロンみたいな、
幸せだって思いたいがためのこじつけアロンって散々言ってきたんですけど、
最悪それでいいんじゃねっていう話ですね。
最悪それでいいんじゃねっていうのは、
結局幸せに生きるコツは、腐れやすいんですけど、
解釈芸だと思うんですよっていう言い方をするのは、
僕もポジティブ解釈が苦手だからなんですけど。
だからこじつけでいいんだと思うんですよ、もはや。
あえてこういう言い方すると分断を見そうなんですけど、
ポジティブ人間的にはこじつけでいいんだと思うんですよ。
こじつけとか思い込みとか、
そういうある種オカルト的かもしれないですけど、
そんな根拠も減ったくれもねえだろうって言ってネガティブ思考になるんだったら、
一層のことを自分に都合のいい解釈をして、
幸せに生きていく方が良いんだと思います。
解釈っていうのは自分で好き放題選べちゃうので、
例えば、店員さんの態度が悪かったっていう事実があったとして、
コンビニの店員さんの態度が悪かったですっていう事実があったとして、
例えばそれで、もしかして私ってダメなことしちゃったかなとか、
この店員さんに対して失礼なことをしてしまったんじゃないかっていうのが解釈なんですけど、
それか、あの店員さんっていうのは疲れてるんだろうな、
ちょっと優しくしてあげようみたいな、これが解釈の話なんですけど、
結局解釈によって感情って決まってくるんですよ。
だから、さっきの話だとどういう例になるんだろうな。
だから、こじつけだと、こじつけっちゃこじつけなんですけど、
知り滅裂だけどポジティブな解釈で生きていった方が、
実は幸せなんじゃねえのっていうのは一応自分に対しての反論ですね。
だとしても僕は何か下せぬって感じはしますけど、
自分に対しての反論すらも自分で考えたんだけど、
でもなんか不利は落ちんけど、
これはたぶん訓練なんですよ、苦手な人は。
日々ポジティブな解釈というかポジティブな捉え方をしてやっていくと、
たぶんいって良くなるっていうところがある。
ただ、すごい僕が言いたいのは、
マジで落ち込んでる人にもっとしんどい人がいるんだから、
大丈夫だよみたいなのはマジで刺さらないと思うんで、
僕はやめた方がいいと思います。
マジでやめてあげてください。
マジで、人によってはカチンってなります。
そのタイプの声のかけ方をされると。
でもこれはね、たぶん互いに分からないんですよ。
そういうずっとポジティブ解釈するタイプというか楽天的な人っていうのは、
そういう思考の癖がついてて、
反対にいろいろ抱え込んじゃったり沈んじゃったりする人は、
悪い言い方ですけど、
自分に都合のいい解釈をする癖がついてないんですよね。
各意僕もなんですよ。
そういう話をして僕もあんまり得意ではないんですけど。
だからこれは本当にたぶん、互いに分からないんだと思います。
そういうことを言っちゃう人を。
もちろん一定の、例えば訓練とかその日のコンディションとか、
ご機嫌とかによってね、
あとはメンタル状況とかいろいろあると思うんですけど、
によっては変わってくるかなとは思うんですけど、
たぶん分からないものだと思うので。
僕は要は内省型というか、
僕は自分の立場を抱え込みがちな、いろいろ、
ぐるぐる思考型だと思ってるんで、
ぐるぐる思考型的意見で言うと、
そういう言葉をかけるのはマジでやめて欲しいなとは思ってます。
一応思ってるし、
結論とメッセージ
僕もだからそういうのを見て、
今日は、
今日は、
あー言いてーってなったんで、
こんだけだらだらと、
だらだらとだらだらと一発で喋ってるんですけど。
そんな話かな、今日は。
ごめんなさい。
総まとめをすると、
僕はその要は、
不幸な、不幸な例っていう言い方をするとあれですけど、
不幸な例を出して、
だからあなた報われてるでしょとか、
今生きてることが奇跡なんだよっていう意見は、
まず個人的な思いとして言うと、
まず嫌いですと。
嫌いだし、
あんまりそれを落ち込んでる、沈んでる人に、
その言葉を投げかけないでほしいですっていう話と、
とはいえ、人生多分ご機嫌に、
ポジティブに生きていけるかどうかっていうのは解釈芸だと思うので、
そういう意味では、
そういうこう、
論理破綻してるかもしれないけど、
意外とそういう考え方というか、
そういうことをインストールできた方が案外、
世の中ご機嫌に人生を全うできるんじゃないか、
ということを思った次第ですかね。
そんなお話でした。
すごい久々なんだけど、
めっちゃ日付いてたんだろうね。
今27分ぐらい一人勝ちしました。
今日はこの辺で、
おやすみなさいませ。
日曜日の夜ですので、
皆さんまた明日から1週間始まりますので、
これぐらいも心身ともに健康にお過ごしください。
ここまで聞いていただいて、
もしこの人のしゃべりおもろいなと思ったら、
まだ本数少ないんですけど、
よろしければもう1本ぐらい僕のスタイル聞いていただけたら、
幸いだなと思いますので。
ではでは、ありがとうございました。
28:03

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