#56 | 身体の教養ラヂオ
センスがいい人は、知識の引き出しが多い人なのでしょうか。
僕が思い出したのは、一休さんのとんちと、初めての種目にもすぐ応じる「運動神経のいい人」でした。
知識、経験、身体の自由さがどう結びつくのかを、『ブルーイ』やコップ、瓶ビールの例から考えます。
ここでいう「運動神経」は、解剖学上の神経ではありません。相手や物の動きを感じ取り、その場に合わせて自分の動きを変えられるという、日常で使う意味です。
同じことを知っていても、今の相手や場面に合わせて使えるとは限りません。僕たちは、コップを取るときに肩や肘の角度を計算せず、重さや距離に応じて動いています。会話でも、相手が話し続けそうなら待ち、返事を求められたら話します。
ところが、間違えたくない、役に立ちたいと身構えると、相手の声や沈黙を受け取る余裕が狭くなります。知識を増やすことも大切です。その知識を使いながら、感じて応じられる。必要なら、自分のやり方を変えられる。そんな自由が育つことを、僕は「センスが育つ」と考えています。
【目次】
センスは知識の量で決まる?
一休さんのとんち
センスは「運動神経」に近い
『ブルーイ』のクリケット
考えなくても動ける身体
体の「応答のボキャブラリー」
センスは自由さ
身構えると、感じ取れなくなる
身体合理性とセンス
身近な体験で、自分の外へ出る
感じ方が変わると、関わり方が変わる
somatic studioの案内
つながる回
#53 直感は正しい?「嫌な感じ」と思い込みを身体から考える
https://open.spotify.com/episode/03MOq3ASPEfeClaoEQr2Fb
#54 人の力になりたい。でも、自分がしんどくなる。
https://open.spotify.com/episode/371dPKb5ITw0vVK3Fl5geL
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大沼鍼灸 宛
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センスがいい人は、知識の引き出しが多い人なのでしょうか。
僕が思い出したのは、一休さんのとんちと、初めての種目にもすぐ応じる「運動神経のいい人」でした。
知識、経験、身体の自由さがどう結びつくのかを、『ブルーイ』やコップ、瓶ビールの例から考えます。
ここでいう「運動神経」は、解剖学上の神経ではありません。相手や物の動きを感じ取り、その場に合わせて自分の動きを変えられるという、日常で使う意味です。
同じことを知っていても、今の相手や場面に合わせて使えるとは限りません。僕たちは、コップを取るときに肩や肘の角度を計算せず、重さや距離に応じて動いています。会話でも、相手が話し続けそうなら待ち、返事を求められたら話します。
ところが、間違えたくない、役に立ちたいと身構えると、相手の声や沈黙を受け取る余裕が狭くなります。知識を増やすことも大切です。その知識を使いながら、感じて応じられる。必要なら、自分のやり方を変えられる。そんな自由が育つことを、僕は「センスが育つ」と考えています。
【目次】
センスは知識の量で決まる?
一休さんのとんち
センスは「運動神経」に近い
『ブルーイ』のクリケット
考えなくても動ける身体
体の「応答のボキャブラリー」
センスは自由さ
身構えると、感じ取れなくなる
身体合理性とセンス
身近な体験で、自分の外へ出る
感じ方が変わると、関わり方が変わる
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#53 直感は正しい?「嫌な感じ」と思い込みを身体から考える
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サマリー
センスは知識の量だけで決まるのかを、一休さんのとんちや『ブルーイ』のクリケットの回を例に考える。知識を持っているだけでなく、相手や場面の変化を受け取り、その場に応じて動きや応答を変えられることが、日常語でいう「運動神経」やセンスに近いと語る。コップを取る、歯を磨く、万年筆を持つ、車を運転する、瓶ビールを注ぐといった動作から、経験によって身体図式や「体の応答のボキャブラリー」が組み替わる過程を説明する。瓶ビールは、残量や重さの変化に合わせて手首や肘を調整し、力を固めすぎずに注ぐ必要があるため、センスの具体例になる。会話でも、間違えまい、役に立とうと身構えると、相手の沈黙や声の調子を感じ取れず、応答の自由が失われる。身体のこわばりは世界から受け取れる可能性を狭めるため、知識を増やすだけでなく、身体を緩めて感じられる状態を育てることが重要だとする。遠くへ挑戦しなくても、身近な音楽や場所、人との時間から未知の感覚を経験でき、その体験が日常の関わり方や好みを変えていく。知識を使いながら感じ方と応じ方の自由が育つことを、話者は「センスが育つ」ことだとまとめ、後半ではSOMATIC STUDIOの身体への取り組みや個人セッション、オンラインのパーソナルプランを案内する。
センスは知識の量だけで決まるのか
こんにちは、大沼竜也です。
のんべんならりと暮らすだけ、今日もやっていきたいと思います。
今日はセンスについての話をしていこうと思います。
服の合わせ方とか、人への言葉の返し方とか、
いろんな場面において、センスがいいなーとかセンス悪いなーとかっていう言葉、
当たり前に使われていますよね。
昨今これに対して、知識の量、持っている知識の量によって
引き出しが増えれば、適切に応答の仕方というか答えというものが
細かく出せるようになるから、
知識がたくさん持てれば、それはセンスを賄えることになるんだというような
言説もあったりします。
ああ、なるほど、と思って、
僕もそういった関連の書籍とか読んで、
ああ、面白いなーと思ってたんですけど、
でも確かに知識がたくさんあれば、
いろんな答えが出せるってのはわかるけど、
なんか僕が小さい頃、子供時代とかに、
クラスに学年に一人とか、学校に先輩とかでね、
センスがいい人っていうのはこういたんですよね。
でもその人って、そんなに知識たくさんあったんだろうかと思ったんです。
センスは知識の蓄積だっていうふうに言い切られちゃうと、
なんかそれだけじゃ説明できないものもあるんじゃないかと思ったんですね。
まあ子供にも遊びとか暮らしの中で身につけた知識とか経験というのがあると思います。
ただ、知っている量とその場で、
一休さんのとんちと運動神経
ああ、うまいなーっていうふうに感じさせるような応じ方っていうのは同じなんでしょうか。
例えばこの話を考えてて、すぐ思い出したのが一休さん。
師匠さんよりも物知りだから、
ああいったトンチの聞いた返しっていうのができたんでしょうか。
知識の量で賞文がつくんであれば、
トンチの前に読んだ例えば本の冊数とか、今まで会った人たちの数とか、
言葉をどれだけ知っているかとかね、
なんかそういったもので確認すればもうなんか勝負は決まっちゃうのかっていうと、
まあそんなこともなさそうですよね。
例えば有名な一休さんの話として、
この橋渡るべからずっていうような縦札を見て、
橋って書いてあるのを、
ああ、この端っこを渡らなきゃいいんでしょっていうふうに捉えて真ん中を通った。
これって橋っていうこと、音の言葉、
その両方の意味を知らないとこのトンチは出てこないんだけれども、
だから知識は役立っているとも言えるけれども、
ただ知っている、みんな知っているけども、
同じ開始を思いつくわけじゃないっていうところがこのトンチなわけですよね。
知っていたかを、知っていたことを、
知っていたかどうかではなくて、
知っていたことを今出された一つ問いに対してどう使ったかどう応じたかっていうことです。
そこで僕がこの時にピンときた言葉として、
俗語ですよ。
俗語の中での運動神経っていう言葉の方が、
なんかしっくりくるんじゃないかなっていうふうに思ったんです。
何もこの運動神経っていうのは、
正確なその解剖整理でいう運動神経っていうものではなくて、
例えばね、皆さんも思い出してみてほしいんですけど、
学生時代に体育の授業でやったことない種目なのに、
すぐにこなせる人っていたと思うんです。
バスケ部なのに、
サッカー部の一人サッカー上手とかね、
なんか何でもこなせちゃう子みたいな、
こういうの運動神経がいいとか、
筋がいいとかっていうふうに言われると思います。
足が速いとか、力が強いっていうような、
そういうパワーの問題ではなくて、
相手やボールの動きを見てうまく応じられるっていうところ、
こういうのも僕はセンスだと思うんですね。
『ブルーイ』のラスティが見せる応答
ここで僕の大好きなアニメのブルーイっていうのの中でも、
それに似た話があったのでちょっと紹介したいと思います。
知ってます?皆さんブルーイって。
犬の家族を描いたオーストラリアのアニメなんですけど、
クリケットっていう回があるんですね。
その回に登場するラスティっていうワンちゃんがいます。
このラスティはバットで球を打つっていうような、
このクリケットっていうのがあって、
そのスポーツですね。
それがすごい上手な男の子なんです。
日頃からすごい練習してて、
大人たちが工夫して投げてもなかなかアウトにできないと。
ところが物語の終盤で、
小さな妹が私もキャッチしたいっていうふうに言うんですよ。
それで取れないから悲しそうにしてて、
でもなんとかしてこのラスティはこの勝負に勝ちたいっていうところだったんだけれども、
妹が取れる、受け取れるような優しい強さでパンと打って、
わざと取られるっていうことをするっていう話だったんですね。
だから妹はパシッとお兄ちゃんが打った球を取れて、
妹が勝って、
ラスティが一人だけ我慢をして妹に楽しい経験をさせてあげたっていう素敵な話なんだけども、
これってやっぱラスティが上手だから、
つまりセンスがあるからできたことでもあるわけです。
相手との距離はこれくらいだから、
このくらいの力を何割にしようっていう風に打ってるわけではなくて、
だいたいこのくらいでいけば妹のところに飛んでいくような、
取りやすいような軌道を描いていくようなっていう風に、
無意識にそれに対してポンと打っているっていう運動面のところのセンス、
そして妹が悲しそうにしてるな、
じゃあここで僕も勝ちたいと思ってるけど、妹に取らせてあげようかな、
アニメの中ではその葛藤も描かれますけど、
妹が悲しんでいるっていうその様子を受け取れるこのラスティっていうのも、
すごくセンスがある反応、応答だなと思うわけです。
夢中になってたら妹の顔なんて見えないだろうしね、
別に今お兄ちゃん本気でやりたかったからごめんねって言えばいい話だし、
でもそれでも妹の泣いてる、ちょっとぐずりそうになっているものに対して、
ちょっとやってあげたいなっていう風にセンスがそうさせたわけですよね。
これって僕の臨床の話の中でも結構あることだと思うんです。
もちろん皆さんの日常の会話の中でもね、
例えば人から相談されたとか何かたわいもない話でもいいや、
自分が話し始める速さとか声の大きさって、
皆さんなんとなく加減してると思います。
ちょっとゆっくりめとかさ、いつもの感じこんな感じだよな、
無意識にでもやっぱりその人なりの発声の仕方とか、
声の大きさ高さっていうものがその人の当たり前としてあります。
そして相手が続きを話しそうだったらちょっと待つし、
返事を求められたら話すし、
一方的にこういう話をこういうトーンで、
このスピードでしようっていうような、
一辺倒なものではないですよね、コミュニケーションっていうのは。
相手の応答によって、それによって自分が無意識にでも、
この人と話してるとなんかゆったりしてくるなっていうこともあるし、
なんかちょっとせかせかしてちょっと意地悪になっちゃうんだよなっていうこともあったりする。
こうした無意識の関わり方っていうところに、
僕は身体性の豊かさっていうものを見ます。
じゃあその加減をしている。
こんなもんかなっていうふうに無意識で塩梅を調整している体っていうのは、
その内側で何が起きているのか。
身体図式と体の応答のボキャブラリー
コップを取るのに肘の角度は知らなくていい。
お茶を飲もうとコップに手を伸ばします。
目の前にお茶があって、
あー喉乾いたな、ちょっと口に入れたいな、
コップに手を伸ばす。
その時に肩を何度上げて肘を何度伸ばすか、
そんなことをいちいち考えてないですよね。
毎日やってることだと思います。
当たり前になんとなく。
皆さんは今日目の前にコップがあるとしたら、
朝コップで水を飲んだ時、
どのくらいの角度で、どのくらいのスピードで、
どのくらいの強さでコップから水を飲みましたか。
そう言われても、なかなか答えられないと思います。
今実際に再現したところで、
うーん、なんかこのくらいかなっていうふうにしか答えられないと思う。
少し遠ければ体ごと近づいて、
大きなマンゴーカップなら指を広めに開くだろうし、
空だと思ったら中身が入ってて、
持ち上げたところで手に力を足す。
もしくはその逆みたいなこともあると思う。
肩も肘も動いてるし、
遠くのものを取るなら体も傾けたり、
一本二本動いてるかもしれない。
ちょっとお尻を吹かせてるかもしれないし。
全体でコップを取るっていうような動きを成立させているわけです。
この全体的な働き、全体的な動きっていうものが、
身体図式という言葉で表されていたりします。
身体図式。
ちょっと難しそうな名前ですけどね。
まずは皆さんもどう動けばいいかが、
体でわかっているっていう感じを思い浮かべてみてほしいんです。
どう動けばいいかが体でわかっている。
体の形を頭に思い描いているっていうよりも、
目の前のものとか、自分の姿勢に合わせて動けることに注目します。
わかりやすいのが、例えば歯磨きとかかな。
できるだけ毎日やっていること。
ブラシの当たり具合を感じながら、
奥なら手をグーッと入れるし、
磨きにくいなと思ったら口を大きく開けるし、
細かく細かく口を開けようと思わなくても、
なんとなくそういうことができますよね。
奥磨こうと思ったら自然と口が開く。
指が奥の方に入っていく。
ところが、いつもと反対の手で磨いてみます。
急に難しくなるんですね。
歯ブラシの使い方も歯の場所も知っているはずなのに、
右利きの人だったら、
右手でいつもやっていることだから、
もう何十回何百回何千回やっていることだから、
忘れようがないはずなのに、
左手でやろうとすると、
あれ、あれうまくいかないぞとなるわけです。
利き手じゃないからっていうことは、
つまり内側にはこういうことが起きているわけです。
例えば僕も以前、万年筆に憧れてさ、
かっこいいですよね、万年筆。
それに憧れて、
じゃあ万年筆持つんだったら、
ちゃんとしたペンの持ち方をしてみたいなっていう風に、
今まで自己流の変な持ち方をしてたんですよ、ペンを。
人差し指と中指をこういう風に重ねて、
薬指で支えて親指で持つっていうような持ち方をしてたんですよね。
今やるとすごい違和感があるな。
もう慣れちゃったんですけど、
今はいわゆる正しい持ち方に修正したから。
でも最初はやっぱりものすごく違和感がありました。
これで書くのなんか嫌だな、めんどくさいめんどくさい。
なんか難しいな、
トーク弁でイズイなーって言ったりするんですけど、
イズイなーっていう風に思ってました。
だけども、だんだん毎日繰り返すうちにそれが普通になっていく。
だから今はそっちの方がもう普通です。
今話しながら昔の持ち方やってみたけど、
やっぱりなんか変な持ち方ですね。
指を置く位置っていうのが変われば、
支える力や動かし方も微妙に変わります。
形を知った後にも、その持ち方で書きながら覚えることがあるわけです。
こういう風に持つんだな、ふむふむってわかったとしても、
僕らの認識とか、
言葉では表しきれないような非言語的な情報というのがそこにはあるんですよね。
フランスの哲学者のメルロポンティという方は、
近くの幻想学っていう本でこういう風に書いています。
習慣の獲得とは身体図式の組み替えであり、行進である。
経験によって体でできることが変わる。
慣れると指の位置を確かめなくても書けます。
それで小さな小さなマスのところでもそこなら小さな字を書くし、
覚えた動きをそのまま繰り返すというだけではないんですよね。
僕はこうやって身につく動きとか加減というものを、
例えば体の応答のボキャブラリーという風に呼んだりします。
体の応答のボキャブラリー。
言葉を使い分けるように、
体にも状況に応じて使える動きというものがあるわけです。
何も特別な状態だけじゃなくて、
僕らの日常の中にたくさん潜んでいます。
変わるのは動かし方だけじゃないんですね。
経験で変わる身体と瓶ビールの注ぎ方
例えば運転です。
運転になれると車幅が何センチだから、
この道路は何センチ何メートルだから通れるな、
って考えてませんよね。
なんとなくうちの車だったらここ行けるな、
という風に感覚としてつかめていくわけだ。
これって経験を通して培っていくものですよね。
つまりやっぱり慣れない車をいきなり運転するよりも、
ずっと慣れ親しんだ車の方が、
だんだんと経験が積んでいくわけだから、
その経験を通して、
この道この間通れたし、
だいたいうちの車で車の跡つくのってこのくらいだし、
だからこのくらいを通れるだろうという風に、
経験に通じて感じ取れることも変わってくるわけです。
ただね、こうした無意識に培っていくもの、
これだけが全てセンスの良さになるわけではないと思います。
相手の話を遮っちゃう癖とか、
無意識に出ますよね。
あーわかるわかる、それってさーみたいな風に、
ちょっと自分の話に持って行っちゃったりとかさ、
誰でもあると思うんです。
いつものやり方に固まるのか、
相手や場面の違いっていうのを受け取って、
応じ方も変わるのか、
この違いが大切なわけです。
センスがあることなわけですよね。
目の前のものからこう動ける、こう変われるっていうような可能性を受け取って、
自然に応じられる、
僕らがセンスが良いって呼ぶその自由さっていうもの、
これを僕はここに感じるわけです。
そう、センスっていうのは言い換えれば、
自由さとも言えるのかなと思うわけです。
ここで例えばこの間ビンビールを久々に僕飲んで、
あーこれってまさにセンスだなっていう風に思ったんですけど、
ビール、ビンビールをコップに注ぐっていう動作、
やったことあるっていう人も多いと思うんですけど、
やったことないっていう人も今は多いかもな。
あれって、ずっとこう瓶の角度を固定した、
ビールってさ、上手に注ぐっていうのはつまり、
上手くちょうど良く泡立たせていきながら、
空気とちょっと触れ合いさせていきながらビールを注いでいくと、
味が変わっていくんですよね。
デキャンタとかっていう風にワインとかで言ったりするけど、
ビールも同じように、
注いでポクポクポクって軽くね、
これも微妙な感覚なんですけど、
細かい泡をたくさん出してあげるように空気に触れさせてあげることで、
まろやかな味になっていくんですね。
だからできるだけ細い線を描いて、
コップの底に注いであげたいんだけども、
じゃあそれどうするかっていうと、
ビールの角度を固定すればいいかっていうと、
そういうわけでもないんですよ。
ちょうどいいその細さができたとしても、
ずっとその瓶の角度を保ったままだと、
中身が減ってくんで、出方も変わってくるわけ。
手にかかってくる重さも変わってきます。
だからすごくこのビール瓶と中にあるビールだったりとか、
そのある種のコミュニケーションみたいなものでもあるんですよね。
手首とか肘をガチッと固めて、
このくらいだっていう風にやったとしても、
ちょっと動かしにくくなっちゃうし、
その繊細な変化についていけないし、
そこが動いちゃうと注ぎ口が大きくずれちゃって、
ビールがこぼれちゃったりとか。
だから力を抜きましょうって話になってくるんだけど、
力抜くっていう言葉もまだちょっと抽象的ですよね。
瓶を持つ力までなくすわけじゃなくて、
支えながらも動けて、
重さに合わせて力を加減できる、
そういうようなゆとりがあることで、
その都度応じる自由っていうものが生まれてくるんですね。
こうすることでセンスがいい人が、
ビールを上手に注いだっていう状態がなされるんだなと思うわけです。
身構えると感じ取れなくなる
こういったちょっとした動作の中にも隠れているセンス。
じゃあセンスっていうのは、
ある種の力が抜けている、
無駄な力が抜けているっていうことでもあるのかもしれない。
人と話す時も間違ったこと言っちゃいけないっていう風に
身構えることがありますよね。
相手が話しているのに、
自分が次に何を言うかって頭がいっぱいになっちゃう。
なんかいいことを言ってあげたいな、
この人のためになってあげたいな、
なんか楽しい時間になってほしいな、
そう思いながら、
でもちょっと黙られちゃったりとかすると、
なんか失敗したのかなって焦ってまた説明始めちゃうとかさ。
こういう時に相手が言葉を探している様子とか、
声の調子の違いっていうものをどれだけ僕らは受け取れているでしょうか。
僕は怯えて体をこわばらせていると、
動きだけじゃなく、
感じ取れることも狭まってしまうという風に思うんですね。
大丈夫かな、こういう風にしてあげたいな、
これって全部自分がどう動くかっていうところに意識が向いているわけです。
つまり相手の応答っていうものが、
自分の判断材料に乗ってこないんですよね。
相手のことが見えなくなっちゃっているわけです。
つまり自由さがないっていうことだ。
こわばってしまって自由さがなくなって、
結果的にいわゆるセンスっていうものがどんどんなくなっていってしまっている。
反対に身構えずにこわばっていない。
そういう状況が僕の体で、自分自身の体で実現できたとしたら、
同じ相手が黙ったっていう沈黙の時間でも、
何を考えているのかなとか、
どういう応答が来てもちゃんと受け止めるっていうようなゆとりが生まれる。
相手の方に関心が向きますよね。
どういう反応をしているのかな、ゆっくりと見ることができる。
待ってみることもできるし、逆に困ってそうだったら、
ちょっと質問を重ねてみようかな、答えやすいように。
尋ねてみることもできます。
相手を怖がるっていうような意外な感じ方が生まれて、
話の受け取り方も変わります。
体の自由さというものは、ゆとりというものは、
こうした心のゆとり、自由さでもあるわけです。
ずっと肩に力が入っていれば、それが普通になっていくし、
自分では力抜けてますっていうふうに感じるんですね、そういうふうに。
認識ではそう感じる。
だけれども、もっと力が抜けた緩んだ状態っていうものを忘れちゃっていれば、
その違いにも気づきにくいですよね。
ずっと状態化してしまうが故に、
僕らは感覚ね、力が入ってるっていう感覚自体も、
筋肉だったりとか皮膚だったりとかそういうところで感じてますから、
怖がることで、今どこまで怖がってるんだろう、
どこまで力が抜けてるんだろうっていうものも、
感じ取れないようにできているんですよ。
だからそもそも、力抜けているなっていう感覚は、
サインにすれど、指標にすれど、物差しにすれど、
信用してはいけないわけです。
これは私の今の限界の中での感じる気持ちよさ、心地よさだなと、
力が抜けているだなと、
もっとその感覚っていうのがおそらくあるんだろうっていうような、
そうした自分へのメタ的な認識っていうものも必要になってくる。
そうやって固まった体でいろんな人々と関わっていく。
そうすると世界もやっぱり狭く見えてしまうんですよね。
受け取れる可能性、見える範囲っていうものも、
どうしても狭くなっていってしまうから。
そうするとこの人とはこういう話しかできないとか、
自分にはこれしかできないっていうような、
ある種の自分の檻の中に閉じこもるような、
そういう物語が形成されていってしまうこともあります。
つまり、知識を増やして、
もっと柔軟に考えようっていうふうに頑張るだけでは、
届かないところがあるように感じるんですね。
世界に触れている自分の体そのものを、
緩めて解いていく必要が、
考える前に必要なんじゃないかと思うわけです。
僕が普段話している、
僕の中での重要な概念として、
身体合理性っていうものがあります。
身体全体が持っている力を、
十分に発揮できる状態です。
身体の合理性、
合理的に身体が機能しているかということ、
余分なこわばりというものをほどくことも、
そのための一つの働きかけです。
身体合理性を高めるための働きかけ、
力を出せるということと同じように、
抜けること、感じられることというものも、
同じように大切にしたい。
同じことを語っているわけなんですね。
じゃあ、センスが良くなるために、
自分の檻の外へ出る必要がある。
じゃあそうするためには、
勇気を出して何かに挑戦しなければならないのか、
やっぱりどこかで頑張って、
苦しい思いしないとやっぱりダメだよなって、
思うでしょうか。
身近な体験が関わり方を変える
ここで言いたいのは、
挑戦の素晴らしさではないんです。
身近な音楽とか、場所とか、
人との時間というものを通して、
自分の身体にまだ知らなかった感じが生まれる。
その経験も自分の外へ出るということだと思います。
むしろ、遠くの海外に行くとか、
いろんな文化に触れるとか、
いろんな人に会うとか、
食べたことのないものを食べるとか、
一流のサービスを受けようとか、
いろんな経験をしようみたいなものってあると思います。
経験をすることはいいことなんです。
なんだけれども、
その経験って実は身近にもたくさんある。
その上、その経験をするというのは、
僕らの体なわけです。
どんなにいい音楽を聴いたとしても、
自分の体が怖ばって怖ばって、
しんどい状態になっていれば、
身体合理性が低下した状態になっていれば、
受け取れるものも狭まってくるし、
自分の中で体験されることも、
等しいものになってしまいますよね。
音楽を聴いているうちに、
気づくと体が少し揺れていた。
悲しい曲なのに、
聴き終わるともう少しこの気持ちに浸って痛くなる。
ある場所では肩の力が抜けて、
人と話してみたくなる、
というようなことがあるかもしれません。
この音楽は素晴らしい。
これはいい場所だ。
もちろんそう感じていいんです。
もちろんそういう場所があるし、
いろんなアーティスト、クリエイターの人は、
そういう体験を届けたくて、
おそらく曲を書いたり、絵画を書いたり、
ものを作っていると思う。
ある場所を設計する人も、
そういう体験をしてほしくて、
その場所を設計していたり、
自然にそういう場所があったら、
みんなに紹介したいと思っていると思います。
その上で、
それと一方、反対方向にある、
受け取る側の自分たちのことにも、
目を向けてみてほしいんです。
その時、その時間に、
自分の体には何が起きていたのか、
自分にはこんな感じ方もあるのか、
音楽について知ると同時に、
自分にも知らなかった感じ方というものがあると、
わかるわけです。
この曲は、
西暦何年くらいに出来上がって、
モーツァルトがどうの、楽器はこういうのを使われていて、
こういう旋律だから、
こういうのももちろん楽しいですよ。
僕も大好きだけれども。
じゃあ、その旋律を聴いて、
あなたはどういう体験をしたのか、
言葉に出来ないと思います。
限りなく膨大な、
それは体験が含まれているだろうから。
そしてその体験というものを、
頑張って何とか言葉にしていくという作業も、
ある種の文学だったり表現でもあります。
言葉にしたければしてもいいし、
でも、
言葉にしようと思うと、
なんかちょっと力入っちゃうこともあるでしょう。
これは結構現代的なものだとも思います。
言葉に出来ないもの、数字に出来ないものは、
価値がない、意味がない。
それやって何か意味があったの?
そう言われるような問いかけというものも、
近代にはたくさんあふれています。
いいんですよ、そんなもの。
言葉になくても数字に出来なくても、
自分自身でその体験を感じられた、
誰かと比較するわけでもなく、
自分の中でこういう体験があった。
これは素晴らしい体験。
ずっと浸っていたい。
これこそが僕らが生きるということなのかなとも思うわけです。
そしてそうやって、
ああ、なんて素晴らしい体験なんだ。
気持ちいいんだ。
心地が良いんだ。
そうした感じ、体験というものを知ることで、
いつもの社会活動、社会的な生活というのを戻った時に、
たくさん体をこわばらせることって、
たくさんありますよね。
ああ、さっきより肩が固いな。
なんかまたこわばってきたな。
そういう風に気づけるかもしれないわけです。
その時に少し動かしたり、
ちょっと座り直したり、
またその音楽を聴きに行ったり、
またその場所に行ったり、
違いを探るということも出来るわけです。
もしかすると、
その場所に行ったことで、
その体験をしたことで、
日常に戻っても、
いつでもその時の良い体験を、
全く同じじゃなくてもね、
思い出して、
その状態に近づくということが出来たりもする。
私の人生を変えた出来事でした、
みたいに言うことってありますよね。
そういう人生を変えるみたいな出来事の時には、
明らかにその人にとって、
衝撃的な体験というものがあったんだと思います。
何も遠くの地に行ったりとか、
人類の中でも数%しか体験できないようなこととか、
そういうことじゃなくても、
僕らには僕らなりの体験があるわけです。
そして新しい感覚を知ることで、
人とか物への関わりも変わっていく。
例えば前なら、
全然知らない曲をすぐに止めていた人が、
次の曲、次の曲ってやってたのが、
もう少し聴いてみたくなる。
ああ、なんかこの間、
すごい良い感じだった曲にちょっと似てるな。
あれ?このアーティストの名前って、
この間の良い感じの曲のアーティストと同じじゃない?
この人とこの人と友達だったの?とか、
同じ年代、同じジャンルの代表曲みたいに、
音楽っていろいろ派生していったりしますよね、
自分の好みが。
だからそれをきっかけにして、
もう少し聴いてみようかなって思ったりして、
聴くうちに新たにその曲の良さ、
つまりその曲から想起される自分の体験というものも、
発見できたりするわけです。
感じ方が変わって、
関わり方が変わる。
その経験からまた感じ取れることが増えていく。
知識も使いながら、
こういう自由というものが育つことを、
僕はセンスが育つということと同義なんじゃないかな、
というふうに思うわけです。
だからこそセンスというのを、
知識としてイコールとするわけじゃなくて、
その知識ですら、
この運動神経、
センスイコール運動神経というものを、
高めていくものでもあるんじゃないかな。
つまりセンスはイコール運動神経のようなものだ、
というふうに考えてみたいなと思うわけです。
SOMATIC STUDIOの案内
ぜひこうした体験、
センスが良くなりたい、
そういうものでもいいかもしれないけど、
そうか、いろんな自分の中での体験というものが、
自分の生き方とかセンスというものに繋がっていくんだな、
そういうふうにもし思っていただけたのなら、
ぜひその体験を豊かにしていくための手法というものを、
SOMATIC STUDIOの中でご紹介しています。
自分の体の強張りとか、
防御反応、
自己防衛、
もしくは緊張みたいなもの、
これはもう無意識のレイヤーに乗っているものです。
こうしたものを、
じゃあどうやって体を捉えて、
どうやって解いていくかということを専門的に紹介しています。
分かりやすく、
いつでも取り組めるような、
むしろ難しくやっちゃいけないんですよね。
心の、
頭の方がこんがらがっちゃうし、
集中できなくなっちゃうから。
自分の体にその向き合うきっかけというものを、
このSOMATIC STUDIOの中ではお伝えしているので、
ぜひ興味がある方は覗いてみてください。
人と会うたびに身構えていたというところで、
相手の話は面白がれるようになるし、
仕事を終わった後に、
好きな音楽をゆっくり味わうようになるし、
今でも十分味わえているよというのであれば、
さらに深く味わえるというものを想像してみてください。
同じ音楽を聴いても、
どんなに豊かな体験をしているかというのは、
人によって違う。
そしてその違いというのは、
その方の身体性によって変わってくるわけです。
逆にこうした身体性が劣化していけば、
僕らの体験というものも痩せ細っていくし、
ひいては感情も劣化していきます。
物を好きだと思う気持ち、
人を愛するという気持ち、
仕事を楽しいなと思えるそういった感情も、
身体性とともに劣化していく。
なんか自分の中にもそういう目がある気がする。
なんか最近ちょっとこういうしんどさ、
嫌な感じっていうのがある気がする。
でもいろいろ勉強したけど、
なんかパッとしないなって思っている方には、
ぜひSOMATIC STUDIOのサポーターの方を
見ていただけたら嬉しいです。
10月26日は個人セッションで、
東京上野の方にお邪魔します。
その中でもここではマンツーマンで、
その方とお話をするという時間を、
体を触れながら促していく、
その体験を豊かにしていくというような
アプローチセッションを行っていますので、
興味がある方はぜひDMでお待ちしています。
同じようにオンラインで
パーソナルプランというものを開始しました。
これは月1回。
1回45分から1時間くらいの間で、
オンラインですけど、
僕とマンツーマンでお話をするという
時間になります。
ただ単にお話するというのももちろんいいですし、
基本的には今回話したような、
皆さんの体験というものをできるだけ豊かに
してあげられるように
サポートをさせていただいています。
持てる知識とかね、
僕なりの全てをその時間に
出し切るつもりで、
楽しい時間にしたいなと思っていますので、
興味ある方はぜひSOMATIC STUDIOのサポーター、
パーソナル、それから個人セッションというところも
覗いてみてください。
はい、ということで、
今日も長々とお付き合いいただきありがとうございました。
ぜひこの番組の感想とかもいただければ
日々の励みになりますので、
いつもいただいている方ありがとうございます。
本当に励みになっています。
また今度お会いしましょう。
ぜひまた聞いてくださいね。
ありがとうございます。
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