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80年前の惨劇を13歳少女が証言…福岡大空襲のリアル(後編)
2025-06-17 12:50

80年前の惨劇を13歳少女が証言…福岡大空襲のリアル(後編)

第二次世界大戦末期、日本の主要都市は空襲、つまり民間人も殺害する無差別爆撃にさらされました。その被害を受けた都市のひとつが福岡市です。「福岡大空襲」から間もなく80年となる中、当時13歳だった女性からの証言を、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が6月17日放送のRKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』で報告しました。


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感想

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16年だったかな。ずっと爆撃を続けて、5万人以上の死者を出してるんですね。
その前年、1937年かな、スペインのゲルニカで爆撃が起きて、これが無差別爆撃の初めての例です。
つまり民間人の死者を厭わないっていう。それがゲルニカがあって、その後は日本による重刑の爆撃。
そして、とうとう南洋諸島が占領された後は日本が攻撃の対象になり、そこら中で福岡だけでなくて主要な都市はほとんどが重弾爆撃を受けていく。
ある意味ですね、非常に悲惨な民間人も含めた殺傷なわけですが、東京裁判では重刑爆撃は戦犯追及の対象にはなっていません。
つまり、連合国軍側もやっていたからですね。この理由だと思われますが、訴追の対象になっていない。こういう経緯があります。
そして、先ほどイリエ・スミコさんのお話をしたのが15日の縁納寺でありました80会議だったんですが、
その前日、14日に市民団体の福岡自由学校が主催したフィールドワークがありました。
元福岡市立の高校で社会科教育をしていた江浜明則さん、74歳が案内してくれたんですけれども、
江浜さんは戦争遺跡の調査研究ライフワークとしていて、九州の戦争遺跡という著書があってですね、
防空壕や砲台跡など九州7県の84箇所を網羅している貴重な資料集を作っています。
この日も縁納寺から裏にある供養棟の方に江浜さんの案内で回ってみました。
供養棟はですね、そのすぐ横がすのこ小学校だった場所なんですね。
レンガ部を挟んで再開発された旧すのこ小学校の跡地、その前の公園の中に供養棟があります。
そちらで江浜さんがこんな風に説明していただきました。
実はここで亡くなった方の数はですね、176人、全福岡市内の犠牲者の2割に達します。
このすのこ小学校が遺体の暗示所、コンクリートで作られていたので焼けなかったんです。
そういうことでたくさんのご遺体がここに運び込まれた。
平氏の向かって右側、このレンガはお寺さんと小学校の境のレンガ部屋だったんです。
小学校の中に愛知されたご遺体をですね、この縁納寺の墓地で火葬されたんだそうです。
06:07
コンクリートで固めている場所がございません。
実はここはですね、その時の遺体の搬出する、そういう通路になったとご住職と言っておられました。
よく見ると分かると思います。
戦災の際に焼けたレンガが黒く残っております。
江浜さんの案内で説明を受けるとよく分かるなと思いましたね。
墓田部の被害が一番ひどかったんですけど、その次がそのご地区だったわけです。
176人の死者のうち、小学生が24人いたと言われています。
この小学校はその遺体の安置所になった。
そこが再開発で今変わってますけども、ここがそういう場所だったのかというのがリアルに感じられました。
供養棟の真ん前の2メートルぐらい前のところでご遺体を焼いたんだそうです。
そこの近くでは子どもたちが遊んでいてですね、80年前に起きたこととの落差に驚かされました。
この後フィールドワークは福岡城の方に向かいます。
その小地区に被害が集中したのはすぐ南に旧福岡城があったんですね。
それが理由です。
今は舞鶴公園となっています。平和大陸上競技場。
それから端っこの方に行くと昔の福岡地裁、福岡交際があったあたりまでが軍部が使っていたんですね。
福岡連帯、また西日本地方の空襲についての情報を入手してレーダーの情報を広げる西武軍という日本の陸軍施設が集中していた地域。
その近くなのでその小地区は空襲の対象になっていたということです。
舞鶴公園は本当に今ね、平和な雰囲気の家族連れが楽しくやって遊んでいる場所ですけれども、
江浜さんの案内で行くとですね、例えば弊社のあった横の石垣、きれいな石垣があるんですけど、
よくよく下の方を見てくださいと江浜さんが指差しました。
そうすると花崗岩が高熱で傷んでしまってひび割れているところがいくつもあるんです。
いっぱい、いっぱいありました。
これは福岡空襲でここが炎上して高熱で石垣が焼けて変形してしまったためにこういうふうになっているんですよという指差して案内していただいた。
それから一段高い本丸跡には陸軍の病院があったんだそうですね。
おけがをして帰ってきた人たちがこの病院で治療を受けたんですが、これが戦後陸軍はなくなりますが、
国の病院として移転したのが水戸ペーペードームの横にある国立病院機構九州医療センター。
09:00
これは昔の陸軍病院で本丸跡にあったんです。
こう聞くと歴史がすごく近づいてくる感じがします。
そして山様の舞鶴公園側から赤坂小学校を見下ろす場所に連れて行ってくれました。
今これ赤坂小学校の校庭です。
ここは実は悲劇の場所ですね。
福岡大空襲があった次の日、ここに羊出された米軍保養、8名のうち4名を1人の青年少校が日本島で放出のために残しております。
残った兵士、米軍兵士はどうなったかですが、
そのうちの一部は、皆さんよくご存知の旧大の医学部の生体解剖に回され、
長崎の原爆、10日の後にはまた報復で、
この油山の総裁場があります裏山、あそこでやはり日本島で処刑され、
そしてこともあろうか、終戦が、天皇の見事の日があった日、
油山総裁場の裏山に連れて行かれて、全員口封じのために殺されております。
本当に今日本軍が行った行為というのは、戦争の掘りを取り扱うマニュアルにも全く関係ない、
報復という形で米軍を処刑して、そして広島長崎の原爆で爆死したんだと、
嘘をついてごまかそうとしたわけなんですよね。
だから後で戦犯で捕まった人多かったわけですが、当然死刑、無期懲役、そういうことになっていますが、
やはり軍隊というのは責任を取らないもんだと、敗戦したって責任を取らない、
本当に殺された捕虜というのは無念だったとは思います。そういう悲劇の場です。
国際法で捕虜を虐待したらならないとなっている中で、末期の日本軍がいかに上記を維持していたかということの逸話が
この赤坂小学校という場所に残っているわけですね。
本当に戦争が人を狂わせるいい例だと思いましたけれども、山本さんも74歳で長時間のガイドはこれで最後にするとおっしゃっていました。
来た方々は今日聞いたお話を自分たちで語り継ぎたいというふうに話していました。
ここまでキャッチアップお送りしました。
12:50

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