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幸福とは〇〇だ|身体論から見る幸福論
2026-05-01 1:12:30

幸福とは〇〇だ|身体論から見る幸福論

「幸せになりたい」と人は言う。けれどその幸せがどこから来るのかを明確に答えられる人は、ほとんどいないのではないでしょうか。

19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーは「幸福は積極的なものではない、苦の不在にすぎない」と書きました。人生は欲望と退屈のあいだを揺れる振り子である、と。

今回はこの振り子モデルに、身体論の側から読みを重ねていきます。古代ギリシアのアリストテレス(エウダイモニア)から、エピクロス、ベンサム、ヒルティ・アラン・ラッセルの三大幸福論を辿り、最終的にはスピノザのコナトゥス、カール・ロジャースの実現傾向、ユージン・ジェンドリンのフェルトセンスへとつながる「身体内在の動き」の系譜のなかにショーペンハウアーを置き直してみたい、という回です。

施術室で17年、人の身体に触れてきて見えてきたのは、苦と快が別々のものではなく、同じ一つのナビゲーション装置の両面であるということ。苦は、身体合理性から外れているサイン。快は、合理性に向かっているサイン。意志を否定するのではなく、サインに従って動いた結果として、「求めない」状態は立ち上がってくる。

幸福は追いかけて獲得するものではなく、身体が発しているサインに従って動いた結果、覆いを取り除かれて立ち上がってくるもの。その覆いの正体には、認知の物語だけではなく、身体合理性から外れた状態を別の快で覆ってしまう「マスキングの快」、そして社会の構造そのものも含まれます。神経科学のライキング(オピオイド系)とウォンティング(ドーパミン系)の区別を手がかりに、現代社会がなぜ身体のサインを聞こえなくしてしまうのかも、一緒に考えていきます。

▼ 今回のお話
・三大幸福論(ヒルティ・アラン・ラッセル)と、そこから外れたショーペンハウアーの異質さ
・「快は消極的、苦は積極的」というショーペンハウアーの命題に、臨床から重ねる読み
・振り子モデルが射程に入れられない「フローの瞬間」のこと
・幸福のベースラインが高い人と低い人がいるのはなぜか
・ショーペンハウアーの「意志」は思考レベルではない──スピノザのコナトゥスへの帰り道
・「意志を否定する」ではなく「サインに従う」という処方
・触れている手が受け取っている「共苦(Mitleid)」という出来事
・成果主義と感情資本主義のなかで、身体のサインが埋もれていくこと
・ライキング(オピオイド系)とウォンティング(ドーパミン系)の神経科学



話している人について
https://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

#身体の教養 #ソマティクス #幸福論 #ショーペンハウアー #身体合理性 #身体知の書庫


感想

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00:00
幸せになりたい。誰しもがそう思いますよね。
だけどその幸せっていうのが、一体どこから来るのかっていうのを
明確に答えられる人ってほとんどいないと思うんです。 哲学者たちはこうした問いに対して
幸福とは何かっていう問いに対して、いろんな方向から語っています。 今日はそれを
身体論の観点から、種々のこういろんな哲学者の言葉を引用しながら 幸福はどこから来るのかっていう、なんかちょっと大それた話ですけどね
を考えてみたいと思います。まぁゆるーくね、のんめんだらりと聞いていただければと思います。 身体の教養ラジオ、今日もやっていきましょう。
古代ギリシャのアリストテレス っていう方、聞いたことはありますよね。名前くらいはね。
この人は幸福についてもいろいろ論じてます。いろんなことを、まあ言葉を残した人だけど 幸福のことをエウダイモニアっていう風に言って
よく生きることだっていう風に読んだんですよね。 よく生きることだ。
徳の活動を通じて人間としての本性を最大限に発揮した状態。 こうなった時に人は幸福を感じるんだっていう風に言っています。
エピクロスっていう人は心の平静、アタラクシア。 心が平穏であれば、体に痛みがなければ、魂に乱れがなければ
いいんだっていうことを言っていたりもします。 それから19世紀、公理主義のベンサムっていう人は
最大多数の最大幸福っていう風にその基準を立てています。 快楽っていうのは計算可能で量的に最大化することが社会の正義になるんだと。
社会はこの幸福というものを増幅することが正義なんだという風に言っています。
それから満足した豚よりも不満足なソクラテスの方がいいっていう言葉も
ここから続くジョン・スチュアート・ミルっていう方が語っていたりもします。 悩んで
何も考えないでボケッと生きるよりも、悩みながら生きていること自体も幸福なんじゃないっていう風に言ってたりもするんですよね。
20世紀になると僕らの当たり前で、当たり前に似てきた、似通った幸福論というものが登場してきます。
スイスのヒルティ、1981年の方ですね。 これはストア哲学とキリスト教というのを統合して、仕事こそ幸福の源であるという風に言っています。
労働を通じて精神を鍛えて良い習慣を育てることに幸福を見たんですね。 それからフランスのアラン。
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短い覚え書きというものを書き継いで、幸福は意思であるという風に説きました。 でもここで言う彼の意思っていうのは
こういう風にするぞっていうのは思考とか意図する意思ではないんですよね。 彼は不機嫌とか常年の出所っていうものを体に見て
こういう風に書き残しています。 指は胸もしなやかでなければしなやかにはなれない。
しなやかさというのは硬さと同じく全てに及ぶんだっていうことを幸福論の中で書いています。
体というのは全体として連動している一つの機械のようなものでその整いというものが常年の質を
規定するんだという風に言っているんですね。 だから彼は続けて思考が常年から開放するんじゃないよ
行為が開放してくれるんだよという風にも言っています。 まあざっくり言うとアランの幸福論というのは
体の構造の整いというものを通して気分を変えていく幸福を感じられていくようにしていく
ということをいろいろ論じているんですね。 それからイギリスのラッセルという方これが3つ目なんですけど
不幸の原因を分析することから始めました。 幸福の対局に不幸がある。
競争とか嫉妬とか世論への恐怖というもの。 この不幸への処方として自己への執着から離れて
関心を外側に広げることだというふうに言っています。 彼が
生への渇望というふうに読んだもの、世界に向けて開かれた態度というものが幸福の基盤だというふうに言っているんですね。
日本、僕の何となくの感覚としてはこの3つの幸福論というのが三大幸福論というふうに言ってもいいんじゃないかなと思います。
僕らの幸福の中にも確かにそうだよなというふうに納得しやすい感覚的なものだと思うんですよね。
でもそんなことは分かっているんだけども、
そうは言ってもその幸福ってじゃあどうやって広げていくことができるの?
どうやって開放すればいいの?どうやってしなやかにすればいいの? どうやって関心を外側に向ければどうやって執着から離れればいいの?っていうのは
やっぱりそこの具体性というものがなかなか難しいですよね。
その流れで僕の専門は身体論、体だったり神経だったりするので、こういった観点からこの幸福論を解いてみたい。
06:03
その中でヒントになるものとして、19世紀ドイツ、ここにいたショーペンハウアーという方の言論というものを引っ張ってきました。
この方はね、さっきの三大幸福論の中でもちょっと異質な立ち位置にいて、これまでの哲学者というのは手段は違えども、幸福というのは積極的に獲得できるものだというふうに描いてきたんですよ。
ポジティブに取りに行けるものっていうね。
得の活動でいいことをたくさんして、そして心が平静になって快楽を計算して、仕事をして、体を動かしてっていう意思で関心を広げることで獲得できるっていうふうに言っているんです。
だけどショーペンハウアーっていうのは、まず幸福っていうのは積極的な経験ではないっていうふうに言っているんですね。
幸福っていうのは何かを獲得した状態ではなくて、苦の不在に過ぎない、つまり苦しさ、不幸っていうものがないっていう状態が幸福なんだっていうふうに言っているんです。
彼の出発点っていうのは否定の側にあるんですよね。
で、これを聞いて、あっ!と思いました、僕の中で。
彼の体系っていうのを否定したいわけではないんです。
もちろんそういうのもあると思うんだけども、じゃあ苦しさっていうのを感じてた方は、たくさん不幸を経験している人の方が幸福、大きな幸福を得られるのかっていうと、たぶんそうではないと思うんですよ。
まあよく言うけどね、あの、しんどい思いしたからこそとっても嬉しいんだみたいに、こう因果を持ってくるっていうのは、まあ儒教仏教の影響を大きく受けている僕らの特徴的な考え方かもしれないですけど、現実はそうじゃなかったりもするじゃないですか。
幸せだなーって言ってる方は、どんなに不幸なことだとしても、あの、発想をポジティブに転換できたりとかね、もしくはどれだけ恵まれた状況にあったとしても、私は不幸だっていうふうに思ってしまうってことは、あり得ること、実際にあり得ることだと思うんですよ。
じゃあこのショーペン・ハグワンが語りたかったことには、きっと穴があるんじゃないかっていうところで、僕の考えを今日はつなげていこうと思います。
今日は彼のその話を一個一個ね、ちょっと引っ張り出してきながら、それについて解説をしていきたいと思います。
まずステップ1。幸福っていうのは積極的なものではないっていうショーペン・ハグワンの命題についてです。
09:08
19世紀ドイツの哲学者であるショーペン・ハグワンは、幸福について次のように論じました。
幸福は積極的なものではない、ポジティブに取りに行くものではないんだよって。
幸福ってのは苦の不在、苦しさがないっていうことなんだっていうふうに言ってるんですね。
これは幸せなど存在しないって言ってるわけじゃないと思うんです。喜びの瞬間ってのは確かに存在すると。
だけどそれは何かが欠けていて、それが満たされた瞬間の安心なんだっていうふうに言っているんですね。
これが彼の主張です。
例えば具体例で言うと、満腹って幸せですよね。
あーお腹いっぱい食べたー美味しかったーっていうのは一つの幸せの形ですよね。
でもこれ満腹っていうのは空腹がなくなった状態じゃんっていうふうにショーペン・ハグワンは言うわけです。
健康っていうのは痛みがない状態じゃんって言うんですよね。
願いが叶った喜びっていうのは、叶わない状態から一冊そこから抜け出したっていうような状態だっていうふうに言うわけですよ。
苦しみっていうのはそれ自体として感じられますよね。
お腹空いたなーとか、健康じゃなくて痛みがあって嫌だなーとか、
あーこういうふうになりたいなーけどなれないなーっていう苦しみっていうのは実際皆さんも感じたことがあると思います。
お腹減ったっていうのは、
あーまあそういうことですね。ごめんなさい。
だから苦しいっていうのはどちらかというと積極的に来る。
どちらかというと強力に駆動するようなものだよね。
だけどそこから抜けるような幸福、ここでいう快っていうのは積極的だよね。
これがショーペン半話の中心的な命題の一つです。
そこからよく引き合いに出されるフリコモデルっていうものが出てきます。
欲望が満たされていないっていうのは苦しい状態で、
欲望が満たされたっていうのは、
この文脈でいうと退屈な状態なわけです。何もない状態だからね。
つまり次の苦の入り口、次の苦しみの入り口だっていうふうに言うんですよ。
人生っていうのは欲望と退屈っていうその2点を行き来するフリコとして描かれる。
何も求めない人っていうのがいたとしても、
その方が苦から飲まれたとしても退屈っていう別の苦に落ちるんだって。
彼の体系っていうのはこの2項で完結して語られることが多いんですね。
12:01
このフリコモデルって論理的に強いです。
人がいかに幸せになろうとしても、
満たされた後には別の渇きが立ち上がるっていうのは、
実際皆さんも経験したことがあると思います。
やっぱり苦っていうのは大なり小なり現れてくるものですよね。
ここから僕の臨床でのその経験みたいなものと、
普段の論考みたいなのを一緒に重ねてみたいと思います。
小編半話っていうのは苦と快っていうのを別々のものとして観察しているんですよね。
苦しいっていうのは積極的に感じられて、
快楽っていうのは単に苦の不在に過ぎないと。
だけど僕が施術の中で感じているのは、
苦しいも快楽っていうのも出どころとしては同じところじゃんっていうところなんですよ。
どっちも体が発している一つのサインの両面なんだっていうことなんです。
これをちょっとそれっぽい言葉で言うとこうなります。
苦っていうのは快に向かうための体からのサインであると。
快っていうのは体が合理性に向かっていくためのサインであるということです。
ちょっと説明します。
苦が立ち上がる。
僕たちが苦しいなあ、辛いなあって感じるっていうのは、
体が今合理的な状態にないときなんですよね。
合理的でない状態にあるとき。
だからこそ体っていうのは、
いやここ無理してるよ。
ここかなりちょっと弱ってるよ。
だからこういうふうにちょっと守ったり休んだり、
人と関わんないほうがいいよ。
家で寝てたほうがいいよっていうふうにするために僕らは具合悪くなったりとか、
苦しいなあ、痛いなあ、人と会いたくないなあっていうふうになるんですよね。
だけど快が立ち上がってくる一方でね。
快が立ち上がってくるっていうのは体が合理的な方向に動いたときなわけです。
温泉入れば疲れた体っていうのも癒されて、
だからこそ気持ちいいなあって思うわけで。
ご飯を食べれば、
おいしいなあ、お腹満たされてくなあっていう一つの快楽が立ち上がってくる。
俺はエネルギーが不足してたっていうような体の非合理的な状態があって、
それが合理的な状態に向かってるから、
心地いい快の感覚っていうのが立ち上がってくるわけですよね。
つまり体っていうのは今いい方向に動いてるよっていうのを、
気持ちいいっていう感覚、快っていう感覚で教えてくれているわけなんですよ。
つまり苦と快っていうのは対立しているわけではなくて、
同じ一つのナビゲーション装置の2つの局面であるっていうことが言えるわけです。
15:02
そういうふうに読み直していくと、
このフリコモデルっていうものが射程に入れてなかった経験っていうものが見えてきます。
例えばね、ランニングとかしてますよね。
息と足音だけにもなっているようなフローの状態、ゾーンに入っているような状態。
きっと経験したことある方も多いんじゃないかなと思います。
もしくはね、走ってなくても、
例えば庭の手入れを集中してやってるとか、
絵を描いてても集中しても何も聞こえない、
もう時間の感覚も消えちゃって、
お腹空いてるのも忘れてるみたいな。
雨の音を聞きながら何も考えてないぽーっとした瞬間とかね。
これらっていうのは欲望が満たされた状態とは違うと思うんですよ。
何か欲してないですからね、特にね。
むしろ充実しているわけです。
これらの瞬間に共通しているのは、体が合理的に動いているということです。
別にさ、かけっこで1位になれなくたって、
走っていること自体がもう楽しいじゃないですか。
園芸が綺麗に、ガーデニングが綺麗に最後に完成しなかったとしても、
やっぱ土を触っていること自体が楽しかったり、
こういう風にしてみようかなって考えていること自体が楽しかったりもしますよね。
これらの瞬間に共通しているというのが充実している。
つまり、体が合理的に動いていることということなわけです。
呼吸もその時の満足的な状態が保てていて、
姿勢のバランスがその時の最大限が取れていて、
関節もその時の最大限スムーズに連動している。
体が合理性に向かって動いているということを
サインとして感じている瞬間というふうに言ってもいいのかなと思うわけです。
ショーペンハウアーは、快は消極的だというふうに言ったときに、
欠乏が満たされた瞬間のアンド。
これだけを快として観察していた可能性があるんですよね。
だけど快にはもう一つの種類があって、
体が合理性に向かって動いていることを
それ自体として知らせるサインとしての快であるというふうにも言えるわけです。
こうやって快を含めて読み直していくと、
フリコモデルというのはフリコじゃなくなるんですよね。
苦しいと快が交互に触れるというわけじゃなく、
体合理性、身体合理性に向かっていく
一本のフィードバックルーブとして立ち上がってくるわけです。
だから別に良い方向に行ったら悪いことも起きるみたいに
抽象的に物語的に表現したりもするけれども、
客観的に見ればそうなのかもしれないけど、
どうやら体はそういうふうにはできていないんじゃないということが言えるわけなんですよね。
18:05
ここでもう一つ、
ショーペン・ハグワーのフリコモデルというものが説明しきれないことがあります。
まさにさっきのフリコモデルのところで言った
苦しみが多ければ幸せも大きくなるのか。
というふうに僕は思ったわけです。
深く落ち込んでどん底を経験した後の喜びというのは
確かに大きく感じられると思います。
でもね、それは主観的な相対性なわけで、
楽さの話なんですよね、ただ単に。
苦しみそのものが幸せの素材になっているわけではないんじゃないかなと
思うわけです。だって、うちの子供とかね、
生まれたばっかりで、
別にそんな苦しみの塊ではないけど、
おっぱい飲んだ時とか、寝てる時とか、
機嫌いい時とかね、お腹いっぱいになった時とか、
めちゃくちゃ幸せそうな顔してますしね、幸せそうな動きもしてるしね。
それが大人になればなるほど、じゃあ幸福が大きくなるのかというと、
そんなはずはないと思うんです。幸せを感じられるように、
見つけられるようになったりとかっていうのはあるかもしれないけどね。
それよりも根本的な問題っていうのは
こっちです。そもそも不幸を不幸と思わない人もいるわけです。
同じ状況に置かれてても、慢性的に
苦しみを感じ続けている人と、それほど
幸福を感じていないっていう人もいるわけですよね。
幸福のラインが下を張っている人と、ずっと上側に位置している人がいるわけです。
生まれた環境も健康状態も似たようなものなのに、
感じている世界の質がまるで違うということです。
この差をね、あの、ショペ・ハンガーの体系だと
うまく説明できないのかなと思ったわけです。
彼は人間を欲望と退屈の振り子を等しく揺れる
個体だという風に描いたんですけど
個人差はせいぜい教養とか、芸術感想とか
金欲の達成度とかね、それの差として捉えられる程度
だったように僕は見受けました。
でもこの差っていうのは、身体合理性の差として説明できます。
身体合理性が高い人は、自分の体が発するサインというものを読み取りやすい。
つまり自分の体の声っていうのを聞きやすい、聞ける人だということですよね。
だから身体が良い方向に向かって動ける幅っていうのは大きいんですよ。
日常の中で合理性に向かっている
身体が求めている方向に行く、良い方向に行くための
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サインとしての気持ち、心地、快っていう感覚を
常に少しずつ受け取っているわけです。
だから幸福のベースラインというものが
自然と上の方で張られているんですよね。
ちょっと調子悪いなと思ったら、なんとなく
ちょっと今日早く寝ようかな、なんか眠くなってきたな
っていう風になったりする人のことですよね。
逆に身体不合理の方で苦しみを感じやすい人っていうのは
どれだけ疲れてても
その疲れを感じ取れなかったりするんですよ。
いや、もしくはもっと頑張らないと。周りの人もっと頑張ってるし。
こんなんで寝てる場合じゃないんだっていう風にね。
そういう背中を押すような
社会的な構造っていうのももちろん問題としてあると思います。
とにかくこの幸福のベースラインっていうものが
高いところにあるか低いところにあるかっていうのは
特にこの身体合理性のところで説明ができるんですよね。
だから苦しみが多ければ
幸せも大きくなるのかっていう問いに対して
僕はこう答えます。苦しみそのものが幸せの素材になるんじゃないよと。
苦しみのサインっていうものを読み取って
感じ取ってあげて身体合理性と
身体の合理的な方に動けた時に
その幸せのベースラインっていうものそのものが上がっていくと。
深く落ち込んだ後の喜びの瞬発力ではなくて
ベースラインの位置こそが一つ幸福の
幸福を決めているんじゃないかっていうふうに思うわけですよね。
こうすると嫌なことがあったから
あ、間違えた。いいことがあったからきっと
私は悪くなっちゃうんだっていうふうに
そういう思考の檻にとらわれてしまうということが
実際いたりするんです。ちょっとしたことがあったとしても
やっぱり悪い方向に行くんだ、やっぱりそうなのかっていうふうに
もっと客観的に見れればいいんだけれども
ポジティブに捉えられればいいんだけれども
フラットに捉えられなくなっちゃうんですよね。だからこれを
自分の実感ベース、つまり身体の感覚として
その幸福っていうものを捉えていくことで
介入しようがあるじゃないですか。
あ、私なんでこんなに不幸なんだろうっていうのも
あ、それって身体の状態がそうだからかもよってなれば
あ、じゃあ自分の身体を解いていけば
いい方向に向かわせてあげればいいってことだねっていうふうに
具体的な一つの処方箋になると思うんですよね。
24:01
ぜひそんな苦しさを抱えている方が
いたりとか近くにいらしたりして
そういう考え方をしてあげるといいのかなと思います。
実際僕が今やっていることって全部そういうことなんですけどね。
はい、ステップ2に行きましょう。
ショーペンハウアーの意志っていうのは思考レベルではないということ。
ショーペンハウアーの体系の中でもう一つ大切な命題があります。
身体っていうのは意志の客観化である
っていうものです。身体は意志の客観化である。
つまり目に見える身体っていうのは
目に見えない意志っていう一つのエネルギーっていうものが
時空に現れた姿であるっていうんですよ。
なんか怪しい言葉が並びますね。
僕らが物自体に直接触れる唯一の場所は自分の身体なわけです。
目の前の水筒を持ったりとかペットボトルを持ったりするのは身体なんですよ。
人と話したりするのも身体を持って話しています。
これは僕らが物理的な存在であるっていうことを
少々の哲学者が語っています。
特に現象学とかね。
僕らは身体なんですよ。
この思想っていうのをショーペンハウアーも持っています。
自分は、私っていうのは身体なんだっていうのが彼の主張なんですよね。
具体的には歯とか食道とか
聴感っていうのは客観化された上であるっていう風流です。
上っていうのは腹減ったあのことね。
生殖器は客観化された正衝動である。
ムラムラするっていうのはその感覚、その衝動があったからこそ
思想を残したいっていう衝動があるからこそ
その意思があるからこそ生殖器が発達したんだっていう考え方。
把握する手、素早く動く橋っていうのは
それぞれが表現する意思の働きに対応するんだっていう風に言っているんです。
普段の考え方の逆ですよね。
手があるから物を取れるんだじゃなく物を取りたい
という意思があったからそこに手が伸びてきたっていう考え方です。
つまり身体の特定の器官っていうのは
特定の部位っていうのはそれぞれ特定の
意思様式の表現であるっていうのが彼の見方なんですね。
これは1836年の
自然における意思についてっていう記事で僕も見つけました。
これは当時の生理学とか解剖学とかっていうのを引いて
哲学分野の人なんですけどね、科学的な裏付けっていうのを
しようとしていたみたいです。
ショーペンハウアーの言う意思っていうのは、これ誤解が生じやすいところなんですけど
27:02
僕らが日常的に使う意思、つまり思考レベルの意思ではないんですよ。
こういうふうにやりたい、絶対貫通させるぞ
みたいなそういう意思ではなく、その意思ではなくて
もっと下の層、レイヤーの話をしています。
意思は知性に先行するっていうふうに言っているんですね。
意思っていうのは思考とか知性の手前にあるんだっていうふうに言ってます。
この彼の中での意思っていうのはね、もっと根源的なもので
盲目的で全知性的、
知性よりも前のものであって、身体的なエネルギーそのものだ
っていうふうに言うんですね。
だから、歯とか食道とか聴観は客観化された上なんだ
っていう命題も、思考が機関も
思考が機関を作ったという意味ではなくて、
身体的な衝動が機関という形に結晶したんだっていう意味なわけです。
ショーペンハウアーが立てた向きもこうなります。
意思っていう僕らの身体が持っている
その無意識の意思か
これが身体の形態を作っているというふうに言うわけです。
ちなみにこの人は、ショーペンハウアーは
ラマルクっていう人の使用と配用モデルというものを批判しています。
ラマルクっていう人は何を言ったかというと
知性が意思に先行するというふうに言ったんですよ。
考えるものによって
その無意識の意思みたいなものっていうのはコントロールできるだろうっていうふうに言っている。
でもショーペンハウアーの学問
思想の中では意思が知性に先行するっていうふうに言っているわけです。
考えるよりも無意識の方が強いと
そっちの方が先に先立つだろうっていうふうに言ってるんですね。
彼にとって意思っていうのは
知性の道具ではなくて知性の基盤にあるものだ。
その基盤っていうのは身体的な動きそのものだっていうふうに言っているんです。
すごく僕の考えとも
親和性がある考え方ですね。
わりと近代的な考え方かもしれない。
これに僕の言葉をつなげていきたいと思います。
ショーペンハウアーが意思と呼んでいるもの。
この思考の手前にある身体的な根源衝動っていうものを
僕は身体合理性に向かおうとする
身体内在の動きっていうふうに言っています。
彼自身っていうのは意思を
永遠に欲望し続けて決して満たされない
苦の源泉だっていうふうに言ってるんですね。
批判してるわけでもないんですけど
それによって苦しみっていうのがある。
30:01
つまり生きるってことは苦しむってことなんだよっていうことを言っているわけです。
ちょっと仏教にも通じる部分があるかもしれないね。
だけど私、僕が臨床で観察しているのはちょっと違います。
身体に触れていると身体は単に欲望し続けているだけではないんですよ。
身体っていうのは自分自身がもっと合理的であろうとする方向
っていうものを常に考えているんです。
これを言い換えると欲と言っていいのかもしれないけど
例えば骨盤が後ろに寝ちゃってる。
後継してるとすると自分で
なんかそれが嫌だな、なんか変な体勢だなってなるから
自然といい姿勢の方に持っていくことをするんですよ。
その人なりにね。
背中丸い状態で座っている方っていうのは
その本人の今の他の体の状態との繋がりの中で
背中丸い方がまだ楽だなって思ってからそういう風になるわけなんですよね。
これは無意識ですよ。
呼吸が浅くなっていれば何となく自然とね
無意識に、それこそ身体による意志によって
はぁーって何となく溜息っていうものをついて
呼吸を深くしようとしたりとか
何となくうーって背伸びをしたりだとか
無意識にそういうことが行われたりとかもするわけです。
これって意識的な努力ではないですよね。
もう無意識にやってるんだから。
それを僕らは、僕の中ではね、
認識してもっと意図的に溜息だったら
もっとこういう溜息の仕方の方がより体も緩むんじゃないとか
背伸びだったらこういう背伸びじゃなくてもっとこういう背伸びの仕方をしたらいいんじゃない
っていう風に提案をしているわけです。
つまりこれってのは意識的な努力ではなくて
体に内在しているもっと根源的な動きだっていうことが言えるわけですね。
ショーペン・ハウワーが意志って呼んだものをこの方向で読み直してみる。
彼の意志っていうのは苦の源泉ではなくて
身体合理性に向かおうとするサインなんだっていう風に理解できるわけです。
苦っていうのは合理性から外れているっていうだけだよ。
そういうサインなんだよ。
快っていうのは合理性に向かっているっていうサインだよ。
この意志っていうのはそのサイン体系の総称として
体に内在しているっていう風に言えるかなと思うんですね。
だからそうやって読むとさ、
ショーペン・ハウワーが言った歯とか食道とか聴観っていうものは客観化された上なんだ。
欲望の表現された、現れたものなんだっていうのも
また別の切り口で見えてきます。
33:02
体が欲望の塊だっていう話ではなくて
体っていうのは自分自身が合理的に成り立っている形っていうものを
自分の構造そのものとして表現しているとも言えると思うんです。
歯は植物を砕くための合理性であって
食道は運ぶための合理性であって
聴観は吸収・散列するための合理性として
それぞれの形を持っていると。
客観化された上っていうのは上を満たすために
体が組み上げた合理性の表現であるっていう風にも読むことができるわけです。
ショーペンハンガーの体型っていうのは
内側から引き受けつつその向きを少し変えてあげるっていうような
意思は欲望し続けるっていうと
現代的にも欲望ってあんまり良いことに使わないじゃないですか。
意思とは欲望なのか。かなりここが底が埋まりやすいところだと思うんです。
僕らのこういう風にしようっていうのは悪いことなんだっていう風に聞かれて
そういう風に読み解かれてしまうリスクっていうのが僕の中では怖い。
ショーペンハンガーは多分そう言ってないと思うんですよ。
多分その時代ではそういう表現が適切だったんでしょうね。
でもこれを彼の本当に伝えたかったことっていうのを
僕なりにこう解釈して言葉にすると、現代風の言葉にすると
意思っていうのは身体合理性に向かおうとし続ける。
身体っていうのは身体合理性に向かおうとし続けるっていう風に言います。
こんな風に身体合理性に向かおうとする身体内在の動き
つまり無意識の動きっていうものを見ていたのは
僕だけではないんですよ何も。
僕が発見したわけじゃない。
たくさんの方がこれに対して気づいたいろんな言葉を言っています。
例えば17世紀のオランダの哲学者スピノザっていう方です。
聞いたことある方もいるかもね。
エチカっていう本の中でコナテュースっていう概念を立てています。
それぞれのものはその力の及ぶ限り
自己の存在に固執しようとするっていう風に言っています。
スピノザにとってこの自己保存への努力
自分を保存しようっていう努力は
外側から押し付けられた目的じゃなくて
各々の存在、事物の現実的な本質であるっていう風に言うんですよね。
生命体っていうのは自分自身を維持して
拡張しようとするっていう内在的な動きを
その本質として持っているっていう風に言うわけです。
ショーペン・ハウアーの一種の概念っていうのは
36:00
このスピノザのコナテュースの脈絡、文脈の中にあります。
ショーペン・ハウアー自身もスピノザのこと大好きだったみたいなんですね。
だけど彼はコナテュースというものを永遠に欲望し続ける
決して満たされない苦の源泉だっていうような表現の仕方をしたわけです。
同じ内在的衝動っていうものを彼は因の方から解釈したんですね。
言ってることはおそらく同じなんだけどね。
20世紀に入ってくるとこの系譜っていうのは2つの方向に分岐していきます。
一つは思想哲学の領域。
フランスのアランっていうのは幸福論の中で
よく統治された体っていう表現を使いました。
よく統治された体。
体っていうのは全体として連動して動いている
一つの機械なんだっていう風に言ってるんですよ。
その構造的な機能的な整いっていうものが
常念とか恐怖っていうものの質を規定するんだっていう風に言っています。
指ってのは胸もしなやかでなければしなやかになれないよっていう風に
彼も書いてるんですよね。
これは僕の言葉で言い換えれば
身体合理性に向かおうとする動きっていうのを
意思を通して支えることが幸福の条件だっていう考え方
っていう風に読み解くことができると思うんです。
つまりアランが言ってる意思っていうのは
思考の意思ではなくて
体の整えに向かう意思なわけです。
こうなんだって決めるような意思ではなくて
体がいい方向に行く意思が必要だ
という風に言ってるんですね。
それから前もちょこちょこ僕話してるんですけど
心理療法の領域で
アメリカの心理学者カール・ロジャースという方です。
この人は有機体には実現傾向があるという風に論じています。
有機体っていうのは
自らのすべての能力を
自分自身を維持して
拡張する方向に発展させようとする
題材的な傾向を持つという風に言います。
有機体っていうのは
自らのすべての能力を
自分自身を維持して拡張する
広げていく方向に発展させようとする
そんな風な内在的な傾向
つまり本能みたいなものかな
というのを持っているよという風に言っています。
生命というのは
能動的なプロセスなんだと
だからたとえ環境が不利だったとしても
生命体は維持・拡大・自己実現の方向に動くんだ
という風に書いてあるんですよね。
このカール・ロジャースは心理領域なので
この心理療法とか心理領域の考え方でも
こういった身体の意思というものが
39:04
どんどん引き継がれていきます。
だんだん今のSOMATICSの基盤になってきますね。
ユージン・ジェンドリンという方です。
これはカール・ロジャースの実際教え子だったのかな。
ユージン・ジェンドリン。
この発想を体のレベルでさらに精密化しました。
彼のCARRYING FORWARDというのがあります。
運び進めることという概念です。
体のプロセスが暗黙のうちに
次のステップを含んでいるよという風に言うんです。
体というのは状況の全複雑性をその中に含んでいる。
その状況を前に進める方向というのを
自分自身の中に持っているんだという風に言うわけですよ。
ユージン・ジェンドリンがフェルトセンスという感覚を定義して
その方向性が感じられる場所であるという風に言っています。
ちょっとフェルトセンスとかについては
また今度一回話すかな。
要は僕が発信の中で言っている
嬉しい時どんな感覚がしますかみたいなものですね。
それをオノマトペで言ってみましょうとか言っているのは
まさにこのフェルトセンスに触れたくて
そういう問いを言っています。
幸せだというのは一つ言葉であり記号ですよね。
幸せというのはどういうのですかというと
なんかこういう感じというような
一時情報に近い感じになってくると思うんです。
こういう感じで幸せだった。
なぜ幸せだったのかというのは語れるけど
どんなふうに幸せだったのかというのは
なかなか言語にしづらいと思うんです。
それだけのたくさんの情報というのが
体の中で立ち上がっているんですよね。
これを表現しようとするのがフェルトセンスです。
ユージン・ジェントリーはそれだけ
何とも言葉にしづらい
それくらいのたくさんの情報量をはらんでいる
体の無意識のその反応応答意志というものがあるよね
ということを言っているんですよね。
僕が身体合理性に向かおうとする
身体内在の動きというふうに呼んでいるものは
これらの系譜とすごい近いところにあります。
臨床から自然に立ち上がった見方なんですけど
哲学史の中ではすでにいろんな角度から
別々の言葉で立てられてきています。
そう考えると
ショーペンハウアーの意志というものが
意志を僕が身体合理性への
ナビゲーション装置として読み直すというのは
ある意味で彼の意志とか概念というものを
その源流であるスピノザのコラテュースという
概念の方向に戻すような作業でもありますね。
意志というのを欲望し続ける
42:01
苦の源泉ではなくて
自己を維持して拡張しようとする生命の力
として読んでいきます。
つまり、ざっくり言えば
身体を信頼したらいい方向に行くんじゃねえの
ということなんですよね。
このスピノザもショーペンハウアーが言っていることです。
特にスピノザが強調したところですね。
ではステップ3に行きましょう。
意志を否定するという処方と
サインに従う処方です。
ショーペンハウアーは苦からの出口として
3つの道を示しました。
一つは芸術的感想というもの。
音楽とか絵画とか
というものに触れて
それに没入しなさいと。
そして欲望に駆動される事故というのを
一時的に止めるんだ。何かに没入しなさいと
言うんですよ。そうすることで苦から逃れられる。
したがって幸福になれるという風に言っています。
もう一つ2つ目。他者への恐怖です。
他者の苦に自分を重ねることで
自分という個体への執着を緩める
という風に言っています。
それから3つ目が意志の否定です。
これは言い換えると
禁欲なんですよ。意志というのは
その無意識の意志だからね。
本能的な意志というもの。
だからそれを否定するというのは禁欲するということなんですよ。
欲望し続ける意志そのものから
下りろと言っているわけです。
ますますこれ仏教っぽいところですよね。
仏教の下達に近い構造をもしかしたら持っているかもしれない。
もしかしたらね
僕は仏陀の言っていることというのは
こういう風に読み解かないんですけど
結構
ポピュラーな見方として一つあると思うんです。
一切開空だけ。
世の中のものは全部苦なんだよって。
苦がニュートラルな状態なんだよっていう風に言っている。
じゃあその苦というのは何かというと
その欲から生まれている。
じゃあその欲というのは無意識の身体の意志だよね。
というところで共通しているわけです。
だからその三位を発する装置
そのこうしたいっていう装置そのものとしての
身体の欲望、身体の意志というのを止めてしまって
苦から抜け出そうという風に言っているんですよね。
彼の体系の中では
これはすごい整合的な処方なわけです。
意志が苦の源泉であればその意志を止めればいいわけだから
身体を止めちゃえということになるわけですよね。
でもさ
そんな
自分の欲とかを止めて
45:02
楽しいのかなって思いませんか。
それで生きてて果たしてそれは本当に幸福と言えるのだろうか
っていうのは
やっぱ当たり前に思うと思うんですよ。
そこで僕の処方というのは
これと違う方向を向いています。
三位を発する装置を止めるんじゃなくて
体の欲というのを止めるんではなくて
三位を適宜読み取って
身体合理性を回復する方向に
動くことなんですよね。
これが僕が伝えていることだったり
臨床でやっていることでもあります。
三位を読み取って身体合理性を回復する方向に
動くこと。
ちょっと詳しく説明しましょう。
苦の三位というものを悪いものとして消そうとしません。
苦というのは身体が
ここに無理があるよって教えてくれている合図でもあるわけです。
それと同時に
こっちに向かってくれっていう合図も出しているわけです。
その合図に従って、その三位に従って
身体が少しずつ合理性に向かう動きを
取り戻していくと。
こうすることでその動きの途中で
戒の三位が立ち上がってきますよね。
今いい方向に動いているっていう、つまり
気持ちいいなーとか心地いいなーっていう三位
なわけです。
ショーペンハンマーの意思を否定せよというものは
苦の三位も戒の三位も両方とも
止めちゃうことになるんですよ。
これは痛みを感じない身体、つまり感受性そのものを
下げることに近いのかなと思います。
ショーペンハンマーが見据えた
その解脱、苦しみからの
解放っていう境地っていうのは
深い静けさだったのかもしれないんですけど
その代償として身体合理性に向かう
微細なサインっていうのも一緒に消えてしまう可能性がある。
そうして感じられなければ
頼りにするところがなくなっちゃうので
法とかルールとかっていうものを
欲しくなるんですよね。
正義とは、幸福とは、生きるとは
よく生きるとはどういうことだ
こういうことだっていうのが欲しくなってきちゃうんですよ。
だって自分の実感がないから
自分でこれだ、OKだって思えない
その実感材料がないからこそ
論理的に考えて
正義とはこうだから、私はこうしてるから
よし、OKみたいなことに頼らざるを得なくなっちゃうんですよね。
苦しい方向に
行ってしまうじゃないかっていうのが
実際臨床に立っている僕からすると思うところでした。
その代償を払わずに
別の道を考えてみて
48:00
意思を否定するのではなくて
意思っていうのを身体合理性のナビゲーションとして尊重する
ということです。サインを止めるんじゃなくて
サインに従って動くということ。
ここで誤解を避けたいのは
求めないっていうような古典的な実践の意味である
意味である
求めないっていうものが成り立たないわけではないんですよ。
僕の臨床の中でも
ある段階で求めないっていう状態が立ち上がることはあります。
別にいいかなみたいなことですよね。
だけどそれっていうのは身体合理性が回復した結果として
渇望が沈まっている状態なわけです。
お酒も毎日飲まないと寝れないから
バカバカ飲んでたっていう人も
身体が整ってくれば自然に寝れる身体になってくれば
お酒も別に飲まなくてもいいかなってなるんですよ。
もう麻痺しちゃってて
身体が荒れてるのが気づかなかった人が
だんだん身体の感覚が敏感になっていい方向に行ってくれれば
なんかやっぱお酒このくらい飲むと食われなくなるし
このくらいでやめとこうかな。楽しいラインってこの辺なのかなって
自分で分かるようになったりとかするわけですよね。
頑張ってやめるぞって思わなくたって
自然とそっちの方向に動くわけですよ。
体が合理的に動いていれば
人はあまり何かを焦って求めないわけです。
それは意思の否定ではなくて意思がサインに従って
正しく機能している姿に近いですよね。
身体合理性が低いままで
求めないっていうものを意思したとしても
身体は緊張したままです。非合理的な状態にある。
求めないっていうことが一つ我慢になっちゃうんですよ。
だからショーペンハウアーの処方と
僕の処方っていうのは
なんかちょっと似てるような気もするけどちょっと別の道
たぶん経路の違いなんですよね。
おそらく似てるところは同じなんだと思います。
僕が見えてないところも
彼にはおそらく見えてると思う。すごく賢い方だったみたいだしね。
僕は全然賢くないから。
だけど臨床に立てて
じゃあ実際に生きている僕らが
苦しんでいる僕らがどうすればいいかっていうと
こういう方がより現代的な解釈としてはいいんじゃないか
っていう提案なんです。
そしてステップ4に行きます。
恐怖と触れる手。
ショーペンハウアーの3つの出口のうちの2番目
恐怖についてはもう少し丁寧に書きたいと思います。
丁寧に話したいかここでは。
他者の苦に自分を重ねることで
自分という個体への執着を緩めるんだ
っていうことを言っています。
ショーペンハウアーにとってこの他人の苦しみを
51:01
味わいなさいっていうのは単なる同情ではないんですよね。
他者の苦苦しみっていうのが
自分の体に直接響くっていうような
経験でもあるわけです。
彼の哲学、刑事上学の中では
全ての個体、僕も私も
あの人も一つの意思の
現れだっていう考え方をするんですよ。
他者と自分っていうのは深いところで繋がっていると。
だから他者が苦しんでいるっていうのは
それは自分の意思が苦しんでいるのと同じことである
っていうふうに彼は考えているわけです。
僕の施術の中で経験しているのもこれに近いものがあります。
クライアントの体に手を置いた瞬間に
相手の苦しみが自分の体に響いてくる
っていうことがあります。
ちょっと私的に表現しすぎると、やれそれってなりそうなんですけど
これは
認知的な共感ともちょっと違って
この人は辛いんだろうな、こうこうこういう状況だし
もし私だったらこうだからなっていうのとはちょっと違って
もっとシンプルに言うと
すんごい怖がってるなっていうのを感じるってことなんですよ。
肩がこれだけ硬いっていうものを
触れた途端にその緊張が自分に伝わってくる
すごい防御をしている
いろんなものから守っているっていうのを
実感として感じるんですよね。
それをなんだろうな、こうシンプルな言葉で言えば
肩が硬くなっているっていうふうに表現するのかもしれないけど
その肩が硬いなっていう事実の中には
そういう
ある種
ショペハワーが言う恐怖みたいなことが
起きているんじゃないかなって思うんですよね。
だからそれを認知的に
この人はこういう状態だったからこうだからなって考えるのは
また野暮なもんでさ
そういう客観性とはまたちょっと違うものだと思うんですよね。
お子さんがいる人とか
大切なパートナーとか
友達がいるみたいな方だったら
想像しやすいと思うんですけど
その大切な存在が悲しんでたら
もうそれだけで胸が苦しくなってきません?
どんな理由であれね。
それって別に考えているわけじゃないじゃん。
この人は私にとってこのくらい重要な人だから
こういう状況になっているからさつつ苦しいだろうなぁ
とかって考えてないですよ。
もうその人がそういう風になっているかもってなったら
もうそれだけでしんどくなってくるよね、こっちまで。
これっていうのをショペハワーは
身体が個人内に閉じていないっていう風に言っているわけです。
身体っていうのは自分という個体の
境界の中で完結しているシステムではなくて
他者の体と響き合う場でもあるよねっていう風に言うわけです。
54:03
このことはショペハワーが
境界っていう言葉で伝えようとしたことと
通じるわけですよね。
他者の苦に自分を重ねるんだっていう風に書いた時
それは思考の中で重ねるんじゃなくて
体のレベルで響き合うっていうことを言ってたんだ
っていう風に私は読みたいと思います。
この境界っていうのは現代社会ですっごく見落とされやすいものです。
僕も周りくどく説明したようにさ
身体は身体でしょ、だって
一個体としてあるじゃんみたいになるのが
現代的な当たり前の見方なんですよね。
これの根本として何が起きているのかっていうと
僕たちっていうのは
身体をある種物のように
自分の所有物のように
自分の中で完結しているっていう風に扱いがちなんですよ。
だけど身体というのはもともと他者と響き合うようにできているよ。
臨床で起きていることだったりとか
プライベートで皆さんも経験しているようなこと
なかなか言葉にしづらいところに
こういった場面があるなと思います。
言葉で語られないことっていうのはね
なかなか共有しづらかったりもするんで
だからこそ身体を物質的に扱う
ものとして扱うみたいな建設っていうのが
あたかも大きいように
見えちゃうっていうのがあるのかもしれないなと
思うんですよね。
そしてステップ5に行きます。
なぜ現代人は身体の作用を読めなくなってしまうのか。
ここまでの議論というのはさっきも言ったように
あなただけの身体、私だけの身体の問題だという風に
受け取ってほしくないんですね。
なぜかというと僕らが
この身体の声を聞けなくなっているっていうのは
個人の弱さとか
努力不足とかの問題ではないんじゃないかと思うから
なんです。
そもそも社会の構造そのものが
この身体の差異っていうのを
覆い隠す方向に動いてるんじゃないのっていうことなんですよね。
例えばそれを後押しする
その社会的構造の中で成果主義っていうものがあります。
成果主義っていうのは
これだけ達成した、これだけ稼いだとか
こういうことをしたよ、だから素晴らしい
っていうようなものですね。
これが成果主義。
でもこの成果を出すか出さないかみたいなところで飾られる
主義、社会構造の中で生きていると
苦しいっていう差異は
弱さとか我慢が足りないっていう風に評価されちゃうんですよ。
そういう風に読まれてしまうのね。
肩が痛いっていう風に言うよりも成果を出したっていう方が評価されます。
当たり前だけどね。
57:00
体が疲れてるっていう風に訴えるよりも
やる気がありますって言った方が評価されるわけです。
まだまだいけます、疲れてませんってね。
だから人は
苦の差異っていうものを抑え込んで
体に蓋をする方向で適応しようとするわけです。
それから同じようなものの中で
感情資本主義っていうものがあります。
もう一つ別のものが供給されるんですよ、ここでは。
身体合理性に向かう回とは違う
もう一つの回です。
SNSをスクロールしてる、
衝動愛をする、ギャンブルをするとか
そういうのも含まれるかもね。
ドーパミンが僕らを駆動する時の回、快楽です。
これらは気持ちいいなという感覚として
確かに出てくるんですよ。
だけど体は全然合理的な方にいってないんです。
合理性を取るために
ちょっと無理するための
一種ニトロ的な、ブースト的なものなんですよね、
この回っていうのは。
僕はこれをマスキングの回っていう風に言っています。
体の不調というものを追いかぶすために
一時的に別種の回を分書きするやり方です。
例えばさ、
お腹ペコペコで
もう動けないやーっていう状態になってて
動けないから動きませんだと
そのまま死んじゃうじゃないですか。
生存に全く合理的じゃないですよね。
もう動けないっていう状態だけど
目の前に肉があると現れたってなったら
その一瞬だけでも
もう限界まで頑張れるような状況を作るために
このドーパービーっていうのがあるんですよね。
だからその不合理にマスクをするための
一つの回なわけです。
神経科学的に言うと
身体合理性に向かう、つまり
体を回復させたりとか合理的な状態に
整わせるものはオピオイド系が媒介する
気持ちいいっていう感覚です。
これをライキングとしましょう。
オピオイド系だから
オキシトシンとかセロトニンとか
そういったもので説明されることが多いと思います。
一方でマスキングの回っていうのは
ドーパミン系が駆動するものです。
これは気持ちいいよりも欲しいっていう
ウォンティングっていう風に言います。
お風呂に入って気持ちいいなーっていうのと
お風呂に入りたいっていう風に欲してる時の
回っていうのは全く別の回の方が発生
られてるってことなんです。
これは物理的なその神経系解剖していっても
全く別のところだっていう風に切り分けられるんですよ。
1:00:00
僕らの捉え方の問題ではなくね。
ここでの問題っていうのは
現代社会がこのマスキングの回
つまりドーパミングのウォンティングの回っていうのを
組織的に供給していることなわけです。
広告とかSNSとか短尺動画とか
刺激的な食品
即座に手に入るエンターテイメント
これらっていうのは身体合理性に向かう
ちっちゃなサインよりも
ずっと大きな信号なわけです。
私たちの思考に体に届きます。
その結果身体合理性に向かうための
怪異のサインというのは
ノイズの中に埋もれていってしまう。
ショーペ・ハンワーが言っていた
欠乏と緊張の塊としての体というのは
産業革命期のヨーロッパの体だったんですよ。
時代が違うんだよね。
その時代の労働とかその時代の生活が形成した
体っていうものを前提にしておそらく語っているから
こういった微妙なニュアンスに異なる点が
多分あるんだと思います。
現代の日本というか現代の世界の中で生きる
私たちの体というのも似たような症状で
固定しているけど
構造はすごい近いですよね。
形は違うかもしれないけどね。
だから体のサインを呼び取れというものは
より強調して言わなければいけないなと思うわけです。
小ペンハオワの時代だったらそんなの当たり前でしょ
っていうのがあったから書かれてないのかもしれないしね。
個人の意思だけで完結するものではない
っていうのももちろんです。
体のサインを読み取るのね。
このサインを読み取れる環境っていうのを
自分の生活の中に少しずつ取り戻していく
必要があるわけです。
でも私全然体のこと大事にできてないな、
分かんないな、みたいな。
あったとしてもまずそれはあなたが悪いわけじゃない
っていうことなんですよ。
社会構造そのものがそっちに向かっていってるから
しゃーないってことなんです。
だから社会構造が悪いっていうわけではないんですけどね。
それを作ってるのは僕らだし
これはもう本当複雑な流れの中で
僕らはそっちの方向に向かっていってしまってる
っていうただそれだけの事実なので
じゃあ良くない方向に向かってるんだったら
こっちの方向に向かったらどう?
っていうふうに考えられると
すごくフラットに物事を見れるんじゃないかな
と思うんですね。
そしてステップ6です。
ショーペンハウアーの3つの命題に対して
僕の考え方っていうのを合わせていきたいと思います。
ショーペンハウアーは
快は消極的で苦は積極的だ
っていうふうに言いました。
快っていうのは苦の不在だっていうふうに言ってたんですよね。
1:03:03
僕はそこに快も苦も同じだ
どころが同じじゃねえのって
それは体から来てるよ
苦っていうのは快に向かうための体からの差異で
快っていうのは体が合理性に向かっている差異だよ
だから両者は対立する振り子みたいな構造じゃなくて
一つのフィードバックルームの両面なんだよ
っていうふうに考えます。
それからショーペンハウアーの大理の命題として
身体は意思の客観化であると言いました。
ショーペンハウアーは
意思を永遠に欲望し続ける根源の衝動だ
っていうふうに言っています。
僕はそこに別の読みを重ねます。
彼の言う意思というのは思考レベルではなくて
身体的、全反省的、全知性的な
根源的な衝動というものを
身体合理性に向かおうとする
身体内在の動きとして読み直します。
意思は苦の源泉ではなくて
体が自分自身の合理性へと導いていくための
ナビゲーション装置なんだよというふうに
ショーペンハウアーは
何となく名前は聞いたことがあったんですけど
正直ね、今回これ
ポッドキャストを撮るにあたっていろいろ
見たんですよ。そのきっかけが
僕の尊敬する方がこの本面白いよって
お勧めしてくれた本が
このショーペンハウアーの
考え方を書いている本だったんですよね。
なんかショーペンハウアー
あんまり好きじゃなかったんですよ。
なんで好きじゃないかって本当勝手なイメージなんだけど
結構暗いことを言っているイメージだったんですよね。
ストイックというよりかは結構
因出な感じのイメージがあって
多分僕はこの意思を否定せよ
禁欲だっていうところの言説を多分
目にしてたんだと思うんです。
ショーペンハウアーといえば
幸せっていうのは苦はないものだって言われて
ネガティブじゃないですか。考え方的にはね。
何かを成し得ていくっていうよりかは
足りないものを補っていく。
苦っていうのはもうマイナスからスタートなんだよ
っていう風に言われてたりもするからさ
あんまり若い時にそういうのを目にしても
全然響かなかったりもするからさ
そうなんだくらいに思ってたんですけど
ちょっと話されちゃったけどね。これが禁欲っていうものを
ショーペンハウアー代表するものです。
ショーペンハウアーはこの禁欲のために
意思そのものから下りなさいということを処方したんです。
彼の意思っていうのは
諦めろとか意図的に
1:06:00
意図的に諦めろとかではなくて
その欲っていう意思をやめなさいって言ったわけですよね。
つまり本能を否定したっていう風にも
言っていいかなと思うわけです。
ところ、それに対しては僕は
それを否定するのではなくて
サインとして受け取りなさいという風に思うわけです。
サインとしてその苦しいっていう感覚を受け取って
じゃあどうすればいいのかっていうのを
意図的に体に促して
身体合理性を回復していけばいいわけですよね。
そうすれば意思を止めることなく
意思を本来の働きである
身体合理性へのナビゲーションに戻していくことが
できると思うんです。
本来の働きって僕が勝手に言っちゃったけど
こう考えると
その体の本能みたいなものって
身体合理性へと自然と向かっているよな
っていうことが言えると思うんですよね。逆説的だけど。
そうすれば
彼が求めていた、実現したいと思っていた
求めない状態っていうものが結果として立ち上がるじゃん
っていうことなわけですよ。
この4つの読み替えっていうのは
ショーペンハウアーを否定するものではありません。
全くね。僕読んでてやっぱ面白かったし
まだ全部読めるわけじゃないんですけど
彼が立てた問いっていうものと
彼が描いたその身体感
そもそも体が基盤だっていうふうに唱えている
哲学者って歴史的に見るとそんなに多くはないので
今もやっぱこれを彼の思想とか論語
っていうのを考えるのは面白いと思います。
すごく現代にマッチしてると思うしね。
ただ
それを僕なりにちょっと解釈して
もし皆さんにお伝えするとしたら
僕がクライアントにお伝えするとしたら
こういう言葉を使うなっていうことを
今日はお伝えしてきました。
幸福について普段語られるっていうことは
ほとんどがね結構こう
物語の話として多かったりするんです。
認知の物語としての話ね。
誰と一緒にいるか。何を持っているか。
どう見られているかみたいなもの。
話しいとさこれこそまさに感情主義だなって思うんですけど
ないよりはあった方がいいじゃないですかっていう
言い方をする人もいたりします。
本当にねなんか嫌なんですけど
ないよりもいいじゃんっていう考え方が
そもそもこの考え方ちょっと逸脱してますよね。
雑になっちゃうっていうところね。
ショーペンハンはっていうのはこれらをのけて
意志と体に降りていってるわけです。
彼の仕事っていうのは近代哲学の中で
体を中心に据えた最も
真剣な枠組み思考試みっていうものの
一つだと思います。
僕もこのショーペンハンは
1:09:02
とかの流れっていうものを組みたいと思います。
彼の言葉を批判的に否定するわけではなくて
彼の言葉を現代風に解釈したり
僕が実際に臨床の中で得てきたもの
それからソマティックスタジオの中でサポーターの方とか
私塾の中でみんなから聞いたことを
織り混ぜながら現代風に解釈をした
より個性度を高めていきたいと思っています。
意志っていうのは欲望し続けるんではなくて
合理性に向かおうとしている。
苦と快っていうのは対立しているんじゃなくて
同じ一つの三位体系の両面であると。
意志を否定するんじゃなくて
三位として受け取って従うということ。
結構長くしゃべっちゃいましたけど
何が言いたいかというと幸福というのは
追いかけて獲得するものではないということなんですよ。
体が走っている三位に従って動いた結果
その大いを取り除かれて
立ち上がってくるものだということなんですよね。
その大いの正体というのは
認知の物語だけではありません。
身体合理性から外れた状態というのを
別の界で覆ってしまうという
マスキングの界の話もしましたね。
私たちの社会の構造のそのものでもあるわけです。
ショーペンハンマーが立てた問いに対して
私はこのように答えたいと思います。
幸福というのは体から来るんだ。
体が自分自身に向かって走っている三位に
従うことのできる場所から
この幸福というのは来るんだと。
こんな感じで今日の話を終わりたいと思います。
いつも長い時間聞いてくださって
本当にありがとうございます。
コメントとかもちょこちょこいただけるのすごく嬉しいので
ぜひInstagramとかも覗いていただけると
そっちの方からDMとか
ちょこちょこ感想とかいただけることも増えてきて
本当に嬉しいです。皆さんとコミュニケーション
こういうふうに取らせていただけるというのがね。
やっぱり
こうやっていろんな書物見たりとかして
ああだこうだってやっているよりも
実際にやっぱり印象に立ったりとか
インスタとか経由でいろんな方と出会って
その生の声というものを聞いたりとかしているのが
一番楽しいんですよね。面白い。
なんか
言葉にも乗ってくるし
実感を持って僕の中でも
これとこれが繋がるんだっていうのが
その経験があるからこそ繋がってくるものだと
思っているんです。
なので気軽にね
1:12:01
なんかこう喋ってるやつがいるなっていう感じだと思うんですけど
近くにいろいろ喋っているおっさんみたいな感じで気軽に連絡をいただけたら嬉しいなと思います。
ぜひ仲良くしてくださいということですね。
はい、ということで今日も新体の教養ラジオこれで終わりにしたいと思います。
今日ものんべんだらりといきましょう。
01:12:30

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